"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -37ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

『キリストの律法とモーセの律法の違い』という解説を

西洋宗教、神学はしていますが、このような解説は、ことごとく聖書とは異なる人の編み出した思想で語られているのが一般的です。

 

神の教え=言葉=契約=人の生き方は、1つしかいない、1種類しかない、変化も進化も別物のない!という、聖書に記された永遠の事実を読み取れない、西洋人の宗教思想で、神の語る永遠の真実が曲げられ続けているのです。

 

そして、聖書は創世記の最初から、黙示録の最後まで、神の同じ教え

一貫して真理が貫かれている永遠普遍の真実、神の言葉しか書かれていないという、聖書に記された事実に盲目にされている場合、

聖書を正しく学んでいないアイルランド人が編み出した思想、

七変化の神、七変化の神の言葉、変化する神の性質と、変化する神の人に対しての7つの時代の別の対応、変化する救い、贖い、赦しの方法、イエシュアの地上到来以前と、以降とで、神の教えが破棄された、廃れたという、聖書ではない教えを、聖書を教える教師がずっと教え続けているのです。

 

偽情報、偽の教えは、教師がしているのです。

なぜなら、一般の人は、人に物を教えないからです。

進化論は、科学者、教師が、学校の講壇から教えているでしょう。

聖書ではない教えは、西洋宗教、ローマ帝国、西洋人が編み出した

神の言葉を破棄したという嘘、偽情報を土台とした宗教が、

今の時代の神の言葉だと信じている教師達が、拡散し続けているだけなのです。真実ではない、仮説を人に教えている。

 

よく考えれば分かります。ローマ帝国が作った、神の言葉を政治上の

都合から、イスラエルの神の教え、異邦人には馴染のない異物の教えを否定、破棄した教えとして、その思想を土台に作られた宗教は、

神の言葉に対して、とことん人に間違った意識を与え続けて来ました。

変わらなくてはならないのは、人の内側であることが神により教えられているのに、宗教の教えは、神の言葉の方を、変わらなくてはならない悪者に仕立て上げ続けているのです。

それは、神の言葉は難しい律法、人を縛る教えであり、神は律法に

より人がどれほど、神の教えを生きられない無能、ダメな罪人なのかを、神が人にとことん教えるためであったという、教え方をするのです。

日本人が、日の丸に関して、日本の国に対して、他国の人のように

誇りを持たない、その意識は、戦後、日本人は、どれほど酷いことをしたのか!という、戦勝国による洗脳教育のおかげなのです。

海外に行くと、どの国も、大きな旗を高く掲げています。

これは、本当です。日本では、そんなもの見たことなどありません。

それと同じく、間違った聖書、混ぜ物宗教の教えの教育のせいで

神の言葉に対して、多大に誤解した意識を異邦人は受け付けられて来たのです。

そして、どれ程人が罪人なのかと、そればかり強調しているのです。

神が人をどう見ているのか、神の業で新しくされた本物の自分を

教えているのに、人間の教えは、神の教えを遮り、違う意識を植え込み、人間が作った宗教活動に邁進させ、神の言葉を正しくなど

教えられてもいないのです。

 

その代わりに、人間の編み出した思想、宗教、神学を徹底的に

教え込まれて、それを教えられた教師が、一般の人に、今も今日も

神の言葉を否定、破棄したという教えを、堂々と言い続けて

神の前に大冒涜行為、発言、行動に対して、罪の意識がゼロ、

無感覚状態、神が与えた自由の福音を伝えているなどという、

幻想を信じているのです。

 

西洋宗教、デイスペンセーション神学や、置換神学を聖書、神の語る真理であると誤解し、勘違いしている場合には、聖書に書いてあることが、神が伝える通りには、理解できません。

クリスチャンになると、数字も、文字も、書かれている通りには

読み取れなくなくなるのか?と不思議に思わないとなりません。

 

7と書いてあるのに、1と読み変え、読み違えているでしょう。

学校の教科書や、普通の本に7と書いてあったら、7と読むのに

聖書は違う読み方をするように教えられてしまっているのです。

聖書に書いてある通りには、読んでいないことを、自分で気がつけば良いのです。

神の性質は、神の言葉は永遠普遍、変わらないと書いてあるのに、

歴史の途中で変わると、聖書に書いてもないことを、本気で信じている、偽情報、その不思議、嘘から目覚める必要があるのです。

 

AIに聞いてみました。

<キリストの律法とモーセの律法の違いは何ですか>

 

以下のように、回答されましたが、人造ローマ教、その思想を土台とする神学が語るように、聖書を正しく理解しない解説がされています。

 

問題の根は、神の教えは、トラー=モーセの五書に記された神が創造された人の性質を生きる教え、1つしかない!という、永遠の事実を

先ず知らないと、聖書は正しく理解できません。

エレミヤ31章にある、「新しい契約」、イエシュアが過越の祭りの晩餐処刑される前に、弟子達に対して言われた、「新しい契約」を

結ぶとは、同じ神の契約=シナイ山で与えらた神の永遠普遍の婚姻契約、中身は何も変わっていない事実を、聖書から正しく捉えないとなりません。シナイ山で与えられた契約以外、神の家に生きる契約

家訓は、この世には存在しません!そんな別物の聖書は存在しない!

 

未来、頭脳の中に、神のトラーが刻まれ、このブログに書いている

ように、神の言葉は破棄されない!永遠普遍です!と言わなくても、

そんな基本的なことを、皆が理解し、誰も主を知ろう!と言わなくても、神の教え、言葉を理解した状態になっている、その人達に対して

再更新される同じシナイ山の契約を指して語っているのです。

それなのに、聖書にはない、この世に契約書として存在しない、

シナイ山の契約書を塗り替える別の契約が与えられた!と、

存在もしないものに対して、存在しているかのごとく、新しい教えが出現したのだと語るのが、ローマ帝国、異邦人=人間がより集まって、宗教会議、聖書ではない教えを数々編み出した、そんなまやかしは聖書ではないとも、気がつけないほど、神が伝える言葉=真実から遠く離れてしまったのです。

 

AIは、解説します。これがキリスト教の教えです。

『モーセの律法は旧約聖書に記された古代イスラエルの具体的な

生活、規範(儀式、清浄規定、十戒など)で、神との契約の証ですが、キリストの律法(新約の愛の律法)はイエス・キリストが説いた「愛」を本質とする内面的な原則であり、モーセの律法の精神的な

完成・成就とされます。』

 

なんとなく読めば、そうかな?と書いてある意味を解説もできないまま、納得してしまうでしょう。

 

モーセを通して与えられた神の教え=トラーは、イスラエルの神の家

聖別された民、その契約を受け取った代表者はイスラエルです。

イスラエルが全民族の手本となり、神の教えを正しく教えて生きることをしなくてはならない人なのです。

でも、異邦人も同様に、アヴラハムに与えられた約束通り、誰でも

イエシュアを通して父の元に戻った人は、同様にアヴラハムの子孫であり、イスラエルの家の神の民、天の国の住人であり、神の家、

天の祝福を受ける共同相続人になったと書いてある通りなのです。

 

モーセの五書には、神の愛に基づく生き方、性質が教えられているのです。モーセが文字で神から記すように託された教えと、メシアの

トラーは同一である!という、事実が理解していないから、

このように、言葉のトリック、モーセの律法とキリストの律法という

言葉で、別物の2つの教えが存在していると、勘違いしているのです。

<イエス・キリストが説いた「愛」を本質とする内面的な原則であり、モーセの律法の精神的な完成・成就とされます。>

とありますが、イエシュアが伝えたのは、父の教え=トラー、モーセの五書以外語らない、生きない!とイエシュアが言われたでしょう。

最初から、神の性質を取り戻された人、エデンの園を飛び出した時

既に、アダムとハヴァも同じ、贖い、救いを受けていた事実が

聖書に書いてあるのです。福音は最初から、永遠から同じだからです。誰一人、イエシュア=子羊の贖いの代価を通して以外、父の元には戻れないとある通りです。

 

<具体的には、外的な儀式や規定より「神と隣人への愛」を重視し、

律法の文字ではなく、その背後にある愛の心(心からの従順)が

重要、という点が大きな違いです。 >

 

トラー=モーセの五書、神の教えは、目に見えない実在する天の国の家を、地上で目に見える形でそっくりそのまま表した、物理的なことを通して、教えたのです。

イエシュアは、ミシュカン=神が住まう場所を通して、五感を通して

体験的に、目に見えない天の現実、イエシュアのされた業の全ての

意味、そして、赦し、祝福、修復の仕方、癒し、全てをミシュカンの中で実体験を通して、教えられ、学んだのです。

それが、見えないのは、トラーを正しく教えられていないからです。

神と隣人への愛とありますが、それはモーセの五書に書かれている

そのものです。

聖書には、モーセの五書に記されていない、神の別の教えなど、

どの箇所にも1つも記されていない!ということが見えない人が、

マタイ以降には、トラーとは違う教えが書いてるという空想、

作り話しを信じて、他の人に拡散しているのです。

 

<モーセの律法(旧約)の特徴

内容: 儀式律(供え物)、清め(食事規定)、道徳律(十戒など)、

市民法など多岐にわたる具体的な規定

目的: イスラエルを聖なる民として区別し、神との契約を維持する

こと。

特徴: 厳格な規則、外的な行動規範、清と汚れの区別が明確。 >

 

モーセのトラー=神の教えは、神が創造された人の生き方そのものを

教えているものであり、これは永遠に変わらないのです。

イスラエルの民を聖なる民と区別する、これが聖別です。

では、イエシュアを信じる異邦人は何ですか?

神がはっきり教えているでしょう。異邦人も、イエシュアを通して

神の家族になったら、イスラエル同様に聖別された民であり、

神の家族である!と書いてあるではないですか。

聖別とは、境界線が敷かれていることです。

区別です。異教の神々に属する民族、人々とは違う生き方=イエシュアの性質通りの生き方に戻ること!

それが、聖書に書かれているものなのです。

それなのに、イエシュアを信じた後も、異教徒と変わらない生き方

神の前に聖別を汚す生き方をし続けているのです。

神が伝える聖別された生き方は何か?それを教えられていないのです。

さらにAIは回答しますが、これは一般にクリスチャンの世界で教えられている教えです。

 

<キリストの律法(新約)の特徴

内容: 「神を愛し、隣人を自分のように愛せよ」という愛の戒めが

中心。

目的: 内面的な動機(愛)に基づいた生き方、神の国(愛の共同体)

の実現。

特徴: 精神的な理解(愛)、内面性(心)、外面的な律法の形式を超えた本質(愛)を重視。 関係性(キリスト教の視点)>

 

神を愛し、隣人を自分のように愛せよ!その戒め、教えは新しい教えですか?違います。

これは、トラーに記された神の教えの引用でしょう。

イエシュアが教えた教えは、100%父の教え=モーセの五書=トラー以外にない!ということが、どうして見えないのか?

マタイ以降しか読んでいないから、そこに書かれていることが、

100%モーセの五書の引用であることにさえ、気がついていないからです。教科書の後書きだけ読んで、本編を読まない人には、書いてある内容は、正しく理解などできないようになっているのです。

ユダヤ人が中心であり、聖書に書いてあることは、モーセの五書

神の教えを理解している人に対して、話しているからです。

「失われたイスラエルの羊のところだけに、父から遣わされた」

とイエシュアが言われたでしょう。

神の契約の中にいない、神の教え=トラーを知らない人のところに

行っても話は通じないからです。

 

形式を生きるなどということを、神は教えません。

儀式には意味があるのです。

誕生日ケーキにろうそくを置いて、吹き消す、それも儀式です。

その年に達したことを、そのケーキで祝っているのです。

神が教える様々なこと、神の家の中で行なわれたことは、

神が教える福音が網羅されている教えを、人が学ぶためにあり、

形だけをやることではないのです。

キリスト教がやる、人間が作った様々なことも儀式でしょう。

儀式は、神の教えを印象付ける、教える、その目的があるのです。

 

神の永遠普遍の教え、それがモーセの五書に記されていて、

それを世界へ教える役割を与えられたのが、イスラエルなのです。

イスラエルだけの教えは、聖書にはありません。

厳密に言えば、神の契約書は、神の大家族の家訓、天の家族の

共同体での生き方なのです。

その中には、様々な教えが教えられています。

それが、神が創造された人の生き方だからです。

第一、モーセの五書を読もしない、何が書かれているのか知らない

まして、その中に書かれている意味も、教えてもらえないなら

何が書いてあるのか、正しく理解などしていない、ということを

知らないとならないのです。