20191103鶴山公園を訪問した思い出8津山城本丸跡を見学2 | エコノミライ研究所のブログ

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いつもエコノミライ研究所のブログをご覧下さり、誠にありがとうございます。

 

毎週月曜日が、大日本帝国海軍艦船紹介の日へと「シフト」してしまいました。

 

そこで、毎週金曜日に掲載する、

 

エコノミライ研究所と隣接する個人・団体・法人紹介の日に、

 

従来からの名勝・史跡紹介

 

の要素を加えて、金曜日の情報としてお届けしています。

 

2019年11月初旬に訪問した場所の紹介をさせて戴いています。

 

場所は、岡山県津山市。

 

桜の名所としても有名な鶴山公園=津山城址であります。

 

公園へは、何通りか登城する方法がありますけれども、

 

今回は、城の南側から登城することと致しました。

 

観光協会さんの無料駐車場を使うことができました。

 

鶴山公園は可成り広い公園です。

(出典:ウィキペディア「鶴山公園」鶴山公園 - Wikipedia

 

 

津山城(つやまじょう)は、美作国 苫田郡(のち西北条郡)津山(現・岡山県津山市山下)にあった日本の城。別名・鶴山城(かくざんじょう)。

城跡は国の史跡に指定されている。」

(出典:ウィキペディア「津山城」津山城 - Wikipedia

 

「城郭の形式は梯郭式平山城

日本三大平山城のひとつ。

津山盆地の中央部に位置し、城の東部を流れる吉井川支流の宮川及び丘陵の天然の断崖を防御線に取り入れている。

 

城の南部を流れる吉井川とその支流で西部に位置する藺田川(いだがわ)を外郭とし、その内側に城下町の主要部を形成している。

 

往時は外郭を含めて、広島城の76棟、姫路城61棟をしのぐ77棟の櫓が建ち並び、明治初頭にその様子を撮影した写真が残されている。

また、近隣の津山郷土博物館には、文献や古写真に基づいて製作された津山城の復元模型があり、往時の姿を窺うことができる。

明治6年(1873年)の廃城令により天守・櫓などの建物が破却され、現在は遺構の石垣や建物の礎石が残り、2002年から2006年までに再建された備中櫓と土塀がある。

 

現在は鶴山公園(かくざんこうえん)としての名所となっており、日本さくら名所100選にも選ばれている。

例年4月1日から15日には城跡公園を中心に津山さくらまつりが催される。」

(出典:同上)

 

津山城の歴史をすこうし、紐解くだけで、この場所が相当凄いことを垣間見ることができました。

 

 

津山城跡

国指定史跡

(昭和38年9月28日指定)

 津山城は、もと山城のあったこの鶴山の地に森忠政が慶長9年(1604)に起工し、元和2年(1616)の完成まで13年の歳月をかけて築いた輪郭式の平山城です。

 往時には五層の天守閣がそびえていましたが、この天守閣は弓狭間・鉄砲狭間・石落とし等の備えを持ち、唐破風(はふ)・千鳥破風当の装飾のない実戦的なものでした。また、本丸・二の丸・三の丸には、備中櫓をはじめ、粟積櫓・月見櫓等多くの櫓が立ち並び、本丸には70余の部屋がからなる御殿と庭園がありました。

 この城が築かれた当時は、わが国の築城技術が最盛期を迎えた時期にあたり、津山城の縄張りの巧妙さは攻守両面において非常に優れたもので、近世平山城の典型とされています。

 明治8年(1873)廃城令によって城郭は公売され、翌7年から8年にかけて天守閣をはじめとする一切の建物が取り壊されましたが、豪壮堅固な石垣は残りました。

 その後、明治33年(1900)城跡は鶴山公園として津山町の管理となり、昭和38年に国の史跡に指定されました。

森 忠政 1570-1634

 幼名を千丸。元亀元年、美濃(岐阜県)金山城に生まれる。

京都本能寺の変で、織田信長を守護し、悲運の最期を遂げた森蘭丸の弟。

天正12年(1584)兄長可の戦死後家督を継ぎ、豊臣秀吉に仕えて金山7万石を与えられる。

のち徳川家康に仕え、慶長5年(1600)信濃(長野県)川中島13万7千石を領す。

同8年津山に入封。

翌9年より津山城の築城に着手、また城下の町づくりを始め、現在の津山の基をなした。

寛永11年(1634)三代将軍家光に随伴して津山より上京するが、食傷により急死す。

享年65才。

なお、この像は、津山市小田中、森家の菩提寺本源寺にある木像を基としたものである。

入場するには料金がかかりますが、

 

「お値段以上」の価値があること、間違いなしです。

入り口(表門)を入った先にあるエリアが

 

三の丸

 

であります。

 

高低差が可成りある石垣は、迫力満点でありますし、

 

石段の段数の多さに、更に圧倒されるのであります。

 

三の丸から階段を上がって

 

二の丸

 

へと進みます。

二の丸エリアに到達しますと、先ず目に入りますのは、

 

鉄砲櫓の有った石垣上部を背に振り返りまして

今回訪問する最大の目的地

 

備中櫓(びっちゅうやぐら)

 

の外観全景をご覧頂くことができます。

盆地のど真ん中に立つ小山の地形を活かして築城された

 

津山城

 

二の丸エリアから更に本丸を目指して上へと登って行きます。

 

戦後に復元された備中櫓ではありますが、

 

非常に美しい佇(たたず)まいであります。

ここが桜の名所となるなど、江戸年間の方々には想像できなかったことでしょう。

備中櫓へ向けて、歩を進め、

 

津山城本丸エリアに入って行きます。

藤棚に沿って、西方面へと進んで行きますと

 

備中櫓に到着です。

「本丸御殿の南に位置し、その名は森忠政の娘婿である池田備中守長幸に由来すると伝えられている。 築城400年の記念事業として復元され、2005年(平成17年)春から一般公開されている 」(出典:ウィキペディア「鶴山公園」鶴山公園 - Wikipedia

 

先回より、津山城本丸跡をクローズアップして居ります。

 

本丸の一番西エリア付近です。

2019(令和元)年11月上旬、日中は暖かく穏やかな気候でしたが、上空の空は、雲も筋状となり、徐々に寒さが増して行くことを告げておりました。

 

本丸の一番西エリアまで移動してきました。

 

津山市の北隣は、奈義町(なぎちょう)と云いまして、

この写真でも見える那岐山(な「ぎ」さん)の麓(ふもと)にある町がありまして、

 

自衛隊駐屯地や、現代美術館があることでも有名です。

 

津山市は、江戸時代より長らく津山藩の城下町として栄え、

 

廃藩置県後も、暫くは「津山県」として、都道府県行政の一行政地で有り続け、

 

岡山県と統合して岡山県の一都市となっても、県北美作地域の中心地として、重要な役割を担い、現在に至っています。

この石垣の上に、天守閣が構築されていたそうです。

 

本丸の一番西エリアから、再び、東へ向けて引き返す足取りとなります。

 

そうしましたら、見えてまいりました。

天守閣に登城するための階段であります。

 

この階段を登りますと

先回、先々回に亘り紹介した、備中櫓の2階部分が見えました。

階段は、右に90度曲がり、もう一つ、上る必要がありました。

 

そして、そのときです。

 

次のような看板が見えました。

知っている<ひと>は知っている、奇石のようです。

「『愛の奇石』として隠された津山の観光スポットとなっているのがここ。

天守台にあるこの石は、ご覧の通りのハート型。

この奇石に触れたカップルは

恋が成就すると密かな恋愛スポットになっています。」

時刻が夕方に差し掛かったものの、日差しが強烈でありました。

角度を変えて、もう一度、奇石を捉えます。

 

如何でしょうか。

 

全国何処を探しても、このような珍しい石は、殆ど無いでしょう。

 

大阪城で用いられている超巨大な石とも、質的には匹敵するものと思います。

天守台から、360度、パノラマ撮影致しました。

 

街中にある小高い山が、長年、要塞として重要な軍事施設として機能していたことを物語っています。

この場所に、石垣を除いて高さ22mもの天守閣が建てられていたとのことです。

 

見晴らしは、更に抜群であったことでしょう。

しかしながら、明治維新に伴い施行された廃城令により天守閣は取り壊され、

 

昭和11(1936)年に開催された「産業振興大博覧会」というイベントの一環で、

 

元々の天守閣よりもスケールダウンした建物が建てられていたことを、

 

次の説明パネルを読んで、初めて知ることと成りました。

 

 

昭和初期に建てられたスケールダウン版天守閣も、

 

大東亜戦争の影響により、

 

空襲の標的になりやすい、という理由で取り壊され、

 

以後、基礎部分である天守台のみが、現存するに至っています。

目下、鶴山公園の中で、最も高い場所から、北方面を眺めています。

先回から紹介している那岐山が、クッキリと映っています。

 

秋空は、キレイな青い空であることに、改めて感心致します。

温暖湿潤気候エリアと謂われる日本列島

 

それでも、津山盆地は中国地方の真ん中部分に位置し、

 

冬の季節は積雪に悩まされるエリアとして有名でした。

有名「でした」と敢えて記すのは、

 

ここ30年位の間で、列島は亜熱帯化しつつあり、

 

津山盆地でも、積雪となる期間が以前に比べて随分と減少したためです。

 

岡山県南の<ひと>としては、

 

冬シーズンに岡山自動車道や米子自動車道を利用することなど、怖くて仕方なかったですが、

 

ここ数年、冬用タイヤを装備したことなども相俟って、恐怖心は、大分薄れました。

従いまして

 

このように素晴らしい天守台からの眺めを楽しむため、

 

機会があれば何時でも、この場所を訪問したくなる、という想いに至っています。

倉敷から津山までは、実走距離で約90km、往復しますと、約200kmものロングドライブとなります。

 

狭い国ニッポンという表現は、ハッキリ言いまして、ウソです。

 

岡山県という西国だけのことでも、随分沢山の「宝物」が散りばめられているのです。

 

改めて、この国に生まれ出でた幸運に、感謝する次第です。

写真右の方に、先ほど紹介した「愛の奇石」が見えています。

実は、この日、津山散策としては2か所目の訪問場所である鶴山公園。

 

家の者も、結構疲れていたものと推察しますけれども、

 

今まで観たことの無い景色に刺激され、最後まで頑張って歩き通してくれました。

津山市民の皆さんだけでなく、岡山県民の総意として

 

この天守台の上に、嘗ての天守閣の復元が実現することを

 

<こころ>より祈念する次第です。

天守台から降りて来まして、本丸の平地部分を歩いています。

 

戻り始めた場所から東に向けて撮影した写真ですが、

 

この石垣もまた、大変立派なものでした。

 

ただ、目の前に見える階段部分は危険なため、立ち入り禁止となっていました。

それでも、櫓みたいな存在が気になりましたので、別の階段の存在を発見しましたので

登ってきますと、

 

何と、鐘楼(しょうろう)がありました。

 

何のために設置された鐘(かね)なのかは、分かりませんけれども

 

ひょっとしましたら、有事の際には

 

「敵襲!敵襲!!敵襲!!!」

 

と叫びながら、この鐘をケタタマシク鳴り響かせたのでありましょうか。

 

また、調べる機会があれば、追究してみたいです。

 

(ご存じな方、コメントお願いします。)

というわけで(何が)

 

都合8回にも及ぶ

 

鶴山公園を訪問したシーンをレポートするシリーズ

 

これにて完結です。

 

この場所のことに、詳しい知識があれば良いのですが、

 

このようなブログ記事作成活動などを通じて、

 

一つひとつ、知識を得、深めて行けばよい、と勝手ながら思っています。

 

また、何度でも訪問することが、できるでしょうから。

次回、訪問することができるのであれば、

 

このときは耐震工事で入館できなかった

 

郷土博物館

 

へも訪問することができれば、と思っています。

 

 

 

 

写真を見ながら、記憶と検索情報とを突き合わせて作成した記事に対する旅行記

 

ご拝読・ご視聴、誠にありがとうございました。

 

 

次回より、別のネタにて、ご機嫌伺います。

 

次回も、津山ネタとなりますが、或る「モノ」がお好きな方には、堪らない場所であること間違いなしです。

 

次回もどうぞ、お楽しみに!

 

 

   所長 楊田芳樹

 

次のシリーズ

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