"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -47ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

大晦日、新年、元旦、お正月は日本では盛大ですが、イスラエルは

1月1日は、普通の日で、学校、ビジネスも通常通りでした。

イスラエルのことは、まだまだ、知らないことだらけです。

その土地に住んでいないと、分からないことがたくさんあります。

しばらく行かなければ、日本でさえ、日本人でも分からないことが

たくさん出てきます。

昭和時代は、日本も週休二日制ではなく、半ドンという死語があるように、土曜日は昼で仕事や、学校が終わるというのがありました。

 

イスラエルでは、金曜日が半ドン、午後2−3時迄には、お店、

公共の交通も、全て終わりになります。

アラブ人や、ロシア人の店などは、開いています。

実質、土曜日だけが、完全休業で、日曜日は通常営業、通学の日

正に、聖書の通りに、労働の第一日目なのです。

シャバットになる金曜日の昼間は、シャバットの準備が感じられ、

午後には街が静かになり、人が散歩したり、のんびりした雰囲気が

肌で直接感じられる場所です。

 

イスラエルは、神が選び出した国であり世界の中で唯一分たれた国で

あり、神が聖別された場所です。

未来、エルサレムに確実にメシアが来られます。

一世紀、イエシュアが地上におられた時代には、今、現在のような

ユダヤ教はなかったのです。

もちろん、4世紀にローマ帝国、人間が作ったカトリック、キリスト教なども存在などしていませんでした。

 

1世紀当時、イエシュアがトラー、預言書、諸書に記されたメシアで

あると知った人も、知らない人も、ユダヤ人ならば全て、神の言葉

トラーを生きることを、昇天以降も変わらずに、継続的にし続けていたことが、聖書には記されています。何も、変わっていないのです。

もちろん、イエシュアは、ご自身である神の言葉、教えを否定し、

変え、別物の新しい教えや生き方を、教えに来たのではありません。

 

世界には、様々な宗教がありますが、それらは全て人間が編み出した

思想、偶像、儀式や、慣わしや実践です。

人間が考えついた教えを信じて生きるなんて、馬鹿馬鹿しいと思いますが、イエシュアをメシアと信じながら、人間が考えた教えを生きる

ということを、しているし、できるし、同時に、現在のユダヤ教の

教え、実践も、オリジナルの神の教えとはかけ離れた思想、実践を

しているのです。

ユダヤ人の多くは、人間がメシア、神であることを信じていないそうです。

イスラエルに行ったことがない時、ユダヤ人が皆神の教えを生きているのではないよと言われて、それが、どういうことなのか、

良く分かりませんでした。

今のユダヤ教は、トラーではなく、人の考えた解釈を解説すること

タルムードに記された、何何ラビと何何ラビの対話、討論を学んでいるそうです。

その他、ハバッドというグループがあるのですが、ある人がメシアであると信じているグループです。

このグループは、世界中に点在していて、異邦人に対して割と親切であり、彼らの思想を広めようという伝道意識を持っています。

又、大きな都市ならば、ユダヤ人協会という組織があります。

 

いずれにせよ、神が与えた神が創造された世界と、神の似姿に造られた人がどう生きるのか?ということから、多くの人がかけ離れて

生きている、それが今の終わりの時代であることは、聖書に記された

預言通りです。

今の時代以前も、最初の最初から、神の教えから外れた結果、同じ

ズレが繰り返され続けています。

世界には、闇の覆われて見えなかったもの、人の罪の結果を生きること、それが顕著に表面化し、堂々と偽物を生きて、発言し、行動する

人々で満ちています。

問題の大元は何なのか、それは同じ1つの原因です。

1)「自分が誰か」ということが分からないこと、

自分の本当のアイデンティティーを失い、分からないことです。

それが、エデンの園の最初にはっきりと、ズレの原因が記されています。

2)神の言われたことをその通りに受け取らず、疑うこと。

そして、神が言われたことは、本当ではないかと思い込む、信じ込むこと。

3)神が言われたことではないことを、本当だと信じること。

嘘を本当と信じて、実践し、生きることです。

4)そして、自分が神の似姿通り、イエシュアの性質通りに造られた人であることを、完全に覆い隠されて、別の自己像を教え込まれること。

問題の原因は、全てここの凝縮されています。

それが、創世記の3章の中に、記されています。

罪の原因、その結果を辿ること、そして、最後メシアによりサタンは

滅ぼされ、元のエデンの生き方に戻ること。

 

宗教の教え、これは聖書を利用して、神の言葉、教えとは違う、

思想、神学を通して、聖書を別の定義に解説することでもあります。

人間が神の教えを塗り替え、作り変え、別の教えを通して、聖書とは異なることを解説すること。

神が伝えた真実ではないのに、人間が神の言葉を定義し直す。

それが、人間が編み出した宗教、西洋宗教、置換神学や、デイスペンセーション神学、神の言葉を否定する思想、神の言葉が終了したと

いう思想なのです。

 

嘘なのに、嘘を本当と信じる、馬鹿馬鹿しいと思うでしょう。

でも、どれ程の人が、この嘘に騙されて、神の教えではない、

真実ではないことなのに、単に人間が編み出した思想なのに、

それらが聖書の真実だと、聖書に書いてもないことを真剣に信じて、実践し、宗教の教えに邁進させられ、縛られたまま、本当の自分を知らない見失い、神の本当の顔、実態を見る、知ることなく生きてしまうのでしょう。自己像の喪失、自分が誰か分からない。

これは、LGBTでも、顕著に分かるのです。

自分ではない性質を、別の性別を自分だと学習し、思い込む。

これこそが、自己喪失です。

自分が誰か分からない、イコール、自分の性別を混乱している状態

だからです。自分ではないのに、自分であると思い込む。

これは、学習から来るもの、周りがやっている罪を見て学習する、

同化すること、又は歪んだ体験をさせられること、誰かに性的虐待

されたことなどを通して、別物を学んでしまうのです。

 

トラーには、神の性質以外を生きることを、断固として禁じているのは、それはその人だけではなく、周りの人に罪、悪、影響を必ず与え汚染するからです。

聖別された民は、そのような行為をする時、仲間から「絶たれる」と書いてあるのは、そのような生き方をしながら、聖別された人の中に

留まり、生きられないからです。

罪=異物を持ち込む、汚染を持ち込む、それを断固として神は禁じています。なんでも受け入れ、仲間に入れる、それは聖書に記された神が定義する愛とは真逆な行為です。

罪を悔い改めない人は、必ず、他の人を汚染し、破壊するからです。

 

イエシュアは、罪でもなんでも受け入れるという、間違った教えが

横行していますが、はっきりイエシュアが、姦淫の現場で取られられた女性に、こう言われたでしょう。

「2度と罪を犯してはならない。」と。

罪犯し続けたまま、あなたを受け取りますなど、イエシュアは言われません。それは、異物、人を破壊するものだから、即座に決別しないとならないものだからです。そして、周りを確実に汚染、破壊するからです。

同性婚など、人間が法律を作って、許可してみたところで、神の前には、死に匹敵する罪であり、NGであり、悍ましい行為なのです。

人のDNAは変えられないし、同性同士は、命を決して生み出すことなど出来ません。神はどのような間柄の人と、婚姻関係を結べないのか

はっきり、レビ記18章で教えています。神の教えを捨てる人は、

神が人に何を教えているのか、分からないままになるのは否めません。神の教えを捨てるということは、罪の定義を捨て、聖別が何か

分からない、人の生き方が何か分からない、神の教えを捨てているから。堂々巡りなのです。

ローマ帝国は、LGBTで、男が女のように弱くなり、自滅したのです。軍隊が機能しなくなったからです。

罪を犯し続けながら、永遠にそれは続かない。

人間が神の教えを捨てて、世界を支配しようとしても、最後はそれは

確実に滅びる、終わるからです。歴史の中に興された全ての帝国も、滅び、衰退して来ました。

神の創造のデザインとは真逆なことを生きることは、神が禁じている行為なのに、今や神の教えを捨てる、自称イエシュアのフォロワーであるという人さえ、そのタイトル、名の通りではなく、罪の中に留まりながら、神と近づけると勘違いしている多くの人がいるのです。

ジーザス信じながら、同時に今もLGBT?それは、親=神の顔に泥を塗る生き方であり、神が拒絶されるのです。

これは、神の責めではないのです。罪に留まり続ける人は、

神の親しい関係の中には、入れないまま、蚊帳の外。

人が、罪に留まる、それは死を意味し、神との関係に大きな隔たりを生み、神との本当の自分を生きることに入れない、安息に入れないまま、人生を無駄に過ごすことをしてしまうからです。

どんなズレも、神との隔たりを生み、それがどんどん広がって行く

のです。それが宗教の教えなのです。

宗教の教えの中には、本当の真実はないのです。

半分嘘、半分本当、それが蛇の騙しなのです。

少しでも、嘘が混じれば、それは人を神との隔たりへ導くからです。