無気力


例えば誰かの発信やお誘い連絡、問いかけに対し、時に私は『知らない』と判断する。

他人事として自己処理する。

自分を保つひとつの判断であったのだが、ふと、そんな自分に気付き、果たしてそのままで良いのだろうかと立ち止まった。


なんでもかんでも関心を寄せるのが相応しいのではなく、無関心の類の反応を抱く自分にチェックが入った。


相手という存在の呼びかけをジャッジし、相手という存在を放棄しているのではないか。

それを無関心と呼べ、ひいては社会全体、世界全体に無関心でいることと同じではないだろうか。


私でない他者の学びの視点を受け入れようとせず、無視し、排他している。

それに気付いた私の学び。



絶望、とはなんだろうか。

視点の先にあるものに勝手に絶望し、見ようとせず遮断する。遮断して回避したいのだ。

これは向き合う手段を一切使わぬ非難の形に値する。



しかし、これでは嫌なのだ。

まるで2つの選択しか知らないかのような視野で社会、世界を捉える自分から変わりたい。



目の前の相手を感じたい。

私はどう感じるのかを感じたいのだ。


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その矢先のアクシデントでは、

絶望の感覚を多少味わった。

大したものではないけれど、絶望ー最悪ーといじけ、〇〇さんのせいだ!と何度も唱える自我を感じていた。

目の前の処理に絶望した。

スムーズにいけなかったこと。スムーズな流れという望みを絶たれたと感じ、悶々としたのだ。




気づいてよ、相手からの言葉を欲する私がいて、しかし、そうはいかない有り難さと夫々の姿に有り難く感じる私がいた。


納得いかないきつきつの私と

納得してみている私。


無気力は独りよがりだった。