いつもエコノミライ研究所のブログをご覧下さり、誠に有難うございます。
エコノミライ研究所では
クルマの歴史
へのクローズアップに対しても注力していますので、
従来型内燃機関エンジン推進車両
への知識習得と理解を深めることも、大変重要なミッションだと考えています。
TOYOTA_SPORTS_800_1969
DATSUN_FAIRLADY_2000_SR311_LOW_WINDOW_1967
HONDA_S600_1964
VOLKSWAGEN_TYPEII_11W_STANDARD_MICRO_BUS_1958
シボレーシエラorシルバラード
そこで
エコノミライ研究所では
兼ねてより、地元岡山県内で約10年も継続中の
ベッキオバンビーノ
の紹介をさせて戴いています。
ベッキオバンビーノ2022年春バージョンのコースは、
岡山市のプラザホテル前駐車場をスタート地点に
赤磐市エリアまで東進、そこから津山エリアへ北上して
院庄ICより中国自動車道、落合JCTから米子自動車道を経て蒜山エリアまで行き、
新庄村から国道181号線で新見エリアまで南下し、
180号線にて高梁市エリアを南下して
賀陽ICにて岡山自動車道、岡山JCTから山陽自動車道、
倉敷JCTから山陽自動車道早島支線、早島ICから瀬戸中央自動車道で児島ICを降り
1泊目の宿泊地、瀬戸内児島ホテル前駐車場でゴール
という内容でした。
(公式HPCOURSE&SCHEDULE | Vecchio Bambino | Charity Classic Car Rally参照)
「開催趣旨
大会名称のVecchio Bambino (ベッキオ・バンビーノ)とは、
イタリア語で子どもの心を持ち続ける大人・永遠の少年を意味します。
岡山県内各地を舞台とした日本最大規模のクラシックカーラリー。訪れる地域の方との観光交流と賑わいの創出、震災復興支援・交通事故遺児の就学支援を目的としたイベントとして開催9年目の秋を迎えます。全国各地から集った参加者が訪れる岡山県内の各地域の皆さんとの触れ合いの中で双方が心から楽しんでいただける心のこもった観光交流イベントとなり、大人たちがルールを守り力いっぱい遊ぶ姿が子どもたちのお手本となるように努力してまいります。
イベントを通じ、テレビ・新聞・インターネット・自動車雑誌などのメディアを用いた地域観光資源情報発信イベントとして訪れる地域の皆様のお役にたてるよう、また例年通り積極的なチャリティ活動を綿密な計画のもと運営を行っております。」
(公式HP「開催概要」開催概要 | Vecchio Bambino | Charity Classic Car Rallyより)
また、一夜明けた
大会2日目のコースは
宿泊地瀬戸内児島ホテルのお隣り
鷲羽山ハイランドから
倉敷美観地区まで移動
玉島ハーバーアイランドから旧玉島市街中心地を抜けて
岡山県民には御馴染みの海水浴場である沙美海岸から
「生きている化石」カブトガニで有名な笠岡はカブトガニ博物館まで到達しますと
笠岡市街地を抜けて北上
宿場町として有名な矢掛町へ向かい
完成したばかりの道の駅「山陽道かやげ宿」と
矢掛本陣のある旧道を道中最後のチェックポイントとして
一気にグランドスタート地点である岡山プラザホテルまで戻る
という行程でありました。
(2022)
先回シリーズと同様
参加車両の1台ごとに撮影成功していた車両とゼッケン番号を照合して紹介する予定です。
(公式HPENTRY LIST | Vecchio Bambino | Charity Classic Car Rally参照)
「自動車王国岡山」
と呼ばれるに相応しいイベントである
ベッキオバンビーノの模様を一人でも多くの<ひと>に知って頂くため、
地域住民の一人として、できることを実践していく所存です。
今回紹介するのは
ゼッケン番号 55 TOYOTA_SPORTS_800_1969 です。
日本語ウィキ記事があり、結構、詳細な紹介がなされています。
(出典:ウィキペディアトヨタ・スポーツ800 - Wikipedia)
超軽量構造と空気抵抗の少なさで、非力ながら優れた性能を発揮したことで知られる。愛好者からは「ヨタハチ」の通称で呼ばれる。
本田技研工業が1963年(昭和38年)から生産した、ホンダ・S500に始まるSシリーズとは好敵手として並び称され、1960年代の日本製小型スポーツカーの秀作として評価が高い。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240416/20/economirai88/26/77/j/o0960063815426751324.jpg?caw=800)
概要
当時トヨタが生産していた最小のモデルである大衆車パブリカのエンジンとシャシを流用することを前提に、トヨタの系列会社の関東自動車工業で1962年(昭和37年)で開発に着手した。主査は初代カローラの生みの親で知られる長谷川龍雄。
当初は「パブリカ・スポーツ」の名称で開発が進められ、非力なパブリカ用エンジンで高性能を確保するため、航空機さながらに徹底した軽量化と空気抵抗の抑制が図られた。このためオープンボディながら難易度の高いモノコック構造を採用し、市販型でも重量は僅か580 kgに抑えられている。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240416/20/economirai88/7f/8b/j/o0960063815426751285.jpg?caw=800)
ボディスタイリング
関東自動車工業の回流水槽で研究を重ねるなどして、空気抵抗の低減を目指したデザインを企図した結果、徹底して丸みを帯びた、全長3,580 mm×全幅1,465 mm×全高1,175 mmという小さな2シーターボディは、凄みは皆無だが大変愛嬌のある形態となった。空力対策としてヘッドランプをプラスチックでカバーしたその造形は同社の2000GTでのフォグランプ処理を彷彿とさせるが、実際には相似を狙った訳ではない。
原型のスタイリングについては、日産自動車出身で当時関東自工に移籍しており、ダットサン・110/210やブルーバード310をデザインした佐藤章蔵が手がけた、と一般に伝えられている。だが長谷川龍雄が後年語ったところによれば、現実のスポーツ800のデザインの大部分は長谷川と関東自動車社内スタッフとが手がけたもので、どちらかといえば直線的デザインを好んだ佐藤が寄与した部分は少ないという。これに対し、関東自動車開発部門のプロパー社員で開発に携わった菅原留意は、開発企画自体が関東自動車側からの発案でトヨタ自工と長谷川を巻き込んだものであるとし、関東自動車側のデザイナーらが佐藤の主導で試作車デザインをまとめ上げたことを証言している(佐藤のサインの入った、試作車に極めて近いデザインスケッチも残されている)。
長谷川は卒業研究では翼断面形を研究し、就職後は試作機キ94を担当するなどした元航空技術者であり、スタイリングや試作車においてドアの代わりにスライド式キャノピーを採用したことからも航空機を意識した設計(デザイン)が窺える。しかし、さすがに乗降や安全性の面で問題があり、市販車では通常型ドアと、より現実的な着脱式のトップとの組み合わせを採用した。ポルシェ・911での同例に用いられていた呼称を流用して、後年「タルガトップ」と呼ばれるようになったが、採用はこちらのほうが早い。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240416/20/economirai88/70/d3/j/o0960063815426751308.jpg?caw=800)
メカニズム
ほとんどのコンポーネントをパブリカからの流用、もしくは強化で賄っている。フロントを縦置きトーションバー・スプリングのダブルウィッシュボーン独立、リアをリーフ・リジッドとしたサスペンションの基本レイアウトもそのままである。ブレーキもまだ前後ドラムではあったが、さすがにシフトレバーはフロアシフト化されていた。
パワーユニットは、当初、パブリカ用のU型(空冷水平対向2気筒OHV・700 cc)エンジン流用が考えられていたが、最高速度150 km/h 以上を企図した性能確保には非力であり、約100 ccの排気量拡大とツイン・キャブレター装備によって、790 cc、45 ps(エンジン形式は2U型)とした。それでもまだ非力としか言いようがなかったが、空気抵抗係数0.35を誇る超軽量空力ボディの効果は大きく、155 km/hの最高速度を達成した。同時期にDOHCの高回転高出力エンジンを700 kg級の車体に搭載したホンダ・S600とは、対極的な発想に位置する。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240416/20/economirai88/23/e5/j/o0960063815426751333.jpg?caw=800)
車名
「トヨタ スポーツ800」という車名は、1964年(昭和39年)の第11回東京モーターショー開催時に行われた公募により決定された。
応募された案の中からいくつかが候補として選ばれたが、調べたところ全て商標登録済みであったため不採用となった。そこで社名の「トヨタ」に「スポーツ+排気量」を組み合わせた無難な車名にすることとしたが、モーターショーの時点ではまだ排気量を公表していなかったため、「トヨタ スポーツ800」という名称が応募されることはあり得なかった(ベースモデルのパブリカの排気量が700 ccであったため「スポーツ700」という名称の応募は数件あった)。しかし、ひとりの学生が奇跡的に「トヨタ スポーツ800」という名称を応募していたため、「公募により決定」という体裁が整い、「トヨタ スポーツ800」という名称が正式に採用された。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240416/20/economirai88/d7/65/j/o0960063815426751598.jpg?caw=800)
販売
1965年(昭和40年)4月から市販された。東京地区標準販売価格は59.5万円で、比較的廉価に設定されていた。ホンダS600の56.3万円と大差なく、当初から競合モデルとして考えられていたことが伺われる。
しかし、小型といえど2シーターのスポーツカーが大量に売れる程の情勢には至っておらず、日本国外への輸出もほとんど行われなかったため、1969年(昭和44年)10月の販売終了までの累計販売台数は3,131台に留まっている。
長谷川のインタビューによれば、もともと売るつもりで作った車ではなく、パブリカの開発が終わり、次のカローラが始まるまでの手慰みにやった実験的な作品に過ぎなかったという。パブリカのコンポーネントを流用したのも、製品化予定のない車には会社の設備を割けなかったためである。しかし、1962年の東京モーターショーに出品したところ、思いがけぬ反響があったため、販売部門からの要望で製品化することになってしまった。輸出がなされなかったのも、当時の日本に合わせたパブリカのコンポーネントでは、アメリカの道路を高速で飛ばすような使い方に耐えられないと判断し、長谷川が強固に反対していたためである。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20240416/20/economirai88/5c/44/j/o0960063815426751612.jpg?caw=800)
レース活動
日本で自動車レースが盛んに成りつつあった時期の出現であり、好敵手と言えるホンダ・S600の存在もあって、「ヨタハチ」は日本国内の自動車レースで多くの逸話を残した。
ジェット機のごとき音を発するDOHC4気筒エンジンを搭載し、とにかく速いが、重く曲がりにくく燃料を食うホンダ・S600に対し、「ポロポロポロ…」あるいは「バタバタバタ…」と気の抜けた2気筒エンジンの音を立てながら走るヨタハチは、その軽さによって操縦性が良かったことに加え、当時珍しかった風洞開発のおかげで空気抵抗も少なかったため、燃料消費やタイヤ摩耗が少なく、結果としてピットインの頻度を他車より少なくできるという強みがあった。1966年の第一回鈴鹿500 kmでは、一度もピットインすることなく優勝した上、30%も燃料を残していたという。なお、このレースに参加したヨタハチの内、フレームナンバー「UP15-10007」の車両は現存しており、トヨタ自動車の手による徹底的なレストアとチューニングが行われ「スポーツ800 GR CONCEPT」として復活している。
更に整備性の良さからピットインではエンジンを丸ごと交換するという荒技まで可能となり、ピットインによるロスタイムが勝敗に大きく影響する長距離レースでは、その「経済車」たる長所が大いに際立った。
「ヨタハチ」による名勝負として伝説的に語られるのは、1965年(昭和40年)7月18日の船橋サーキットにおける全日本自動車クラブ選手権レースでの浮谷東次郎の優勝である。
1,300 cc までのカテゴリーGT-Iレースの序盤に、雨中決戦でホンダ・S600を駆る生沢徹のスピンに巻き込まれてクラッシュし、少破した車体を復旧すべくピットインした浮谷のヨタハチは、一時16位にまで後退しながら、その後驚異的な追い上げによって順位を一気に挽回、ついには先頭を走る生沢のS600を抜き去り、さらに2位以下を19秒以上引き離し、優勝している。
日々是精進
日々是修養
といった心境です。
知れば知る程、”世の中には、凄い<ひと>が居て、凄い<クルマ>が在るものだ”と驚きます。
長い冬が終わりを告げ
春一番の使者のごとく
全国から参集したヒストリックカーの祭典
毎年、春と秋に開催する素敵なカーライフイベントの紹介となれば良いな、と思いつつ
楽しみながら記事を書き進めています。
ゼッケンナンバー
に従って、一台、一台、紹介をしています。
次回も、どうぞお楽しみに!
所長 楊田芳樹
前のシリーズ
20210220オール日産大商談会inコンベックス岡山1 2021-06-16 07:00:00
前のシリーズ
NISSAN_NEXT_in_CONVEX_OKAYAMA_20210109-11_1外観・全体 2021-01-20 07:00:00
前のシリーズ
2021春ベッキオバンビーノ参加車両01_No02MG_PA_RACER(1934) 2021-11-03 07:00:00
2022春ベッキオバンビーノにて撮影させて戴いたクルマ達
TOYOTA_SPORTS_800_1969
DATSUN_FAIRLADY_2000_SR311_LOW_WINDOW_1967
HONDA_S600_1964
VOLKSWAGEN_TYPEII_11W_STANDARD_MICRO_BUS_1958
シボレー・シルバラード
FORD_THUNDERBIRD_1955
FORD_MODEL_T_1927
MORGAN_4/4_2010
CATERHAM_SEVEN_1973
ALFA_ROMEO_2000GTV_1973
MG-B_GHN5_1976
MG-B_1973
MASERATI_MEXICO_1969
DAIMLER_2.5L_V8_1966
LOTUS_ELAN_SR.3_FHC_1965
PORSCHE_356C_1965
PORSCHE_356C_SC95_1964
ALFA_ROMEO_GIULIETTA_SS_1961
PORSCHE_356B_SUPER90_1963
PORSCHE_356B_SUPER90_1963
PORSCHE_356B_SUPER90_1962
JAGUAR_E-TYPE_SR2._4.2FHC_1969
JAGUAR_E-TYPE_SR.1_4.2_FHC_1966
JAGUAR_E-TYPE_ROADSTER_SR.1_1962
ALFA_ROMEO_GRAND_SPORT_ZAGATO_1967
2022春ベッキオバンビーノ春参加車輌23ALFA_ROMEO_GIULIA_SPRINT
ALFA_ROMEO_GIULIETTA_SPIDER_1961
ROCHDALE_GT_1957
PORSCHE_356A_CONVERTIBLE_D_1959
PORSCHE_356_SPEEDSTER_1956
TRIUMPH_SPITFIRE_4_MK1_1963
TRIUMPH_TR2_1954
AUSTIN_HEALEY_SPRITE_MKⅡ_1961
AUSTIN_HEALEY_SPRITE_MK-1_1960
MERCEDES_BENZ_190SL_1962
MG-A_1958
MG-A_1955
MG-A_1955
AUSTIN_HEALEY_1960
AUSTIN_HEALEY_100/6_1957
AUSTIN_HEALEY_3000_MK1_1959
AUSTIN_HEALEY_100/6_1957
AUSTIN_HEALEY_100_BN/1_1954
ARNORT_BRISTOL_1954
MG-TD_1951
MERCEDES_BENZ_170S_CABRIOLET_A_1950
02ERMINI_GILCO_1100GP_1948
SIMCA8_SPORT_BARQUETTE1938
2021春ベッキオバンビーノにて撮影させて戴いたクルマ達
PORSCHE_356B_ROADSTER_1960
LOTUS_SUPER_7_SR.2_COSWORTH_1952
LOTUS_SEVEN_SR.1_1957
AUSTIN_HEALEY_100/6_1959
AUSTIN_HEALEY_100/6_1957
AUSTIN_HEALEY_100-4_BN2_1956
AUSTIN_HEALEY_100 BN/1_1954
MG-A_1958
MG-A_1957
MG-A_1955
MG-TC_1949
MERCEDES_BENZ_190SL_1957
JAGUAR_XK120_OTS_1951
MERCEDES_BENZ_170S_CABRIOLET 1950
ERMINI GILCO 1100GP 1948
SIMCA8 SPORT BARQUETTE 1938
MG PA RACER 1934
知れば知る程、”世の中には、凄い<ひと>が居て、凄い<クルマ>が在るものだ”と驚きます。
日々是精進
日々是修養
といった心境です。