いつもエコノミライ研究所のブログをご覧下さり、誠に有難うございます。
AUSTIN_HEALEY_100-4_BN2_1956
AUSTIN_HEALEY_100 BN/1_1954
MG-A_1958
MG-A_1957
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エコノミライ研究所では
クルマの歴史
へのクローズアップに対しても注力していますので、
従来型内燃機関エンジン推進車両
への知識習得と理解を深めることも、大変重要なミッションだと考えています。
そこで
エコノミライ研究所では
兼ねてより、地元岡山県内で約10年も継続中の
ベッキオバンビーノ
の紹介をさせて戴いています。
先回までで、1日目ゴール地点である瀬戸内児島ホテルと
2日目1箇所目のチェックポイントである倉敷美観地区での雰囲気をお届け致しました。
ベッキオバンビーノ2021年春バージョンのコースは、
岡山市のプラザホテル前駐車場をスタート地点に
赤磐市エリアまで東進、そこから津山エリアへ北上して
院庄ICより中国自動車道、落合JCTから米子自動車道を経て蒜山エリアまで行き、
新庄村から国道181号線で新見エリアまで南下し、
180号線にて高梁市エリアを南下して
賀陽ICにて岡山自動車道、岡山JCTから山陽自動車道、
倉敷JCTから山陽自動車道早島支線、早島ICから瀬戸中央自動車道で児島ICを降り
1泊目の宿泊地、瀬戸内児島ホテル前駐車場でゴール
という内容でした。
(公式HPCOURSE&SCHEDULE | Vecchio Bambino | Charity Classic Car Rally参照)
「開催趣旨
大会名称のVecchio Bambino (ベッキオ・バンビーノ)とは、
イタリア語で子どもの心を持ち続ける大人・永遠の少年を意味します。
岡山県内各地を舞台とした日本最大規模のクラシックカーラリー。訪れる地域の方との観光交流と賑わいの創出、震災復興支援・交通事故遺児の就学支援を目的としたイベントとして開催9年目の秋を迎えます。全国各地から集った参加者が訪れる岡山県内の各地域の皆さんとの触れ合いの中で双方が心から楽しんでいただける心のこもった観光交流イベントとなり、大人たちがルールを守り力いっぱい遊ぶ姿が子どもたちのお手本となるように努力してまいります。
イベントを通じ、テレビ・新聞・インターネット・自動車雑誌などのメディアを用いた地域観光資源情報発信イベントとして訪れる地域の皆様のお役にたてるよう、また例年通り積極的なチャリティ活動を綿密な計画のもと運営を行っております。」
(公式HP「開催概要」開催概要 | Vecchio Bambino | Charity Classic Car Rallyより)
また、一夜明けた
令和3(2021)年4月4日(日)午前9時にスタートするチェックポイントである
倉敷美観地区の模様も撮影致しました。
大会2日目のコースは
宿泊地瀬戸内児島ホテルのお隣り
鷲羽山ハイランドから
倉敷美観地区まで移動
玉島ハーバーアイランドから旧玉島市街中心地を抜けて
岡山県民には御馴染みの海水浴場である沙美海岸から
「生きている化石」カブトガニで有名な笠岡はカブトガニ博物館まで到達しますと
笠岡市街地を抜けて北上
宿場町として有名な矢掛町へ向かい
完成したばかりの道の駅「山陽道かやげ宿」と
矢掛本陣のある旧道を道中最後のチェックポイントとして
一気にグランドスタート地点である岡山プラザホテルまで戻る
という行程でありました。
先回より
参加車両の1台ごとの個別紹介を続けています。
(公式HPENTRY LIST | Vecchio Bambino | Charity Classic Car Rally参照)
ゼッケン番号順で、楊田が撮影に成功していた順番にて、紹介させて戴きます。
紹介する情報は、いつものウィキ検索ですけれども、
このような機会でなければ、読み解くことが有りませんので、
此処に、文書を残すものであります。
また、個別に独自の情報を仕入れることができたときは、出来る限り、付言したいとも思っています。
今回紹介するのは
ゼッケン番号 20 AUSTIN_HEALEY_100-4_BN2_(1956年) であります。
今回は、日本語ウィキ、ありました。
(出典:ウィキペディア「オースチン・ヒーリー100」(日本語)オースチン・ヒーリー100 - Wikipedia)
「オースチン・ヒーリー100は、1953年から1956年の間に、ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)により製造されたスポーツカーである。日本ではヒーレーと表記、発音されることも多い。
「100」(ハンドレッド)は後に「ビッグ・ヒーリー」と呼ばれることとなる3タイプ中の最初のモデルにあたる。後継の「100-6」(ハンドレッド・シックス)は、寸法、外観、メカニズムの点で「100」よりも最終型の「3000」と多くの共通点を持った別モデルである。」
(出典:ウィキペディア「オースチン・ヒーリー100」(日本語)オースチン・ヒーリー100 - Wikipedia)
「この車は、ドナルド・ヒーリーにより、ウォリックにあった彼の小さな会社において、オースチンA90アトランティック(Austin Atlantic 英語版)のメカニズムを元にして開発された。
ヒーリーは1952年のロンドンモーターショーに向け1台のヒーリー100を製作。そのデザインはオースチンの社長であったレナード・ロードに大きな感銘を与え、オースチンのロングブリッジ工場で量産される契約がヒーリーとの間に結ばれ、その車は「オースチン・ヒーリー100」と改名された。
「100」という名は、ドナルド・ヒーリーが名付けたものだが、これはこの時代にはほとんど存在しなかった、100 mph(時速100マイル) を達成できる車両であることに由来する。
それに対し、後継である「オースチン・ヒーリー3000」の名は、搭載していた直列6気筒の 3,000 cc エンジンに由来している。」
(出典:同上)
「オースチン・ヒーリー100の生産は、オースチンのロングブリッジ工場においてA90のラインの隣で行われ、ベースとなったA90のシャーシに、ウェスト・ブロムウィッチにあったジェンセンにて製作、塗装がされたボディを載せて仕上げられた。以前この両社は、オースチンA40スポーツの開発計画を共同で進めていた。
最初の100(シリーズBN1)は、A90と同じ90 hp(67 kW )のエンジンとマニュアルトランスミッションを装備していたが、トランスミッションは3速ユニットに、2速と3速にオーバードライブを持つようモディファイされている。2,660 cc の水冷直列4気筒エンジンは、アンダースクエアとなる87.3 mm のボアと111.1 mm のストロークが特徴である。
足回りは、ガーリング11インチ(279.4 mm )ドラムブレーキが4輪に装着され、フロントサスペンションはコイルスプリングを使った独立懸架、リアは半楕円リーフスプリングのリジッドアクスルを採用。ステアリングはカム・レバー式である。
生産は1953年10月に始まり、1955年半ばにBN2モデルへ変わった。BN1とBN2との違いは、僅かに大きなフロントホイールアーチ、リアアクスル、BN1にはオプションで2トーン塗装があったことである。100で選べた色には、リノレッド、スプルースグリーン、ヒーリーブルー、フロリダグリーン、オールドイングリッシュホワイト、プリムローズイエロー、黒、そして限定のガンメタルグレーがあった。」
(出典:同上)
「1953年、ドナルド・ヒーリー モーターカンパニーはワークス体制で2台の100をル・マン24時間レースに出場させ、総合12位、14位を獲得した。
それに合わせて110 hp(82 kW)を発揮する高性能モデルの100Mが開発され、640台限定で作られた。「M」はル・マン(Le Mans)意味する。
100Mはフロントサスペンションが強化され、ボンネットには革製のボンネットベルトと共に排熱用のルーバーが加えられた。
エンジンは、キャブレターへのエアフローを増やすためのコールドエアボックスが、より口径の大きな1-3/4SUキャブと共に装着されている。
もう一つの限定車として、50台が市販されたアルミボディと132 hp(98 kW)エンジンを持つ100Sがある。
鋳鉄シリンダーヘッドはアルミヘッドに換装され、オーバードライブユニットが外されていた。
そしてダンロップ製のディスクブレーキを前後に装着している。
車重を最低限にするため、バンパーあるいはフード(コンバーチブルトップ)がなく、フロントグリルは小さな物を使い、ウインドシールドスクリーンはプラスチック製の物に改められた。
この100Sは、前後にスポーツディスクブレーキを備えた、世界初の市販車でもあった。軽量化の結果、重量は標準車より91 kg 軽くなっている。
大多数の100Sは白に青のサイドを持つ2トーンカラーだった。
しかし、少量がスプルースグリーン、リノレッドでオーダーされ、また1台のみ全て黒の100Sがある。
この他にドナルド・ヒーリー・モーターカンパニーでハンドメイドによるワークスカーが5台製作された。
これらの直列4気筒モデルは全てホイールベース90インチの2シーターである。」
(出典:同上)
「オースチン」というメーカー名についてもその歴史的経緯について、読み解いてみましょう。
「1952年、イギリスの大手2大自動車製造会社 Austin Motors(オースチン・モータース)と Nuffield Organization(ナッフィールド・オーガナイゼイション)グループが合併し、前者の Austin(オースチン)ブランド、後者の Morris(モーリス)、MG、Wolseley(ウーズレー)、Riley(ライレー)のブランドを所有するイギリス最大の自動車メーカーとなった。
国内資本の自動車メーカーによる歴史的大合同が行われた背景は、第二次世界大戦後、イギリス・フォード、ボクスホールに代表されるアメリカ資本の自動車メーカーが伸長し、産業防衛上、合併によって体質を強化する事が必要と考えられたことによる。
実際、BMCに次ぐイギリス国内資本の自動車メーカーであったルーツ・グループは、1960年代に入ってからアメリカのクライスラーによる経営乗っ取りに遭っている。
比較的安価な Morris Minor(マイナー)から、中級スポーツカーの MG TF、高級スポーツカーの Austin Healey100 (オースチン・ヒーリー)、高級車の Wolseley、Riley までも生産した。
一方で生産の合理化が図られ、オースチン系の設計をベースとした4気筒のA型・B型、モーリス系の設計による6気筒のC型といった標準エンジンの制定や、車種統合が推進された。
しかし各ブランド自体はそのまま存続されたため、やがてその多くは既存ブランド相互のバッジエンジニアリング製品の多発という状況に収斂されてゆき、ブランド戦略の混乱やイメージの低下をきたす結果となった。」
(出典:ウィキペディア「ブリティッシュ・モーター・コーポレーション」ブリティッシュ・モーター・コーポレーション - Wikipedia)
「1960年代以降イギリス経済の停滞が顕著となり、再度の企業統合が図られるようになった。
1966年、ジャガー及びディムラーのブランドを持つジャガーを吸収、持ち株会社のブリティッシュ・モーター・ホールディングス (BMH)が発足した。
1968年、レイランドグループと、ローバーグループと合併、ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション (BLMC) となる。
この時点までは、持ち株会社 BLMC 傘下で、過去のブランドを保有する各ディヴィジョンでの自主性はかなり保たれていたが、
十指に余るほどで社内競合を起こすブランドの過剰並立、過激な労使紛争の長期慢性化とそれに伴う製品の品質悪化も手伝って業績低下ははなはだしく、
1975年、時のイギリス労働党政権の元、財政再建の為に国有化を決定し ブリティッシュ・レイランド British Leyland Ltd. に改組。ブランドの統合、車種の整理が始まって行く。」
(出典:ウィキペディア「ブリティッシュ・モーター・コーポレーション」ブリティッシュ・モーター・コーポレーション - Wikipedia)
「オースチン・ヒーリー」の生みの親である、ドナルド・ヒーリーについても、ウィキ記事にて紹介されています。
「ドナルド・ミッチェル・ヒーリー(Donald Mitchell Healey 、1898年7月3日 - 1988年1月13日)は、イギリスのラリードライバー、自動車エンジニア、速度記録保持者であった。日本ではドナルド・ヒーレーという表記も多い。
前半生
イングランド南西端のコーンウォール州中部に位置するペランポース村に生まれた。小さな時からあらゆる機械に興味を抱くようになったが、その関心は特に航空機に向けられていた。学校卒業後、イギリス陸軍航空隊の志願兵となり、1916年に彼の"翼"を得たことから、ヒーリーはソッピースに加わった。第一次世界大戦中、彼は対飛行船パトロールとして働くかたわら、飛行教官も務めていた。ヒーリーは、初の夜間爆撃機作戦の1つに対するイギリス軍の対空砲火により撃墜され、18歳だった彼は負傷のためRFCを除隊した。ヒーリーはコーンウォールに戻り、自動車工学の通信教育を受け、戦後ペランポースにガレージを開いた。」
(出典:ウィキペディア「ドナルド・ヒーリー」ドナルド・ヒーリー - Wikipedia)
「自動車での業績
1929年からラリー・モンテカルロに参加し、1931年インヴィクタを駆り優勝した。1932年、1934年、1936年にもトップ8に入った。
ヒーリーはコンサルタントエンジニアおよびデザイナーとしての評判を得て、1931年にはトライアンフのゼネラルマネージャーに指名された。
ここで彼は有名なサザンクロスとドロマイト8の開発を引き継いだ。第二次世界大戦中、ヒーリーは軍需省用の航空機用キャプレターの開発を担当しつつ、ハンバーとともに装甲車作りも行なっていた。
1945年、トライアンフから独立してドナルド・ヒーリー・モーターカンパニーを設立し、ワーウィックにあった古いイギリス空軍の格納庫を拠点とした。この会社で、1952年から1959年の間、BMCとのライセンス契約のもと、オースティン・ヒーリーおよびスプライトを生産していた。
1949年に、ヒーリーはナッシュ・モーターズの社長ジョージ・W・メーソンとナッシュ製エンジンを使ったスポーツカーを作る契約を結んだ。
その2シーターファーストシリーズは、1951年に製造され、ヒーリーによりデザインされた。
このナッシュ・ヒーリーのエンジンは、ナッシュのアンバサダー用6気筒で、ボディはアルミニウム製、シャシーはヒーリー・シルバーストーン用を使っていた。
しかし1952年モデルではピニンファリーナによりボディデザインが作り直され、新しい鉄製ボディの生産も引き継がれた。」
(出典:ウィキペディア「ドナルド・ヒーリー」ドナルド・ヒーリー - Wikipedia)
「後半生
BMCが1966年にブリティッシュ・レイランドに改組された時、ドナルド・ヒーリーはジェンセン・モーターズの会長となり、大英帝国勲章(CBE)の叙勲を受けた。ドナルド・ヒーリーは89歳で亡くなった。
私生活
1921年、ドナルド・ヒーリーはアイビー・モード・ジェームズと結婚し、3人の息子をもうけた。1961年、コーンウォール州ファルマウス近くのトレバ・ガーデン(英語版)(公式サイト)を買い取った。27エーカーの庭園は大戦中に軍事利用されていたため荒廃していたが、ボートハウスの建設や湖底の浚渫などを行い復興し、ラン育成用の商用温室の建設や、航空機・船舶用救命ボートの生産プロジェクトを含む多くの野心的なプロジェクトを実行した。」
(出典:ウィキペディア「ドナルド・ヒーリー」ドナルド・ヒーリー - Wikipedia)
「趣味がクルマ」と他言するならば、ヒーリー会長のお名前も存じ上げておかなければならない、と確信致しました。大英帝国の生んだ英雄の御一人ですから。
毎年、春と秋に開催する素敵なカーライフイベントの紹介となれば良いな、と思いつつも
楽しみながら記事を書き進めたいと思います。
次回も、どうぞお楽しみに!
所長 楊田芳樹
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