Dearあなたへ
やっぱり見るもんだなと、伯父が呟いた。
以前昏睡状態に陥った時に、お花畑の夢を見たのだという。
92歳とは思えぬしっかりぶりで、頭も回るし気も回る。
心身共に健康で、毎日暇だからと1時間のウォーキングを欠かさず、日記をつけるのが日課だと。
これと言って大した事がない日には、特記事項無しと書くんだと笑いながらコーヒーをすする。
日記なんて書く気もない私にしたら、特記事項無しと書く事自体が特記事項だよと、思わず笑ってしまう。
そんな伯父も七年前に死にかけた。
腸閉塞で救急車で運ばれて、意識が戻らず一週間近く生死の境を彷徨ったのだ。
意識が無くなったその一週間の間に、夢を見ていたのだと言う。
とてもきれいで立派な研究所が、小高い丘の上に建っているんだよ。その回りにはきれいなお花畑が広がっていてね。
えっ、それって例の三途の川の事?
いやいや川は流れていないんだけどね。
私の場合はあるのは、川でなく研究所なんだよ。
そこから白衣を着た人達が、こっちへおいでよ、おいでよって、手を振って呼んでいるんだよ。
あなたはうちに必要な人だから、是非とも来てくださいってね。
必要な人って言葉は、確かに言われたんだよ。覚えてる。
何回か言われたから覚えてると、伯父はキッパリ言うのだ。
それって勧誘じゃない?
それでもし誘ってくれるならと、ホイホイそのまま行っていたら。。。
そう。多分それっきり心臓は止まってたな〜
は〜。。。
白い着物で三角頭巾を付けて川を渡って行くんじゃあなく、今時の彼方の世界は白衣を着て丘の上の研究所勤めに行くんかい。
まさに勧誘、リクルートだね。
そうなんだよ。勧誘なんだよとまた伯父が笑う。
あとね、その他にもあるんだよ。
ええっ!他にも違う勧誘バージョンがあるんだ!
そう。
以前から私は山登りが好きで、良く山にグループで登っていたんだよ。
そしたら夢の中に登山姿の女性が3人が現れて、こっちの道を登ろう、こっちの道を登ろうって誘ってくるんだよ。
彼女達の行く横には川がね、渓流みたいなきれいな川が流れているんだよ。
ええっ、今度はハニートラップ⁈誘惑かい。
でも先に行って下さいと断って、私は後にはついて行かなかったんだよね。
あ〜そこが運命の別れ道ってことね。。。と、二人して妙に納得してしまい。
これで私が心臓でも弱かったら、もうそこでついて行っちゃってたな。
で、ヤマヤマツー、ヤマヤマツーが、ツーツーツーに変わってしまうのあれだよね。
まさにそうだな。
でも私はなにせ心臓は強いし、だからコロッと生き返っちゃったんだよねと、愉快そうに笑いながら話しをする。
ほんとだよね。おじちゃん、山登りにウォーキングと、健康人間だもんね!
断って良かったね〜っと、私もつられて笑ってしまう。
人によって夢の中身は違うにしても、研究所の職員勧誘にハニートラップ。
笑ってしまうのは不謹慎だが、でも笑ってしまう三途の川だ。
父は心筋梗塞で急逝した。
初冬の冷え込みの厳しい朝、寝室で着替えの最中に倒れそれきりとなった。
駆けつけた時には既に息を引き取り、静かに眠っているような父を見た。
川釣りが三度の飯より大好きだった。
家庭を持ち時間も余裕もなくなり、何本もの釣り竿は物置きの置き物となった。
余生を迎える頃には体力も気力も無くなり、趣味は専ら碁石を打ち、好きな花や盆栽を眺めて過ごす毎日となった。
お〜いこっちに来いよ。いい穴場があるから教えてやるよ。こっちに来たら釣れるぞと。
そんな声に導かれ、ニコニコしながら川を渡って行ったのだろうか。
戻る事は無理であったのなら、せめてそうであって欲しい。
あの世の事なんて、考えた事も無かった。
お盆には、迷わず家に帰ってきているだろうか。
祖父や祖母に囲まれて、どうか楽しくやっているように。
そんな事しか想像できず、そんな事だけ願ってた。
伯父の話しから、天国にも遊ぶ場所もあるというのなら、父は毎日回りにきれいな花の咲く川で、ひがな一日のんびりと釣り糸を垂らしている事を願ってしまう。
嬉しい気持ちを口に出せないあの父が、照れ笑いしながら毎日が太公望だと言いながら。