最終的には
最終的には、人生の目的って「この現実世界にポジティブな影響を及ぼすこと」と自分は結論付けた。
なんでこんな当たり前のことをわざわざ書くか。
それは、自分が無類の古典好きだからだ。
どうも古典ばかりひいきしてしまい、現実に疎くなりがちな自分を軌道修正したかった。
で、古典の良いとこ。
例えば『論語』。
今日覚えた内容は、
「多くを聞いて疑わしきを欠き、その残りを言う。多くを見て危うきを欠き、その残りを行う。すると、とがめと後悔が少なくなり、禄(給料)も後から付いて来る」
といったもの。
たくさん情報を聞き、たくさん自分の目で確かめて、自分の中に情報量を増やしていく。
その中であやふやなもの、信じられるか怪しいものを除去していき、その残りを言い、あるいは行っていく。
そうすれば周りからとがめられる事も無く信頼され、信頼されれば後からお金も入ってくるということだ。
「多くを聞き」は、自分の中に情報量多く持てという意味。
そもそも100%正しい判断をする為には、300%の「記憶のストック」が必要と感じる。
100%現実を捉えきるには、最低でも3倍の情報量ということ。
生きた手足のように使いこなせる情報量が決め手。
で、古典の話に戻る。
どうも古典が軽んじられてるようでならない。
確かに経験は言葉で汲み尽くせない現実をまるごと包括的に吸収できる。
でも活字は、経験を形に残す能力を人類に与えた。
自分の感覚をピタッと一言で言えるようになれる。
新しい言葉・句を知って、それまで感じてこなかった新しい感覚を発見できるかもしれない。
あるいは、これまでもやもやして表現できなかった感覚を一発で言葉にして、ブログで他人に伝えられるようになり、一気に解決するかもしれない。
とにかく、操れる語彙を豊富にする事は、人生を豊かにする。
古典は、過去100年以上の歴史による淘汰に耐え読み継がれてきた、人間の思考の結晶。
無常観に通ずるギリシアの言葉「万物は流転する」は、2,500年間流転しないで生きてきた。
そんな無限の生命を授けられた資源をの価値を、自分は高め、広めたい。
そういった形で、「自分の為」ではなく、「他人の為」に働きたい。
古典はノスタルジーが目的ではない。
人間理解を深める手助けとして利用し、現実を明るくすることに意義がある。