"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -83ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人の間に19世紀以上に渡り浸透した教えは、純粋な神の言葉

イエシュアが教えられたトラーではありません。

 

神の言葉の方を人間が曲げて、人間の思想、ローマ皇帝の主張、勅令である、トラーを捨てよ!ユダヤ人のようなことはするな!ユダヤ化

されるな!というコンスタンチヌスの勅令が土台の宗教。

これ、反モーセの五書=反神の教え思想、反ユダヤ思想そのものを

信仰の土台としているのです

 

そのような、聖書とは異なる思想、信条から何が生まれますか?

ある部分は、神の伝える真理が点在していても、神の言葉を否定した土台からは、歪んだ建物、歪んだ信仰が出てきてしまうのです。

神の教えが廃れたという異端的思想、異端とは、神の言葉=聖書ではない別物の思想、歪んだ教えです。

 

聖書ではないことを信じる思想からは、どんなに上手く説明しようとも、神の言葉が廃れたという聖書解説しか出てこないのです。

神の言葉が廃れた=嘘、歪んだ砂の土台に歪んだ建物を建ててしまうのです。

イエシュアがメシア=神であると信じない人(ローマ)が、翻訳をするから、イエシュアがこの世界を造られたという言葉を端折る。

神の言葉が神が伝える通り、永遠普遍と信じない、ダービー思想=

神の言葉、性質、業の進化論を信奉するスコッフイールドが、

聖書の聖句の1つ1つに異端的思想を書き込んで、それを聖書として出版した。

このような神の言葉に対する違反を通して、偽情報は拡散されて来たのです。神の言葉が正しく伝わらない、偽情報で妨害されているのです。

詰まり、聖書の翻訳だけでなく、聖書を解説する人が、正しく聖書を理解しない状態であれば、神の言葉が廃れた、神の教えには2種類

別物がある、イスラエルと異邦人は別の群れ!という思想を信仰の

土台にする人が聖書解説をすれば、それは聖書ではなく、人の思想を聖書に語らせると言う歪んだ間違った聖書解説をしてしまうのです。

 

それが、異邦人の世界に浸透した、ローマ教、置換神学や、

デイスペンセーション神学であり、ギリシャローマ西洋哲学思想、人の言い伝え、

聖書とは異なる異物の教えであり、ヘブライ思索で書かれたヘブライ聖書=純粋な神の言葉は、その思想を信じる解説からは、正しく現れて出てこないのです。

だから、ユダヤ人と異邦人が聞かされている神の教えと、神の記念日の実践が全く異なるのです。今もそうでしょう。

イエシュアが教えた教えを律法、廃れたと主張し、イエシュアが祝ったシャバット、

新月、祭りをクリスチャンは捨てて祝わない事で、それを証明しているのです。

1つ神の大家族が2つに分裂する人間の創作ストーリーを聞かされて、聖書とは異なる教えをバッチリ刷り込まれているのです。

聖書は、バラバラだった神の民が、最後は1つ神に1つの家族として

引き戻され、修復される、それが聖書に書かれた、エデンから出て

エデンに戻る、神の壮大な修復計画なのです。

 

今はイスラエルの国だけが唯一世界の真ん中で、イエシュアが教えた

トラーをガードして生きて、神が創造されたシャバット、新月、祭りを祝っているでしょう。

でも、未来イエシュアが戻られたら、イスラエルの敵対した国も

全世界の人々が神の祭りでエルサレムに上ると預言されているのです。

世界中の世の光=イエシュアを、地上で正しく反映させる民族を神が

選び出したからです。

ユダヤ人はメシアを知らない?そんなことは、ありません。

クリスチャンが、ジーザスを信じながら、イエシュア=生けるトラーであり、イエシュアが神の言葉そのものと気がついていないのと同じことなのです。聖書の事実を正しく理解していないのは、同じ。

 

多くのユダヤ人は今イエシュアが、タナックに記されたメシアであることを発見しています。

それは、一世紀の時以上の数をはるかに上回る数なのです。

そして、タナック=トラー、預言書、諸書に記されて教えられて来た

メシアが、2000年前に来られたメシアであるという認識ができてない人がいるのです。

今もイスラエルは、メシアの到来を、着々と準備してるのです。

第三神殿はもう準備が整っているのです。メシアを知らないのでは

なく、2000年前に来られたイエシュアが、タナックに記された

メシアであると、認識していないだけです。

それは、当時の弟子たちもそうだったでしょう。

メシア=イエシュアと分かっても、メシアはローマ帝国の軋轢、

弾圧、迫害から救い出して下さる王の王として来られたと思っていたでしょう。永遠にそのまま地上で、神の国を建設して下さると。

彼らは、苦しい生活、弾圧から救い出して下さる強い王である、

メシアを待っていたからです。

でも、王の王であるイエシュアが統治される世界、それは再臨の時

なのです。最初は、悩める、苦悩を負うメシアとして来られたのです。

その点、タナックに記されたメシアの役割、最初の到来と、再臨と

彼ら使徒達もはっきり理解していない、分かっていなかったと言う

ことなのです。

 

ルカ24:25 そこでイエスが言われた、「ああ、愚かで心のにぶいため、預言者たちが説いたすべての事を信じられない者たちよ。

ルカ24:26 キリストは必ず、これらの苦難を受けて、

その栄光に入るはずではなかったのか」。

ルカ24:27 こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、

聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、

説きあかされた。

 
意識を、神が語る永遠の真実に向けると見えます。
聖書に登場する人が知って、学んで、生きていた聖書とは、モーセの五書、預言書、諸書だけ!これが神の教えの完全版だからです。
彼らは、マタイ〜黙示録など知りません。
それらは、個人に宛てて書かれた書であり、昇天後、400年後になって聖書として認識されたものです。
聖書の最後の25%の注解書がたとえ無くても、神の教えの全貌は
完全に理解できるからです。
聖書に聖書とあるのは、神の言葉の完全版=モーセの五書そして、
その解説の預言書、諸書で聖書であり、完全だからです。
そこを理解すれば、神の教えを理解できるからです。
なぜなら、それが神の言葉、教えの完全版、本編教科書、本文の契約書だからです。
マタイ以降は、最初の部分、タナック=モーセの五書、預言書、諸書
の短い短い短い注解書にすぎないからです。
マタイ以降には、神の教えを塗り替える、破棄する、終了した別の
新しい教えなど1つも書かれていません。
モーセの五書とは違う、モーセの五書を破棄した、別の教え、別の
契約など書かれてもいません!別物の教えがマタイ以降に記されている、書かれていると信じているのは、偽情報を土台とした空想、
間違った聖書解説を聞かされているからなのです。
 
間違った聖書解説、神の言葉が廃れた、シャバットが日曜礼拝に
変わり、食規定も破棄され、罪の定義も消えた!そのような教えは、
聖書に1つも書かれてなどいません。ぜひ、その事実を
聖書から、発見してください。神は人に嘘をつきません!
聖書を間違った捉え方をしている原因は全て、聖書解説する人が、
間違った聖書解説、歪んだ無理な解釈を勝手に施し、言い続けているからなのです。伝統で浸透した教え、思想が聖書だと思い込んでいて、間違った読み込みをしていることにさえ気がつかないままなのです。
その原因は、モーセの五書、預言書、諸書を正しく学んでいない
代償なのです。
正しく記された教科書を捨てて、人間が考えた思想=神学だけを学んだら、それは、当然、正しい聖書理解などとは程通り、人間の作った宗教の教えに洗脳されたままになります。進化論と同じなのです。
学者が、偽仮説=進化論を本当のごとく教えて、それを聞いた人が
進化論を信じる、この構図、カラクリと同じです。
 
神の言葉を、廃れた、破棄された、今は関係ない教え、無用、無効と
言う時点で、それは神に対しての反旗を翻した、神に敵対するものの
声を復唱させられていることに、聖書からはっきり気がつかないと
危険です。
神以外の人が、又は蛇が神の言葉を歪めて語る行為、それこそが
人を罪に陥れ、神の臨在、関係から引き剥がし、破壊に向かわせる
戸口を開くものなのです。
神が言っている言葉を、どうして否定するのか?
クリスチャンも、イエスキリストは昨日も今日も永遠に変わらない!
とそう宣言し、そう信じているのではないのですか?
イエシュア=神=聖霊=言葉なのです。
それなのに、イエシュアは、昇天以降変化したと信じているのですか?完全に聖書とは異なることを信じていると、聖書だけに戻れば、矛盾だらけな教えや、思想を教えられていることに、はっきりと気がつくことができます。問題は、聖書に立っていない!全部100%
神の言葉を完全!と信じてないことが問題なのです。
神が神の言葉は永遠に廃らない!と言っているのに、どうしてそれを
本気で信じて、神が言われた通りに神の言葉を、クリスチャンは
取り扱わないのですか?不思議に思うべきなのです。
 
人の間でも、もし誰かが何かを人々に伝えている時に、横から
割り込んで、しゃしゃり出て来て、この人の言っていることは、違います。今は変わりました!これこれこれです!などと、他人が人の
言葉を遮り、自分がその人を押し除けて主役になり、相手の考えを
言い換えるようなことをしますか?そ
のような無礼なことをしますか?しませんよね。
その本人が言うことが、その人の伝える真実なのです。
神が人に神の言葉で伝えていること、神の言葉は永遠に変わらない
廃らない!それが真実であり、人間が神の言葉を言い換えても
それは嘘、偽情報です。
それと同じことを、人間が神に対してしているのです。
 
人が書いた書物、手紙、原稿、記事、何でも、書いた人以外勝手に
付け足し、差し引き、内容を変えて良いと考えているのですか?
そんな無礼なこと、普通の常識がある人は、しません。
意図的に偽情報は今流されていますから、巷に流れる情報を、
何でも鵜呑みにして信じてはならないのです。
ユダヤ人には罪でも、異邦人には罪ではない生き方がある?
古代は罪だったけれど、今は律法が破棄されて、今は罪ではなくなった?罪の定義が全部消え恵も、イエシュアの救いも消えたから、
今は異邦人は何しても良い?罪が罪では無くなった?
意味不明な聖書解説がされてしまっているのです。
 
聖書に書かれている罪の定義は、永遠に変わりません。
罪とは、人が考える道徳的な犯罪だけではなく、神の創造された性質デザインとは異なること、神の意図とは違うこと、それを罪=ハタ=的外れと言うのです。
神のトラーに反する行為を、聖書では罪と教えているのに、罪の定義さえ、クリスチャンはごっそり捨てて、神の教えに違反し続けているのに、それに気がつかないままなのです。
道徳的な事と思える以外の全て、人の生き方の全て、神が創造し
デザインし、イエシュアの性質通りの人の生き方とは違うこと
全てハタ=的外れなのです。道徳的なことなら、普通の人でも理解しています。人がどんなに上手く解説しようと神の言葉を、真っ向から別のものに塗り替える行為こそが、ハタ、的外れな考え、行動なのです。
神の言われる通りを、そのまま聞いて、生きることをしない。
神に対する反抗の態度、行動でしょう。それは。
それが、エデンの園の事件であり、バベルの塔も同じ、ずっと同じ
問題の根は、人間が神の言われたことを、勝手に変えること。
それが西洋宗教を作ったこと、同じなのです。
 
十戒と訳されている、元の言葉は、ヘブライ語では10の言葉ですが、これらは、聖書の土台、タイトルです。
10のタイトルの意味を、モーセの五書全体で説明しているのです。
そして、ヨシュア〜マラキは、モーセの五書を歴史の中に起きたこと
様々なことを通して、神の知恵を生きる実際を解説して、教えているのです。
100%全て、聖書は、モーセの五書のみだけを、語っていると言う
事実を知らないのは、最初の部分75%を読みもしない、もちろん
ヘブライ聖書を教えられてもいない、いや教師がそれを教えてもいないし、正しく教える人がいなかったからなのです。
昨日も言われましたが、クリスチャンは、聖書の最初の部分など
殆どの人が読まないよ!と言っていました。そうだと思います。
読まない、いや学ばないと分からない、その中に神の深い考え
教えが全部記されていることにさえ、気がつけない。
マタイ以降には、トラーの抜粋が書かれており、神ご自身がご自身である言葉を否定したことなど言うわけないと言うこと、基本中の基本の理解が異邦人、異教徒育ちの人には通じないのです。
最初を知らない人には、マタイ以降、トラーが記されているとさえも
気がつけないまま読んでいるのです。
神の教えを最初から知らないからです。使徒15章の異邦人イエシュア信者と同じ。イエシュアを信じたけれど、神の教えを知らないから
汚れた生き方を続けて、神の教えを生きることを知らない人たち。
 
聖書は、最初から最後まで同じ意味、同じ教えが記されています。
聖書に姦淫の罪と書いてあるのは、黙示録の最後まで同じです。
高きところの礼拝とは、異教の神々は丘や高い場所に礼拝場所を
設けて、そこで子供を生贄として捧げたり、神殿娼婦と交わったり
おぞましい礼拝をしていたのです。
彼らの儀式、習わし、シンボル、記念日、礼拝のやり方それらを
イスラエルも取り入れて、イスラエルの神を拝んでいたのです。
イスラエルは何も、イスラエルの神を、頭の中から完全に外したのではない。
エジプトを出たイスラエルがエジプトの太陽神のシンボル、金の子牛
を作り、それを通してイスラエルの神の祭りを祝ったと書いてあるでしょう。それです。
自分たちの考えで神に近づくこと、それが偶像礼拝なのです。
別物は悪霊です。聖霊以外、どんな宗教でも全部悪霊です。
だから、交わってはならないのです。
なぜなら、グレーゾーンの中間の霊などないからです。
もちろん、人間が考え出した神々は実在しません。
そして、人間が編み出して、考えた宗教の教えは、イエシュアを正しく表さない、反映しない、別物の地上に表してしまいます。
本体を正確に表さない、宗教の影を人に表し、見せてしまうのです。
それらを、悪霊が利用するのです。直に、悪魔崇拝教もあります。
カトリックも死者との交流、死者の為の祈りなどあるでしょう。
それらは、姦淫の罪と神が言われる、別物に交わること、
別物を通して、イスラエルの神を礼拝することなのです。
それを、イスラエルがやっていた。神の教え=契約に根付いた生き方を破って、1000年近く、その後、アッシリア、バビロンに捕囚の
民となって散っていった歴史があります。
それを、クリスチャンは完全に他人事のように考えているのです。
なぜなら、イスラエルが生きられなかった厳しい律法は今は
十字架で処分、破棄され無効となった、関係ない教えだ!昔の話。
今はそれらの厳しい律法の教えから解放され、別の教え、聖霊により生きる?と意味不明なことを考えて、聖書ではない教えを信じているのです。
イスラエルにとって、偶像礼拝、神が言った、「わたしの顔の上に
別の顔を置くな!」とは、神の実態とは違う、偽物の教え、人が作った宗教を通して、神に近づくなかれ!近づけません!と、異邦人にも全く同様の意味で、神は今日も同じ教え、警告を異邦人に同様に
伝え、教えているのです。