【大日本帝国海軍】1戦艦編8超弩級戦艦に類する戦艦(番外編)大和型戦艦(一部未成)その2 | エコノミライ研究所のブログ

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2015年2月16日に設立した任意団体です。
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2、文化の未来
3、社会の未来
を探求して行きます。

ウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「日の本(ひのもと)」が、地球上の人類社会でトップグループを維持するために必要とされた「投資」物件である、戦艦をはじめとする、海上艦艇の歴史を紐解くシリーズを始めさせて戴いています。

 

1945年8月14日をもって無力化された

 

とはいえ、21世紀に入っても、「イージスアショア」計画が頓挫(とんざ)し、再び、イージス艦計画の延長線上に組み込まれることになりそうな現代「日本国」にとっても、参考となる「歴史の勉強」である、と確信いたします。

 

「ミライ」

 

への投資が、<いま>を生きる<ひと>にとって、どのような意味があるのかについて、考える切欠ともなる

 

思索の旅

 

幕末戊辰戦争前後から脈々と受け継がれてきた、「日の本」の海軍戦力に欠かせない、水上艦船についての紹介シリーズであります。

 

紹介する順番としましては、戦艦(巡洋戦艦)を筆頭に、巡洋艦、空母、駆逐艦、等々となります。

 

今回紹介する艦型は、国家を代表する艦船ともいうべき、戦艦で扶桑型に続く超弩級戦艦のうち

 

ワシントン条約失効後、陸奥以来久しぶりに建造される運びとなった

 

大和型戦艦

 

について紹介致します。

 

 
 

 

 

 

(出典:ウィキペディア「大和型戦艦」大和型戦艦 - Wikipedia

 

主砲
45口径46cm3連装砲を艦橋の前に2基、後ろに1基の計3基9門を搭載している。

大和型最大の特徴と言える46cm砲は、海軍の要求や海外の情報から様々な案が検討された。

搭載の経緯
ワシントン海軍軍縮条約で日本戦艦の保有数が対米英比6割に抑えられたため、日本海軍は46cm砲搭載戦艦を建造し、質的対抗を図った。この46cm砲はそれまで最大の戦艦主砲だった41cm砲を凌駕する、世界最大の主砲であった。しかし、機密保持のため「九四式四〇センチ(サンチ)砲」と呼称した。戦中のアメリカは大和型の主砲口径について確証を得ることができず、長門型と同等の40cmを有力視しつつも、46cmの可能性も考慮していた(詳細は後述)。アメリカ側が詳しい口径を知るのは戦後の事であった。

特徴
射程
大和型戦艦が搭載した45口径46cm3連装砲の最大射程は42,026mで、米国の同世代戦艦ノースカロライナ級、サウスダコタ級の搭載する40.6cm45口径砲 Mk.6の射程距離33,740m、40.6cm50口径砲 Mk.7を搭載したアイオワ級の射程距離38,720m、英国のキング・ジョージ5世級が搭載した35.6cm45口径砲の射程距離37,100mなどを上回っていた。ただし、後述するアウトレンジ射撃の項目に書かれている通り、水平線を越える射撃には航空機による観測が必要であった。46cm砲弾は初速780m/秒 (2,808km/h) で発射され、距離20,000m(仰角12.43度、落角16.31度)では522m/秒、30,000m(仰角23.12度、落角31.21度)では475m/秒(時速1,710km/h。音速の1.4倍)で着弾した。主砲を最大仰角45度で発砲した場合、弾丸の高度は距離25km付近で11,900mに達した。砲塔の旋回速度は毎秒2度(3度説もある)、砲の俯仰速度は毎秒10度(8度説もある)とされている。なお、凌波性向上のために、艦首に強いシアーを付けたため、1番砲塔は前方射撃(正面より左右へ各30度)では、仰角5度以下での発砲が行えなかった。砲身は200発の発射で交換することになっていたが、これは砲身そのものではなく、傷ついた内筒のみである[84]。船体の傾斜角度が5度を超えると、砲塔が旋回できなくなったという。

46cm砲に対応した防御を備えた戦艦は他国に存在しないため、通常の戦闘距離で発射された砲弾が命中したなら、いかなる敵戦艦の防御をも貫通し得た。なお、日本海軍は46cm砲命中時の廃艦所要弾数について、大型巡洋艦で4ないし5発、戦艦で9 - 16発と考えていた。

世界最強の艦載砲といわれる46cm砲だが、サマール沖海戦後の戦闘詳報によれば、「主砲の発射弾数は170余発に過ぎず(中略)平素1門あたり4ないし5発の教練射撃でも、故障が絶無なることは希なるを常とする」という状態であった。同詳報はサマール沖海戦について「今回は海戦期間中、一度の小故障も起こさずに使用できた」と記載していることから、信頼性に問題があると認識されていた。信濃の三番砲塔を調査した米軍は「日本独自のもので、英米戦艦より簡略な構造で機能する。作業の安全性と迅速性は作業員の訓練に依存し、全体的に安全に関する過剰な要素が設計に含まれ、非常に重い」「保守管理に大量の潤滑油が必要」と評価している。しかし、戦艦クラスの大口径砲では諸外国でも同様に故障が発生している。たとえば、米アイオワ級戦艦においては、主砲弾の爆発事故が起きており多数の死傷者を出している。また、レイテ沖海戦における10月25日未明のスリガオ海峡海戦では、西村艦隊を迎撃した米第7艦隊の戦艦6隻に様々な故障が生じ、ウェストバージニアと カリフォルニアでは数基の砲塔が射撃不能になっている。イギリスにおいてもビスマルク追撃戦において、各戦艦が頻繁な主砲の故障に悩まされている。

発射速度
46cm主砲の装填速度は29.5 - 30.5秒とされている(下記)。つまり最大仰角45度で発砲した場合は、装填角度の3度から45度に砲身を上げるのに4.2秒、下ろすのにも4.2秒かかるため、次弾発射までに単純合計で37.9 - 38.9秒を要する。これが通説における発射速度40秒/発である。想定戦闘距離である30,000mであれば、砲身の俯仰にかかる時間が減るため、34 - 35秒程度(通説による発射速度1.8発/分である)、20,000mであれば32 - 33秒/発程度で発射可能と考えられる。しかし、遠距離射撃においては着弾観測における修正必要度が高いため、この速度で砲撃を行うわけではない。黛治夫によれば、30,000mで射撃すると、弾着するまで50秒かかる。初弾弾着を観測したのち修正を行い、第一射撃から約1分で第二射撃を行う。同様に砲弾の飛翔と観測・修正を繰り返し、3分後に第三射撃を行う。たとえ30 - 40秒/発で装填が完了していても、弾着の修正を行わないまま撃っては意味がないからである。黛は、大和型が第一命中弾を出すまでに必要な時間は5分と計算した。

大和型戦艦の装填速度29.5 - 30.5秒/発は、ビスマルク級戦艦の26秒/発(仰角4度。ただし、装填角度は2.5度)や米新型戦艦のマニュアルにある30秒/発と大差ない。とはいえ、米戦艦ノースカロライナは訓練により、マニュアルの半分である15秒/発を実戦で記録している(ナウル島への艦砲射撃のケース。だが人身事故の発生もあり、瞬発信管装着の際には特に「安全上の見地から、発射時間を遵守」の旨の指示が砲術長より出されてもいる。また機構的には長門型戦艦も16秒/発で装填することは可能)。こうしたことからも、発射速度は訓練度や戦況で左右される可能性のあるものであり、目安でしかない。

現実に、実戦において各国戦艦はカタログ上最速速度ではなく、1分/発程度で砲撃を行っていることが多い。つまり、通説で語られる「米国のアイオワ級戦艦の射撃速度が30秒/発とされているので、40秒/発の大和型戦艦よりも手数で有利」のように、単純に論じられるものではないが、大戦中にそれだけ使用できなかった事も事実である。下記に主砲の発射に要する時間の一例を列記する。

Firing cycle at +3° elevation

Open breech : 2.0-2.5sec
Move shell loading bogie forward : 3sec
Ram shell : 3sec
Withdraw rammer + return bogie : 5sec
Moving charge cylinder + rammer load position : 3sec
Ram charge : 3sec
Withdraw rammer : 3sec
Return charge cylinder + rammer : 3sec
Close breech : 2sec
Recoil and run-out : 2.5-3sec
Total : 29.5-30.5sec

Elevating speed max : 8°/sec
Training speed max : 2°/sec

砲弾
大和型戦艦を含む当時の日本戦艦・巡洋艦は、対艦用として九一式徹甲弾およびその改良型である一式徹甲弾を、対空用(および対地・対軽装甲艦船用)として零式通常弾および三式通常弾を搭載していた。46cm砲の場合、砲弾全長は九一式が約2m、三式弾が1.6m。砲弾重量は九一式および零式弾が1,460kg、三式弾が1,360kgであった。1門の搭載定数は当初100発、1砲塔300発が考えられたが、実際の設計では1門あたり120発+訓練用砲弾6発に変更された。

九一式徹甲弾は水中弾道を考慮して開発された物だが、適切な砲戦距離が必要であるため実戦で命中した例は少なかった。また弾体強度の不足から、砲弾径の9割以上の厚みがある表面硬化装甲に対し、撃角25度以上で命中した場合に破砕されてしまうという問題があり、大和型戦艦では被帽の取り付け方法を是正している。

一式徹甲弾では、上記の被帽取り付け方法の改善に加え、弾頭部への染料充填を行ったとされている。能村によれば、大和は無色、武蔵は水色、長門は桃色であった。このほかに弾体強度を強化したという説もあるが、定かではない。また染料の充填は、一式徹甲弾以前の砲弾でも広く行われていた。

零式通常弾は榴弾、三式通常弾は榴散弾である。信管はいずれも調停秒時を0秒(瞬発)から55秒まで可変で設定可能な零式時限信管を使用した。炸裂時の危害半径は零式弾の方が大きく、どちらがより有効かについては当時の資料でも意見が分かれている。零式・三式通常弾とも、制式採用は1944年(昭和19年)であったが、1942年(昭和17年)中期以降から、限定的に実戦使用されていた。

大和の主砲弾は、日本各地に数は少ないが保存されており、実物をみることも出来る。清水芳人(大和副砲長)が名古屋市護国神社に奉納したものは、実物とされる。

照準機構
主砲管制射撃の要となる九八式方位盤照準装置(戦艦比叡に先行搭載し、性能を確認したもの)は、艦橋最上部の主砲射撃指揮所(トップと呼ばれた)に設置されている。敵との距離、敵の速度等を測定する測距儀はその下にあり、日本光學製で、艦載用としては世界最大の15.5mの基線長を持ち、一基で三つの距離データが得られ、その平均値がとられた。以上の機器から得られた、基準方位、彼我の距離、双方の速度に加えて、地球の自転速度、風速、気温、湿度、装填される火薬量などの数値を入力して、最終的な敵艦の未来位置に向ける主砲の仰角、方位の修正値を計算する射撃盤(九八式射撃盤改一、一種の機械式アナログコンピュータ)が、船体の装甲内、第一砲塔と第二砲塔のあいだにあった第一発令所に設置されていて、重さは4tあった。九八式射撃盤は射程距離40,000m、敵艦速力40ノット、自艦速力35ノットまで対応していたが、地球の自転に対応する関係から、作戦海面を北緯55度、南緯20度以内(サハリンの北端からニューカレドニア島まで)に限定して調整されていた。砲塔側の方位、仰角の受信は角度通信機(セルシン)で行われ、斉射の引き金は主砲射撃指揮所の方位盤にあった。

九八式方位盤照準装置を設置した主砲射撃指揮所は、後部艦橋として予備が設置されている。ただし後部艦橋の測距儀の基線長は10mである。また、各砲塔にも15.5m測距儀が一基づつ、加えて潜望鏡式照準鏡が設置され、砲塔単独でも射撃ができたが、方位盤を用いた管制射撃より照準に手間がかかり、位置が低いので遠距離は測定できなかった。また、司令塔にも、前部主砲のみに対応した潜望鏡式の簡易な方位盤照準装置が設置されている。

方位盤は防振架台の上にあったが精密機械だけに衝撃には弱く、大和はトラック島沖で、武蔵はレイテ沖海戦で、前檣楼トップの主砲指揮所の射撃盤は、各々一発の魚雷命中の衝撃により、戦闘初期にすでにズレ(大和)、旋回不能(武蔵)となっている。レイテ沖で武蔵と運命を共にした艦長猪口敏平少将(砲術の大家と名高かった)の遺書にも耐衝撃性を上げるよう改善する必要があると記されている。

搭載レーダー
二号一型電波探信儀(二一号電探)
大和は1942年7月に、武蔵は新造時から装備した。
この電探は前部艦橋の測距儀の上に装備された。
大和に搭載されたものは、対水上射撃兼用の性能試験のために仮装備されたものであった。しかし超短波レーダーのため海面クラッター(海面による乱反射ノイズ)が強く、対空見張り用として使用された。武蔵に搭載されたものは量産1号機である。
性能は波長150cm、出力5kW、重量840kgで、航空機編隊を100km、単機を70kmで探知する能力を持っていた。
大和型で特徴的なのは、武蔵で実施され、後に大和でも行われた水上射撃用のセレクタ追加改造である。これは、同電探に使用されていた80ミリのブラウン管に切ってある目盛りを、水上射撃用の縮尺のものと切り替え可能としたもので、当初こそ1000mの誤差を生じたものの、その報告を海軍技術研究所に送った結果、同研究所側も欠陥に気づくという効能をもたらした。最初の砲撃実験では衝撃で故障してしまったが、主砲射撃の振動に耐えるように各部の改造も実施された。調整が進んだ後は、43000 - 35000程度で戦艦を探知可能で、15000mで水柱も見え、当時としては一応実用出来たという


二号二型電波探信儀(二二号電探)
対水上見張り用として、大和は1943年7月、武蔵も同年中に搭載した。
この電探も二一号電探と同じで前部艦橋の測距儀の上に装備された。
二一号電探と同じく水上見張り兼水上射撃の性能試験のためであったが、受信機の作動が不安定であり、空中線の切替装置も不完全であった。1943年7月の大和実験では、戦艦35km、駆逐艦16km、潜望鏡5kmで探知、副砲弾が15000mで着弾した時には水柱も確認している。
その後改良が進み、1944年7月には対水上射撃用電探の代用として使用できる目処が立ったため、急遽捷号作戦に間に合わせるべく、南方泊地で搭載された。
当初、測距精度500m/測角3度の精度だったが、南方泊地で装備された二号二型改3受信機改付では測距精度100m/測角0.5度と性能向上し、遠距離での光学測距儀の精度を上回ることから(大和以外の日本戦艦が装備した10m測距儀は最大誤差1,200m、公誤450m)、光学測距儀と併用の上で対水上射撃にも使用された。
 

一号三型電波探信儀(一三号電探)
対空見張り用として1944年初頭に2基を後檣部に設置した。
性能は波長200cm、出力10kW、最大有効距離は航空機編隊100 - 120km、単機50 - 60km、測距精度2 - 3km(諸説ある)、測角10度、重量110kgであった。


実戦での成果
レイテ沖海戦までは「電探射撃は、距離測定はともかく、方位角測定が当てにならないので、難しい」とされていた。だが、サマール沖海戦後の戦闘詳報では、航空機、もしくは味方水上艦艇の観測補助があるという前提の上で、大和の電測射撃について「主砲の電測射撃は距離20キロ程度にあった目標(護衛空母または駆逐艦)に対して実施、精度良好(方位誤差3度以内)で射撃手段として有効と認められる」との戦訓が出されている。
サマール沖海戦において大和は煙幕越しに電測射撃を行っている(主砲射撃手の村田兵曹長の手記に記載あり)。しかし、村田においても大和においても、初のレーダー単独測距の射撃であり、戦果の確認方法が無かったため、数回の砲撃で攻撃を中止している。砲弾が至近距離に落下したという米側の記載もあり、精度はある程度出ていたという説もある。
 

主砲配置
主砲配置に対して、20種類に及ぶ案が検討された。大別すると

前方集中配置
連装主砲による前後配置
連装主砲2基と3連装主砲2基の混在配置
3連装主砲の前後配置
の4種類である。

前方集中は装甲を集中配置できるため、重量的に有利と考えられた。しかし、実際に検討して見ると分散配置と大差なかった。現実に集中配置を採用したネルソン級戦艦では、前方に重量物が集中したことにより、極端に操縦性が悪化し、艦隊所属のタンカーであるネルソル、ロドルの名前で揶揄されるほどであった。また、ネルソン級では発砲の爆風により、後方射撃時に艦橋など上部構造物にダメージが及んだとの報告があり、主砲射界の問題点もあるため、集中配置は採用されなかった。とはいえ、集中配置を採用したダンケルク級戦艦、リシュリュー級戦艦や利根型重巡洋艦では操艦性や爆風の問題は指摘されておらず、現実に採用された場合、どうなったのかは不明である。なお、連装砲塔は重量バランスに優れていたが、1門ごとの必要重量が3連装砲に劣っていたために採用されず、最終的に3連装3基9門となった。平賀譲は4連装砲塔と連装砲塔など、異種砲塔の組み合わせにこだわっていたという。

大和型の主砲は、散布界対策(3門同時に撃つと中央砲の弾が両側の弾から衝撃波を受けて弾道がぶれる)のため、九八式発砲遅延装置により左右2門発砲した後、一瞬おいて1門が撃つ機構となっている。この機構を最初に採用したのは20センチ連装砲を搭載する青葉型重巡洋艦であり、単装砲搭載の前級の古鷹型よりも散布界が大きくなった事から、砲弾の相互干渉の問題が発見された。ちなみに大和型戦艦の設計に参加した松本喜太郎は、砲支筒の強度について1砲塔あたり2門の同時発射に耐え得る強度であり、2門同時発射された際に反動力が砲塔機構で吸収された後、支筒に作用する力は3,468tと記載している。しかしながら、大和型の主砲設計に参加した大谷豊吉によれば主砲9門同時発射時の反動力は8,000tであり、すなわち2門同時発射時の反動力は約1,800t、3門同時発射時は約2,700tとなり、これらの反動力が砲塔機構で更に吸収されることを考えると、支筒強度上余裕を持って1砲塔あたり3門の同時発射が可能となる。

主砲口径
口径という言葉には砲身の内径と砲身の長さ(口径長)の二つの意味があるが、ここではその両方について触れる。

1918年、日本海軍は八八艦隊第十三号艦型に46cm砲8門を搭載すべく、秘匿名五年式三十六糎砲(19インチ砲/48cm砲)を製造し、試射に成功した。この砲は瀬戸内海倉橋島、亀ヶ崎大砲試射場に残され、戦後米軍が撮影している。このように大和型戦艦以前に46cm砲を搭載する計画は存在した。

1934年2月、海軍省は省内に「軍備制限委員会」を設置し、日本及び米英の砲製造能力を比較検討した。委員会は、どの程度の口径、砲身長を新戦艦に採用すれば良いかを検討し、米英についても条約開けに18インチクラスの砲を搭載した戦艦を建造してくる可能性を考慮していた。制限委員会では藤本喜久雄造船少将が20インチ(内径50.8センチ。日本海軍はメートル法できりのいい数字にするので51センチ)砲3連装砲塔4基、速力30ノット、ディーゼル機関という大戦艦を提案した。また、軍令部の一部にも20インチ砲採用を働きかける動きはあり、反対に量産性を考慮して16インチクラスにとどめる動きもあった。問題は、砲身材料製造上必要な鋼塊(インゴット)の製造技術に難があったことである。当時日本で製造可能なインゴットの大きさは160トンであったが、「軍備制限委員会」が作成した比較表によれば、20インチ50口径砲だと240トンの鋼塊が必要となる。原によれば当時の世界記録でさえ、1931年に米国ミッドベール社が記録した200トンであり、艦政本部第一部としては20インチ砲の製造を極めて困難と判断したと言う。

結果、総合的に勘案して46cm砲搭載に決まったが、パナマ運河の存在も影響を与えている(後述)。この間、過重装備の水雷艇が転覆した友鶴事件が発生して藤本造船少将が失脚し、平賀譲が軍艦設計に関与するようになる。

搭載砲を45口径砲(砲身の長さが内径の45倍)とするか50口径砲(同50倍)とするかでも計画時に議論がされている。一般的には、砲身を長くするほど砲弾の初速は大きくなり射程や貫通力が増すが重量増となる。

原勝洋によれば、用兵側は50口径を希望したが、50口径の砲身製造のために問題となったのはやはりインゴットの製造技術であった。45口径では1門165トンの重量に対して50口径では200トンを超すと見積もられた。また、この重量増加は排水量の増加にも繋がることから45口径で充分と判断されたと言う。

なお、当時の日米新戦艦の主砲貫徹力について別資料からも参考に示す。

大和型の主砲貫徹力
0m 垂直864mm 水平-
20,000m 垂直494mm 水平109mm
30,000m 垂直360mm 水平189mm
ノースカロライナ級・サウスダコタ級の主砲貫徹力
0m 垂直755mm 水平-
4,572m 垂直676mm 水平19mm
9,144m 垂直597mm 水平28mm
13,716m 垂直520mm 水平77mm
18,288m 垂直448mm 水平109mm
22,860m 垂直382mm 水平146mm
27,432m 垂直324mm 水平194mm
32,004m 垂直266mm 水平268mm
アイオワ級の主砲貫徹力
0m 垂直829mm 水平-
4,572m 垂直747mm 水平17mm
9,144m 垂直664mm 水平43mm
13,716m 垂直585mm 水平71mm
18,288m 垂直509mm 水平99mm
22,860m 垂直441mm 水平131mm
27,432m 垂直380mm 水平169mm
32,004m 垂直329mm 水平215mm
36,576m 垂直280mm 水平286mm
38,720m 垂直241mm 水平357mm


爆風対策
戦艦の主砲発砲時のブラスト圧は、甲板上の人間や搭載航空機などに甚大な被害を与えるため、対策が実施された。大和型戦艦の46cm主砲は特に凄まじく、長門型戦艦の毎平方cmあたり3.5kg(砲口から15m離。2門斉射)に対し、毎平方cmあたり7.0kgである。航空機破壊が0.5-0.8kg、人間が意識朦朧となるレベルが1.16だった。実験では航空機が破壊されるほどで、試算の結果、主砲発射の衝撃波は甲板上のどこにいても人体に致命傷を与える圧力と判明した。大和型が艦載艇と艦載機を艦内に収容出来るように格納庫を配置したのはこの為である。計画時より爆風対策で艦載艇と航空機の格納庫を設けた例は、大和型だけである。

実際に武蔵の公試時に、モルモットを入れた籠を複数配置して主砲発射を行ったところ、爆風で半数以上の籠は跡形も無く吹き飛ばされており、残った籠の中のモルモットも爆圧により形を留めぬほどになっているなど、無事であったものはほとんどなかった。従って、主砲発射時には甲板上で体を露出している者(主に増設の機銃及び高角砲の要員)に対して主砲射撃指揮所から操作するブザーを鳴らすことで退避警告をしていた。1回目で甲板乗員は艦内に退避、2回目の長音の鳴り終わりと同時に発砲するという手段を執っていた。ただし、艦橋最上部防空指揮所の監視兵は退避しなかった。「武蔵」の射撃訓練に立ち会った左近允尚敏(海軍大尉、航海士)は、艦橋トップにいて主砲爆風を体感し、帽子を吹き飛ばされるところだったと回想している。また公試運転で主砲爆風実験に立会った兵員は「檻に入れた犬・猿が全部死んだ。ただ主砲が右舷を向いて発砲した時に左舷甲板にいれば平気だった」と述べている。トラック泊地での演習では、爆風に晒される兵は最初に耳に綿をつめ、その上に耳栓をして、さらに飛行帽子をすっぽりかぶって両耳を覆い、鉄兜をかぶって防御した。

爆風楯付き高角砲、機銃
高角砲・機銃には爆風楯が付けられたが、増設機銃・高角砲の一部には施されていない。むき出しの機銃に配置された兵員は、上記のブザーと共に衝撃に弱い機銃の照準器を取り外し、艦内に待避していた。そのため、対空戦闘では主砲発射に伴う要員の待避、爆煙による視界悪化、再配備(これには照準器の取外し、再装着の時間も含まれる)の空白の時間が出来てしまい、隙ができる可能性があった。また艦橋等よりはね出して設置された機銃、射撃指揮装置、探照装置の台座下部も構造支持材むき出しではなく、カバーで整形されているが、これもまた爆風で台座がまくれあげられないようにするためであった。
レイテ湾海戦における武蔵沈没時の戦闘では、戦闘時の騒音と興奮でブザーが聞き落とされ(あるいはブザーを鳴らし忘れ)、機銃員が避退せぬまま主砲が発射されて、死傷者が生じたという目撃証言がある。同海戦では大和でも主砲爆風による負傷者が出た。また沖縄特攻時にも、主砲が艦長の許可を得ずに発射された可能性がある。(詳細は後述)


パナマ運河通航制限について
米国は太平洋と大西洋に挟まれているが、軍艦建造の造船所は大西洋側に集中しており、建造された新造艦は通常はパナマ運河を通って太平洋側に出る。パナマ運河を通航するには艦幅を110フィート(約33m)以内に納めなければならなかった。日本海軍は米国がその制約下で46cm砲搭載艦を建造した場合、9門搭載艦なら最大排水量50,000トン、10門搭載艦なら60,000トンでそれぞれ速力は23ノット、40.6cm砲搭載艦なら50,000トンで33ノットになると試算し、砲力と速力の総合で大和型が優位に立てると判断した。大和型に対応する十分な攻防走能力を与えた場合、運河は通行出来なくなると日本側は想定した。有力な艦船が運河を通行できない場合米海軍は、大西洋からの回航に南米回りの航路を使わざるを得ず、時間的な負荷がかかる。これは日本側に有利に働くと考えられた.



なお、アイオワ級戦艦計画時にも基準排水量45,494トン、全長243.8m、全幅32.9m、45.7cm47口径砲9門、速力27.5ノットの試案が存在し、これが実現した場合は日本側の予測を上回る結果になったはずである。もっとも全幅を32.9mに抑えているため、弾薬庫の必要幅の関係から、特に水中防御については大和型にかなり劣るものと考えられる(要目によれば垂直/水平装甲も制限のない大和型が優位)。 なお実際にはバルジ装着で運河通航を断念したテネシー級戦艦や、運河拡幅を前提に計画されたモンタナ級戦艦(未成)が存在し、米国は当時のパナマ運河通航制限を絶対的なものと考えていた訳ではない。日本外務省も、アメリカが45,000トン級パナマ運河通行不能戦艦を建造する可能性について言及している。松本喜太郎(大和型設計者)は、大和設計着手当時、米国が太平洋と大西洋に別個の有力な艦隊を持つとは想像していなかったと述べている。

副砲
世界最大の副砲。最大射程27,400m、初速920m/s。

運用成績は、散布界も小さく砲の操作性も高く優秀で、砲術関係者からは傑作艦砲と評価された。

配置
60口径15.5cm3連装砲塔を、2番主砲塔後方及び3番主砲塔後方と左右両舷に1基ずつ、計4基12門を装備していた。12門の内、9門を片舷に指向できる配置となっていた。艦隊戦で護衛駆逐艦が敵水雷戦隊に対処しきれない場合や、第三次ソロモン海戦での戦艦ワシントンのように、戦艦が独力で敵水雷戦隊を撃退しなければならぬ場合に備えて設置された。
戦局が航空戦に傾倒するに及んでレイテ沖海戦直前に左右両舷の2・3番副砲塔が撤去され、大和は12.7cm連装高角砲6基に換装された。武蔵は高角砲の搭載工事がレイテ沖海戦までに間に合わず、25mm3連装機銃6基が追加されたと言うのが通説になっている。左右両舷に多連装噴進砲が一基ずつ搭載されたと証言する右舷高角砲指揮装置勤務兵もいる。大和型の艤装改良は幾度も行われているが、最も外観が変化したのはこの左右副砲の撤去前と撤去後といえる。
性能
最上型軽巡洋艦が重巡洋艦に改装された際に撤去された主砲の砲身を再利用し、砲塔は新造している。性能が向上した駆逐艦に対処するために、近代戦艦としてはリシュリュー級、ヴィットリオ・ヴェネト級、ビスマルク級と並び、最大級の口径であった。
当初、戦艦の副砲であるため、その最大仰角は30度にすることとなっていたが、対空射撃を可能とするために、最上型と同じ55度までを可能とした。これに伴い、建造中に射撃装置の改正を行っている。
ただし、大和型戦艦に搭載した15.5cm砲は、仰角75度/毎分7発の発砲(最上型では仰角55度/毎分5発)が可能だったという説も見られる。この15.5cm砲は対空射撃を念頭に置いたもので、最大仰角75度/射撃速度毎分7発で設計されていたからである。これは、当初の砲塔構造図に高角弾用揚弾機が見えることからも、確かである。なお最上型新造時には、砲塔の重量軽減が求められた結果、対空用揚弾筒の装備が取りやめられており、簡易両用砲となっていた。こうしたことから新造時には対空用砲弾も準備されていなかったが、1939年度(昭和14年度)の演習以降、平射砲でも対空射撃を行うこととなり、吹雪型駆逐艦での演習結果から、対空用砲弾として零式通常弾と三式通常弾が開発された。
この15.5cm砲の最上型での実績は「斉発時でも斉射時と同程度に散布界が狭く、射撃指揮も容易だが、内部が狭く、斉発時の射撃維持速度が8インチ砲以下に落ちることがあった。また、機構が脆弱で故障しやすかった」と評価されている。大和型戦艦への搭載時にこうした問題を解消したという可能性はあり、大和型副砲は搭載時に対空見張り用として使用できるよう、砲塔容積を増して、対空揚弾筒や信管秒時調定機の装備、砲塔測距儀の改修が行われていたという説も見られる。実際、レイテ沖海戦後の戦闘詳報で他艦で見られる「砲塔測距儀(もしくは観測窓)の最大見張り可能仰角が足りないため、対空射撃に不適」という指摘は、大和型副砲には見られない。一方、清水芳人(大和副砲長)によれば、艦橋の副砲指揮所の窓が狭く、対空射撃には向いていなかったと回想している。
大和から降ろした副砲は、呉市の南方、阿賀町冠崎の丘上にB-29迎撃用の高角砲として設置された。最上型の試作砲塔との説もある。この砲は呉市大空襲時に、市内の高射方位盤射撃指揮装置が破壊されたため、発砲せずに終戦を迎えているが、この際には最大仰角75度が可能だったとされ、75度で発砲した場合、最大射高18,000mに達したとされている。また他にも、この15.5cm砲は陸上砲台として多数が単装砲に改装され、中には最大仰角60 - 70度の高角砲台とされたものもあった。海軍技術研究所では島田実験所(現在の島田理化工業の前身)にて、マイクロ波により航空機を迎撃するZ兵器の研究を行っていたが、大型のパラボラアンテナを旋回させる台座として、大和から撤去された副砲の旋回部分を流用し工事が進められたが、島田実験所が空襲被害を受けたことで頓挫した。
上記のように対空射撃も可能であり、レイテ沖海戦では、副砲は主砲と共に高角砲の射程外にある敵機編隊に対する長距離対空戦闘用として使用された。1944年(昭和19年)10月24日の対空戦闘では、武蔵の副砲は203発もの対空射撃を行っており、これは同じ日に大和が行った高角砲射撃の頻度を上回るものであった(武蔵の副砲が1門辺り33.8発(203発/6門)、大和の高角砲が1門辺り32.6発(784発/24門)。同海戦で行われた大和型戦艦副砲の対空射撃は、武蔵が上記の通り203発、大和が383発(異説あり)の計586発にも及んでおり、レイテ沖海戦後には対空用砲弾として用いられる零式通常弾の搭載定数が50発から100発に増加されている。
また俯仰・旋回速度にも優れていたため、編隊を分離して攻撃態勢に入った敵航空機に追従できた。このことから、近距離で副砲を対空射撃に使用した結果、その爆風により特設機銃に被害を与えた形跡もある。最上型軽巡時代でも、背負式の2番砲塔を仰角12度以下で発砲すると、1番砲塔内部が破損するので発砲が禁止されているほどの爆圧があった。海戦後の戦訓報告でも、25ミリ単装機銃について「主砲副砲の爆風もあって、装備可能な位置が少ない」とされている。こうしたことから、当時の武蔵搭乗員の回想では「主砲発砲の爆圧で目の前が真っ赤になり」という証言が見られるが、その時実際に発砲していたのは副砲だった可能性もある。


対空兵装
大和型の対空兵装は、最終時においては証拠となる資料が発見されていない。終戦時、大和型に関する資料がほぼ全て焼却されたことによりこのような問題が起きた。大和に関しては、1945年(昭和20年)4月5日に停泊中の姿を米軍偵察機から上空撮影した写真が21世紀初頭に発見され、その解析結果によっては最終時の対空装備が確定する可能性がある。

高角砲
大和型戦艦は主砲発砲時に爆風から兵を守るシールドをつけた四〇口径八九式十二糎七高角砲A1型改三(12.7cm高角砲)を搭載している。1944年(昭和19年)に対空兵装強化が各艦艇に実行されたが、この時、大和型戦艦に対しては副砲全てを撤去し、代わりに12.7cm連装高角砲を合計40基(80門)とする案が研究された。しかし、兵器の準備が不可能なことから、両舷の副砲のみを取り去って高角砲6基12門を増強することになった。この際に爆風避け楯の準備が間に合わず、大和では搭載高角砲の爆風楯を増設高角砲に移している。しかし、武蔵はこれすらも間に合わなかった。
副砲撤去の部分に、大和は12.7cm高角砲を両舷に各3基計6基増設したことが明らかとなっているが、武蔵に関しては工事が間に合わず、25mm3連装機銃を載せたという意見が多い。何も載せなかったという説もある。対空噴射砲弾を2基設置という証言もある。
性能面では、八九式12.7cm高角砲は旋回速度・俯仰速度に時間を要する上に、射撃速度があまり速くなかった。カタログ上では最大毎分14発を発射可能であり(20発発砲したという例も報告されている)、1933年(昭和8年)の『砲術年報』でも「訓練すれば毎分12発で撃てる非常によい砲」と評価されているが、雷撃機の撃退を主眼とした長距離対空砲として設計されたこともあり、最大射撃速度を発揮できるのは仰角30度の状態で、仰角がそれ以上でもそれ以下でも射撃速度は低下した。1939年(昭和14年)に実施された対空演習の実績でも、本砲は1分間に7、8発発射できればよい方であり、信管調定機の誤差が大きいことも問題とされていた。実際に大和の戦訓報告では、砲の射程や威力に不満はないものの「砲が重すぎるため、高速機への対応が不十分」であり「できれば一〇高(秋月型駆逐艦で採用した長10cm高角砲)程度のものを両舷2群ほど増設してほしい」と要望されている。高角砲の弾薬庫は艦中央の主要防御区画内部にあり、電動揚弾筒で高角砲甲板まであげられ、最終的に砲員が受取って担当高角砲まで運び、装填した。
射撃には、対空射撃指揮装置でコントロールされる方式と、各砲が個別に照準・射撃する方式(非常時)の二種類がある。射撃指揮装置の射手が引き金をひくと、準備の出来ている砲が一斉に射撃を行う。武蔵最後の戦闘では、第二次空襲時に右舷高射指揮装置が被弾の衝撃で故障してしまい、以後各砲照準射撃となった。


搭載機銃
大和型戦艦は艦橋両舷に13mm機銃を装備していた。その他、艦全体に単装機銃を配備していたという説があるものの、門数や配置は不明である。「大和」最終段階の機銃装備数は、今のところ、写真解析により判明した「25mm3連装機銃52基(156門)、同単装機銃6基(6門)、13mm連装機銃2基(4門)」というものが有力視されている。
大和型戦艦の主力となった機銃は、九六式二十五粍高角機銃(25mm機銃)である。性能面では、旋回・俯仰が比較的容易で、3連装型でも高速目標の機動に追随して射撃できたとされている。レイテ沖海戦や沖縄戦での戦訓報告でも「敵機に多数の命中弾を与えた」と記載されているが、その一方で「有効射程が 1,500 - 3,000m程度と短く、射撃速度もやや遅いこと」また「小口径のため、敵機に命中した場合の実害が少ないこと」を問題視されている。ただし、これについて撃たれた側の米軍は高く評価している。
機銃群指揮用の九五式射撃指揮装置に関しても、増設されたのは確実だが、数や位置は不明である。爆風除けシールド付の機銃は管制型、覆いがなく砲員が露出する機銃は最初から各砲個別照準タイプである。管制射撃の場合、射撃指揮装置の照準手が敵機を追尾すると、機銃のモーターが自動的に動き、発砲する。砲員は15発装填弾倉(4秒で1ケース消費)を装填し、射撃装置からの回路や電力供給が断たれた場合のみ、個別照準・射撃を行う。
(平間洋一 2003, 「米軍からの高い評価」(「第5章 沖縄特攻作戦」内)P148-149)

航空兵装
大和型は日本戦艦で唯一、建造時より航空機搭載が考慮された艦型である。露天で繋留すると、主砲発射の爆風で確実に破壊されるからである。航空兵装は船体後部に集中していた。まず、第三主砲塔から艦尾にかけての最上甲板の下に、上甲板と中甲板の二層にまたがる飛行機格納庫が設けられている。内部の詳細は不明だが、格納庫内で撮影した集合写真が残っている。大和型はこの格納庫に制限一杯に水上機を搭載した事はなく、対空兵装が強化された後はそれらの乗員の居住区に一部格納庫が充てられた。トラックに赴く際には格納庫に物資を満載して倉庫として使用された。また艦後部外舷側に小型艇の格納庫があり、防水扉で閉じられている。小型艇格納庫は第三主砲塔砲身位置の開口部から、後部艦橋付近まで艦内に延びていた。艦尾に張り出した部分に天井走行クレーンを設置し、小型艇を海面から吊り上げると艦内に引き込む。内火艇とカッターの総搭載定数は不明だが、「内火艇11隻、カッター5隻」という証言や、15m長官艇、内火艇、水雷艇2隻、12mランチ6隻搭載という再現図面がある。

格納庫には両開き式の鉄扉があり、被弾に備えた。艦載機は格納庫を出たあと開口部(レセス)に移動し、大型ジブクレーンで吊り上げられて最上甲板に降ろされる。開口部にエレベーターがあったという説もあるが[150]実際には設置されておらず、開口部左舷側に急角度の階段(ラッタル)があった。搭乗員の推定で、幅10m、横12mあった。岩佐(大和偵察員)は、この開口部への直撃弾が大和の中甲板で直接炸裂して、舵やスクリューを破壊するのではないかと懸念していた。



艦尾甲板には、艦載機発艦の為の呉式二号五型カタパルトが艦尾両舷に1基ずつ、計2基設けられていて、揚収用の大型ジブクレーンも艦尾に1基搭載している。石川島播磨重工製クレーンは、使用加重6トン、最大使用半径20メートル、旋回角度300度、巻き上げ速度(6トン時)15メートル/分の性能を有しており、飛行機の揚収以外にも、物資の積み込み、通船の揚収に使用された。

大和型戦艦の当初計画であるA140では、艦の後部に搭載機格納庫が描かれ、そこには主翼を後方に折りたたんだ6機の航空機が存在する。この航空機は、1930年(昭和5年)の『所要航空機種及性能標準』に「偵察兼攻撃機」として記載されている、水陸互換の艦上攻撃機を水上化した三座水偵(後の九四式水上偵察機)と考えられる。当時、後の零式水上観測機のような複座の専用観測機は試作発注もされていないことから、大和型戦艦の原案では、三座水偵6機搭載を予定していたことは、ほぼ確実である。実際に建造が開始された1937年(昭和12年)には、前年の『航空機種及性能標準』を反映して、搭載機は十試観測機(後の零式水上観測機)に変更されている。

実際に搭載された零式水上観測機は、九五式水上偵察機と同程度の折りたたみ寸法を得られるため、このような問題は起こっていない。ただし零式水上偵察機については、三座であることなどから、機体の折りたたみサイズが大きく、大和型戦艦格納庫への搭載はあまり適していなかったとされている。なお、竣工後の大和に最初に搭載された機材は九五式水上偵察機である。これは第二一航空廠あてに「一号艦用に、至急九五式水上偵察機を2機、12月10日までに組み立てるように」という内容の電文と、その返信が残っているからである。この九五水偵はカタパルトの試験に使われたと考えられる。

また、主力艦(戦艦)搭載の水上観測機と平行して、急降下爆撃も可能な十二試二座水上偵察機の開発が指示された。1937年(昭和12年)3月25日に行われた十二試二座水上偵察機と十二試三座水上偵察機の計画要求審議によれば、水上観測機と二座水上偵察機の機種統合を前提に十二試二座水上偵察機6機を大和型戦艦に搭載できないか、という問答が行われている。ここでは、大和型戦艦の格納庫は(機体の折りたたみサイズが小さい)九四式水上偵察機6機を想定しており、収納庫入口の大きさを大きくすると、爆風の圧力に対する強度の保持が困難なことから、5機までしか搭載できない、という結論が出ている。つまり、大和型戦艦の航空艤装は、九四式水上偵察機、及び零式水上観測機の搭載を基準に計画され、十二試二座水上偵察機搭載を予定して小改修を施したものである。なお、十二試二座水偵は要求性能を満たすことが出来なかった。

搭載機は弾着観測用の零式水上観測機(零観)及び索敵用の零式水上偵察機(零式三座水偵)で、搭載可能機数は計6機(一説には格納庫に5機+露天繋止2機の計7機)とされている。これらは、主砲発砲時の爆風対策のため、全機が艦内に格納できた。6機もしくは7機とされるのは、搭載機材の違いが影響としていると考えられる。機材のサイズとしては、搭載機が零式観測機のみなら、格納庫内に6機、カタパルト上に2機の計8機が搭載できる。レイテ沖海戦では、大和は4機(大和所属2機、長門所属1機、保管機1)、武蔵は5機(武蔵所属2、長門1、保管機2)を搭載していた。大和に戦艦山城の飛行長が乗っており、10月25日未明に大和を発進したという証言もあるが、大和・武蔵が実際に搭載していたのは長門所属機である。沖縄特攻時には、大和は零式水上偵察機1機を残して、残機を降ろしたという。大和最後の水偵は4月7日早朝に艦を発進し、対潜哨戒の後に日本本土へ戻った。

戦争後半には日本側の制空権喪失にともなって、米軍戦闘機に襲われるとひとたまりもない水上偵察機による弾着観測は極めて難しくなった。特に零式水上観測機は、用兵側から「航続距離不足は致命的」と厳しい評価がでている。レイテ沖海戦におけるサマール沖砲撃戦では、大和は零式水上観測機2機を発進させるも、10分たらずで米軍戦闘機に追い払われてしまった。

防御
装甲配置
装甲配置

主甲帯 410-200 VH
横防御隔壁 前部中甲板 340 MNC 下甲板 300 MNC 後部中甲板 340 VH 下甲板 350 VH
水平防御 中甲板 230-200 MNC 最上甲板 50-35 CNC
魚雷防御隔壁 200-50 NVNC-CNC
弾薬庫 甲板平坦部 230-200 MNC 甲板傾斜部 230 MNC 垂直部 270-100 VH 底部 80-50 CNC
司令塔 側面 500-380 VH 上面 200 MNC 床面 75 CNC 交通筒 300 MNC
主砲塔 前盾 660 VH 側面 250 VH 後面 190 NVNC 上面 270 VH 床面 ? バーベット 560-380 MNC
副砲塔 砲盾 25 HT 支筒 25 DS+50 CNC
舵取機室 上面 200 MNC 側面 360-350 VC
煙路 380 MNC


対艦防御思想 (集中式)
大和型戦艦は史上最大の戦艦だが、それでも建造前に中村良三(大将)艦攻本部長から「最小の重量をもって威力最大なる艦船たらしむるには船体、兵器、機関および艤装品の各細部にわたり、容積の縮小と重量の軽減をはかるを要す」と指示されている。技術者の努力と技術的洗練によって世界最大の主砲と防御力を持つわりには小さく作られた艦とされ、福井静夫などの技術者もそれを誇りとしていた。

大和型戦艦の船体主要部は、距離2万-3万mから発射された自艦の46cm砲の砲弾に耐える防御力がある。だが艦全体を重装甲で固めると速力や復原力性能を低下させるため、現実的ではない。従って戦艦は、重装甲で守るバイタルパート(主要防御区画:主砲、火薬庫、発令所、機械室、缶室、発電機、舵取機室、等)と、間接防御で妥協する部分の二つの部分で構成されている。大和型戦艦はバイタルパートを最小化するという集中防御方式で設計されている。これはアメリカのサウスダコタ級やフランスのダンケルク級と同じ設計思想で、横から見たシルエットは前者に、内部構造は後者に似ている。これにより主要防御区画は水線長に対する53%に抑制され、防御の冗長化を回避している。従来日本戦艦は、長門型戦艦63.15%、扶桑型戦艦65.0%、加賀型戦艦55.0%である。主要防御区画の防御力は、砲戦距離2万 - 3万mで自身の46cm砲に耐えうるものとされた。なお防御にあてられた重量と艦の全重量との比較は、大和が34.4(新造)、長門が30.6(新造)であった。

水密区画数は扶桑型戦艦の737区画、長門型戦艦の1,089区画に対し1,147区画と、排水量の増加の割に区画数は増えていないが、これは長門型においては大改装時にダメージコントロールの思想が取り入れられたのに対して、本型は設計時点から検討され、注排水システムも装備したためである(注排水システムについては後述)。また主要防御区画も最小限にまとめられ、そこだけで必要浮力が確保できた。主要防御区画以外がすべて破壊、浸水しても、なお艦舷が水面上を保つということである(リドルド状態も参照)。

装甲鋼鈑
大和型戦艦の船体は、舷側上部は410mmのVH(ヴィッカース非滲炭)甲鉄、舷側下部は50 - 200mmのNVNC(新ヴィッカース非滲炭)甲鉄、甲板は200 - 230mmのMNC(モリブデン含有)甲鉄で覆われていた。また砲塔前楯及びバーベット部は650mmのVH甲鉄(ただし大和型砲塔用の装甲に関与した、佐佐川清元技術大佐は560mmと証言。設計図では、露出バーベット部は560mmVH、艦内部分は490mmVH)、天蓋は270mmである。これは全ての軍艦の中で、最も強固な直接防御である。VH甲鉄は長門型まで用いられてきたクルップ式浸炭(炭和)甲鉄 (KC) にかわって採用されたもので、炭素ではなく窒素を使って甲鉄の表面を硬化させている。浸炭甲鉄より撃力に対して優れているとされ、ヴィッカース式硬化甲鉄の頭文字をとってVHと呼ばれる。なお、VH甲鉄の意味はKCに対して生産性が向上していることにある。

主要防御区画の水平装甲は次のような防御要領となっている。

2トン爆弾:投下高度2,200m以下で耐えること
1.5トン爆弾:投下高度2,600m以下で耐えること
1トン爆弾:投下高度3,400m以下で耐えること
800キロ爆弾:投下高度3,900m以下で耐えること


集合煙突の採用
前述の小型化成功の一因には、煙突を傾斜させて一本にまとめ、艦橋に排気と熱気が影響を与えるのを防いだ集合煙突の採用がある。もっとも、集合煙突は排煙能力が低いため、日本と仏海軍以外はあまり採用されなかった(強制排煙装置を設置すれば補うこともできたが、大和型には強制排煙装置は設置されていない)。


煙路防御
蜂の巣状に180ミリ(諸説あり)の穴をあけた厚さ380ミリの蜂の巣装甲板を煙突内部、装甲甲板の高さに設置することで煙路防御を行った。煙路防御自体は長門型戦艦の世代から行われており、従来型の戦艦でも煙突内部に断片防御格子を設置することで、爆弾は防御されていたが、戦艦主砲弾に対応した蜂の巣装甲の採用は世界初であった。
煙突自体にも、根本部分の一部に50ミリCNCの防御が施されていた。これは艦橋から離すために煙突を後方に傾けたため、ここに被弾する可能性が生じたためである。形状から「亀の子アーマー」と呼ばれた。米ネバダ級戦艦の343ミリ装甲などに対して厚いとは言えなかったが、上述の蜂の巣甲板で機関部への直撃を防いだためである。煙突基部は上甲板の低い位置にあるため、武蔵の事例のように沈没の際に傾斜で浸水が最上甲板に達したさいに、穴が空いた煙突基部から機関部に浸水する危険性があった。
なお、牧野茂は戦後40年以上経過した際にも「日米の甲鉄の耐弾力の優劣は不明」と明記していた[178]。

水中防御
大和型は、水中弾(艦の手前に落ちた砲弾が水中を浅く走り有効弾となるもの)対策には力が入れられていたが、対魚雷防御としては、当時各国海軍、特に米英で採用されていた液層式防御(重油層による防御)を採用していなかった。

日本海軍は他国海軍よりも早くから水中弾の効果を重視していたため、大和型戦艦では水面下深くまで舷側装甲板を伸ばした(既存戦艦も改装時に設置している)。ただし、艦底まで舷側装甲を延長している区画は機関部の60m(全長の22.7%)で、弾火薬庫区画は床面の甲鉄で、爆圧、爆破破片(スプリンター)浸水を防げるものとして、火薬庫床面から艦底までの水中弾防御甲鉄は省略されており、のちに欠点として挙げられている。

(水中弾効果はアメリカ海軍も1935年頃に実験で効果を確認し、これにより戦艦サウスダコタ級以降の米戦艦も水線下に装甲を設置していたが、ノースカロライナ級以前の米戦艦には水中弾防御は無く、英独仏伊の新型戦艦も水中弾に対する防御を持たなかった)

対して魚雷対策の液層防御方式は、日本海軍でも1935年頃には水中防御の模型実験を再開し、効果を確認、藤本喜久雄技師などが採用に積極的になっていたにもかかわらず、大和型では採用されなかった。その経緯として、大和設計者のひとり牧野茂は、軍艦設計の重鎮である平賀譲が大正時代に当時の日米戦艦の模型実験の結果から空層防御の日本戦艦に軍配を挙げ、以降その評価を修正しなかったためだと述べている。

牧野は液層防御方式のメリットを次のように述べている。

魚雷の爆発によって生ずる船体構造材等の破片(スプリンター)は、空層防御では3m付近まで相当の破壊力を持ち、防御板、及び水防隔壁に孔をあけてしまう可能性が大きいが、液層防御ではその威力を大いに減じることができる。(牧野は大和ではこれだけが水中弾防御甲鉄で代用できるのみであるとしている)
防御隔壁に加わる爆圧を拡散、及び均等化する効果がある
(多層化するので)水中防御区画内への浸水量を減少できる
水中防御区画の横隔壁を縦隔壁によって細かく補強強化でき、前後方向への波及が小さくなる。
水線下の防御について大和型は、舷側装甲の支持鋼材の組み方にも問題があった。1943年(昭和18年)12月25日に大和に潜水艦スケート (USS Skate, SS-305) が発射した魚雷1本が右舷後部に命中した際、舷側の41cm厚の装甲帯が爆圧を受けて支持鋼材同士の継手リベットを引きちぎり、ポスト投函口のフタのような動きで内側に押し込まれた。さらに跳ねた支持鋼材の突端がその奥の水防壁に孔をあけ、さらに内部にまで浸水を生じさせた(そのあと装甲帯は元の位置に戻ったため原因がすぐに分からなかった)。その量は、バルジ内区画、バイタルパート(主要防御区画)内部の右舷後部外側機械室、三番主砲上部火薬庫に合計3000トンである。すぐに修理、及び水防壁の追加工事が行われたが(武蔵に関しては補強は行われなかった)、そこが継手であることに変わりはないため根本的な解決までには至っておらず(設計では、継手面に角度をつけていたため、そのクサビ効果で爆圧に耐えられると考えられていた)、戦後の米国調査団は、この部分を「大和型のアキレス腱」と評している。なお、大和型とほぼ同一構造のため問題とされた、米国のサウスダコタ級戦艦とアイオワ級戦艦は改正されたものの、なお不十分とされ、未成となったモンタナ級戦艦ではノースカロライナ級戦艦類似の構造(装甲支持材の継手は装甲の継手と同じ位置にしない)に戻す予定となっていた。ノースカロライナ級戦艦「ノースカロライナ」は1942年9月15日に伊号第一九潜水艦が発射した魚雷1本が命中し、弾薬庫まで浸水。修理に1ヵ月かかったが、威力の大きい酸素魚雷を受けたにもかかわらず、被った浸水量は970tに留まっている。

大和は建造中にいくつかの対魚雷防御の提案があったが却下されている。大和の副長と砲術長を務めたことのある黛治夫は艤装中に、艦前部の無防御部に重油の液層を設け、38mmの縦隔壁で補強を実施するように進言をしたが、呉海軍工廠造船実験部長矢ヶ崎正経造船少将は、6ヶ月の工期延長が必要と見積り、実行不能と判断したと言う。また黛はドイツ巡洋戦艦「ザイドリッツ」の戦訓をふまえて、大和の前部に、スポンジもしくはバルサや桐、標的艦「摂津」で実用された防水区画に石油缶を詰める等、各種浮力材を充填する案を提案したが、これも却下されている。牧野茂は深く研究することなく拒否したことを後に反省し、重量犠牲を払っても検討すべきだったと述べている。

予備浮力
長門型戦艦(改装後)の予備浮力は29,292トンで、排水量の67.6%だったのに対し、大和型戦艦の予備浮力は57,450トンで、基準排水量64,000トンの90%にも及ぶものだった。松本喜太郎は著書の中で予備浮力の大きさから、大和型の沈みにくさを説明している。これによれば、魚雷1本毎に1200トンの予備浮力を喪失したとして、全浮力を喪失するには大和では48本、長門では24本、扶桑では18本を要すると計算された。

ダメージコントロール
大和型には被弾時に於ける浸水や対応として急速注排水区画と通常注排水区画を多く設けた。それぞれの注水区画は前部・中部・後部の注排水管制室で管理され、艦中央部下甲板の注排水指揮所が掌握している。注排水指揮盤を見ながら油圧でコントロールされたバルブを遠隔操作することにより、迅速に注水が実施できた。潜水艦の浮力タンクの注排水システムを大型化したものが採用され、取水孔は艦底に6箇所設置された。排水には蓄圧された圧縮空気が使用された。想定では、潜水艦・水雷戦隊の大型魚雷1本命中に対し5分以内に傾斜復旧、2本目の魚雷命中でも30分以内に復旧というものである。注排水区画の注水可能量は3,832トンで、横傾斜復原能力は18.3度であった。燃料の重油の移動によっても艦の傾斜をコントロールすることができ、双方あわせて片舷への20度近い傾斜を30分以内に復原する能力を持っていた。非常手段として機械室や缶室への注水も可能で傾斜25度まで復原可能だった。 しかし同時期の米戦艦が艦全長の約60パーセントが注排水可能な範囲だったのに対し大和型戦艦の注排水可能な範囲は艦全長のたった22.7パーセントに過ぎずダメージコントロールという分野においては同時期に建造された米戦艦に大幅に劣っていた。もっともこれは大和型戦艦に限らず旧日本海軍の軍艦全般に言える弱点であった。

一方で艦内被弾や、爆弾投下に於ける被弾の復旧や消火に関しては、泡状の消火剤の噴射や、各種消火水に、防火防壁に加え、強制注排水により、弾薬庫の引火を抑えるシステムを設けていた。主砲弾薬庫の底部は3重底になっているので、油圧で遠隔制御される注水弁が設置されていた。副砲弾薬庫は喫水上に配置しているので、ポンプによる天井からの散水システムが設置されていた。


(文字数の関係により、続きは次回に回します。)

<基本情報>

艦種    戦艦
命名基準    旧国名
運用者     大日本帝国海軍
建造期間    1937年 - 1944年
就役期間    1941年 - 1945年
同型艦    大和、武蔵、信濃(空母に設計変更)、111号艦(建造中止)
計画数    4隻
建造数    2隻
前級    十三号型巡洋戦艦
次級    改大和型戦艦及び超大和型戦艦(共に建造中止)
要目 (計画値)
基準排水量    64,000 t
公試排水量    68,200 t
満載排水量    72,800 t
全長    263.40 m
最大幅    38.9 m
吃水    10.4 m (公試状態・平均)
主缶    ロ号艦本式重油専焼水管缶×12基
主機    艦本式タービン×4基
推進器    スクリュープロペラ×4軸
出力    150,000馬力
速力    27ノット (50 km/h)
航続距離    16ノット (29km/h) で 7,200浬 (13,370km)
乗員    約2,500名
兵装    
45口径46cm3連装砲×3基
60口径15.5cm3連装砲×4基
40口径12.7cm連装高角砲×6基
25mm3連装機銃×8基
13mm連装機銃×2基
カタパルト×2基
装甲    
(数値はいずれも最大)

舷側 410 mm
甲鈑 230 mm
主砲防盾 650 mm
搭載機    
(数値はいずれも竣工時)

水上機最大7機
零式水上偵察機
零式観測機 他

 

 

このような感じで、次回も続けます。

 

次回もお楽しみに。

 

エコノミライ研究所

所長 楊田芳樹

 

 

1    黎明期
1.1    軍艦
1.2    運輸船
1.3    その他
2    艦艇
2.1    軍艦
2.1.1    戦艦
2.1.1.1    一等戦艦
2.1.1.2    二等戦艦
☆今回☆2.1.1.3    等級廃止後
2.1.2    巡洋戦艦
2.1.3    航空母艦
2.1.4    巡洋艦
2.1.4.1    等級制定以前(スループ)
2.1.4.2    等級制定以前(コルベット)
2.1.4.3    等級制定以前(巡洋艦)
2.1.4.4    等級制定以前(戦利巡洋艦)
2.1.4.5    等級制定以前(装甲巡洋艦)
2.1.4.6    等級制定以前(防護巡洋艦)
2.1.4.7    一等巡洋艦(装甲巡洋艦)
2.1.4.8    一等巡洋艦(重巡洋艦)
2.1.4.9    二等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.4.10    二等巡洋艦(軽巡洋艦)
2.1.4.11    三等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.5    水上機母艦
2.1.6    水雷母艦
2.1.7    潜水母艦
2.1.8    水雷砲艦
2.1.9    通報艦
2.1.10    敷設艦
2.1.10.1    急設網艦
2.1.11    練習戦艦
2.1.12    練習巡洋艦
2.2    駆逐艦
2.2.1    等級制定以前
2.2.2    一等駆逐艦
2.2.3    二等駆逐艦
2.3    潜水艦
2.3.1    一等潜水艦
2.3.1.1    海大型潜水艦
2.3.1.2    巡潜型潜水艦
2.3.1.3    その他の一等潜水艦
2.3.2    二等潜水艦
2.3.3    三等潜水艦
2.3.4    第一次世界大戦戦利潜水艦
2.3.5    特殊潜航艇・特攻兵器
2.3.6    実験艦・計画艦
2.4    砲艦
2.4.1    河用砲艦
2.5    海防艦
2.5.1    旧定義艦
2.5.1.1    一等海防艦
2.5.1.2    二等海防艦
2.5.1.3    三等海防艦
2.5.1.4    等級廃止後
2.5.2    新定義艦
2.6    輸送艦
2.6.1    一等輸送艦
2.6.2    二等輸送艦
2.7    水雷艇
2.7.1    一等水雷艇
2.7.2    二等水雷艇
2.7.3    三等水雷艇
2.7.4    日清戦争戦利艇
2.7.5    昭和期の水雷艇
2.8    掃海艇
2.9    駆潜艇
2.10    敷設艇
2.10.1    二等敷設艇
2.10.2    三等敷設艇
2.11    哨戒艇
3    特務艦艇
3.1    特務艦
3.1.1    工作艦
3.1.2    運送艦
3.1.2.1    給油艦
3.1.2.2    給炭艦
3.1.2.3    給炭油艦
3.1.2.4    給兵艦
3.1.2.5    給糧艦
3.1.3    砕氷艦
3.1.4    測量艦
3.1.5    標的艦
3.1.6    練習特務艦
3.2    特務艇
3.2.1    掃海特務艇
3.2.2    駆潜特務艇
3.2.3    敷設特務艇
3.2.4    哨戒特務艇
3.2.5    海防艇
3.2.6    電纜敷設艇
3.2.7    潜水艦母艇
3.2.8    魚雷艇
3.2.8.1    試作魚雷艇
3.2.8.2    輸入魚雷艇
3.2.8.3    T-1型
3.2.8.4    甲型魚雷艇
3.2.8.5    乙型魚雷艇
3.2.8.6    隼艇
3.2.8.7    太平洋戦争戦利魚雷艇
4    特設艦艇
4.1    特設軍艦
4.1.1    特設航空母艦
4.1.2    特設水上機母艦
4.1.3    特設航空機運搬艦
4.1.4    特設巡洋艦
4.1.5    特設敷設艦
4.1.6    特設急設網艦
4.1.7    特設潜水母艦
4.1.8    特設水雷母艦
4.1.9    特設掃海母艦
4.1.10    特設砲艦
4.1.10.1    砲艦兼砕氷艦
4.1.10.2    砲艦大
4.1.10.3    砲艦小
4.1.10.4    砲艦兼敷設艦
4.2    特設特務艇
4.2.1    特設捕獲網艇
4.2.2    特設防潜網艇
4.2.3    特設敷設艇
4.2.4    特設駆潜艇
4.2.5    特設掃海艇
4.2.6    特設監視艇
4.2.7    特設工作艦
4.2.8    特設港務艦
4.2.9    特設測量艦
4.2.10    特設電纜敷設船
4.2.11    特設病院船
4.2.12    特設救難船
4.2.13    特設運送艦船
4.2.13.1    給兵船
4.2.13.2    給水船
4.2.13.3    給糧船
4.2.13.4    給炭船
4.2.13.5    給炭油船
4.2.13.6    給油船
4.2.13.7    雑用船
5    雑役船
5.1    工作船
5.2    海洋観測船
5.3    交通船
5.4    救難船兼曳船」

(出典:同上)

 

 

艦艇 (「〇」は紹介済み艦型)
軍艦
戦艦
一等戦艦
〇富士型:

 0053富士 [II](→戦艦→一等海防艦→運送艦→練習特務艦)

 0054 八島
〇敷島型:

 0055敷島(→戦艦→一等海防艦→練習特務艦) 

 0056朝日(→戦艦→一等海防艦→練習特務艦→工作艦) 

 0057初瀬

 0058三笠(→戦艦→一等海防艦→記念艦)
〇日露戦争戦利艦
 0059丹後(←ロシア海軍戦艦ポルタワ / →戦艦→一等海防艦→ロシアへ返還)
 0060相模(←ロシア海軍戦艦ペレスヴェート / →戦艦→一等海防艦→ロシアへ返還) 〇相模型

 0061周防(←ロシア海軍戦艦ポベーダ / →戦艦→一等海防艦→雑役船)〇相模型
 0062肥前(←ロシア海軍戦艦レトヴィザン / →戦艦→一等海防艦)
 0063石見(←ロシア海軍戦艦オリョール / →戦艦→一等海防艦→雑役船)
〇二等戦艦
 0064扶桑 [I](→一等海防艦)
 0065鎮遠(←清国海軍戦艦 鎮遠 / →一等海防艦)〇日清戦争戦利艦
〇日露戦争戦利艦
 0066壱岐 [I](←ロシア海軍戦艦インペラートル・ニコライ1世 / →一等海防艦)

等級廃止後
〇香取型

 0067香取 [I]

 0068鹿島 [I]

〇薩摩型

 0069薩摩

 0070安芸
〇河内型

 0071河内 [II]

 0072摂津 [II]

〇第一次世界大戦戦利艦
 0073トゥルグート・レイス(オスマン帝国海軍戦艦)(割り当てられるも取得せず)
 0074ナッサウ(ドイツ海軍戦艦)(→就役せず。売却・解体)
 0075オルデンブルク(ドイツ海軍戦艦)(→就役せず。売却・解体)

 

巡洋戦艦
※最終時の艦種類別には存在しない。

〇筑波型:

 0076筑波 [II]

 0077生駒 [I]
〇鞍馬型:

 0078鞍馬 [I]

 0079伊吹 [I]
〇金剛型(→全艦戦艦に類別変更)

 0080金剛 [II]

 0081比叡 [II]

 0082榛名

 0083霧島
〇天城型:

 0084天城 [II](→航空母艦→未成) 

 0085赤城 [II](→航空母艦) 

 愛宕 [II](未成) 

 高雄 [III](未成)
〇第8号型(13号型):第8号(13号艦) - 第9号(14号艦) - 第10号(15号艦) - 第11号(16号艦)(全艦計画のみ)

金剛型(←巡洋戦艦):金剛 [II] - 比叡 [II] - 榛名 - 霧島
 

〇扶桑型

 0086扶桑 [II]

 0087山城
〇伊勢型

 0088伊勢

 0089日向
〇長門型

 0090長門

 0091陸奥
〇加賀型

 0092加賀(→航空母艦)

 0093土佐(未成)
〇紀伊型

 紀伊(未起工)

 尾張(未起工)

 第13号(11号艦)(計画のみ)

 第14号(12号艦)(計画のみ)
〇金剛代艦型

 藤本案

 平賀案(計画のみ)
〇大和型

 0094大和 [II]

 0095武蔵 [III]

 0096 110号艦(→航空母艦信濃)

 0097 111号艦
改大和型:797号艦
超大和型:798号艦 - 799号艦



などなど