画像ではわかりにくいでしょうが、春宮境内の参道、真ん中の石畳の石の一つです。中央、黒く見える窪み、分かりづらいですが、ハート型です。これを見つけると、イイことがあると、You Tubeで、諏訪の語り部という方がおっしゃっていました。この人の話、かなり面白いです。御柱の高さ、螺旋説をこの方も披露していて、オォ!と感激いたしました。私のは、縄文起源説のようなものですが、こちらのは、風水に基づくというもの。御柱の五尺落ちも、それぞれ、春分、夏至、秋分、冬至に対応するとのこと。ウーム。
 今年が終わっちゃいますので、先を急ぎましょう。
 古事記、日本書紀の編纂時期に、この国の権力を握っていた人物に、藤原不比等がいます。大化の改新の功労者、中臣鎌足の次男で、後の藤原氏の繁栄の基礎を築いた人。この人のテコ入れで、古事記国譲りの場面にタケミナカタ、タケミカヅチの闘いが挿入されたのでは?という説があります。諏訪の国というのは、古来、縄文時代から、日本の中の強大な独立地方であったはずで、その地の神を征服したことにすれば、まさしく神の中の神、ということになる。いわば、タケミナカタは、カマセ犬にされた、というようなことでしょうか?さらに、タケミナカタという名前も抽象的で、古来から信仰されていた諏訪明神とは別のものではないかと言う人もいて、どうも、名前からして、後付な感じも、します。前にこれは、プロレスのようなものだと言ったのはこういう意味で、藤原氏の手先のプロレスラーが、覆面を被って八百長試合をやっている、という‥‥‥‥。
 さて、古事記の話と、諏訪に伝わる、諏訪明神と土着のモリヤの神との闘いを時系列に沿って眺めれば、タケミカヅチに追われて出雲から逃走。そして諏訪では、逆にモリヤ神との闘いで勝利を収め、モリヤ神を服従させて、諏訪に鎮座した、ということになるのですが。古事記の話が捏造(?)であるとすれば、この話は別の意味を持ってくる、私は、この2つの話、立場は逆だけれど、似たような話だな、と、度々思っていたところ、また、ひとつの説に出会ってハッとしました。古事記のタケミナカタ対タケミカヅチの話は、タケミナカタとモリヤ神の闘いという伝説からインスパイアされたのではないか、という方がいて、成る程!と、膝を打つ思い。ならばこそ、この二つの話は似通っているのだ、と。
 ここに私見を加えますれば、このタケミナカタ対モリヤ神の話、諏訪に流れて、物部氏を名乗っていた実は、中臣氏の一派の誰かがが、朝廷側の中臣氏改め藤原氏となった、藤原不比等の方に伝えたのだ、とすると、どうでしょうか?
 
 好き勝手な妄想を長々と書き連ねました、もりや神社の謎、の項、ひとまずこれにて幕とさせていただきます。 
 皆様、良いお年を。