この記事の最後に、ユダヤ人がイスラエルの国が、神により世界の中で選び出された、神の聖別された国である理由を解説しています。
そして、神が聖別された国には、汚れを持ち込めない。
汚れた生き方をする異教徒たちと、神の聖別された国では妥協して
生きてはならないこと、偶像礼拝、姦淫の罪に汚染されることを
神から厳重に教えられているのです。
イスラエルがそれをした時に、イスラエルから、イスラエルの国を
神が取り上げたのではなく、聖別された地から、汚れた生き方、
契約に根付いた聖別された生き方から外れた、イスラエルが、
吐き出されたのです。
それは、神が与えた契約の意味を正しく理解しない、異邦人、異教徒には全く通じないものです。
神は、神が伝える神が創造された、神の似姿=イエシュアの性質
そっくりの人が生きる、生き方を教えています。
それは、神が創造主であり、人をどのような性質に造り、どのような
生き方をするということを定義し、教えることができるのは、
神のみなのです。
それを、人間が勝手に、デザインされた神ご自身の作品=人の生き方を、別ものの生き方に言い換えて、別物を生きて、神を汚し続けて
きたのです。
クリスチャンが完全に誤解しているのは、イエシュアを信じているのに、神が伝える教えが、イスラエルだけへの教えであり、マタイ以降には、トラーとは違う別の教えが書いてあるという、超大幻想を
信じていることです。
イエシュアを信じた、イコール、同じイスラエルの神に戻り、
同じ1つの大家族に加えられ、同じイスラエルの神の家の家訓を生きる、こんなシンプルな事実が、宗教の教えで曲げられて、クリスチャンには全く通じなくなってしまっているのです。
イエシュアはユダヤ人であり、ユダヤ人の王であり、イエシュアを
信じること、イコール、同じイスラエルの神、アヴラハム、イサク
ヤコブの神に繋がった1つの大家族に養子縁組されたのです。
だから、誰でも、イエシュアを通してイスラエルの神=父の元に
戻った人は、もれなくアヴラハムの子孫である!と書いてあるのです。
その意味が全く通じないまま、異邦人の世界に伝えられた教えは、
ローマ、西洋、コンスタンチヌス創作の宗教、まがいもの、まざり物
不純物、添加物満載の別物の教えが混ざった不純物の宗教であり純粋な神の教え、イエシュアが教えて、生きた父の教えなどではないのです。
イエシュアはカトリックやキリスト教という宗教の教えを教えに
きたのではないのです。父の教え=トラー=モーセの五書に記された
契約に根付いた生き方を教えに来たと言い続けていたでしょう。
聖書さえ読まない、最初の箇所など実際に何が書かれているのかも
よく知らない。聖書の最初の部分を、殆ど読まない、もちろん書かれている意味通りに正しく教えられていない、学んでいないのなら、
どうして神の教えを理解できるのでしょう?
正しい導き、手引き、教師がいなくてどう理解できますか?言った
でしょう。使徒8:31
マタイ以降は、最初の部分をよく知っている人〜ユダヤ人の大衆に
対して書かれているものなのです。
イエシュアも言われたでしょう。失われたイスラエルの羊のところ
だけに、遣わされたと。使徒15に出てくるような異邦人のところに
行っても、意味が通じないからです。契約を受け継ぐ代表者のところに来られたのです。
マタイ以降の登場する人全て、彼らの教科書は、モーセの五書、
預言書、諸書のみだからです。
それだけで、神の完全な言葉、聖書の完全版だからです。
マタイ以降は、イエシュア昇天後、400年以上後になり聖書と
して認識されたものであり、しかも、それらは使徒達が書いた書簡であり、預言者が書いた聖書ではないのです。
どういう意味かというと、聖書を記したのは、ユダヤ人の預言者です。聖霊により、彼らは神の言葉を書き記しました。
マタイ以降は、預言者が書き記した神の言葉を塗り替えることなど
しない、別の教えを記す預言者など登場していないのです。
預言者たちが書いた神の教えの短い、解説、註解が、使徒達により
記されているのが、マタイ以降なのです。
しかも、その箇所はギリシャ語写本ですが、マタイだけがヘブライ語の写本が発見されています。
ヘブライ語の、モーセの五書、預言書、諸書は、ユダヤ人の書写学者トラー学者は、翻訳では、律法学者などと訳されていますが、
もちろん書写をした学者は、トラーを熟知した学者であり、その人達は、特別な訓練を受けた専門家であり、プロなのです。
素人にはできない。
羊皮紙に、一文字一文字、間違いやずれがないこと、完全に一致しているように書き写す作業をするのです。
一人ではなく、最低3人、そしてそれを監督する専門的なリーダーが
つきっきりの作業なのです。
一つの巻物を1年以上もかけて、書くのです。
間違ったらその箇所を消して書き直すということをするのです。
大変な作業なのです。
死海写本でも分かる通り、1946年から1956年の間に発見されたものですが、イエシュアが来られる300−400年前のものと推定されています。
その時代のものが、現代のものとほぼ、一致している正確さなのです。これは、神業なのです。
マタイ以降の写本は、文字が書ける素人、一般人が書き写したものです。
元の著者、使徒やパウロ、ペテロなどが書いたオリジナルのものは
もちろん今はないのです。写本も古くなれば破れてしまうのです。
全て、手書きですが、専門家ではなく、素人が書き写したものが
マタイ以降の、ギリシャ語の写本です。
マタイ以降に、ヘブライ語ではないギリシャ語翻訳の中に、
不適切な翻訳がされたり、原典にない文字や文章が挿入されたりして、鉤括弧などついている箇所がありますが、クリスチャンが教えられている、神の教えが変わったという箇所、内容は以下のようです。
1)安息日が日曜礼拝になった 2)食規定が廃止された
3)神の教えが十字架にかけられた破棄された
4)古い契約が廃れた
などなどと、解説されている、それらもれなく全て100%、完全
なる間違った聖書解説であり、聖書に書いてある意味とは、全く違う解説を翻訳者が施しているだけで、神は神の言葉を変えていません。
未来、イエシュアが戻られたら、神殿の祭壇に於いて、再び動物の
コルバンが捧げれる時が来ると預言されています。
コルバンは、罪の許しのためではない、実体験で、イエシュア、メシアの贖い、救い、許し、祝福、和解、全てを教えるための、教育
ツールだからです。
そして、イスラエルに敵対した国々が、神の祭りにエルサレムに
上ってきて祝うようになると預言されているのです。
クリスチャンの世界で教えられている、空想ファンタジーシナリオ、
神の言葉が破棄されたら、それこそ、神が伝える未来預言も全部消えます!あり得ないことを、真実と信じ込める、これこそが洗脳という
以外の何ものでもないのです。
もし、神の言葉がクリスチャンが主張するように廃れたら、神の教えや罪の定義、聖別の定義も破棄されたら、神の約束も、祝福も、恵みも、全部消えます。罪の定義がないので、それこそ無法地帯になります。そして、罪が罪でなくなるので、イエシュアの救いも、許しも
恵みも要らなくなります!全部なくなります。
そして未来預言の意味が全部消えます!
こんなおかしいな、ズレた思想を、聖書と本気で信じる異常事態。
人の体の臓器を自由自在に取り出せないでしょう。
丸ごと全部で、意図通りに機能するのです。
神の言葉も同じです。クリスチャンが空想しているような、古い教え
新しい教え、神の言葉が廃れたという幻想は、聖書に記されたものではなく、コンスタンチヌス製造の勅令!モーセの五書を捨てよ!
生きるな!という勅令なのです。これは1世紀の他のローマ皇帝たちも勅令として、神のトラーを人に生きさせないように、人を支配してきたのです。
正しく歴史の史実を学ぶ必要があります。ユダヤ人が大量虐殺されたのは、ダニエル書に記された預言通りに起きた、ギリシャ帝国による反キリストの弾圧でも同じ、神のトラー=教えを捨てさせ、神の時
モアデイムを塗り替えて、ゼウス神を崇拝させることを、聖別を汚すことをやらせ、神のモアデイムを祝うことを禁じ、それを強要したのです。同じことが、歴史の中でずっと繰り返されているのです。
教科書の全編、本編を捨てて、後書きだけ読んでも、そこに書かれている意味は、よく分からないまま、ぼやけます。
なんとなく、字面でそうだと、理解したと思っているだけで、
神が伝える意味を理解できないのです。
ペテロが語る、神が聖であるから、聖なるものとなりなさいと
言われても、実際にそれがどういう生き方なのか、クリスチャンは
神の教えを最初から捨てているので、実は知らないし、ペテロが言うレビ記に記された聖別された人の生き方などしてもいないのです。
ペテロが語る聖別された生き方とは、レビ記11−27章に記された
通りの生き方だからです。神が伝える聖別の他の定義などない。
神の教えを本当は理解してない、知らない、いや異邦人は最初から
神の教えをその通りには生きていません。
代わりに、ローマ帝国が作った宗教の教え、実践、シンボル、儀式,
記念日を代わりにして、聖書を利用してある部分、神の教えを理解しているのですが、根本が、人間創作、由来、別の宗教なのです。
イエシュアが教えた通りのトラーを知るユダヤ人には、それらの実践は、ローマ帝国教、偽物のメシアを信じる集団としか映っていません。だから、ユダヤ人は、異邦人クリスチャン全てに対して、
「カトリック」と呼ぶのです。
そうです。カトリック、世界教を作ったのは、ローマ帝国皇帝だからカトリックと言う、その通りです。
イエシュアが教えた、アヴラハム、イサク、ヤコブ、イスラエルの神の言葉、トラーとは全く違うものだからです。
真理の片鱗はあっても、根本、土台が違うのです。
神の教えを、曲げて、捨てて、塗り替え、別物の教え=人間の教えを混ぜた人間の教えの土台=西洋宗教。
神の教え=神の言葉=トラー=モーセの五書が土台だからです。
神は最初から、神の民とそうではないものに対して、区別、境界線を
敷いています。一緒くたで、区別がなかったら、何が何だか分からないのです。光と闇を分けたように、区別があるのです。
異邦人の間に浸透した教えは、人間が神の言葉を真っ向から覆した
思想を土台としたローマ皇帝が作った宗教です。
もし、神の教えを捨てたら、神が伝えている意味は伝わらないままになります。
聖書の最初の部分が、聖書で語られている聖書であるのに、その部分を捨てて、最後の解説だけ読んで、そして最初の75%の聖書箇所の
解説にすぎないマタイ〜黙示録が、最初の75%を覆す、塗り替える
別の教えが書いてあるという幻想、偽情報を土台に神の教えは
変えられた別の教え、今は古い教えは関係ない!などという思想を
土台にしていれば、それは、聖書=神の言葉を正しく理解などしていない路線にハマったままになります。
聖霊が内側に住まわれていても、自分の脳内、脳回路、思考回路が
神の教えでは無い別の思想で覆われたいたら、それは、神の言葉を
正しく理解できない状態に留まるのです。
大体、神に創造されたにすぎない人間が、神の教え=トラーに対して
今は異邦人には関係ない教え、ユダヤ人だけやれば良い教え、
神の教えや、神の記念日は人の意見で変えて良い!こういうことを言っている意味も考えないまま
主張する、神の言葉に対して、人間が物申し、神の言葉を再定義
言い換える行為自体、これこそがダニエル7:25にある、人間が神になり変わる冒涜行為、反キリストの特徴と書いてある意味が、
全く通じないままなのです。
言いたい放題、やりたい放題、神をそっちのけで、人間が編み出したものを通して、それらを勝手に人間が聖別し、知らないまま、
コンスタンチヌスの思想をありがたく受け取り、イスラエルの神の前に出てしまうのです。
神が地上に選び出された場所は、聖別された場所であり、そこには
汚れたものは、受け付けられないのです。
異邦人の中にあるのは、空想のジーザス、なんでも受け取り許す神
これは聖書に書かれているイスラエルの神、イエシュアとは全く
異なる神像なのです。
聖書に書かれている、汚されるという言葉は強い意味のある言葉です。
人や場所、概念などを「汚す」「冒涜する」というかなり強い否定的な意味です。
英語では、to defile a sacred place(聖なる場所を穢す)
文脈によっては性的なニュアンスを含むこともあり、強い侮蔑的・
不快な表現になり得ます。
一旦全て見聞きして、教えられたこと、神の教えに2つ別物が存在し
旧、新という思想、そして、神が変化し、神の言葉も変化し、
神の業も性質も変化するという一世一代の大偽情報を全部削除してください。それらは完全100%偽情報です!!!聖書からそう断言できるものです。
これは、常に頭に浸透していますから、教えられた教えに必ず引っ張られて、教えられた教えを基準に、聖書を読み続けてしまいますが
神の教えを人間が変える、又は変わると考えている時点で、神の伝える真理から外れている、別の周波数、別の教えのチャンネルに繋がっていると意識し続けてください。
イスラエルの神、イエシュアは、異邦人の世界で語られるような変化する神ではないからです。ご自身がそう伝えているでしょう?
神の言葉は永遠に廃らない、変わらない、完全であると言いながら
どうして、真逆な思想を信じ続けているのか?自分ではっきり自覚
すれば良いのです。
教師が偽情報とも気がつかない、知らないまま、偽情報を一般の人に発信していることを知ってください。
純粋に神を愛しながら、神を否定する教えを人に流して、それが正義と思うのは、その教師も偽の教えを信じる教師に教えられ、その負の連鎖が、パウロのようなユダヤ人トラー学者と完全決別した、
二世紀以降、異邦人の世界で今に至る迄蔓延し続けてきたからです。
続く
動画 日本語に訳すとところどころ不適切な訳ですが、
大体のことは通じると思います。![]()