"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -87ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イエシュアが来るまで、律法という厳しい掟を与えられ、縛られていた。生贄を捧げて仮に罪が赦されていた。

この思想は、本当に聖書を理解していない人の考えそのものです。

このような主張は、イコール、何を言っているのか言っている人が

聖書に記された内容を理解していない、神の教えを理解していないことによるのです。

 

そして、イエシュアが来られて、生贄を捧げて罪許される事が終わった。

これも意味不明です。なぜなら、イエシュアが昇天された以降も

70年に神殿崩壊するまで、神殿が機能していたので、朝に夕に

子羊の全焼のコルバンは祭壇に捧げられ、人々はコルバンを持って

神殿でささげ、シャバット、祭りも同じように祝っていたのです。

 

パウロも神殿でコルバンを捧げて、(使徒21:21−26)ナジル人の請願をしたのです。

その理由は、パウロがモーセの五書に反した教え、割礼を禁じ

人にトラーとは違う教えを施しているという巷の大きな噂を嘘!と

証明するためでした。コルバンを昇天以降も神殿の祭壇で捧げ、

何日にも渡る長い期間この請願をしたのです。

 

そして、辻褄合わないもう一つは、未来イエシュアが来られた後、

イエシュアはエルサレムのこの神殿、神の宮から世界を王の王

主の主、大祭司として統治され、コルバンが再び捧げられるようになると預言されているからです。

神の家のお茶の間、祭壇に招き入れられるのは、神の仰せを愛して

生きている異邦人も同様であると書かれています。

 

イザヤ56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る

異邦人は――

56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

56:8 イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。

祭壇で捧げられるコルバンは、仮の罪の許し、イエシュアの代わりであるという目的ではないからです。

動物の血や人間の捧げ物は罪を消さないとあるでしょう。

実際に目に見えない神の家、イエシュアご自身、イエシュアの贖いの

意味を、シミ、傷、完全な欠けのない動物を通して教え、イエシュアが負った罪で、シミ、傷、欠けがない完全な者とされている事実を

教えているものです。その事実からだけ、神と対話、関わる事を

教えているのです。

聖書を読む前提が、完全に最初からずれているのです。

正しく聖書を学ぶ事が、どれほど大事なのかという事です。

偽情報を教えられても、そこには真実はありません。

歪んだ思想からは、歪んで曲がった信仰しか出て来ません。

異邦人の世界へ伝わった教えは、トラーではない。

永遠から語られるイエシュアが教えた同じ教え、福音ではありません。

もちろんクリスチャンの間で語られる教えが、全部が全部嘘ではないから、何が聖書で、何が神の教えではないのか、その区別が分からなくなるのです。

偽物を見ていたら、本物は見分けられません。

誰でも、正しい翻訳聖書を読めば、深いところは分からなくても

理解できます。

神は愛です。神がこの世界を創造されました。

これは、信じても信じなくても、書いてある通りを読めば、

意味は通じます。

でも、聖書に書いてもない事に、事実を書き換えられたら、それは

偽情報なので、神が意図する事は読者には伝わらなくなります。

真実の中に、嘘を混入、侵入させているのです。

半分本当、半分嘘の混ぜ物のする同じです。

神が伝える真実=言葉の意味を知らなければ、偽札だけ、混ざり物の教えだけを聞かされたら、どこからどこまでが本当で、どこから

どこまでが人が編み出した思想なのか、分からなくなります。

 

極め付けは、福音書以降の翻訳聖書に、ローマ教の人々が勝手に

神の言葉に手を加え、付け足し、差し引き続けていることなのです。完全に神が警告した違反をやり続けているのです。

しかも、イエシュアをメシアと信じない、死後の審判も信じない

聖書を聖書と信じない人が、写本の中にある言葉を、勝手に変えたり

付け足し、差し引きするような事をして、イエシュアの神性を否定するような思想を植え付けるためにそのような事をしているのです。

 

中世迄、写本は手書きであり、西洋人、カトリックは一般の人は写本を手に取り読む事がでないようにしていました。

そうすると、パラフレーズ、人=司教の解説で聖書に書かれている

意味、内容を言い換えられても、聞いている人には分からないのです。

免罪符を買ったら罪許されるとか、司教に罪を告白しないと許されないとか、死者に祈って執りなしするとか、マリアを拝むとか、

聖書とは関係のない教えを、次から次へとどんどん刷り込まれるのです。

宗教とはそういうものなのです。プロテスタントの中にも、聖書ではない教えが数多くあり、カトリックの思想と同じ土台があるので、

違う教えが盛り込まれているのです。

カトリックも、クリスチャンも同じ記念日を祝うのは、土台が同じだからです。宗教活動や、十一献金も神の教えではないのです。

 

人が聖書の教えを解説する、イコールそれを、技術的同等性などと

言っていますが、今も同じです。

どう言う事かというと、個人では手元に聖書がない。

そうすると、司教や教皇、教父たちが、神の言葉を解説する絶対権威であり、それを聖書と教えられてしまうのです。

聖書を今自分が所有していても、目の前にあっても、聖書に書いてないことを、聖書と信じ込んでいるのは、人間の作った宗教の教えの洗脳なのです。

聖書を聖書ではなく、人の思想を通して、曲げて読み込みしているのです。だから、7が1、変化しないのに、変化すると言い続けているのは、その人間が作った教えの偽情報を信じているせいです。

99か条の論題もルターがカトリックに対して、これは聖書ではないだろう!と突きつけた、それほど、腐敗した思想に汚染されていたのです。

その腐敗の大元は、偽物の土台=神の教えが廃れた!と言う勅令

いや廃れたと言わず、モーセの五書、トラーに記されたユダヤ的な

こと、一切実践するなかれ!と1世紀当時から、処刑、重税、

投獄を持ってローマ帝国がローマ帝国支配下にある市民全員に

禁じられたからです。

とにかく、人が神の教えに手を加えた事、これが問題の大元であり

プロテスタントの教えは、イエシュアが教えた教えとは同じではありません!土台がカトリックと同じ思想、人造宗教だからです。

 

この事実を、クリスチャンは知らないとならないのです。

神の言葉を変えたのはローマ帝国であり、神ではない!

こんな簡単な事実が、聖書が目の前にあるのに全く伝わらないのは、昇天以降、より優れた新しい教えが出現したとか、初めて聖霊が与えられたとか、空想話作り話を教えられているからなのです。

 

最初から同じ!エデンの園、永遠の中から同じ!と言う聖書にかいてある通りの理解がないと見えないのです。

しかも、人間が語る聖書ではない聖書解説で、神の言葉の真実を

曲げ続けて教えられてしまうので、ますます聖書に書かれた真実を曲げて考え続けるのです。

ヘブライ聖書、聖書に聖書と書いてあるのは、モーセの五書、諸書

預言書を指して、聖書と書いているのです。

この事に先ず気がついて下さい。

そして、神はユダヤ人に神の言葉を瞳のように守る〜それは神の言葉を一点一画も変えない!という厳重な役割を与えたのです。

聖書を記した預言者は全てユダヤ人です。

使徒の書簡も、ルカはヘブライ的背景がある人です。

福音、神の教えは、ユダヤ人から世界へ伝えられたのです。

そして、異邦人により変えられてしまった。

遺伝子を人が操作したら、元の原型は現れ出ず奇形が現れ、元の

デザインは現れ出ないでしょう。それと同じです。

守るという言葉は、神の言葉を厳重にガードして変えないという事と

もう一つ、神の言葉で伝えた教え通りを、そのまま生きる!という

2つの意味で、守る、シュモウとヘブライ語で書いてあるのです。

 

ヘブライ聖書、聖書に聖書と書いてある、モーセの五書、預言書

諸書を、頭文字をとって、タナッフと発音しますが、英語圏では

タナックと発音したりします。

創世記〜マラキを指して、聖書=タナッフと言います。

その箇所は、律法学者とマタイ以降で訳されていますが、スクライブ

書写学者と言って、タナッフを書き写す厳重な訓練を受けた人が

できるものなのです。

もちろん、彼らはタナッフに記された意味を、しっかり学ぶ、当然の学びを十分した上で、そこに記されたことを厳重に書き記訓練を受けているのです。

そして、ヘブライ語で記された創世記〜マラキは翻訳とは違うのです。元の言語そのまま、文字数も同じ、書く人により内容は変わらないのです。ピッタリ同じなのです。

 

写本も、厳重に3人の筆者と、そして監督と何人もいる中で、

1つの巻物を一年近くかけて、最新の注意を払い仕上げるのです。

そして、ちょっとでも間違ったら書き直しをするのです。

書き直しをしないものは、訂正があるので、値段的に安くなるという

のがあります。

死海文書と今のヘブライ聖書には、違いがないのです。

 

言いたいことは、福音書以降に記されたのは、現在ヘブライ語で記されているのはマタイしか見つかっていません。

そして、異邦人の手に渡ったマタイ以降の写本は、書写学者、専門家、プロが書き記したものではなく、文字が読める、書ける一般の

普通の素人、普通の人が書き写し続けたのです。

しかも、耳で聞いて書き記す事もしている。違いが見えますか?

人が、読んだ通り、又は読み聞かせられた事を記した写本なのです。

どれほどの厳重な注意を持って、書き記したのか不明です。

 

翻訳自体の性質で、翻訳は言語の違いがあります。

プラス、同じ言語、英語でも何種類もの翻訳があります。

そして、聖書をスコッフィールドのように、デイスペンセーション

神学を信奉し、神の言葉が時代ごと、人種ごとに変わる、神の性質も神の業も同様に変わるという神の性質、言葉の進化論を信じる人が

訳し、そしてその聖書のページにずっとダービー思想を書き記されてしまえば、それは人の思想を洗脳するのです。

聖書とは異なる思想を、聖書と思わせるには、書=聖書を書き換える

これで、人を洗脳できるでしょう。

ヘブライ語聖書にはそのような違反はないのです。

 

1844年に見つかったシナイ写本というギリシャ語の翻訳聖書には、14800箇所も間違いがあるのです。

間違いを土台としたら、歪んだ信仰、考えが出てきてしまうのです。

しかも、翻訳者が意図的に元の言葉を変えたり、捨てたり、付け足したり、神の警告に反してそのようなことをするのです。

 

でも、ヘブライ語の聖書は、厳重に守られて来たのです。

そして、聖書に聖書と書いてあるのは、モーセの五書、預言書、諸書のみです。1世紀の人々、マタイ〜黙示録を書いた人達には、

100%モーセの五書、預言書、諸書が聖書、それ以外ないのです。

 

その事実から考えて、マタイ以降が特に、歪められた解説がされている場所であり、歪められているから、モーセの五書を終了、破棄した別の教えと、勘違いを刷り込まれているのですが、最初の部分、

モーセの五書、預言書、諸書に照らし合わせたら、それらは、

どの箇所、どの言葉、どの箇所に対して歪んだ間違った聖書解説が

されているのか、聖書の部分=モーセの五書、預言書、諸書を照らし合わせたら分かるのです。

 

なぜなら、聖書記者、マタイ以降は使徒が書いた書簡ですが、彼らは

100%モーセの五書、モーセの五書を解説する預言書、諸書を指して、引用して解説しているからです。

自分達が考えた、モーセの五書、預言書、諸書とは違う教えなど

使徒達は記していないからです。

だから、ローマ14:5のように、異邦人には、人間が神の言葉

トラーや記念日を変えられない!変えようとするのは、反キリストと

トラー、預言書、諸書にある警告があるのに、その事実さえ理解しないまま、昇天以降は神の業、神の教えが変わった!異邦人とユダヤ人は別の群れだ!こんな聖書とは何も関係のない、神の教えを変えようと試みる反キリスト思想を平気で神の言葉などと受け入れてしまうのです。

それが異邦人、異教徒、異教の神々、神の教えを知らない人達が

簡単に騙される、それは神の言葉の真実を正しく教えられていないからです。

マルコ7章に、これも神の教えが変わったと考える人が、

原典にない文章を入れて、神の教えが変わったという印象操作をしている良い例です。

ウエスコットやホートンのような翻訳者が勝手に塗り替えた翻訳だけを読んで、もし翻訳聖書に書いてある内容が臭い、イエシュアが

食規定を破るように教えたようにかいてあったら、その場合は翻訳が

間違っているのです。

又は、その箇所に対する解説が間違っているのです。

そのような、箇所は、マタイ以降にたくさんあるのです。

最初の部分は変えられません。最初の部分でも、ヘブライ語とは違う

翻訳が施されている箇所がありますが、ヘブライ語は変わらないので

元の言葉に戻れば、何が書かれているのかの真相が確実に掴めます。