"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -36ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

古代と今、昇天以前と昇天以降では、神の性質、神の教えはどの点が

違うの?何が変更になったの?こういう教えと、そのことに対する

以前と、今とでは何の教え、生き方が違うのか?という疑問があるでしょう。

人の解説ではなく、神が語られた永遠普遍の言葉、聖書からその回答を得れば良いのです。

神は何と人に教えられていますか?

 

詩篇 119:89 主よ、あなたのみ言葉は天においてとこしえに堅く定まり、

<נָצַב定まりとは、ナツアブという言葉であり、これは固定されている

建物基礎、土台のように絶対揺るがないものです。

揺るがない神の言葉に対して、変わる、廃れると言い続けているのが、人間が編み出した宗教の思想なのです。聖書ではない。>

 

 119:90 あなたのまことはよろずよに及びます。

あなたが地を定められたので、地は堅く立っています。

<固く立つとは、クム、永遠に確立され固定され変わらないことを

表している言葉です。>

 

マラキ3:6 主なるわたしは変ることがない。

それゆえ、ヤコブの子らよ、あなたがたは滅ぼされない。

 

<神は変わらない!この言葉は、複製しない、別物にならない

変質させない、変形しないという意味の言葉です。

神の教えを変形させているのは、ローマ教、西洋宗教、神の教えを

人間が曲げて作った宗教、それが色々と変化しているのです。

神の言葉自体は、神が宣言し、人に伝えるように変わらないのです。

こんな基本的なことに、盲目にさせられているのは、ローマ帝国が

四世紀に神の言葉を、冒涜的に勝手に終わった!と主張して作った

人造宗教が出てきたせいなのです。>

 

民数記 23:19 神は人のように偽ることはなく、また人の子のように

悔いることもない。言ったことで、行わないことがあろうか、

語ったことで、しとげないことがあろうか。

 

<神の性質を、神ご自身が語ることを、どうして人は否定するのか?

神は嘘を人に伝えたり、一旦伝えたことを、後で変更しますなどという偽りは言わない!と宣言しているでしょう。

人が神の言葉を言い換える、塗り替える、変える、このようなことをし続けているから、聖書に書かれていることなど正しく理解しないまま、人間の教えを編み出し続け、聖書=神の言葉を人の作った思想で曲げて解説し続けてしまうのです。

そういうことをやめないと、神が語る真実など、目の前に書いて

あっても永遠に見えないままになるのです。>

 
 

イザヤ 40:8 草は枯れ、花はしぼむ。

しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」。

<変わることがないと訳されている言葉は、 יָקֻ֤ם ヤクム

クムとは、固く立つ、確立される、確固たるものとなる

だから、変わらないと訳されているのです。

変わらない、永遠に確固たる事実で揺るがない神の言葉と神が

紹介しているのに、クリスチャンは、変わる変わる!と聖書=神の

言葉とは真逆な聖書解説を聞かされて、それが聖書と勘違いする。

この偽情報の堂々巡りを断ち切らない限り、聖書だけに戻らない限り

どこかで、人の思想で神の言葉が薄められ、歪められ、神が伝える

ことが、その事実通りにクリスチャンには伝わらない、この状態が

ずっと続いているのです。>

 

ヘブル13:8 イエス・キリストは、きのうも、きょうも、いつまでも

変ることがない。

 

<イエシュア=神=聖霊は、永遠に変わらない!聖霊により書かれた神の言葉は変わらない!

聖書を、書いてある通りに読めば、神が人に何を教えているのか

見えます。神が一度でも、神は永遠に変わらない!神の言葉も変わらない!と宣言されれば、それが永遠の真実なのです。

人間が、神の教えを再定義し、塗り替え、別物の教えに変化させているだけです。>

 

神が宣言し、人に教えている神の性質、神の言葉の性質を神が伝える通りに信じないのが、西洋宗教の教えなのです。

ローマ帝国皇帝が、4世紀に政治目的のため、帝国市民を統治、支配するために作った、神の言葉を否定した宗教。

神が警告している姦淫の罪、混ぜもの、偽物の教えに同化、同調、迎合、混ざる、融合している宗教なのです。

 

今や、日本の中でも聖書を神の言葉と信じない人々、いや牧師、

教師、これらは以前からずっとアメリカの神学校にもいました。

神の言葉が永遠に変わらない、神の性質も永遠に変わらない、

神の救い、贖いの方法も1つしかない!神の人に対する対応、

助け、赦し、人の内側に住まうことはエデンの園から同じ!という、神が語る事実を否定する教えが、西洋宗教の信条の根幹なのです。

 

蛇のやったこと、神の言葉をすり替え、塗り替え、薄め、変え、歪め

不真実、偽情報で人を騙し、嘘を信じさせ、神の言葉を疑わせる!姿、形、やり方、言い方は変わっても、問題の根は最初から

同じ。

神の言われたこと、神を神と認めない、そのようなことを信じて

実践する、それが問題の根なのです。

 

神の永遠普遍の教え、それがモーセの五書に記されていて、

それを世界へ教える役割を与えられたのが、イスラエルなのです。

イスラエルだけの教えなどは、聖書にはありません。

厳密に言えば、神の契約書は、神の大家族、永遠の中から神により

選び出され、神に取り分けられ、聖別された人々の家訓、天の家族の共同体での生き方なのです。

その中には、様々な教えが教えられています。

それが、神が創造された人の生き方だからです。

第一、モーセの五書を読もしない、何が書かれているのか知らない

まして、その中に書かれている意味も、教えてもらえないなら

何が書いてあるのか、正しく理解などしていない、ということを

知らないとならないのです。

 

異邦人は、信じた後、神の言葉を正しく教えられていない!!!

という大きな損害、欠損があるのです。

では、何を教えられているのか?聖書を使いながら、デイスペンセーション神学や、置換神学、人間が作った宗教の教えを通して、

聖書の記述の方を曲げて、聖書を解説される。

そして、聖書を最初から満遍なく、書いてある通りの意味で教えられていない!

部分的に、ある箇所を取り出して、解説する、このスタイルの

部分的で、聖書全体を、書いてある意味通りに正しく教えない教え方をされているのです。

福音書以降が、新しい契約だから、そこを読めば十分!と思っているならば、それは、モーセの五書=神の教えを土台とした、最初の部分に書いてある聖書の完全版の本当に短い抜粋、引用、解説にすぎないだから、そこだけを読んでも、元が分からないなら、何が本当は

書いてあるのかは、分からないようになっているのです。

 

参考書、後書きや、部分的註解、あんちょこだけ読んでも、

それは教科書本編に記されている内容は、理解できないのです。

 

AIは、このように解説していますが、意味不明です。

大体、神が神の言葉、教えを破棄した!という大偽情報を、全部

破棄しない限り、偽の教えは偽の教え、偽の教えの聖書解説は

後を絶たないのです。

 

<イエス・キリストはモーセの律法を廃止したのではなく、

「成就」したとされます。(マタイによる福音書5章17節など)。>

 

クリスチャンは、成就という意味を、終了などと、言葉の意味を完全に勝手に言い換えて、再定義し、その言葉が意味しないことを

信じて、解説し続けています。

成就という言葉は、終了、廃れたなどというヘブライ語の意味は

1つもありません!成就とは、永遠に固く立つと訳されている通り

確実なものに確立するという意味であり、廃れなどしません。

この箇所は、イエシュアが、神のトラーは廃らない!神の言葉が廃るより、天地が滅びる方が簡単!と言われたでしょう。

今日も神の創造された天地が滅びていないなら、私の言葉も廃らない!と伝えているのに、その意味が全く通じていないのです。

 

<モーセの律法が示した「正義」や「聖さ」を、イエスは「愛」と

いうより深い原則で包み込み、完成させた、と解釈されます。

そのため、モーセの律法の「文字」に縛られるのではなく、「愛」という「心」に従うこと、これがキリストの律法の本質です。>

 

これも意味不明な解説なのです。文字に縛られる?どういう意味で

言っているのですか?神の言葉、文字で記された実態が人を縛るのですか?

聖霊=言葉=イエシュア=神が人を縛るのですか?

神の言葉〜あなたがたは真理=神が伝える言葉の真理、実態を知り

真理=神の言葉は人を自由にします!とイエシュアが言われたこと

に対して、真っ向から敵対する思想、神の教えが人を縛るという

意味不明な宗教の思想なのです。

神が記した言葉は、束縛だと考えている時点で、神との関係には大きな隔たりがあるのです。敵対意識を持たされているからです。

神=言葉=イエシュアなのに、それに敵対する意識を、刷り込まれていることに気がついてください。

トラーに記されたことは、神が創造された人の生き方であり、

イエシュアの愛を生きることは、トラーに記されているのです。

新しくされた人の性質を生きることは、神により新しく造り替えられた人が生きられる!という、正しい解説をしてください。

肉のままの人、神と繋がれていないままの状態でなない。

いや、新しくされても、新しくされた人を生きていない多くのクリスチャンがいるのです。ずっと罪人という偽の自己像を教え続けられるからです。

そして、神の言葉は生きるのに難しい!という偽情報を刷り込み、

無理無理!だから、神の教えは廃れなくてはならなかったという

嘘を教えられて、イエシュアを信じた後、実際に何を生きるのか?を教えられていないのです。

 

神の教え、言葉は完全であり、人を生き返らせ、正しい道に導くと

あるでしょう!

モーセとキリストと分断させている思想は、神の業、言葉が歴史の途中で変化し続けるイスラエルの神の進化論=仮説=偽の教えを信じているから、あたかも進化すると思っているからなのです。

 

最初から、神は神の前に罪を告白したら、義とされること、エデンの

園の最初から教えています。何も変わらない。

コルバン、子羊、イエシュアを屠ったのは神であり、人間がコルバン

生贄と訳されている動物を屠ったから罪が許されるのではないのです。これは、もっと解説が必要です。

逆!神が犠牲の代価を支払った!これが事実です。

祭壇に捧げられるコルバンを通して、神がされたことを、イエシュアの贖い、赦し、神に前に新しくされていること、神とどう関わるのかの全てを教えているのです。

 

そして、時代ごとに神の教えや救いの方法が変わるのではなく、

どの時代の、どの人種も、それは個人個人一人ひとりの神に対する

関わり!!!これだけなのです。

エデンの園から、今、未来も、イエシュアの贖いの代価を通して

以外、誰一人、人種に関わらず、父の元に戻ることはできない!

とイエシュアが言われたことが、トラー=モーセの五書に記されているのです。

愛、愛とキリスト教は言いますが、愛の定義は、モーセの五書に記された神が教え、提示する人の生き方全体を指しているのです。

愛とは神の教え=契約に基づき生きる事全てを指して、愛という短い言葉で語っている事実を、神の言葉からとらえなくてはなりません。愛と言うヘブライ語の言葉は、契約用語なのです。

 

愛、愛、愛、愛が大事?とクリスチャンは言いますが、愛の定義は

何ですか?と考えないとならないのです。

神の教え、契約に根付く生き方を捨てて、人間の教えを愛して=忠実に生きる、これは

神の定義する愛とは、真逆な神に対するズレた関わり、冷酷な対応を知らない間にさせられているのです。

本当の夫ではない、別の夫=人間が作った宗教の教えを信じて

実践し、信奉する。その代わり、神の教えを捨てて、神の呼び出している特別な日の祝宴を全て捨てている!!!それは神が伝える愛の

生き方などではないのです。

人間が勝手に神の言葉を塗り替え、再定義し、自由に選ぶ?

そんな教えは、聖書とは全く関係のない、神が警告している不法そのものの生き方なのです。

愛は、感情の問題ではなく、神の性質通りを生きる、共同体で生きる

愛という実態を生きる詳細=神の教え=トラー=モーセの五書に記された神が創造された人の生き方を捨てる、これは愛などではない

別物のです。

今や、創世記の創造、最初の箇所は神話ですと教える日本の牧師が

いるそうですが、それは聖書を教えているのではなく、神に敵対する

神に反逆する、神の言われることを人間が否定する、やってはならない行為、それを人に伝えている危険因子であることを、聖書から気がつかないとなりません。

このような教えが、日本にも浸透し、今や神の教えを生きるのではなく日本人創作の独特の別物の宗教の教えの実践、聖書とは異なることを教えられていることは、聖書に戻ればはっきり分かります。