【大日本帝国海軍】1戦艦編8超弩級戦艦に類する戦艦(番外編)大和型戦艦(一部未成)4 | エコノミライ研究所のブログ

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を探求して行きます。

ウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「日の本(ひのもと)」が、地球上の人類社会でトップグループを維持するために必要とされた「投資」物件である、戦艦をはじめとする、海上艦艇の歴史を紐解くシリーズを始めさせて戴いています。

 

1945年8月14日をもって無力化された

 

とはいえ、21世紀に入っても、「イージスアショア」計画が頓挫(とんざ)し、再び、イージス艦計画の延長線上に組み込まれることになりそうな現代「日本国」にとっても、参考となる「歴史の勉強」である、と確信いたします。

 

「ミライ」

 

への投資が、<いま>を生きる<ひと>にとって、どのような意味があるのかについて、考える切欠ともなる

 

思索の旅

 

幕末戊辰戦争前後から脈々と受け継がれてきた、「日の本」の海軍戦力に欠かせない、水上艦船についての紹介シリーズであります。

 

紹介する順番としましては、戦艦(巡洋戦艦)を筆頭に、巡洋艦、空母、駆逐艦、等々となります。

 

今回紹介する艦型は、国家を代表する艦船ともいうべき、戦艦で扶桑型に続く超弩級戦艦のうち

 

ワシントン条約失効後、陸奥以来久しぶりに建造される運びとなった

 

大和型戦艦

 

について紹介致します。

 

 
 

 

 

 

(出典:ウィキペディア「大和型戦艦」大和型戦艦 - Wikipedia

 

略歴
詳細は「大和 (戦艦)」および「武蔵 (戦艦)」を参照

太平洋戦争時の戦闘は航空機主体の戦術に移っており、大和と武蔵が敵戦艦と水上戦を行う機会はなかった。また米軍が大和型戦艦と同世代の戦艦10隻(ノースカロライナ級2隻、サウスダコタ級4隻、アイオワ級4隻)を様々な任務に投入したのに対し、日本海軍そのものが、大和型戦艦2隻の利用に消極的だった。イギリス軍事評論家オスカー・パークスは「大和、武蔵の2艦ともに、同じような強さの相手に遭遇しなかったことは残念であった」と述べている。

大和の初陣はミッドウェー海戦であるが、これも連合艦隊旗艦として機動部隊の後方を進撃しただけだった。

続くガダルカナル島をめぐるソロモン諸島の戦いにおいて、アメリカ軍はノースカロライナ級戦艦やサウスダコタ級戦艦を始めとするありとあらゆる軍艦を投入したのに比べ、海軍は高速ではあるが旧式の金剛型戦艦のみを投入し、新鋭戦艦たる大和型は温存された。1942年当時の日本は資源輸送に使用すべきタンカーまでも海軍作戦に使用したが、ミッドウェー海戦での浪費などもあって、大和型戦艦を動かす燃料までは確保できなかった。大和と武蔵は、激戦が続くソロモン海に出撃できなかったため、他艦の乗組員からは「大和ホテル」「武蔵御殿」と揶揄された。1942年9月18日には「大和」「陸奥」が前進部隊の補給艦「健洋丸」にそれぞれ4,500トン、さらに2隻に燃料補給を行った。同11月9日にも「大和」「陸奥」は出動部隊に米麦を提供している。

大和型戦艦による実戦での主砲砲撃が初めておこなわれたのはマリアナ沖海戦での対空砲撃であり、続くレイテ沖海戦でも対空防御のための砲撃をおこなった。レイテ沖海戦で武蔵は撃沈されたものの、航空魚雷20発以上、爆弾18発以上と言われる命中弾を受けても5時間以上浮いていた堅固な防御力は特筆すべきものがあるが、被雷の振動で艦橋トップの主砲射撃方位盤が故障し、主要防御区画内に浸水が発生するなど、弱点といわれた部分を次々と露呈する戦闘ともなった。その後発生したサマール沖海戦で、大和は米護衛空母部隊に対して32kmから遠距離砲撃を加えた。これが大和型戦艦が主砲を敵水上艦艇に発砲した最初で最後の戦いであったが成果を上げることはできなかった。

なお、空母に改装され、突貫工事の末1944年11月に竣工した3番艦信濃も、横須賀から呉への回送のための航海途中に潮岬沖で米潜水艦の雷撃をうけて沈没した。詳細は信濃を参照のこと。

残された大和も、最後には天一号作戦に投入され撃沈された。武蔵が沈むまで10時間かかったのに比べ、大和が2時間の戦闘で沈んだのは、日本軍の戦力が減退し護衛艦隊が薄弱で攻撃目標艦を絞りやすかったことや、当日の天候が悪く、大和から米軍機の視認が難しかったことなどによる。さらにレイテ沖海戦時の米軍は爆撃機と雷撃機が交互に攻撃していたのに対し、沖縄特攻時には戦闘機、爆撃機、雷撃機が複数方向から同時に攻撃するため、対応が難しくなっていた。また米軍が武蔵の戦訓から片舷に雷撃を集中させたという論があるが、米軍にその意図は見られない。武蔵が受けた20本以上の魚雷のうち、右舷に命中したのは4 - 5発のみとする証言もある。

評価と批判
設計過程
当時の日本海軍の造船官、平賀譲と藤本喜久雄の間には確執があり、大和型戦艦の設計過程にも大きく影響している。この中で、平賀の意見が強まったことで大和の性能を不当に低く設定してしまったという批判が遠藤昭などからなされている。藤本の技術的革新主義が、友鶴事件、第四艦隊事件の他、溶接技術の未熟(機関製作にも溶接は重要な要素技術である)、高圧蒸気の扱いや大トルクの減速歯車技術等の未熟、ディーゼルの失敗などで否定されてしまい、造船官の権威を失墜させた以上、設計が平賀的(保守的)なものに回帰したことは大和型にはプラスに働いたという評価もある。平賀は大和型の計画と建造と平行して進んでいた「臨時艦艇性能改善調査委員会」の席上、西島亮二に対しても「艦体が折れたのは、電気溶接を無闇に使用したからだ」などと批判し、1936年1月には「船体構造電気溶接使用指針」を発行、この文書は使用箇所を構造強度の根幹に関わる部分に使用しないよう指定する内容であった。溶接推進派の造船官の一人、福田烈に対しては技術が進歩すれば溶接を使っても良い旨語っており、また、福田との議論の中で「残留応力の面から不当の判決を受けた」「終いには溶接の性質をよく理解され、溶接に対する考え方が変わられた」といった平賀自身の考え方の推移も証言されている。

また、戦艦設計は平賀一人の手で行う物ではなく、多くの技術者の手を経て膨大なマンパワーを必要とするため、平賀が細部まで設計を行ったわけでは無い。牧野茂は大和型戦艦の船体が藤本の設計した最上型重巡洋艦と似ていたことを指摘した上で、「最上の計画主任の魂が、自ら大和に宿ったようだ」と述べている。

機密保持に熱心だった反面、技術情報の収集には当事者が問題を感じている。牧野茂はH.E.Rossellの「Historical Transaction 1893-1943 "Type of Naval Ships"(1945 SNAME)を戦後40年以上経過してから再読した際、「造船設計に関してはいささか自負慢心が強く、諸外国の技術情報蒐集に真剣身を欠いたと感じる」と述懐している。

搭載砲
46cm砲について
大和型に搭載された46cm砲(18.1インチ砲)は「世界最大の艦載砲」と言われ、ギネスブックにも認定されている。

同クラスの砲を装備した例としては35口径45.7cm砲(18インチ砲)2基を搭載したイギリスの大型軽巡洋艦フューリアスがある。

そして大和型戦艦の光学測距儀は艦載用としては世界最大の基線長15.5mである。

計画・構想段階の類例
日本は八八艦隊計画において最終4隻に18インチ砲を装備する計画であったとされ、48cm砲を試作・試射までおこなっていた。この砲は試射時に尾栓が破壊されたが、大和の46cm砲設計に先立ち修理、再度試射された。また、本型の強化発展型である超大和型戦艦に搭載する予定だった51cm砲を試作し、実用化の目処も付いていた。(超大和型戦艦が実現・完成した場合は本型の主砲も全て20インチへ格上げする予定であったとの記録が残っている)
アメリカは第一次大戦後の1922年頃には47口径18インチ砲の試作を終えていた。また、サウスダコタ級戦艦の次の戦艦(アイオワ級)は、同艦の16インチ3連装砲を18インチ連装砲に換装したタイプで構想された。アイオワ級やモンタナ級では18インチ砲搭載案も俎上に上がっていた。
イギリスはフィッシャー提督の構想の下、20インチ砲搭載の巡洋戦艦インコンパラブルが計画され、また第一次世界大戦後にはN3型戦艦に18インチ砲を搭載する計画とし、発注寸前まで行ったことがある。
ドイツもZ計画とその後のケーススタディで、42cm砲、48cm砲、そして遂には日本同様に51cm砲搭載の戦艦を試設計している。
 

アウトレンジ射撃について
NHKの『その時歴史が動いた』にて、46センチ砲を搭載している大和は「敵の砲弾の届かないところから一方的に攻撃できることになります」という内容を語っている。

大和型戦艦はパナマ運河の制限により40センチ砲搭載のアメリカ戦艦をアウトレンジする構想のもとで計画された。

1939年6月に策定された「聯合艦隊戦策」では、アウトレンジ戦法を「敵の射撃開始に先立ち一大打撃を加え」「勝敗の帰趨を決するは、帝国海軍にとり戦勝の一大要訣である。」と同戦法を重視している。

しかし直視できないアウトレンジ射撃では着弾位置の確認と補正のために飛行機観測が必要となる。長門型戦艦は昭和14年に観測機を用いた間接射撃訓練で、32,000mで12パーセントの命中率をだし 他の戦艦も高い命中率を発揮して、海軍内では観測射撃に自信をもつようになった。

但し制空権が無く観測機を飛ばせない状態ではアウトレンジ戦法は成り立たない。このため日本艦隊はアウトレンジ戦法を実施する際は「制空権を自陣営が掌握している中で行う」事が前提となり、大和型の設計もそれを前提にしたものとなっている。

こういったアウトレンジ戦法を実現するための訓練・戦術研究を経て、海軍は砲撃戦に大きな自信を抱き「艦隊同士の海戦ともなれば、アメリカ海軍の戦艦の砲が火を吐かぬ前に、その長大射程を持つ「大和」「武蔵」の46センチ主砲で、アメリカ艦隊を全滅させ得る」という確信を抱くに至った。 またアウトレンジ攻撃後は決戦距離(戦艦で20-25キロメートル、20センチ砲搭載の重巡で17キロ内外)を保ちながら砲撃戦を続ける事が想定された。

1944年6月2日に大和・武蔵が距離35,000mで実施した砲撃訓練(射法は一斉打ち方)で砲弾の散布界が800m - 1000mと大きくなってしまい問題となった。だがその後の訓練により9月に行われた距離35,000m~36,000mの目標に対する全砲による斉発射撃訓練で、散布界300m(遠近)に縮小し[324]、9月27日の砲術研究会でも「散布界著しく縮小」と報告されている。

ただし「散布界が小さい=命中率が高い」という事ではない。砲撃戦は公算射撃であり、「散布界の中に目標を捉え続ける(夾叉の状態を維持し続ける)」事が重要なのだが、目標も当然動いているので散布界が狭いと敵が変針や変速すると散布界から目標を取り逃がしやすい。特に駆逐艦などの小型高速艦艇が遠距離において絶えず変針しながら移動する場合、敵艦の動きを予想し発射しても着弾に時間を要することから命中弾を得ることが非常に難しかった。

一例としてサマール沖海戦における大和の米護衛空母群に対する砲撃を例にだすと、大和は距離32000mで射撃を開始。数回の斉射を行ったが煙幕とスコールにより目標を見失い射撃を一時中断する。その後、電探射撃を試みたものの効果は分からなかった。

日本戦艦の砲撃は約6分続き、空母は数回夾叉の状態となり、時間がたつにつれ砲撃の量と正確さはしだいに増していた。このため「その射撃は砲術士官に望みうる最高のものであった」とのアメリカ側証言もある。

だが米軍資料では、日本艦隊の砲撃は米駆逐艦の煙幕やスコールで視界不良となると砲撃精度は急速に低下した。そのためバトルレポートには「敵の水上射撃は我々の海軍の水準より著しく劣る」「斉射の距離測定は正確だったが偏差測定が正確ではなかった。」と報告されている。観測機による測定のため、大和は観測機を2機発進させたが米戦闘機に追い払われてしまった。

アメリカ戦史研究家のRobert Lundgrenの研究調査では、大和個別での戦果は

・護衛空母ホワイト・プレインズへの砲撃は至近弾数発。右舷機関室が破壊。

・駆逐艦ジョンストン(USS Johnston, DD-557) への砲撃は46cm砲弾3発、15cm砲弾3発被弾

と結論している。

一方、大和幹部が海戦後作成した『戦艦大和戦闘詳報 主砲電測射撃所見』では以下の通り纏められている

「砲戦用電探精度は大型艦船に対し距離精度は良好なるも方向精度不安定なるため電測間接射撃は実施せざるを建前と考え居たるも、今回の如く戦勢上実施を必要とする場合あり」

「圧倒的優勢を得な乍ら之を殲滅するまでに戦果を徹底し得ざる原因を探求する時、目下帝国海軍の水上砲戦術能力向上第一義的喫緊施策は正に電測射撃能力向上に帰すべきを痛感す。」

「即ち、我が術力(電探出現前の砲撃)の方式より看れば極度に向上し艦隊に於いて強き自信を有するにもかかわらず」「遂に存分の戦果を挙げなかったのは、一に我が電測能力貧弱の虚に乗じられたものである」『比島沖海戦並びに其の前後に於ける砲戦戦訓速報』

爆風と雷撃の衝撃
レイテ沖海戦において、武蔵は第一次空襲の際に主砲射撃方位盤が故障し、主砲射撃指揮所からの統一射撃が不可能になり、第二次空襲以降では各砲塔による各個照準及び射撃となったと言われている。ただし、武蔵の主砲第一発令所の九七式射撃盤を担当した布田昇の証言によると「まず第一波の攻撃で命中した魚雷のため、前部方位盤の旋回部分が歪んでしまい、旋回不能となった。直ちに後部方位盤に切り替え、戦闘を続行」ともあり、射撃方位盤故障がどの程度砲撃に影響したのかは不明である。

武蔵の加藤副長付信号兵として第二艦橋に勤務していた細谷四郎兵曹によれば、武蔵が主砲を発射したのは昼食を食べ終えてからの最初の空襲で、午後1時30分 - 午後2時頃と証言している。さらに一番砲塔に装填された砲弾が砲身内で爆発する危険性が報告され、「右砲戦方位90度、三万、各砲塔発射」命令が越野砲術長から出された。細谷の証言によれば、午前中の空襲で主砲発射爆風被害と言われるものは副砲、午後には主砲爆風が含まれていることになる。

先にも触れたとおり、前檣楼トップの主砲指揮所の射撃盤は、大和はトラック島沖で、武蔵はレイテ沖海戦で、各々一発の魚雷命中の衝撃により、戦闘初期にすでにズレ(大和)、旋回不能(武蔵)となっているとされ、爆風被害ではなく雷撃衝撃が射撃盤を狂わせたと考えられる。武蔵と運命を共にした艦長猪口敏平少将(砲術の大家と名高かった)の遺書にも耐衝撃性を上げるよう改善する必要があると記されている。

また、1944年(昭和19年)10月25日の対空戦闘について、大和の戦闘詳報には「後部主砲塔射撃のため、後部左舷所在の機銃員数名が火傷を負う」という記述があり、機銃に対する通報に齟齬があった要因が、射撃方位盤だけでないことも伺える、主砲射撃による爆音の中での、機銃群への迅速通達は容易ではないことから、3番主砲塔と後部機銃群との間に砲塔危険界通報装置の設置が要望されている。

副砲について
対空攻撃能力について
大和型戦艦の副砲は条約型巡洋艦、駆逐艦に対処するためのものだが、対空射撃には有効とは言い難く、副砲を全廃して両用砲に転換したノースカロライナ級やキング・ジョージ5世級の方が先進性があったと言われる。平間洋一の場合、米新戦艦に対して劣っていた旨を記述している。海軍砲術学校防空部は、15.5cm砲を廃止して10cm高角砲に変えるべきという意見を提出している。しかし、大和型2隻の戦闘詳報によると副砲は遠距離での雷撃機等の迎撃に有効であるとの記述があり、通説とは逆に日本海軍は副砲の対空能力を高く評価している。

実際、仏独伊が大和型と同時期に建造した戦艦でも副砲と高角砲は分離されている。特に仏海軍では、ダンケルク級で一旦両用砲を採用したが、両用砲は平射砲としても対空砲としても能力不足という判定から、次のリシュリュー級で、再び高角砲と副砲に分離しているという事実はあまり認知されていない。現実にキング・ジョージ5世級の両用砲は、装填機構や砲の追従性の問題で対空射撃が困難であったと判定されている。ノースカロライナ級以降の米戦艦搭載両用砲(38口径12.7cm両用砲MK.28)は、対水上砲として考えた場合、有効射程が短すぎて、駆逐艦の雷撃を阻止できない可能性が多分にあり、能力不足と指摘されている。第三次ソロモン海戦では同砲を装備した戦艦ワシントンとサウスダコタが日本軍水雷戦隊を迎撃したが、駆逐艦綾波を撃沈したのみで水雷戦隊の阻止に失敗し、雷撃を許している。合理的な両用砲だが、多くの海軍が採用しなかったのは理由があるのである。

大和型の副砲は、充分な数の護衛艦を持てない劣勢な海軍(米英以外の全て)が、敵の水雷戦隊を「魚雷を放つ以前の距離で迎撃する」ための兵装である。つまり12.7cm程度の小口径高角砲では、水雷戦隊阻止に充分な有効射程を持てないため、より大口径の副砲が必要という観点から配置されている。主砲を水雷戦隊の迎撃に使用する愚を考えるなら、分離は一理あるという説もある。実際、サマール島沖では、大和は近接した米駆逐艦ジョンストン、ホーエルに副砲で命中弾を与えたとの説がある。

しかし、上記のジョンストン、ホーエルともに大和の副砲が命中したのは可能性があるのは雷撃が実行された後であり、第三次ソロモン海戦でのアメリカ戦艦同様、雷撃の阻止に失敗している(特にジョンストンは副砲が命中した後も戦闘を続行している)。実戦では大口径の副砲でも「魚雷を放つ以前の距離で迎撃する」事はできず、水雷戦隊阻止においての優位性が証明される事はなかった。

砲塔防御について
「主砲塔直後に配置された第1・4番副砲は、大和型防御の欠点である」という説がよく語られる。完成前の武蔵に艤装員として勤務した千早正隆が指摘している。概ね「副砲塔は25mmの装甲しか施されておらず、駆逐艦主砲の5インチ砲弾も防げなかった。従って爆弾や大角度での落下砲弾がここに命中した場合、砲爆弾は副砲弾薬庫に達して炸裂し、これが隣接する主砲弾火薬庫を誘爆させて轟沈する可能性を秘めていた。手直し程度の改善はあったものの、この欠点は最後まで解消されなかった。両舷への指向が可能という利点にこだわった設計ミスだった」というものである。千早が副砲に関する懸念を山本五十六に訴えると、山本は「副砲を撤去して蓋をしておけ」と返したとされる。また大和沈没の原因は、副砲付近で発生した火災が第三主砲弾薬庫に引火した結果だという説もあるが、これは後の海底調査の結果否定されている。

大和型では、副砲塔そのものの装甲を妥協する代わりに、副砲の弾火薬庫を厚い装甲で囲まれた主要防御区画内に配置していたため、直接弾薬庫に貫通弾を受ける可能性は高くはない。また副砲塔と弾火薬庫の間に防焔扉を設置し、副砲塔に貫通弾を受けたとしても弾火薬庫に被害が広がりにくいように配慮された。副砲塔に過大な防御を施すと、高速の敵駆逐艦を撃退するため高い機敏性が求められる副砲の旋回性が失われる可能性があり、副砲塔そのものの防御には限界があった。大和の設計に当たった松本喜太郎によれば副砲の防御は「砲塔と弾火薬庫との間に充分な防炎装置を設けているから」という考え方で進められたため、弾丸防御上の弱点になった旨を述べている。

副砲塔の装甲の薄さは懸念材料の1つであり、武蔵では、建造中に「副砲の装甲を主砲塔並に強化せよ」という申し入れが連合艦隊司令部からあった。最も初期の低評価のひとつは艦隊に編入されてから指摘されたものであり、これが改修工事に繋がっている。戦後最初期の指摘としてはオスカー・パークスが1949年に『ENGINEERING』誌に発表したものがあり、「この軽防御砲塔が設計上の弱点であるのを証明したのは驚くにはあたらない」と述べている。

防焔装置や副砲周辺の防御については設計の段階では充分とされていたが、完成直前となって用兵者側から防御力を強化するよう要望を受けた。特に、中心線上に配置され、隣に主砲火薬庫がある第1・4番副砲塔を支える円筒の、露出した支筒下部に敵弾が命中した場合の問題点を指摘されたのである。この円筒は元々50mmCNC+25mmDSの装甲が施されていたが、28mmの装甲追加が行われた。この強化により射撃実験の結果、支筒下部は800kg爆弾の命中に耐えうるものとされた。さらに防焔扉の板厚を増し、中甲板の貫通部に不規則な形の防焔板を隙間なく装備したこれにより最上型軽巡洋艦に搭載されていた時よりも、総合的な防御力は強化されていた。なお武蔵は就役時までに、大和は就役後に副砲を一旦下ろして、この防御強化を行っている。

副砲の防御が弾薬庫配置を含めて問題となるのは、他国戦艦でも同様だが、第一次世界大戦や、太平洋戦争での諸海戦の戦訓を見ても、防焔装置などで被害を局限できることは確かであった。現実に、大和型副砲塔と同様の防御形式だった日本重巡洋艦「青葉」は、サボ島沖海戦で第3砲塔に敵弾の直撃を食らい、砲塔内で装填中の零式弾と装薬が誘爆したものの、適切な弾薬庫注水により、それ以上の被害拡大を免れている。他の日本重巡も砲戦中に弾薬庫誘爆で沈んだケースは存在しない。第一次ソロモン海戦では、鳥海の1番砲塔に米重巡の20cm砲弾が命中し、砲塔員が全滅するも弾が砲塔を前後に貫通して艦への被害は抑えられたというケースもある。航空攻撃に対する被害はいくつか散見される。ミッドウェー海戦では重巡洋艦最上と三隈が砲塔に被害を受けた。最上は5番砲塔に直撃弾を受けたが、誘爆は起きずかろうじて生還した。同日、三隈も空襲で3番砲塔が直撃弾を受けて破壊され、4番砲塔には被弾した米軍機が体当たりしたが、これらの攻撃は致命傷とはならなかった。三隈沈没の直接の原因は魚雷の誘爆である。ラバウル空襲で重巡洋艦高雄が爆弾命中により一番砲塔装薬誘爆を起こし砲塔員が全滅するも、沈没は免れた。サマール沖海戦では重巡洋艦羽黒が空襲によって2番砲塔に直撃弾を受けたが、応急処置により戦闘を続行した。

また、艦中心線上への副砲装備は「主要防御区画の縦方面での長さを伸ばし、艦型の拡大を招いた」という、別の観点からの批判もある。

なお砲塔の構造は大別すると英国式と米国式に分類される。砲弾と装薬を同時に砲塔内に揚げる英国式は、機構が簡単で重量が軽いメリットがある。これに対し、砲弾と装薬を別に揚げる米国式は、機構が複雑で重量がかさむものの、被弾時の誘爆確率が低いという防御面のメリットがあった。米国式の砲塔を採用したのは、米仏独の戦艦と日本の大和型戦艦のみであり、それ以外の各国戦艦(長門型以前の日本戦艦も含めて)は英国式砲塔であった。

最大速力
建造当時の米戦艦の最大速力は20 - 21ノットであった。日本海軍は改装によって、長門型/伊勢型/扶桑型戦艦を25ノット、金剛型を30ノットに向上させていたため、部隊単位で優速であった。大和型の27ノットは、米新型戦艦が25ノットと見積もられていたために、これを上回る速力として承認されたものである。

だが、大和型戦艦が艦型の拡大を抑制するため、最大速力を約27ノットとしたことに対し「低速のため、機動部隊護衛などに使用できなくなり、失敗であった」という根強い意見がある。この根拠には、下記が挙げられている。

軍令部第一課(作戦課)が新戦艦(重高戦)の速力として、空母機動部隊との共同作戦を前提とした35ノット(航続距離18ノット20,000浬)を想定していたこと。
初期の計画書に30 - 31ノットの速力が要求されている。
欧州の30ノット級新型戦艦や、大戦中活躍した33ノットの米戦艦(測定条件によっては最高35ノットもの高速を発揮した)アイオワ級との比較。
アメリカと比較して劣っていた日本の機関技術により、省スペースで大馬力機関が製作できなかった点に関係しては、「技術的には旧弊以下と評されるべきもの」とも酷評されている。
一方、佐藤大輔のように速力を27ノットに抑えたことによる悪影響、あるいは他国海軍に比較しての欠点は結果としてほとんどなかったという反論がある。

対戦国の同世代戦艦である英国のキング・ジョージ5世級戦艦は約28ノット、米国のノースカロライナ級戦艦は約27ノットであり、ほぼ同速であった。ノースカロライナ級戦艦は戦争中に対空火器の増設を行い、戦争後半には26.8ノットと大和型より僅かながら低速になった。サウスダコタ級戦艦は、公式には27.5ノットだが、戦争中に対空兵装などの装備増設で排水量が増加して戦争後半には27ノットまで低下し、姉妹艦のアラバマは42,740トンのときに133,070馬力で27.08ノット、44,840トンのときに135,420馬力で26.7ノットを発揮したという。大量の装甲板、砲塔、弾薬を搭載し、喫水の深い戦艦に高速力を要求するのは酷であり、それを達成した金剛型やアイオワ級はなんらかの設計上の妥協を強いられており従来からの巡洋戦艦の延長上の戦艦ともいえる。事実、アメリカ海軍のモンタナ級戦艦では6万トンの排水量に達し、速力も28ノットの計画に留まっている。イギリス軍最期の戦艦であるヴァンガード (戦艦)も30ノットの速力を発揮したが搭載できたのは38センチ砲であり、ライオン級戦艦は40センチ砲を搭載し28.5ノットであったが薄い水平装甲で済ます計画であった。それを考えると大和型の46センチ砲で、27ノットという設定は極めて妥当な判断と言うのが反論側の意見である。

速力一辺倒の考え方に対する疑問は1920年代の米海軍にもあり、元海将の高須廣一は「基地から遠く離れた西太平洋で戦う場合に重要なのは母港に帰り着く能力であり、速力を数ノット高く建造したとしても、そのような優位は決戦の最初の数分間で失われるかも知れない」と低速重防御思想を維持してきたが、仏伊で建造されつつある新世代の戦艦が30ノット程度を狙っていることを察知し、1935年の将官会議で自国の新戦艦に「高速戦艦」案として出力強化に重量を割くことを妥協し、27ノットの速力を要求した。

その後建造されたアイオワ級戦艦はパナマ運河通行のために幅をしぼった艦型となっており、33ノットの速力発揮が可能な反面、横方向の揺動に対する安定性が低かった。現実に英国戦艦ヴァンガードと同行した際に、航洋性と安定性の低さが指摘されるなど、同級の運用上の問題点として挙げられている。こうした点において、武蔵は護衛する駆逐艦のスクリューが露出するような大型台風の中を航行しても、安定した航行を行ったと言われている。大和が1941年10月20日の公試で27.4ノットを記録したのも、駆逐艦が退避するほどの悪天候下だった。ミッドウェー海戦では、長門型戦艦「陸奥」でさえ揺れるような嵐の中を、大和は安定して航行していた。このように、大和型戦艦は米英仏独伊の新型戦艦よりも航洋性に優れた船体設計をしており、排水量においても大型のため、安定性に優れていた。従って海独仏伊の30ノット級同世代戦艦に対しても実質的な劣速はわずかと言える。

太平洋戦争時の砲術学校の教範には「僅少な機動力の優位を最大限に活用して、極力敵との砲戦距離を詰めるようにする」と明記されており、日本戦艦部隊が米旧式戦艦部隊に対して持つ4 - 5ノット程度(25%程度)の速力差は、さほど優位をもたらすものではないと認識されていた。日本海軍では、速力の優越で恒常的に戦闘を優位に進められる指針として、敵より50%以上の優越が必要だと判断していた。20 - 21ノットの米戦艦に対する、朝潮型・陽炎型・夕雲型駆逐艦の35ノットや、米新型戦艦が27ノット級であることが判明した後で、40ノットの速力を要求された島風型駆逐艦がその一例である。なお金剛型高速戦艦(や大和型戦艦の初期計画時、長門型戦艦の高速化計画)は、米旧式戦艦の20ノットに対する50%増の30ノットを近代化改装によって実現しており、戦艦であっても「できればその程度の速力差を得たい」と認識されていたことが伺える。

現実には、少数の戦艦同士の戦闘においても、彼我の対戦姿勢によっては、丁字戦法の効果同様に発砲できない砲塔が発生することもあるため、射界と速力の有利は「できれば得たい」ものであった。しかし、戦例から見れば数ノット程度の優速は戦闘結果に影響しないと考えられる。

実際に栗田艦隊ではレイテ沖海戦前に、今後の作戦で予想される夜戦に対し「大和型戦艦の速力27ノットは夜戦でも問題ないので、武蔵を旗艦にするよう変更してほしい」という要求を行っている。このレイテ沖海戦では、本来なら30ノットを発揮できる金剛型戦艦「榛名」がマリアナ沖海戦による損傷が尾をひいて26ノットしか出せず、参加した日本海軍戦艦中で大和・武蔵より高速を出せた戦艦は 金剛一隻だった。

なお、低速のため空母機動部隊と随伴できないという批判だが、大和竣工時に日本機動部隊の主力であった赤城は31.2ノット(航空本部資料では30.2ノット)、同航する加賀は28.3ノットであり、正式空母に随伴する軽空母、改装空母や補給艦などはさらに劣速であった。機動部隊といえども、最大船速を出すのは艦載機の発艦時や爆撃や雷撃の回避時に限られており、大半の行動時には最低速艦に速度を合わせる必要があることから、大和型による護衛は物理的には可能であった。

そうしなかったのは虎の子の空母を中心とする機動艦隊を露払いとし、戦艦部隊を温存しておいて艦隊決戦で最終的に勝利するという、日本海軍の古い用兵思想が根底にあったからである。一方、米国においては、大和型と同等速力だったノースカロライナ級戦艦、もしくは大和型より低速だったサウスダコタ級戦艦が、米機動部隊に随伴して護衛任務を果たしている。

「第二次ソロモン海戦南太平洋海戦」も参照
その後、マリアナ沖海戦の頃になって、初めて大和、武蔵が前衛部隊に配置され、空母3隻を護衛するようになったが、そのころには機動部隊は大半の正式空母、航空機と優秀な搭乗員を喪失しており、航空機や対空兵器の物量と技術力の差も明らかとなって効果を上げることができなくなっていた。

実測値
一般的には27ノットが定説であるが、箇条書きすると、次のような記録が伝えられている。

『戦艦大和・武蔵』には佐田岬標柱で行われた終末公試運転で28.33ノットを発揮したと記述されている。
大和の元乗組員がテレビ番組『よみがえる戦艦大和』(朝日放送)で29.3ノットまで出したことがあるという証言をしている。
原勝洋は『真相・戦艦大和ノ最期』にて「1942年6月22日に愛媛県佐田岬標柱間で行われた公試時、167,310馬力で28.5ノットを発揮した」と書いている。
武蔵が過負荷全力166,520馬力で28.1ノットを出したという記録が残っている。
こうした記録から、短時間であれば過負荷全力時に28ノット台を発揮できたことは、間違いない。大和型戦艦は基準排水量64,000トンの巨艦にも関わらず、機関出力は150,000馬力と他国35,000トン型戦艦と大差ないため、28ノット台の速力が出せたことを疑う向きもあるが、2乗3乗の法則によれば長さや幅が倍になったとすれば重量は8倍なるが抵抗は4倍に留まる。よって、35,000トン級戦艦の約2倍の排水量を持つ大和型は1.5倍の馬力で同程度の速度を発揮できるということになる。実際には造波抵抗が速度によって増加するため、艦長が長いほど高速になると有利となる。

また、大和型戦艦はバルバス・バウの採用や船体形状の研究などで15,820馬力節約したという記録が残っている。大和の過負荷全力である167,310馬力+15,820馬力=183,130馬力であり、当初計画が多少縦横比の長い状態で20万馬力、30 - 31ノットであるから、28 - 29ノット台が出ても不自然な数値というわけではない。

また、日本の軍艦は燃料・弾薬・水・食糧などの消耗物資を満載した状態で出撃し、一定距離を航海して戦闘に入る直前を想定した状態(いわゆる公試排水量)で出せる速力を最大速力とするが、物資の搭載量が少なければ、これより大きな速度を出せる。例えば駆逐艦島風は公試試験の際、燃料・水等を2/3ではなく海軍がより実用的と考えて改正した新基準により、半分しか搭載せず出した数値である40.9ノットが最高値となっている。

大和はレイテ沖海戦時には、第五戦速26ノットで2時間39分走っているが、これを上回る最大戦速で1分間、一杯で9分間走っている。つまり、この時点では28 - 29ノットを発揮していた可能性は充分ある。ただし、機関部の通風能力が不足していたため、特に南方での作戦での高速発揮時は、機関部内が耐え難いほどの高温になっていたとされている。

なお、他国でも独ビスマルク級戦艦の一般的な速力は29ノットとされているが、機関過負荷120 - 128パーセントで30.8ノットを出したほか、伊戦艦ヴィットリオ・ヴェネト級は30ノットの計画に対して各艦31.2 - 31.4ノット、仏戦艦リシュリュー級は30ノットの計画に対し32ノット以上、英戦艦ヴァンガードも30ノットの計画に対し31.57ノット、キング・ジョージ5世級も27.5ノットの計画に対し29ノット、米戦艦アイオワ級は33ノットの計画に対して1968年3月にニュージャージー(BB-62)が35.2ノットを発揮した記録が残っているなど、大抵の戦艦は短時間であれば過負荷全力時に計画速度を上回る速度を発揮できる。逆に、晩年のアイオワ級戦艦は船体・機関の老朽化により速力が低下したという記録も残っている。

そして、船一般に言えることだが数万トンの排水量の船になると、水温が0.5度違っても同じ体積の水の重量(つまり抵抗)が大きく変わり推進器の性能などにも影響し船のスピードは違ってくる。従って軍艦の最高速度は目安でしかないことに注意する必要がある。

戦争初期に前線に投入しなかったと言う批判
日本海軍は大和型戦艦を戦艦部隊の中核として位置付け、艦隊決戦のために温存する方針であり、開戦当初は機動部隊護衛に用いることは考慮していなかった。戦艦の使用は主砲火力の発揮できる決戦局面で行うべき、というのは当時の日本には「現実的」な判断だったとされるが、平間洋一はミッドウェー海戦ではこれらの判断が裏目に出たことを批判的に指摘している。大和型戦艦の無線送信能力は、軍令部より500浬を要求されており、鐘楼やマストも空母より高い位置に展張出来、通信能力に優れていた。またミッドウェー海戦時には連合艦隊旗艦であったために、優秀な通信班を乗せていた。平間によれば、作戦前の研究会にて、この点に着目し、赤城と共に行動させるべきという意見が出ていたと言う。

実際海戦中、大和が傍受し、南雲機動部隊が傍受できなかった敵機動部隊の呼び出し符丁があった。もし大和が機動部隊の護衛部隊として行動を共にしていれば、傍受した通信を視覚信号で通報し、敵機動部隊の存在をより早く察知出来たのではないかと指摘している。

上記のように戦艦の性能上重要となる搭載砲のプラットフォームとしての安定性においては、大和型戦艦は最高レベルと思われるが、反面、燃料消費量が多かったことも問題であった。単に機動部隊の護衛として用いた場合は、大和型を含む日本艦艇の対空火力はそれほど強力でなく、また日本海軍は慢性的に燃料不足で行動が制限されていた。ガダルカナル戦では、大和型戦艦や長門型戦艦の陸奥がタンカーの代わりをしていた事実がある。レイテ沖海戦では大和など戦艦から駆逐艦戦隊への給油が行われていた。

山口多聞提督が奨励していた輪形陣は戦艦を含んでおり、攻撃機パイロット淵田美津雄も空母よりも戦艦が通信能力に優れる点、そして、敵勢からの攻撃を分散させ、その重厚な防御力によって攻撃を吸収することで空母の盾になりうると考えていたが、日本海軍の主たる用兵思想では無かった。

対空防御
「建造時に航空攻撃を考慮していなかったので撃沈された」という説が見られる。しかし、同時期に建造された空母・空母艦載機や陸上攻撃機の想定戦術から見ても、当時は機動艦隊による航空勢力が戦闘の中心となることは予想されていなかった。 計画当時、戦艦の使用は制空権下で行うことを前提としており、全体の性能バランスを崩すような過剰な水中防御を要求しなかった。日本海軍の防空に関する取り組みは、電子装備や戦闘システム全体のソフト的研究開発でアメリカ海軍より遅れていたが、アメリカ以外の国に劣るものではなかった。また戦争中の航空機の進歩が著しく、それに対応する対空兵装も大きな変貌を遂げており、それはアメリカ海軍のアイオワ級についても同じことである。

なお、松本喜太郎は実際の沈没状況については「われわれが予想していた以上に沈みにくかったことはたしかである」と述べている。福井静夫は、「結果からいえば魚雷と爆弾に対する防御力を強化すべきだったが、開発時の用兵思想下では極めて慎重かつ堅実に設計されており、当時の工業技術の最高標準を示した」と述べた。三菱重工と旧海軍関係者がまとめた「戦艦武蔵建造記録」では『よくぞここまで耐えたが、あえて指摘すれば間接防御の強化が必要』とし、沈没原因を復原力を失ったことによる横転としている。牧野茂は、絶対的不沈艦などありえないと前置きした上で、「味方に航空兵力が存在する戦闘で相対的不沈艦とすることは望ましく、大和型戦艦はおおむねその成果を達成した」と評した。つまり航空戦力が戦闘の中心になることは設計時に想定されていなかったが、航空防御の強化はなされており、多くの魚雷や爆弾に対する防御力も持っていた。仮にアメリカ海軍のアイオワ級戦艦が大和や武蔵と同等の航空勢力の攻撃を受ければやはり沈没は免れなかったと考えられる。

造船技術
大和型は軍艦である以上、故障・不調は許されず、艦政本部長からも「武人の蛮用に適するものたらしむるべし」と訓示されている。溶接適用範囲の縮小、主機械のディーゼルから蒸気タービンへの変更など、石橋を叩いた設計であった。艦橋形状や舵配置、機関等の重要構造部はテストベットを経て採用されており、昭和10年代に確実性を確保されていた建艦技術が投入されたと言える。建造に当たっての実艦試験として有名なところでは練習戦艦比叡の戦艦復帰改装時の艦橋形状の採用、潜水母艦大鯨で故障続きだったディーゼルエンジンの不採用などがある。

大和型では、建造期間短縮のため、鋲(リベット)によるブロック工法が行われた。武蔵(三菱長崎造船所)ではブロック工法に対して消極的で2倍の工程数がかかっている。残された呉海軍工廠資料によると、強度が必要とされる箇所は鋲(リベット)接合が用いられ、電気溶接は主要構造部にはほとんど用いられていなかった。これは大和級建造当時の日本の溶接技術レベルがまだ低く、信頼性のある溶接棒が製造できなかったことが主な原因だった。大和型以前の「大鯨」や「最上」で溶接を多用した結果、船体変形などの問題が起こっていた。溶接によるブロック工法は、戦時量産の戦時標準船や海防艦などにおいて実用化された技術であった。ただし、大和型でも上部構造物などで可能な限り溶接を使用することにより船体重量を抑えようとしていたことも設計図面の溶接を示す長体「S」マークから証明されている。

リベット接合は建造期間を延長し重量を増加させた。大和級のリベットは直径約4cmあり、鋲打機も特注で大人2人で抱えあげて打ち込んだという。装甲が堅く厚いため一度打ち込んだ鋲が歪んだ場合、その鋲を抜くだけで丸一晩かかることも珍しくなかったという。

溶接範囲は時期が後になるほど技術が進歩するにつれて拡大し、大和の溶接延長が460kmだったのに対し、3年後の信濃では2,600kmとなった。信濃は空母に改装されたため単純に比較は出来ないが、甲鉄量や排水量がほとんど同じレベルであるため工数、鋲接本数も似た値となっている。

大和級建艦に携わった技術陣の多くは戦後、活躍の場を民間に移し、戦後高度経済成長期の巨大タンカー建造などに携わった。西島亮二が中心となって生み出された西島式ともいわれる呉工廠における大和建造時の膨大な工数管理は、今日の大型船舶建造の基礎ともなり、海防艦のブロック建造方式とあわせて造船王国日本の復活を下支えした。その後、前間孝則が西島の日記を遺族より見せてもらうことで、工数管理面の実像が世間一般にも知られるようになった。

ただし、造船技術の賛美傾向に付いては、警鐘を鳴らす当事者も居た。堀元美は1967年の雑誌記事で、当時の日本造船界が隆盛の影でエンジンが外国からのライセンス購入品が大勢を占めていることなどを根拠として、「大和において日本の造船技術が完成した、というような、固定的な考えかたには、同意できない。技術は生きものであって、けっして止どまってはいない。」「大和をつくった先輩たちの偉大さを確認するためには、日本の造船技術発達の流れを知り、その流れの中の、いかなる時点で大和がつくられたか、を論じる必要がある。満載排水量が七万トンとか、甲鉄の厚さが四一〇ミリといっても、それだけでは、時代が変われば骨董品的な価値しかない」と釘を刺している。

竣工時期
一番艦大和の竣工が開戦8日後であることから「海軍は大和の完成を待って開戦を決意した」とも言われるが、これは適切な理解ではない(翔鶴型航空母艦の竣工時期は開戦判断に影響を与えている)。当時の12月8日(日本時間)は月齢19日で真珠湾攻撃に最適であったこと、その日は日曜日で艦隊が停泊している可能性が最も高かったから選ばれたのであり、むしろ大和の竣工が開戦に合わせて繰り上げられたのが真相である。武蔵においても、竣工が大幅に繰り上げられ、過酷な労働で、体調を崩したり、事故で死亡した工員も多いとされる。ただし、大和型戦艦、翔鶴型航空母艦を含む第三次海軍軍備充実計画の艦艇は1941年度末までにほぼ完工に近い工程あるいは就役の状態であり、年単位での軍拡状況という観点から見れば、短期決戦を捨て切っていなかった海軍にとってはひとつの節目の時期には当たっていたと言える。

(文字数の関係により、続きは次回に回します。)

<基本情報>

艦種    戦艦
命名基準    旧国名
運用者     大日本帝国海軍
建造期間    1937年 - 1944年
就役期間    1941年 - 1945年
同型艦    大和、武蔵、信濃(空母に設計変更)、111号艦(建造中止)
計画数    4隻
建造数    2隻
前級    十三号型巡洋戦艦
次級    改大和型戦艦及び超大和型戦艦(共に建造中止)
要目 (計画値)
基準排水量    64,000 t
公試排水量    68,200 t
満載排水量    72,800 t
全長    263.40 m
最大幅    38.9 m
吃水    10.4 m (公試状態・平均)
主缶    ロ号艦本式重油専焼水管缶×12基
主機    艦本式タービン×4基
推進器    スクリュープロペラ×4軸
出力    150,000馬力
速力    27ノット (50 km/h)
航続距離    16ノット (29km/h) で 7,200浬 (13,370km)
乗員    約2,500名
兵装    
45口径46cm3連装砲×3基
60口径15.5cm3連装砲×4基
40口径12.7cm連装高角砲×6基
25mm3連装機銃×8基
13mm連装機銃×2基
カタパルト×2基
装甲    
(数値はいずれも最大)

舷側 410 mm
甲鈑 230 mm
主砲防盾 650 mm
搭載機    
(数値はいずれも竣工時)

水上機最大7機
零式水上偵察機
零式観測機 他

 

 

このような感じで、次回も続けます。

 

次回もお楽しみに。

 

エコノミライ研究所

所長 楊田芳樹

 

 

1    黎明期
1.1    軍艦
1.2    運輸船
1.3    その他
2    艦艇
2.1    軍艦
2.1.1    戦艦
2.1.1.1    一等戦艦
2.1.1.2    二等戦艦
☆今回☆2.1.1.3    等級廃止後
2.1.2    巡洋戦艦
2.1.3    航空母艦
2.1.4    巡洋艦
2.1.4.1    等級制定以前(スループ)
2.1.4.2    等級制定以前(コルベット)
2.1.4.3    等級制定以前(巡洋艦)
2.1.4.4    等級制定以前(戦利巡洋艦)
2.1.4.5    等級制定以前(装甲巡洋艦)
2.1.4.6    等級制定以前(防護巡洋艦)
2.1.4.7    一等巡洋艦(装甲巡洋艦)
2.1.4.8    一等巡洋艦(重巡洋艦)
2.1.4.9    二等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.4.10    二等巡洋艦(軽巡洋艦)
2.1.4.11    三等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.5    水上機母艦
2.1.6    水雷母艦
2.1.7    潜水母艦
2.1.8    水雷砲艦
2.1.9    通報艦
2.1.10    敷設艦
2.1.10.1    急設網艦
2.1.11    練習戦艦
2.1.12    練習巡洋艦
2.2    駆逐艦
2.2.1    等級制定以前
2.2.2    一等駆逐艦
2.2.3    二等駆逐艦
2.3    潜水艦
2.3.1    一等潜水艦
2.3.1.1    海大型潜水艦
2.3.1.2    巡潜型潜水艦
2.3.1.3    その他の一等潜水艦
2.3.2    二等潜水艦
2.3.3    三等潜水艦
2.3.4    第一次世界大戦戦利潜水艦
2.3.5    特殊潜航艇・特攻兵器
2.3.6    実験艦・計画艦
2.4    砲艦
2.4.1    河用砲艦
2.5    海防艦
2.5.1    旧定義艦
2.5.1.1    一等海防艦
2.5.1.2    二等海防艦
2.5.1.3    三等海防艦
2.5.1.4    等級廃止後
2.5.2    新定義艦
2.6    輸送艦
2.6.1    一等輸送艦
2.6.2    二等輸送艦
2.7    水雷艇
2.7.1    一等水雷艇
2.7.2    二等水雷艇
2.7.3    三等水雷艇
2.7.4    日清戦争戦利艇
2.7.5    昭和期の水雷艇
2.8    掃海艇
2.9    駆潜艇
2.10    敷設艇
2.10.1    二等敷設艇
2.10.2    三等敷設艇
2.11    哨戒艇
3    特務艦艇
3.1    特務艦
3.1.1    工作艦
3.1.2    運送艦
3.1.2.1    給油艦
3.1.2.2    給炭艦
3.1.2.3    給炭油艦
3.1.2.4    給兵艦
3.1.2.5    給糧艦
3.1.3    砕氷艦
3.1.4    測量艦
3.1.5    標的艦
3.1.6    練習特務艦
3.2    特務艇
3.2.1    掃海特務艇
3.2.2    駆潜特務艇
3.2.3    敷設特務艇
3.2.4    哨戒特務艇
3.2.5    海防艇
3.2.6    電纜敷設艇
3.2.7    潜水艦母艇
3.2.8    魚雷艇
3.2.8.1    試作魚雷艇
3.2.8.2    輸入魚雷艇
3.2.8.3    T-1型
3.2.8.4    甲型魚雷艇
3.2.8.5    乙型魚雷艇
3.2.8.6    隼艇
3.2.8.7    太平洋戦争戦利魚雷艇
4    特設艦艇
4.1    特設軍艦
4.1.1    特設航空母艦
4.1.2    特設水上機母艦
4.1.3    特設航空機運搬艦
4.1.4    特設巡洋艦
4.1.5    特設敷設艦
4.1.6    特設急設網艦
4.1.7    特設潜水母艦
4.1.8    特設水雷母艦
4.1.9    特設掃海母艦
4.1.10    特設砲艦
4.1.10.1    砲艦兼砕氷艦
4.1.10.2    砲艦大
4.1.10.3    砲艦小
4.1.10.4    砲艦兼敷設艦
4.2    特設特務艇
4.2.1    特設捕獲網艇
4.2.2    特設防潜網艇
4.2.3    特設敷設艇
4.2.4    特設駆潜艇
4.2.5    特設掃海艇
4.2.6    特設監視艇
4.2.7    特設工作艦
4.2.8    特設港務艦
4.2.9    特設測量艦
4.2.10    特設電纜敷設船
4.2.11    特設病院船
4.2.12    特設救難船
4.2.13    特設運送艦船
4.2.13.1    給兵船
4.2.13.2    給水船
4.2.13.3    給糧船
4.2.13.4    給炭船
4.2.13.5    給炭油船
4.2.13.6    給油船
4.2.13.7    雑用船
5    雑役船
5.1    工作船
5.2    海洋観測船
5.3    交通船
5.4    救難船兼曳船」

(出典:同上)

 

 

艦艇 (「〇」は紹介済み艦型)
軍艦
戦艦
一等戦艦
〇富士型:

 0053富士 [II](→戦艦→一等海防艦→運送艦→練習特務艦)

 0054 八島
〇敷島型:

 0055敷島(→戦艦→一等海防艦→練習特務艦) 

 0056朝日(→戦艦→一等海防艦→練習特務艦→工作艦) 

 0057初瀬

 0058三笠(→戦艦→一等海防艦→記念艦)
〇日露戦争戦利艦
 0059丹後(←ロシア海軍戦艦ポルタワ / →戦艦→一等海防艦→ロシアへ返還)
 0060相模(←ロシア海軍戦艦ペレスヴェート / →戦艦→一等海防艦→ロシアへ返還) 〇相模型

 0061周防(←ロシア海軍戦艦ポベーダ / →戦艦→一等海防艦→雑役船)〇相模型
 0062肥前(←ロシア海軍戦艦レトヴィザン / →戦艦→一等海防艦)
 0063石見(←ロシア海軍戦艦オリョール / →戦艦→一等海防艦→雑役船)
〇二等戦艦
 0064扶桑 [I](→一等海防艦)
 0065鎮遠(←清国海軍戦艦 鎮遠 / →一等海防艦)〇日清戦争戦利艦
〇日露戦争戦利艦
 0066壱岐 [I](←ロシア海軍戦艦インペラートル・ニコライ1世 / →一等海防艦)

等級廃止後
〇香取型

 0067香取 [I]

 0068鹿島 [I]

〇薩摩型

 0069薩摩

 0070安芸
〇河内型

 0071河内 [II]

 0072摂津 [II]

〇第一次世界大戦戦利艦
 0073トゥルグート・レイス(オスマン帝国海軍戦艦)(割り当てられるも取得せず)
 0074ナッサウ(ドイツ海軍戦艦)(→就役せず。売却・解体)
 0075オルデンブルク(ドイツ海軍戦艦)(→就役せず。売却・解体)

 

巡洋戦艦
※最終時の艦種類別には存在しない。

〇筑波型:

 0076筑波 [II]

 0077生駒 [I]
〇鞍馬型:

 0078鞍馬 [I]

 0079伊吹 [I]
〇金剛型(→全艦戦艦に類別変更)

 0080金剛 [II]

 0081比叡 [II]

 0082榛名

 0083霧島
〇天城型:

 0084天城 [II](→航空母艦→未成) 

 0085赤城 [II](→航空母艦) 

 愛宕 [II](未成) 

 高雄 [III](未成)
〇第8号型(13号型):第8号(13号艦) - 第9号(14号艦) - 第10号(15号艦) - 第11号(16号艦)(全艦計画のみ)

金剛型(←巡洋戦艦):金剛 [II] - 比叡 [II] - 榛名 - 霧島
 

〇扶桑型

 0086扶桑 [II]

 0087山城
〇伊勢型

 0088伊勢

 0089日向
〇長門型

 0090長門

 0091陸奥
〇加賀型

 0092加賀(→航空母艦)

 0093土佐(未成)
〇紀伊型

 紀伊(未起工)

 尾張(未起工)

 第13号(11号艦)(計画のみ)

 第14号(12号艦)(計画のみ)
〇金剛代艦型

 藤本案

 平賀案(計画のみ)
〇大和型

 0094大和 [II]

 0095武蔵 [III]

 0096 110号艦(→航空母艦信濃)

 0097 111号艦
改大和型:797号艦
超大和型:798号艦 - 799号艦



などなど