近くまで行ったので、前に、御柱を立てない神社だと名前を上げた、茅野市 上原の千鹿頭神社にお参りしました。二番目の写真が、御柱がありません。千鹿頭神社の本殿でしょうか?その向かって右にある小さな祠、この一ノ柱とニノ柱がやたらとデカい!それに比べて三と四の柱が(写真4枚目)、アンバランスに小さいです。不思議です。近くで畑仕事をしていた年配の男の方に聞きますと、左の千鹿頭神社本殿と思われるものは、秋葉神社で、左は天満宮なのだそうです。秋葉神社だから、御柱を建てないのだ、と言われまして、話がわからなくなってきました。謎は深まる一方です。横の天満宮の御柱も、前の一、ニは大人が曳き、後ろの三、四は子供が曳く、とのことで、天神様だから、そういうこともあるのかな、位にしか言えませんが、御柱が、人間の成長の暗喩であるという視点からも、なにか興味深いものがないでしょうか?
 さて、前回、タケミナカタ対タケミカヅチの国譲りの場面での決闘を、相撲の起源というより、プロレスの八百長試合だと、調子に乗って言ってしまいました。この話は、古事記に出てくる話で、というより古事記にしか出てこない話で、日本書紀にはありません。出雲地方の伝説を集めた出雲風土記にも、タケミナカタの名は、みえない。取ってつけたような話なのですね。古事記では、タケミカヅチにコテンパンにやっつけられて、諏訪まで逃げてきたタケミナカタが、この地から出ません、言うことは何でも聞きますから、お許しを、と命乞いをする、それが諏訪大社の由来だと、古事記には書かれている。かなり情けない、由来です。多くの人が、それは、変だ、と疑問を投げかけています。諏訪明神は、日本第一大軍神などとも称せられ、鎌倉幕府、武田信玄、名だたる武将たちに崇拝された戦神の側面も持っているわけで、古事記に描かれたタケミナカタ像と正反対だと言うことになってしまう。そこでこの話、出雲最強、つまり国津神最強のタケミナカタよりも強い、天つ神最強の神にタケミカヅチを位置付けようとする、タケミカヅチを祀る氏族の作為があるのではないか、と指摘する説がありまして。タケミカヅチ-鹿島神宮は、中臣氏が奉ずる神社です。後の、藤原氏。

 続く