エコフェミニズム(第11章後半) | Ecofe 

エコフェミニズム(第11章後半)

「エコフェミニズム」後半です

強調されるのは、「つながり、関係」という概念の重要性だ。生物多様性とは様々なレベルで自然が関係し、つながりあっていることそのものを示しており、断片的には保全できない。しかし、現代農業は多様性や自然のサイクルを無視する作物の単一栽培を進め、世界的に主流の生物多様性に対する考え方も、単に種の数を数え上げているにすぎないと批判される。
女性はそうした生物多様性の守り手で、素晴らしい方法を持っているのに、これは非科学で「自然に属するもの」として無視されてきたという。また、経済商品的価値のみを価値とするために、生産と消費のつながった暮らし方が切り離される。女性による生きるための労働は非労働とされ、女性は産業的農業の未熟練労働者として組み込まれていくというのである。
 また、企業により開発され特許権の設定された「次世代を生まない種子」は、農民に種子の購入を強いて貧困を増すばかりでなく、生命の本質である「連続性」に対する否定であるという。

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エコフェミニズム

ヴァンダナ・シヴァ、マリア・ミース

(Zed Books 1993 邦訳なし)

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11章:女性の培ってきた知識と生物多様性の保全(後半)
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女性:生物多様性を護るものとして
女性は多くの文化において生物多様性を護る者の役割を果たしてきており、ことに農業の分野で生物多様性を生み出し、再生産し消費しそして護ってきた。しかし、こうした女性の専門的科学的な営為は、労働でもなければ、知識でもないと貶められてきた。いわゆる「自然(タダ)」の範疇であると片付けられてきたのだ。そして、現在世界的に「生物多様性」と言われている考えと、こうした女性による生物多様性の保全とは全く異質なものなのである。


近年、世界的に生物多様性への関心が高まっている。そもそも大規模な単一栽培農業そのものが生物多様性を損なった原因なのに、農業環境の一つ一つの要素を互いにつながりのないものとして捉え、単一栽培を進めるシステムがあいかわらず生物多様性保全の基本的枠組みとされている。こうした「生物多様性の保全」とは植物や動物の種(しゅ)の数を数えるにすぎないものになっている。


 これに対し、伝統的なインドの方法における生物多様性とは、各々の要素が互いに関連しており、生態系や文化のなかに組み込まれているものだ。例えば伝統的な祝祭などの場は生命の新生を祝福すると同時に、種子選別や繁殖のテストの場ともなっているというように、文化をとおして多様性は再生され保全されてきた。しかし、現代科学はこうした営為を科学的とは考えない。というのは、研究室の白衣の学者の手によるものだけが科学で、人々のトータルな世界観や生活スタイルを統合し、農村の女性の手により生み出されたものは、科学的でないとするからだ。しかし農業における豊かな生物多様性は実際そうした方法により保全されてきた。だからこそ、それはシステムとして信頼ができるのだ。


 女性により種子が護られてきた過程では、必ず多様性が守られ、バランスと調和が重視されてきた。Navadanya(9つの種子を指す)は、植物の世界だけでなく、地球や人間社会の多様性の更新と調和のシンボルである。この複雑に織りなされた関係は、インドの文化のなかで生物多様性に意味を与え、数千年にわたって保全の基盤となってきた。


「神聖さ」:保全のカテゴリー
神聖さという概念は生物多様性を守る上で大きな意味を持っている。神聖さは多様性に本来備わっている価値であり、部分の全体に対する関係や、統一性を生み守る関係を意味する。この神聖さを冒とくするような種子が、生態系のサイクルやつながりを破壊し、農業環境システムや持続的可能な生産を支える関係をバラバラにしている。


1:植物は本来地球の公転による気候の変化に従って育つ。ところが、HYVs(高収量品種)は季節変化や宇宙のサイクルとの関連を壊す。HYVsは地球や気候による制限から逃れるために、多毛作や光不活性などの技術を用いた品種である。そして、こうした四季のサイクルからの「自由」は巨大ダムや集約的灌漑への依存なくしては成立しないのだ。


2:品種の多様性と栄養バランスは関連している。HYVsの単一栽培は栄養不足やアンバランスをうむ。商品になる米の生産のために食用や油用の豆類が、犠牲になることになる。


3:土壌を肥沃に保つためには多様な種類を育てる必要がある。化学肥料を使う単一栽培は土壌を肥沃にする基盤を壊す。稲ワラは有機物となって土壌に戻るが、矮性種は稲ワラを生み出さないし、化学物質により土壌中の動植物が痛手をうける。


4:生物多様性は、生産者がそのまま消費者であるような自給自足的な農業を持続させるうえで重要である。HYVsの単一栽培により、農民は種子を購入する消費者となり、そのため地方では、生産コストがあがり、経済的独立性が失われ、結果として食糧に関する権利が失われるのである。


5:結局、種子の購入という事態を通して、女性は意思決定過程や種子の管理から退けられ、単に未熟練な労働者になってしまうのである。
生物多様性を守り生み出す農村女性の毎日をつぶさに見て得られる洞察は重要である。


第一には、生物多様性が関係の概念であるということだ。即ちつながった流れのなかにあり、切れ切れになったものではない。生物多様性の保全とはバランスと調和のある関係を保全することである。生物多様性が、断片的に保全されることはありえない。そのようなものでは現存する生態系や文化の生命力の基盤としては役に立たないのだ。


第二に、関係を保全するということは神聖と不可侵という考え方を含むことになる。こうした概念は、種子を単に利益を生む商品とする考えとは全く異なった世界観だ。


第三に、多くの場合持続可能な農業は自給自足的な性格を持っており、生産と消費の輪は閉じている。これに対し主流の経済学は、生産者と消費者が異なる場合だけを生産と考える。商品の生産だけが生産で、自給は生産労働ではないのだ。これは現実的な女性の重労働を「労働とはみなさない」という観点であり、残念ながら、主流な生物多様性保全戦略を成す考えでもある。


このように、生物資源は、社会的、倫理的、文化的な価値をもっているが、政策決定者の注目を引くためには経済的価値が強調される事が多い。


生物資源の経済的価値は次の3つだとされている
・消費的価値:市場を経ずに直接に消費される商品の価値。(例:焚き木、飼い葉、猟獣肉)
・生産的価値:商業的に開発する商品としての価値
・非消費的使用価値:生態系の機能で、間接的な価値。(水源涵養、光合成、気候安定化、土壌の生産)


次のように、先に結果を決めてしまったような分析がなされている。

第三世界の貧しい人々が、食糧を直接自然から得ている場合これは単に「消費」であり、貿易や商取引だけが「生産」である。ならば、消費するだけの第三世界が生物資源という財産の破壊に責任があり、生産能力のある北側にだけこれを保全することができるというのだ。このように消費、生産、保全の間に意図的な区分が設けられ、生物多様性破壊の根底にある政治経済の問題は隠蔽されることになる。
特に、これは生物多様性を生み守ってきた女性を、単なる消費者に変貌させる。世界の主流な保全戦略は、女性たちによる文化価値や技術や知識や叡智に基盤をおいた保全の仕組みを蝕み、持続可能な生活や生産システムの基盤である生物物多様性を破壊する条件を作る。


現在の世界的な流れにおいて、生物多様性は、生態学的というよりは、単なる数値目標であらわされている。種の共生関係や複雑さは捨象され、生物多様性は、「生態系や種やある群れの遺伝子の数や頻度等、自然の多様性の程度」などと定義される。これに対し、実際に多様性を生きてきた文化や経済にとって、生物多様性は、バランスや持続可能性を保証する関係性の織り成すものなのである。より大きく見れば、これは地球と植物の間の、宇宙と農業の調和を包含している。


大地について言えば、持続可能な農業にとって多様性や相互の関係は必須のものである。ここで生物多様性とは、樹木や作物や家畜が共存し相互依存していることを意味しており、それが有機的な物質の流れとなって肥沃さというものの循環が維持されるのである。女性の仕事や知識はこうした目に見えない「すきま」に凝縮されている。また、様々な種類の作物を手掛けるというのは、様々な機能を駆使して生態学的なバランスを維持するということである。穀物と豆類を混作することで窒素循環による栄養バランスが取れる。また、様々な穀物の混作により害虫と捕食者のバランスが保たれ、化学工学や遺伝子工学に頼らず害虫をコントロールできる。また、水循環が維持され、土壌は湿潤に、肥沃さは保たれる。このような生物多様性による生態学的に豊かな営為によってインドの小農場は何千年も維持され、持続可能性と公正に基盤を置いて食糧や栄養が供給されてきた。


バイオテクノロジーと生物多様性の破壊
第三世界の女性と企業の男性の相違点は重要だ。女性は生物多様性によって生産し、企業の科学者は均一性によって生産するのである。


女性の農民は生物多様性を自然に本来備わった価値であると考える。ところが巨大農業資本にとって生物多様性はバイオテクノロジー産業への「原材料」となってはじめて価値を生む。女性農民にとって種子の本質とは生命の連続性だ。ところが多国籍企業にとって種子の価値は生命の非連続性にあるのだ。種子企業は、次世代を生まない改良種子により、農民を種子の守り手から消費者へ変えようとする。ハイブリッド種子とは、次世代が使えないようにされ「生物学的に特許のついた」種子である。ハイブリッド以外の場合も特許や「知的財産権」が農民に種子を使わせないよう守っている。種子の特許権とは企業が種子を彼らの「造ったもの」と扱うという意味で。特許権はその製品を他の人が「作る」ことを妨げる。つまり、特許の着いた種子は種子をとるのには使えないのだ。特許権を持つ企業に使用料を払わねばならない。


このように企業の科学者が生命を「造る」という主張は正当とはいえず、実際上、生命創造の流れを断ち切るものだ。また、企業が改良し私的な財産として占有する種子とは、もともと自然と第三世界の農民により造られてきたものなのだ。種子の特許権はこのように21世紀版の海賊行為(バイオパイラシー)である。この特許権によって、多国籍企業はGATTのような世界的機関の助けを借り、今まで共有されてきた財産や第三世界の農民女性による種子の管理を奪い、おとしめているのである。