昨日のブログの中に出てきた「安土問答」という言葉
これって何? というご質問もありました。
また、この「安土問答」調べてみると、実に面白いのです。
ということで、この「安土問答」を少し解説してみようと思います。
「安土問答」の舞台となったのは
昨日紹介したこの「浄巌院」
信長が安土城下に建立した寺です。

安土問答とは、天正7年(1579年)5月、信長が完成した安土城へ入城し
賑わう安土城下の浄厳院で行われた
浄土宗と法華宗の、仏教の教えに関する公開議論のことです。
その結果、議論に敗れた法華宗は、
「議論に負けました。これからは他の宗派に口出しはしません」
との証文を出し、死罪を含む処罰者を出して決着した事件です。
この「安土問答」は「安土宗論」ともいわれます。
以上が「安土問答」の概略です・・・・・が
以下にもう少し詳しい説明を掲載しますので
時間と興味のある方は読み進んで下さい。
長老は「~お二人がこれぞと思う法華宗のお坊様をお連れ下されば、御返答しましょう」と答えた。法華宗の方ではそれでは宗論をやろうと、京都の妙国寺の僧普伝など、歴々の僧たちが安土に来る事になった。
そしてこの噂が広まり、信長も伝え聞く事になる。信長は大袈裟な事はせぬ様に」と、両宗に伝えた。
しかし、浄土宗側では信長に従うと返答したが、法華宗側は承諾せず、ついに宗論をする事になってしまう。
そこで信長は「それなら審判者を派遣するから、経過を書類にして勝負の経過を報告せよ」と申しつたえる。
当時の博学者等を審判に加えて、浄土宗の寺、浄厳院の仏殿に於いて宗論を行った。
信長はこの寺内の警備に5人を派遣している。
法華宗側はきらびやかな法衣を着飾り、浄土宗側は、黒染めの衣で、質素ないでたちであった。
この法論の出席者は以下の通り。
『信長公記』等に依ると法論の概要は以下の通り。
- 霊誉「私が言い出した事なので、私から発言しましょう」
- しかし、貞安はそれを遮って早口で問いを発した。
- 貞安(浄土宗側)問う 法華八軸(8巻)の内に念仏はありや。
- 法華側答う 念仏あり。
- 浄土側問う 念仏の義あらば、何故法華は念仏無間(日蓮が説いた四箇格言の一つ)地獄に落ちると説くや。
- 法華側答う 法華の弥陀(阿弥陀如来)と浄土の弥陀とは一体や、別体や。
- 浄土側曰く 弥陀は何処にあろうと、弥陀一体なり。
- 法華側答う 左様ならば、何故浄土門は法華の弥陀を「捨閉閣抛(しゃへいかくほう)として捨てるや。
- 浄土側曰く それは念仏を捨てよと云うに非ず。念仏をする前に念仏の外の雑行を捨てよとの意なり。
- 法華側答う 念仏をする前に法華を捨てよと言う経文はありや。
- 浄土側曰く 法華を捨つるとの経文あり。浄土経には善立方便顕示三乗とあり。また一向専念無量寿仏ともあり。
- (法華側曰く)法華の無量義経には、以方便力、四十余年未顕真実とあり。
- 浄土側曰く 釈尊が四十余年の修行を以って以前の経を捨つるなら、汝は方座第四の「妙」の一字を捨てるか、捨てざるか。
- 法華側答う 今言うは、四十余年の四妙中の何れや。(←40年余の説法の何処にある妙か?、ととぼけた)
- 浄土側曰く 法華の妙よ。汝知らざるか。
- 法華側返答なし。閉口す。
- 浄土側重ねて曰く 捨てるか、捨てざるか。重ねて問いし所、
- 法華側無言。其の時、判者を始め満座一同どっと笑い、法華の袈裟を剥ぎ取る。
天正七年己卯年五月二十七日辰刻
宗論が終った直後、法華八巻は破り捨てられ、宗論に負けた法華宗の僧や宗徒達は逃げ散った。
信長は時を移さず、安土から浄厳院へ出向き、法華宗・浄土宗の当事者を召し出します。
信長の裁定は厳しく、法華宗の何人かは斬首され、その上
「宗門を変更して浄土宗の弟子になるか、さもなくば、
この度宗論に負けた以上は今後は他宗を誹謗しないとの誓約書を出すがよい」と申し渡ます。
法華側の詫び証文の概要は以下の通り。
- 今度(このたび)近江の浄厳院に於いて浄土宗と宗論を致し、法花宗が負け申すに付いて、京都の坊主普伝、並びに塩屋伝介が仰せ付けられ候事。
- 向後他宗に対し一切法難(非難)致し可からざる之事(今後は、他宗に対し決して非難は致しません)。
- 法花一分之儀立て置かる可き之旨、忝く存じ奉り候(法華宗に寛大な御処置を賜りまして、誠に有り難い想いです)。私共法華宗の僧はいったん宗門を離れ、改めて御許可を得てから前職に就かせて戴きます。
(以上の解説は多くを Wikipediaから引用しています。)
以上ですが
これは初めから信長の陰謀だったとか、
そうではないとかの、歴史学者間でも多くの説があるそうです。
「安土問答」
結構面白かったでしょう。
