【大日本帝国海軍】1戦艦編8超弩級戦艦に類する戦艦(番外編)大和型戦艦(一部未成)その1 | エコノミライ研究所のブログ

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を探求して行きます。

ウィキペディアはじめ、様々な文献や記録に残っている、近代国家として歩み始めた「日の本(ひのもと)」が、地球上の人類社会でトップグループを維持するために必要とされた「投資」物件である、戦艦をはじめとする、海上艦艇の歴史を紐解くシリーズを始めさせて戴いています。

 

1945年8月14日をもって無力化された

 

とはいえ、21世紀に入っても、「イージスアショア」計画が頓挫(とんざ)し、再び、イージス艦計画の延長線上に組み込まれることになりそうな現代「日本国」にとっても、参考となる「歴史の勉強」である、と確信いたします。

 

「ミライ」

 

への投資が、<いま>を生きる<ひと>にとって、どのような意味があるのかについて、考える切欠ともなる

 

思索の旅

 

幕末戊辰戦争前後から脈々と受け継がれてきた、「日の本」の海軍戦力に欠かせない、水上艦船についての紹介シリーズであります。

 

紹介する順番としましては、戦艦(巡洋戦艦)を筆頭に、巡洋艦、空母、駆逐艦、等々となります。

 

今回紹介する艦型は、国家を代表する艦船ともいうべき、戦艦で扶桑型に続く超弩級戦艦のうち

 

ワシントン条約失効後、陸奥以来久しぶりに建造される運びとなった

 

大和型戦艦

 

について紹介致します。

 

 
 

 

 

 

(出典:ウィキペディア「大和型戦艦」大和型戦艦 - Wikipedia

 

大和型戦艦(やまとがたせんかん)は、大日本帝国海軍が建造した戦艦。日本で建造された最後の戦艦艦型でもある。戦艦としての排水量、搭載主砲口径ともに世界最大。

1番艦「大和」と2番艦「武蔵」が戦艦として竣工。3番艦「信濃」は対米戦の戦局に合わせて設計変更され航空母艦として竣工した。4番艦111号艦は1942年に建造中止となり解体された。

概要
大日本帝国(以下、日本)はワシントン海軍軍縮条約、ロンドン海軍軍縮条約の延長に応じず、列強各国が海軍力増強を自粛していた海軍休日は終わった。大和型戦艦は艦艇数で勝る米英を質で凌ぐため、第三次海軍軍備補充計画の際に建艦技術の粋を集めて建造された戦艦である。当時欧米諸国はワシントン海軍軍縮条約で規定された35,000t前後の戦艦を建造していたが、これらを凌駕する46cm砲を装備した結果、基準排水量は64,000tとなり、世界最大の戦艦として建造された。「量の不足を卓越せる質で補うより道なし」という発想で開発された戦艦である。1929年に平賀譲が提案した金剛代艦型戦艦の影響が強いとも言われる。1934年に起草された新戦艦要求案では「制空権下の艦隊決戦」で用いられることになっていた。

日本海軍では戦艦に対し日本の旧国名に因んだ名が付けられており、「大和」は奈良県の旧国名(大和)から命名されたが、単に旧国名としてでは無く、「日本」の別称として意味もあったとする説がある。同様の主旨の命名として、建造当初世界最大の戦艦だった扶桑(扶桑は日本の美名)と山城(長く都の置かれた京都府の旧国名)がある。一番艦大和及び二番艦武蔵が大戦中に就役している。

現在でこそ戦艦大和は日本国民に最も知られた軍艦と言っても過言ではないが、太平洋戦争中はその存在自体が最高軍事機密とされたこともあり(海軍関係者には、名前だけはいつの間にか広まっていた)、当時の国民には長門型戦艦の長門と陸奥が海軍の象徴として親しまれていた。その後、史上最大の威容を誇りつつもほとんど活躍の機会なく、悲劇的な最期を迎えた故か、数々の媒体(映画、漫画、アニメや、プラモデルなど)で幅広い年代によく知られるようになっていった。戦後の日本国内での注目度への定量表現を交えた言及は映画、出版物(180冊)、プラモデル、インターネット上での関連ホームページ約13000件、大和ミュージアムなどの数字、関連施設が挙げられている。

建造
1930年代、大日本帝国(以下日本)と欧米列強との対立は深まっていった。1934年(昭和9年)2月8日、連合艦隊司令長官末次信正中将は扶桑型戦艦1番艦「扶桑」を視察した際に『(欧米列強に対し)飛行機の遅れ』『五万トンの戦艦2隻でもつくった方が米国ではパナマ運河にも差しつかへて、競争にならなくてよいかもしれぬ』と発言する。 同時期、1937年(昭和12年)にロンドン海軍軍縮条約の期限が切れ、それに向けてイギリス・アメリカ・フランス・イタリアなどの列強が新たな大型戦艦を建造することが予想された。ヨーロッパでは既に新型戦艦が登場しており、ドイツはポケット戦艦(ドイッチュラント級装甲艦)を、フランスはダンケルク級戦艦を投入している。 アメリカでは、速力26ノット程度の高速戦艦建造の気運があり、軍令部も注目している。 一方、日本海軍の戦艦は旧型の更新艦となるはずであった八八艦隊の加賀型戦艦や紀伊型戦艦などが造られなかったせいで、条約締結の直前にギリギリで完成させた長門型戦艦2隻(長門、陸奥)をのぞけば、軒並み艦齢が20年を越える旧式艦ばかりで、いくら近代化改装を行っても最新鋭のポスト条約型戦艦に対抗するには限界があった。そこで1934年(昭和9年)9月25日、軍令部は新型高速戦艦2隻について、排水量6万5000トン、速力34ノットを想定。この後、速力要求は30ノットに引き下げられた。 続いて10月、列強新戦艦に対抗することを目的に軍令部より艦政本部に向けて「18インチ砲(46cm砲)8門以上、15.5cm三連装4基12門または20cm連装砲4基8門以上、速力30ノット、航続距離18ノット8000マイル」という大型戦艦建造要求が出される。1935年(昭和10年)11月2日には中村良三海軍大将・艦政本部長が新型戦艦の設計方針を具体的に指示した。

これを受けて1936年(昭和11年)12月26日開会の第七〇回帝国議会に新型戦艦「A140-F5(「A」は「戦艦」、「140」は「140番目に計画された」の意味)」2隻分(1隻9800万円)の予算が提出される。ただし予算規模から艦の大きさを諸外国から推定されないよう架空の駆逐艦3隻(1350万円)、架空乙型潜水艦1/2隻(609万円)が計上されており、これらを含めた予算1億1759万円が、実際のA140F5艦予算だった。だが大型水上艦用ディーゼル機関を潜水母艦「大鯨」に先行搭載したところ不具合が多発し、曲折の末に通常の蒸気タービン機関搭載が決定する(計画変更時期は諸説あり)。このため議会開催中にA140F5は主機械を蒸気タービン専用とした第二次基本計画「A140-F6」に切り替わり、1億793万3075円(実費は1億2898万3091円)で建造が承認された。これに加えて、改装中の金剛型戦艦「比叡」や空母「飛龍」の予算を一部利用している。列強は大和型戦艦建造については確信していたものの、その規模を40cm砲搭載、4万5000トンクラスと推定していた。ただしドイツ海軍は1940年の段階で、建造中である2隻の艦名を"Katori"、"Kashima"としつつも「1938年春頃、最初に起工した戦艦は45.7cm砲を搭載した45000トン級の三重底を採用した戦艦である」と、より具体的かつ正確な予想をしていたことが判明している。

1937年(昭和12年)3月29日には計画名「A140-F6」から「第一号艦」「第二号艦」と仮称された。第一号艦=「大和」は同年11月4日に呉海軍工廠で起工、1941年(昭和16年)12月16日に就役。第二号艦=「武蔵」は1938年(昭和13年)3月29日に三菱重工業長崎造船所で起工、1942年(昭和17年)8月5日に就役した。その後、第四次海軍軍備充実計画で新たに同型艦2隻を建造することになり、「第一一〇号艦」「第一一一号艦」と仮称された。第一一〇号艦=「信濃」は1940年(昭和15年)5月4日に横須賀海軍工廠で起工、建造途中に一時建造を中止したが、ミッドウェー海戦で主力空母を一気に4隻失ったことで計画を変更、航空母艦に改装され、1944年(昭和19年)11月19日に就役した。しかしその10日後、残りの艤装を完成させる為に呉海軍工廠へ回航途中、米潜水艦に撃沈された。第一一一号艦は1940年(昭和15年)11月7日に呉海軍工廠で起工したが、1942年(昭和17年)に建造中止、解体された。 このように日本海軍には大和型を次期主力戦艦として整備する思惑があり、四隻、あるいは五隻前後を建造・整備した後、(資料により四隻、五隻と前後する)最終的には改良発展型である超大和型戦艦までを計画していた。

日本側の大和型戦艦建造計画に対し、アメリカはノースカロライナ級戦艦2隻・サウスダコタ級戦艦4隻・アイオワ級戦艦4隻(1940年時点)の建造を開始しており、この動向および各艦の性能は日本側も把握していた。

主要諸元
艦体形状
大和型戦艦の艦型の母体となったのはYourkevitch船型である。艦型試験を繰り返しこれを軍令部の要求した戦艦向きに仕立て上げる事で大和型の艦体が計画された。竜骨下端から最上甲板舷側までの深さは18.965mで、10層の甲板が重なっている[30]。構造は、最上甲板、上甲板、中甲板、下甲板、最下甲板、第一船倉甲板、第二船倉甲板、船倉甲板、艦底(二重底)となっている。牧野茂(大和型設計者の一人)は「大和型戦艦は一見平甲板に見えるが、実質的には最上型重巡洋艦の形状といえなくもない。大和の中央切断面は最上と非常に似ている」と評した。

球状艦首
日本艦艇では翔鶴型航空母艦に次いで球状艦首(バルバス・バウ)を採用した。これは、船体が水を押しのける時の波と球状艦首が作った波が相互干渉して、造波抵抗を減衰させる効果を持つ。これを採用した事で、有効馬力で速力27ノット時で8.2%程度の抵抗を減らし、排水量換算で約300t、水線長で3m艦体を短くする効果を得た。これは、軸馬力に換算すると11,000馬力出力が大きい機関を搭載したのと同じ効果をもたらした。さらに、シャフトブラケットの船体取付角度、ビルジキールの船体取付位置と角度を検討した結果、バルバス・バウの効果と併せて15,820馬力の節約となった。これは排水量に換算すると1,900トンの節約となり、大型駆逐艦1隻の排水量に匹敵した。球状艦首は25mmの甲板の二重構造で、甲板を三次元的に鍛造で曲げる事で一体に作られている。
同時期に設計された翔鶴型航空母艦のものと大きさがかなり異なるが、これは翔鶴型では34ノット、大和型では27ノットで造波抵抗が最小になるよう最適化されているためである。
なお、球状艦首の艦底には、潜水艦対策で水中ソナーが設けられていた。これは30個の水中マイクを長径約4m、短径約3mの長円形に配列したもので、その中には海水が満たされていた。性能としては、大和が全力航行中に主砲射撃試験を行った際に、30,000 - 40,000mで砲弾が水面に衝突した時の音を探知できたという。ただし、艦内各部から発生する騒音により、聞き取りにくくなることも多く、特に主砲塔回転時の水圧機の騒音は妨げになったと言われている。また、この水中聴音機装備により、水線下の艦首部よりの艦底部が「蛇が蛙を飲み込んだような形状」となったことで、最高速力が0.3ノット程度低下したとされている。


主副舵の構成
通常の2枚舵は並行に設置されている。従来の日本戦艦も長門型戦艦に至るまでこの方式である。これではドイツ戦艦ビスマルクのように魚雷1本を被雷しても操舵不能に陥る可能性がある[33]。これを避けるため、当初は舵の1枚を艦首に装備する案(実験結果は不良)もあったが、結局艦の中心線上に前後に15mの間隔を開けて主舵と副舵を設置した。金剛型などでも並列2枚舵の前例はある。原勝洋は、舵の形状が英巡洋戦艦フッドに極似していたと指摘している。
両舵を同時に使用した成績は良好であった。しかし、副舵だけだと一応旋回は可能だが、大和型の惰力は予想以上に大きく、当舵が全く利かないので艦を直進に戻すことができず、操艦は不能であった。艦首部に引き込み式の平衡舵を追加装備する対応策が考えられたが、戦局悪化と検証不足のために工事は行われなかった。海軍技術研究所造船研究部は戦艦用ダブルスケグの研究も行なっていたが、こちらも大和型には装備されなかった。沖縄特攻時には、巨大な応急舵を搭載していた。能村副長によれば、沖縄特攻時の大和は戦闘中に操舵装置が故障したため、舵取機室からの応急操舵に頼っていたという。舵取機室が魚雷命中で全滅すると、大和は左旋回しか出来なくなったとされる。このように通常は電源稼動だが、電源喪失時には蓄電池、人力での操舵も可能である。


運動性能
艦船の基本的な操縦性能は次の3つの観点から評価されることが多い。
追従性:操舵に対する船の回頭の容易さ(タイムラグと考えてよい)
旋回性:定常旋回の円運動が小さい円を描き早く旋回するか
針路安定性:少しの間当て舵をとらなくても舵中央のままで船が直進する「すわりの良い船」か
大和型戦艦は大きな排水量に対し、相対的に短い全長、広い船幅という肥大船型である。旋回性は列強の戦艦中最良の部類に属するが、舵に関する研究が十分でなかった為、追従性に関しては最低レベルであり、肥大船型故に針路安定性も本質的には良い方ではない。「大和型はずんぐりした船体からは想像もつかないほど良好な運動性能を発揮した」というのはもっぱらこの旋回性について述べられた物である。海軍では旋回性能の標準を「旋回直径÷艦の水線長」で現している。この数値には縦と横で若干の違いがあり、横の旋回性能標準は戦艦3、大型巡洋艦4、軽巡洋艦5、駆逐艦6、縦で戦艦3、大型巡洋艦3.5、軽巡洋艦4、駆逐艦4.5とされていた。大和型の旋回性能は、横で2.43、縦で2.23と優れたものだった(一般に、同一排水量の場合、細長い船体のほうが旋回性能は悪化するとされている)。
また、旋回半径自体も他の戦艦より優れていた。大和型の旋回直径は26ノットで横640m、縦589m(横2.43、縦2.23)である。長門型戦艦は横530m、縦631m(横2.36、縦2.81)、金剛型戦艦は横826m、縦871m(横3.7、縦3.91)だから、船体の大きさを考えるなら、非常にコンパクトな旋回性能を持っていた。さらに、旋回時の船体の傾きも大和型9度、長門型10.5度、金剛型11.5度であり、安定性も優れていた。


旋回径(Tactical Diameter)の比較
アイオワ級戦艦
模型:20 kt-760 yd(694.94 m)、33 kt-1430 yd(1,307.59 m)
公試:30 kt-814 yd(744.32 m)
ニューメキシコ級戦艦
左舷15 kt-560 yd、右舷15 kt-650 yd、21 kt-690 yd
コロラド級戦艦
左舷15 kt-695 yd、右舷15 kt-630 yd、左舷20.7 kt-690 yd、右舷20.7 kt-705 yd
ノースカロライナ級戦艦
模型:20 kt-620 yd(566.92 m)、27.5 kt-759 yd(694.02 m)
公試:14.5 kt-575 yd(525.78 m)、27.5 kt-683 yd(624.53 m)
サウスダコタ級戦艦
模型:16 kt-700 yd(640.08 m)、26.5 kt-733 yd(670.25 m)
レキシントン級航空母艦
模型:33 kt-1950 yd(1,783.08 m)
ヨークタウン級航空母艦
30 kt-790 yd(722.37 m)
エセックス級航空母艦
30 kt-765 yd(699.51 m)
ミッドウェイ級航空母艦
30 kt-990 yd(905.25 m)
アラスカ級大型巡洋艦
870 yd(795.52 m)
デモイン級重巡洋艦
模型:20 kt-750 yd(685.8 m)、30 kt-835 yd(763.52 m)
バッグレイ級駆逐艦
30 kt-880 yd(804.67 m)
ベンソン級駆逐艦
30 kt-960 yd(877.82 m)
フレッチャー級駆逐艦
30 kt-950 yd(868.68 m)
アレン・M・サムナー級駆逐艦
30 kt-700 yd(640.08 m)
ネルソン級戦艦
670 yd(614.64 m)
キング・ジョージ5世級戦艦
14.5 kt-930 yd(850.39 m)
ヴァンガード級戦艦
全速力-1025 yd(937.26 m)
回避運動中の大和を上空からとらえた写真をみると、周囲の海面が盛り上がっているのが分かる。巨艦の小回りの効きの良さを裏付ける写真である。マリアナ沖海戦、レイテ沖海戦、呉軍港空襲で大和は米軍機の投下する魚雷、爆弾の多くをかわす事に成功している。
一方で追従性に関しては転舵後に艦首が振れ出すまでの時間が非常に長く、90秒を要した。池田貞枝(武蔵航海長)は100秒と証言している。1943年に大和航海科少尉だった佐藤清夫(後、野分航海長)は一度だけ大和を操艦し「船体が巨大なタライのようで艦首がまわらず、回りはじめると所定の針路に戻せない」と述懐している。また回頭すると速力は急激に落ちる。公試では12ノットで転舵を命令しても艦首が動き始めるまでに約40秒が必要であり、急降下爆撃機や潜水艦魚雷の回避には1分前から転舵する必要があると問題視された。艦型は簡単に変えられない以上、舵の性能に頼るしかないが、舵面積は排水量に比較して相対的に小さく、建造に携わった牧野茂は面積の増大を行わなかった事を悔いている。針路安定性については不明。なお、上記の3要素に港湾などでの取扱い易いさを示した低速での操縦性能や停止性能などの要素を加えて艦船の運動性能は評価される。


最上甲板
最上甲板を真横から見ると、第1主砲塔前を底とするなだらかな波型をしているのが見てとれる(いわゆる「大和坂」)。これは艦上構造物で最も重量のある砲塔の位置を下げ、艦首部に大きなシア(甲板の反り)をつけることで、艦の重心降下と良好な凌波性という相反する性質を上手く両立させるためである。また高い乾舷は予備浮力を多く保持する事に役立った。信濃、111号艦では凌波性を重視してこの反りは緩い物に設計が変えられた。台湾檜をしきつめた木甲板の下に、舷側側35mm、中央部50mmのCNC甲板が張られている。


復原性
友鶴事件、第四艦隊事件の教訓を反映して設計された大和型は復原性、凌波性共に優れていた。スラミングが多発する波長や、大抵の荒波の波長より艦の全長が長い事もあり、強風や荒波での戦闘は特に有利だったと思われる。

檣楼(前部艦橋)
従来の、斜め支柱で支えた柱に櫓を組み合わせた日本戦艦檣楼(パゴダ・マスト)と異なり、46cm主砲の爆風対策もあって完全閉鎖型となった。設計に先んじて、戦艦比叡を改装し、測距儀の位置、構造などを試験し、さらにモックアップ(実物大模型)を作って、必要最小限の大きさにまとめる努力がなされた。前側面部が数箇所えぐられた形状になっているのは、射撃指揮装置や対空火器の視野を広くとるためである。施工に際してはブロック工法が採用され、何分割かされたものを陸上で作り、艤装時に接合した。能村(レイテ沖海戦時、大和砲術長)によれば、従来型日本戦艦艦橋に比べて安定性が劇的に改善され、主砲の発砲でも震動を感じなかったという。
艦橋は中甲板から13階、露天甲板から10階建てである。作戦行動上主要な室は毒ガスにそなえ気密構造になっていた。構造的には中心部の二重の筒で全体を支えている。構造支持の内筒は直径1.5m、20mmDS鋼鉄で、内部には電線や配線が通り、主砲射撃装置を支えている。内筒と外筒の間に階段と三菱製のエレベーターが通っている。3人乗り、または4-5人乗りという説が多いが、終戦時に図面が焼却処分されていることもあり、関係者の証言のみで詳細は不明である。エレベーターは上級士官のみ利用できたが、例外として艦橋横(第二艦橋上方、副砲射撃指揮所後方)の九三式十三粍機銃(13mm連装機銃)の銃弾運搬員と、第一艦橋付近に待機所があった飛行科搭乗員も利用を許されたという証言がある。千早正隆(武蔵艤装員)によれば、長官公室のある中甲板から第一艦橋までを結び、スピードが速い上に増速・減速装置の効果がいま一つで「慣れた者でも一往復すると気分が悪くなる」という性能だった。土肥一夫(連合艦隊参謀)は2人乗りと回想している。1943年「武蔵」に昭和天皇が行幸した際には、古賀峯一連合艦隊長官と天皇が二人きりで艦橋エレベーターに乗り、古賀は若手士官のようにエレベーターを操作したという。
檣楼上部が第一艦橋、檣楼下部に第二艦橋(夜戦艦橋)、その下部に厚さ500mmの装甲で覆われた司令塔がある。司令塔は操舵室、防御指揮所、主砲司令塔射撃所(主砲用旋回方位盤設置)の三区画にわかれている。能村の回想にあるように、戦闘中の副長は防御指揮所にいた。司令塔の上部に第二艦橋があり、内部構造は第一艦橋とかわらない。その上に、副砲射撃指揮所、電探室、伝令兵待機所、艦長休憩室甲板、作戦室の各種部屋と階層があり、第一艦橋に至る。水上戦闘時、艦長や司令官はここで指揮をおこなう。艦橋の特殊ガラスは戦闘中の飛散防止のために降ろすことも可能だった。
檣楼屋上部分には航空機からの攻撃に備えて艦の全周が見える防空指揮所(露天)をもうけ、中央に羅針儀、周囲に20cm双眼望遠鏡が8基備え付けられている。空襲時には、艦長、高射砲長、見張長はここで指揮を執り、伝声管と電話で各艦橋や高角砲射撃盤室と連絡を取った。防空指揮所の高射長付伝令6名は、1人5台もの電話を受け持っていた。檣楼の最上部分には、主砲用の15.5メートル測距儀と、円筒形に主砲射撃指揮所が設置された。
檣楼外周には、信号燈、機銃群を管制する九五式射撃指揮装置、九四式高射装置、哨信儀(赤外線モールス信号通信装置)、探照灯、旗甲板など、各種装置が設置されている。武蔵の艦橋写真からも見てとれる。
檣楼の高さは諸説あり、喫水線から34.3m、頂部まで39m、防空指揮甲板までが39mで主砲射撃指揮所を入れると46m、小林健(主砲射撃指揮所員)による上甲板から射撃指揮所まで50mなどがある。レイテ沖海戦直前、大和左舷に長門が横付けするのを武蔵艦橋から観察していた細谷は、大和の檣楼は長門型戦艦の艦橋(高さ41m)より頭一つ(射撃指揮所、15.5m測距儀)高かったと回想している。
大和型では閉鎖式の筒となっているが、ドイツ海軍ではポケット戦艦「グラーフ・シュペー」のラプラタ沖海戦における戦訓から、一般に戦闘艦橋を開放式となし、グラーフ・シュペーの同型艦「アドミラル・シェーア」などでは改装もしている。一方で、大和型戦艦と同時期のアメリカ新造戦艦もすべて閉鎖式である。砲撃時の安定性向上に貢献した閉鎖式筒状構造だが、悪い方向に働いた例としては、1944年10月24日のシブヤン海海戦における戦艦武蔵がある。午後2時ごろに武蔵艦橋の防空指揮所甲板に250kg爆弾が命中、爆弾は第一戦闘艦橋甲板を貫通し、作戦室を貫通したところで炸裂した。この爆風が第一戦闘艦橋に逆流し、航海長をはじめ37名が即死、人体が第一艦橋内の壁に付着するという惨劇が生じたこの損傷では、武蔵が救助していた高雄型重巡洋艦「摩耶」(前日沈没)の副長と軍医長も戦死している。猪口敏平艦長は防空指揮所甲板で負傷、加藤副長は第二艦橋におり無事だった。
なお、建造当初からの大和と武蔵の識別点が前部檣楼である。大和の外部昇降ラッタル(梯子)は艦橋左舷にあり、旗甲板(信号指揮所入口)から電探測定室を通り、第一艦橋出入り口に通じる。大和はラッタルがさらに防空指揮所へ通じている。武蔵のラッタルは、艦橋右舷に設けられていた。さらに第一艦橋入口に来るとそこでラッタルが終わり、防空指揮所には通じていない。武蔵の防空指揮所へ行くには、第一艦橋内の階段を使わなくてはならない。両艦とも外部昇降ラッタルは下士官兵専用だった。
マストと後部四番副砲塔の間に予備指揮所(後部艦橋)があり、10m測距儀と九八式方位盤照準装置改一が設置されていた。前部艦橋の予備という観点から、副砲射撃指揮所も含めて第一艦橋と同じ機器を備えている。一番・二番主砲塔と三番主砲塔が別の目標を狙う場合には、予備指揮所が三番主砲塔の照準を担当する。煙突とマストの存在から後部警戒が手薄になりがちな前部艦橋防空指揮所の機能を補い、大和型戦艦後方を監視する役目を担っていたという。


機関
タービンは、昭和6年度(1931年)計画の初春型駆逐艦に搭載された、艦本式高低圧タービン(1軸当り21,000馬力)を、長期信頼性向上のため約90%に定格下げし、4軸組み合わせて、12缶搭載で合計150,000馬力としていた。もし出力制限をしていなければ、168,000馬力となるが、これは大和型の過負荷全力時出力とほぼ一致している。
大和型の機関については、当初ディーゼル機関のみという計画案もあったが、ほとんどの案はディーゼル/タービン併用艦として作成された。航続力に対する燃料経済の問題として、併用が望ましいとされていたからである。しかし、剣埼型潜水母艦などに試験的に搭載されたディーゼル機関が、不完全燃焼や異常振動のために度々問題を起こすなど信頼性が低く、最終的に「国運を左右する重大な艦に何かの間違いがあってはならない。機関トラブルで機関換装のため長期間ドック入りするようでは困る」という意見もあり、低圧設定の蒸気タービンとして、信頼性を重視した。万一機関に大問題が発生すると、大和型戦艦のバイタルパート中甲板装甲を撤去して換装しなくてはならないからである。ただし、遠藤昭は大和搭載用ディーゼル機関と同じ機関を搭載した水上機母艦日進が、ガダルカナルの戦いにおいて活躍をしたことを根拠に、平賀譲の私情で廃止に追い込まれたと批判的な推測を行っている。また、オールタービン搭載艦は最初の20万馬力案でも検討されており、タービン=保守的というわけではない。牧野茂は平賀の私情という説を否定している。艦の重心を低くするためには、主砲塔を出来るだけ低い位置に設置する必要があった。第3主砲塔の下側に4本のスクリューシャフトが通っているために、機械室のギアを工夫することによって特に低い位置にシャフトの軸が設定された。


機関配置
推進軸1軸に対して機械室1、缶(ボイラー)3基がセットで割り当てられた。缶・機械はすべて独立した区画に設置され各ボイラーが1基ずつ防水区画を持つという、他に例をみない贅沢な配置をしている。これは一つの罐が損害を被っても、他の罐に損害をあたえないためである。12室の缶室には全て操作室が設置されていた。

機関を4列に並列設置したため大和型戦艦の水中防御区画の横幅自体は、伊勢型戦艦・長門型戦艦の約9m、テネシー級戦艦(改装後)の7mと比較すると5.2mに留まった。

米国のアイオワ級、英国のヴァンガードなどは推進軸4軸のうち内側と外側の各2軸に対応する機関室とタービンを各々前後に分離するシフト配置を採用し、大被害を受けた時にも航海能力を失わないように配慮されている。

そのため少し間を置いた直立二本煙突を有し、その周囲に艦上構造物が積み上げられており、視認性、被弾率、小型軽量化という点では一歩譲る(シフト配置はその性質上、艦の全長が長くなりやすい)。

アイオワ級に至ってはエンジンルームだけで全長の1/2を超える長さとなっている。

なお、未成に終わったモンタナ級の機関配置はアイオワ級と異なり前部機械室と補機室の両舷に罐室を並べるものであり、この配置は細分化した罐室で機械室を挟む形となることから艦幅が増えるものの、防御区画や罐室が損傷しても浸水量を抑えられ機械室が被害を受けにくい配置としてミッドウェイ級航空母艦で採用された。
大和型に関わった海軍造船官の一人である牧野茂は、「大和の弾火薬庫甲鉄配置や機関室配置の考え方が多分に重巡に範を取った観があり、美点も欠点も引き継いだように見られる」「特に機関室を1機1室1ボイラー1室としたことは、被害極限の思想で考えると、非対称区画の被雷浸水時に極めて危険であることに留意が欠けていた」と述懐している。
ただし、4列の並列配置によって内側の機関室はきわめて破壊され難かった。魚雷20本、急降下爆弾10発以上を受けた武蔵においても、中央の2つの機械室には浸水は無くコロン湾への退避行動を行えた(運転できたのは1軸のみ。第二機械室は蒸気管破損のため、機械室に人間が入れない状態になった。残る第三機械室は沈没直前に浸水拡大のために停止)。

大和においても、片舷の機関室は傾斜復旧のために注水、反対側外側の機関室は魚雷によって浸水したが、その内側の機械室は、転覆時にもまだスクリューは回っていた。航行能力を末期まで残したのは、4列にした機関配置と集中防御によるところが大きい。また5.2mの水中防御区画には、他艦には無い50 - 200mmのNVNC甲鉄の厚みの装甲板が艦底まで延びて設置されており、外側の機関室やボイラー室も魚雷の直撃を受けても、一発では浸水に至らなかったケースもあり、他の艦と比較して決して脆弱とは言えない。
機械室は、前後方向にややシフトされて配置され、内側の第二機械室・第三機械室の後部に復水機室が設置され、4つの機械室を経由した蒸気が集められ艦底から取水された海水で冷却される構造となっていた。外側の第一機械室・第四機械室の前部には水圧器室が設けられていた。機械室には高圧タービン・低圧タービン各2基が、向かい合わせに配置されていた。


スクリュープロペラ
大和・武蔵はマンガン青銅鋳物、直径5m、重量21.7t、三枚翼のものを4基装備していた。出力最大時には一分間に230回転(毎秒4回転)する。一般的な船舶同様、大和型戦艦でも右舷プロペラは右回り、左舷プロペラは左回りである。信濃以降については直径5.1mに拡大されピッチも変更された。


燃料搭載量
大和型は、16ノットで7200浬の航続力を持つように計画されたが、基準速力公試の結果から、満載燃料6,300トン(英トン 日本で多く使われるメートルトンでは6,401トン)の状態では16ノットで11,000浬以上の航続力を持つと計算された(19.2ノットで8,221浬、全速27ノットでは2,956浬というデータもある)。
大和型は、公試基準速力15.91ノットの状態で毎時重油消費量7.71トンの性能を有している。満載重油庫量は前述の通り6,300.14トンだが、庫内の燃料全てを使うことは構造上できないため、実際に使える燃料は算定標準重油庫量で定められた、5,985.133トンである。この5,985.133トンを毎時重油消費量7.71トンで割った、航続可能時間は776.2時間。これに公試基準速力15.91ノットをかけた航続力は12,350浬となる。これが16ノットで11,000浬以上という数値の内訳である。
つまり、設計上求められた航続力を満たすには、4,200トンの搭載燃料で充分ということが判明したのである(事実なら沖縄特攻時の大和は4,000トンの燃料を搭載していたため、ほぼ“満載”だったということになる)。これは、万が一航続力に不足が生じては大問題という判断から、艦艇基本設計責任者である福田技術大佐の知らぬところで、機関設計者の首脳陣が「余裕」を持たせた結果であった。この結果、艦が必要以上に大きくなった。松本喜太郎によれば、過剰な航続力については、これを予備浮力の増大、副砲防御強化の代償重量とする対応が取られ、燃料搭載量の減少が図られた上、影響の少ないものについては重油庫配置の変更も実施した。

(文字数の関係により、主砲などの記述は次回に回します。)

<基本情報>

艦種    戦艦
命名基準    旧国名
運用者     大日本帝国海軍
建造期間    1937年 - 1944年
就役期間    1941年 - 1945年
同型艦    大和、武蔵、信濃(空母に設計変更)、111号艦(建造中止)
計画数    4隻
建造数    2隻
前級    十三号型巡洋戦艦
次級    改大和型戦艦及び超大和型戦艦(共に建造中止)
要目 (計画値)
基準排水量    64,000 t
公試排水量    68,200 t
満載排水量    72,800 t
全長    263.40 m
最大幅    38.9 m
吃水    10.4 m (公試状態・平均)
主缶    ロ号艦本式重油専焼水管缶×12基
主機    艦本式タービン×4基
推進器    スクリュープロペラ×4軸
出力    150,000馬力
速力    27ノット (50 km/h)
航続距離    16ノット (29km/h) で 7,200浬 (13,370km)
乗員    約2,500名
兵装    
45口径46cm3連装砲×3基
60口径15.5cm3連装砲×4基
40口径12.7cm連装高角砲×6基
25mm3連装機銃×8基
13mm連装機銃×2基
カタパルト×2基
装甲    
(数値はいずれも最大)

舷側 410 mm
甲鈑 230 mm
主砲防盾 650 mm
搭載機    
(数値はいずれも竣工時)

水上機最大7機
零式水上偵察機
零式観測機 他

 

 

このような感じで、次回も続けます。

 

次回もお楽しみに。

 

エコノミライ研究所

所長 楊田芳樹

 

 

1    黎明期
1.1    軍艦
1.2    運輸船
1.3    その他
2    艦艇
2.1    軍艦
2.1.1    戦艦
2.1.1.1    一等戦艦
2.1.1.2    二等戦艦
☆今回☆2.1.1.3    等級廃止後
2.1.2    巡洋戦艦
2.1.3    航空母艦
2.1.4    巡洋艦
2.1.4.1    等級制定以前(スループ)
2.1.4.2    等級制定以前(コルベット)
2.1.4.3    等級制定以前(巡洋艦)
2.1.4.4    等級制定以前(戦利巡洋艦)
2.1.4.5    等級制定以前(装甲巡洋艦)
2.1.4.6    等級制定以前(防護巡洋艦)
2.1.4.7    一等巡洋艦(装甲巡洋艦)
2.1.4.8    一等巡洋艦(重巡洋艦)
2.1.4.9    二等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.4.10    二等巡洋艦(軽巡洋艦)
2.1.4.11    三等巡洋艦(防護巡洋艦)
2.1.5    水上機母艦
2.1.6    水雷母艦
2.1.7    潜水母艦
2.1.8    水雷砲艦
2.1.9    通報艦
2.1.10    敷設艦
2.1.10.1    急設網艦
2.1.11    練習戦艦
2.1.12    練習巡洋艦
2.2    駆逐艦
2.2.1    等級制定以前
2.2.2    一等駆逐艦
2.2.3    二等駆逐艦
2.3    潜水艦
2.3.1    一等潜水艦
2.3.1.1    海大型潜水艦
2.3.1.2    巡潜型潜水艦
2.3.1.3    その他の一等潜水艦
2.3.2    二等潜水艦
2.3.3    三等潜水艦
2.3.4    第一次世界大戦戦利潜水艦
2.3.5    特殊潜航艇・特攻兵器
2.3.6    実験艦・計画艦
2.4    砲艦
2.4.1    河用砲艦
2.5    海防艦
2.5.1    旧定義艦
2.5.1.1    一等海防艦
2.5.1.2    二等海防艦
2.5.1.3    三等海防艦
2.5.1.4    等級廃止後
2.5.2    新定義艦
2.6    輸送艦
2.6.1    一等輸送艦
2.6.2    二等輸送艦
2.7    水雷艇
2.7.1    一等水雷艇
2.7.2    二等水雷艇
2.7.3    三等水雷艇
2.7.4    日清戦争戦利艇
2.7.5    昭和期の水雷艇
2.8    掃海艇
2.9    駆潜艇
2.10    敷設艇
2.10.1    二等敷設艇
2.10.2    三等敷設艇
2.11    哨戒艇
3    特務艦艇
3.1    特務艦
3.1.1    工作艦
3.1.2    運送艦
3.1.2.1    給油艦
3.1.2.2    給炭艦
3.1.2.3    給炭油艦
3.1.2.4    給兵艦
3.1.2.5    給糧艦
3.1.3    砕氷艦
3.1.4    測量艦
3.1.5    標的艦
3.1.6    練習特務艦
3.2    特務艇
3.2.1    掃海特務艇
3.2.2    駆潜特務艇
3.2.3    敷設特務艇
3.2.4    哨戒特務艇
3.2.5    海防艇
3.2.6    電纜敷設艇
3.2.7    潜水艦母艇
3.2.8    魚雷艇
3.2.8.1    試作魚雷艇
3.2.8.2    輸入魚雷艇
3.2.8.3    T-1型
3.2.8.4    甲型魚雷艇
3.2.8.5    乙型魚雷艇
3.2.8.6    隼艇
3.2.8.7    太平洋戦争戦利魚雷艇
4    特設艦艇
4.1    特設軍艦
4.1.1    特設航空母艦
4.1.2    特設水上機母艦
4.1.3    特設航空機運搬艦
4.1.4    特設巡洋艦
4.1.5    特設敷設艦
4.1.6    特設急設網艦
4.1.7    特設潜水母艦
4.1.8    特設水雷母艦
4.1.9    特設掃海母艦
4.1.10    特設砲艦
4.1.10.1    砲艦兼砕氷艦
4.1.10.2    砲艦大
4.1.10.3    砲艦小
4.1.10.4    砲艦兼敷設艦
4.2    特設特務艇
4.2.1    特設捕獲網艇
4.2.2    特設防潜網艇
4.2.3    特設敷設艇
4.2.4    特設駆潜艇
4.2.5    特設掃海艇
4.2.6    特設監視艇
4.2.7    特設工作艦
4.2.8    特設港務艦
4.2.9    特設測量艦
4.2.10    特設電纜敷設船
4.2.11    特設病院船
4.2.12    特設救難船
4.2.13    特設運送艦船
4.2.13.1    給兵船
4.2.13.2    給水船
4.2.13.3    給糧船
4.2.13.4    給炭船
4.2.13.5    給炭油船
4.2.13.6    給油船
4.2.13.7    雑用船
5    雑役船
5.1    工作船
5.2    海洋観測船
5.3    交通船
5.4    救難船兼曳船」

(出典:同上)

 

 

艦艇 (「〇」は紹介済み艦型)
軍艦
戦艦
一等戦艦
〇富士型:

 0053富士 [II](→戦艦→一等海防艦→運送艦→練習特務艦)

 0054 八島
〇敷島型:

 0055敷島(→戦艦→一等海防艦→練習特務艦) 

 0056朝日(→戦艦→一等海防艦→練習特務艦→工作艦) 

 0057初瀬

 0058三笠(→戦艦→一等海防艦→記念艦)
〇日露戦争戦利艦
 0059丹後(←ロシア海軍戦艦ポルタワ / →戦艦→一等海防艦→ロシアへ返還)
 0060相模(←ロシア海軍戦艦ペレスヴェート / →戦艦→一等海防艦→ロシアへ返還) 〇相模型

 0061周防(←ロシア海軍戦艦ポベーダ / →戦艦→一等海防艦→雑役船)〇相模型
 0062肥前(←ロシア海軍戦艦レトヴィザン / →戦艦→一等海防艦)
 0063石見(←ロシア海軍戦艦オリョール / →戦艦→一等海防艦→雑役船)
〇二等戦艦
 0064扶桑 [I](→一等海防艦)
 0065鎮遠(←清国海軍戦艦 鎮遠 / →一等海防艦)〇日清戦争戦利艦
〇日露戦争戦利艦
 0066壱岐 [I](←ロシア海軍戦艦インペラートル・ニコライ1世 / →一等海防艦)

等級廃止後
〇香取型

 0067香取 [I]

 0068鹿島 [I]

〇薩摩型

 0069薩摩

 0070安芸
〇河内型

 0071河内 [II]

 0072摂津 [II]

〇第一次世界大戦戦利艦
 0073トゥルグート・レイス(オスマン帝国海軍戦艦)(割り当てられるも取得せず)
 0074ナッサウ(ドイツ海軍戦艦)(→就役せず。売却・解体)
 0075オルデンブルク(ドイツ海軍戦艦)(→就役せず。売却・解体)

 

巡洋戦艦
※最終時の艦種類別には存在しない。

〇筑波型:

 0076筑波 [II]

 0077生駒 [I]
〇鞍馬型:

 0078鞍馬 [I]

 0079伊吹 [I]
〇金剛型(→全艦戦艦に類別変更)

 0080金剛 [II]

 0081比叡 [II]

 0082榛名

 0083霧島
〇天城型:

 0084天城 [II](→航空母艦→未成) 

 0085赤城 [II](→航空母艦) 

 愛宕 [II](未成) 

 高雄 [III](未成)
〇第8号型(13号型):第8号(13号艦) - 第9号(14号艦) - 第10号(15号艦) - 第11号(16号艦)(全艦計画のみ)

金剛型(←巡洋戦艦):金剛 [II] - 比叡 [II] - 榛名 - 霧島
 

〇扶桑型

 0086扶桑 [II]

 0087山城
〇伊勢型

 0088伊勢

 0089日向
〇長門型

 0090長門

 0091陸奥
〇加賀型

 0092加賀(→航空母艦)

 0093土佐(未成)
〇紀伊型

 紀伊(未起工)

 尾張(未起工)

 第13号(11号艦)(計画のみ)

 第14号(12号艦)(計画のみ)
〇金剛代艦型

 藤本案

 平賀案(計画のみ)
〇大和型

 0094大和 [II]

 0095武蔵 [III]

 0096 110号艦(→航空母艦信濃)

 0097 111号艦
改大和型:797号艦
超大和型:798号艦 - 799号艦



などなど