
岡谷市 川岸東(旧地名 川岸 橋原)にある、洩矢神社。普段は神主もいない小さな神社ですが、ここは知る人ぞ知るという、かなり曰く付きな社なのです。私は、この地域の出身で、昔から、様々な思い出がある場所なので、仕事で通ったりするとなんとは無しに様子を見たりするわけです。そうすると、バックパッカーらしき若い人、どう見ても都会から旅をしてきているような若者なんかを度々見かけます。東方Projectというパソコンゲームがあって、それは、諏訪の伝説、神話等に材を取っているらしいのですね。そこに、守矢神社というのが出てくる、そのモデルの一つがここであるというので、ゲームマニアの聖地巡礼の場所になっているのだとか。それで、かつてはそんな事してはいなかったのですが、今年、休日に通りかかったら道向かいの社務所で区の役員の方が、お守りや、御朱印を売っていまして、わたしも、専用の帳面というのは持っていないので、紙に御朱印をしたためていただきました。芳名帳なんかを見ると、東京や大阪、全国津々浦々から参拝の方々が訪れているわけです。えらいことです。
さて、諏訪古代史的に見ますと、ここは、諏訪明神 建御名方の命が来訪した折、地元神の洩矢の神が、迎え撃つために陣を敷いた場所だとの伝説があります。かたや建御名方は、天竜川を挟んで西の旧地名三沢区に陣を構えた、そこは、藤島社という小さな祠の形で残っています。昔、中学生の時、どんな授業だったか忘れましたが、先生が、関東と関西はどこに境界線があるか、天竜川を境として、西と東を分ける、という考えもある、といったことをおっしゃいました。休み時間に、旧三沢、天竜川の西に住んでいた級友と、東の川端に住んでいた私は、
_ワイハ関西人やでぇ
_テャンデェ!コチトラ江戸っ子、関東人さ!
などと言って、ふざけあっていたのですが。天竜川が諏訪湖から流れ出すその結節点、旧川岸橋原地区と三沢地区が、ザックリと言ってしまえば縄文神たる洩矢の神と、新来の弥生神であろう建御名方の決戦の場所であったという所には、何やら深い意味があるのかもしれません。
続く