"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -28ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

注意深い聖書の学びとは、預言者=著者が書いた言葉の意味通りに

その内容を把握することです。

著者が意図していないことを、著者が意図したかの如く考え、

語るのは、聖書を聖霊により記した預言者たちが書いた意味を、

正しく知らないままになるということです。

これは、普通の書物や、人の文章や、会話の内容でも全く同じです。

相手が伝達している意図を無視して、内容を意味を曲げて受け取る

こんなことをしたら、相手との正常な意思疎通、コミュニケーションはできないままになるのです。

言葉には意味があります。

ある事柄、内容を、ある言葉で表しています。

神が意図した言葉の通りが物理的に現れた、それが神が創造された

世界であり、神が創造された世界を見れば、見えない神の性質が

物理的創造を通して人に知らされるから、誰も神を知らないという

言い訳ができないとあります。

 

この聖書の著者は何を意味して書いているのか?

著者が伝える通りに、聖書に書かれている意味、その通りに把握すること!これが、聖書を正しく理解する基本中の基本です。

 

聖書を、人間が編み出した思想で曲げて、歪めて読み解くという、

大違反が堂々とされそのような解釈が横行し続けていることに、

気がついていないです。

聖書は、聖書で、イコール、神の言葉は神の言葉で読み解くという

基本がずれている、それが人造宗教の末路なのです。

 

著者の意図を理解する。言葉は、意味を表します。

正確にいうと、意味が、ある言葉で表されるのです。

これは、補足が必要ですが、ヘブライ語で書かれている言葉が、

文脈により、違う意味を表していることが、文の中で分かります。

日本語でも、同じです。

「首」という言葉も、その内容、文脈により意味が異なるでしょう。

体の首と、首になる、首がまわらない、同じ「首」でも、違う意味を

表している、そういうことを、同じ意味で捉えてはズレるのです。

 

言葉で表されるもの〜現実と繋げるものです。

そして、それを、意図している通りに相手に伝えること。

聖書をある箇所だけ取り出して、ぶつ切りに解説することは、

何を書いてあるのか、分からなくさせることなのです。

 

よく芸能人がインタビューされて、切り貼りされて、意味通りでは

ないことを伝えられてしまうから、インタビューは拒否しますという人がいます。

そうですよね。記者が取りたい、言わせたいことを、ある箇所だけ

曲げて報道する、こんな違反をするのです。

 

例えば、「私は友人を、何何で疑っていました。」という箇所だけ

出したら、その人がある人に不信感を持っているという事だけが

伝わってしまい、そこでメッセージは終わりますよね。

でも、本当は違うという事を、後で言っているのです。

「それは、二人の間の友人関係を壊そうとした人言った、その嘘に

自分は騙されて、友人のことを疑っていました。」と言ったら、

ことの真相がはっきり分かるでしょう。

それを、大事な部分を切り取って、ある箇所だけ、「疑っていた」という箇所だけ取り出し、それはどうしてか?という理由を伝えない、それは嘘を信じたという解説を端折れば、その人のメッセージは

正しく伝わらないのです。

 

聖書を、ある箇所を取り出して、神の言葉が変わった事実が書いて

ある証拠がここにある!という聖書解説の全ては、それと同じことをしているのです。

先ず、聖書記者は、神から遣わされ他預言者であり、100%神が

言われた通り、神の言葉は変わらない!という大前提を元に、

モーセの五書の教えを指して、解説しているからです。

聖書著者が、100%全てモーセの五書を解説しているという、

永遠の事実を知らない人、理解しようとしない人が、神の言葉の方を悪者に仕立て上げて、神の言葉が変わらないとならないという

ローマ帝国の偽情報、嘘を信じたまま、聖書解説を自分の思想に満足する内容で解説するのです。

聖書記者は、もれなく全て100%モーセの五書をイエシュアが

教えた通りに、信じて実践し、生きている。

異邦人のように、ローマ皇帝が主張したように、神の教え=トラーが廃れた!という教えをしている人などいない!という事実が、

まるで見えていないのです。

書いてあることの内容を、理解せず、神の教えが廃れたということにしたローマ帝国の嘘、捏造、砂を土台として、聖書を読んでいるのです。

そして、パウロが書いている内容を、正しく理解し、解説していない

このような聖書解説は、人に神の教え、言葉の永遠普遍の真実を伝えるどころか、偽情報が偽情報を生み出し、聖書とは違う教えを、

人に伝え続けて、イスラエルの神を汚し、神の評判〜神は永遠に変わらない!神の言葉は廃らない、変わらない!という事実を、勝手に

曲げて解説し続けていることに、全く気がついていないのです。

 

神が、神の言葉は変わらない!という大前提を人に伝えているに

宗教の教えは、人の考えで神の言葉の方を間違い、終了しなくてはならないものだと神が言われることとは、違う解説をしているからです。

聖書全体を読まない、又は創世記の最初の1章に全て書かれていない。いや、神はある事柄を、神はいちいち詳しく説明していません。

例えば、どうしてエデンの園に蛇が侵入しているのか?

どこから、地を這うものがエデンに侵入して来たのか?

元々そこにいたのか?そのような説明は1つも書いていません。

エデンの園の知識の木からだけは食べてはならない。

神が禁じたことは、するな!という教えが、こう書かれています。

でも、動物に関しては、創世記1章、その中で書かれていません。

でも、神ご自身が、アダムとハヴァのために動物を屠ってその毛皮を

着せたとだけあるのです。

 

後に出てくるミシュカンの中でのコルバン、神の祭壇での様々な神との交わり、会話は、全てコルバンを通して行われるものなのです。

祈りとは、神との関係とは、コルバン、それはイエシュアにより

新しくされた事実を通して行う!それを教えているものなのです。

 

そして、屠って祭壇に置かれた動物をバーベキューにして食べる!ということが教えられています。

和解の宴会です。契約を結んだ時にも、必ず動物のコルバンが屠られ、使われ、そして宴会します。

何の前置きの説明もなく、アベルは、子羊の初子、最上のもの、

神が教えた通りに捧げています。

アベルは、もちろん捧げたコルバンを食していたのは明らかです。

神が、アベルに何を教えたのか、その部分は説明されていませんが、

最初から、神の同じ教え=トラーが教えられ、それが文字になったものが、モーセの五書なのです。皆、同じ教えを聞いていた。

神が教えた下は、創世記の3章の中に書いてないのですが、

後にトラーにはその詳細が書かれています。

ノアも洪水の前に、きよい動物7つがい、清くない動物2つがいと

言われて、その通り理解して実行しているでしょう。

神の教え=トラーに記された食規定を教えられていたからです。

その時点で、書いてない、イコール神の教えが変化したと考えている時点で、聖書をよむ土台がずれているということに気がつかないとなりません。

考えたら分かります。永遠の中に既に神の創造は完結しています。

物理的に世界が創造されていないだけです。

神がこの世界の礎を創造される前から、屠られた子羊の贖いが完了している!とあります。

そして、私達もこの世の礎が創造される以前から、神により選び出され、聖別されている!とはっきり、理解不能のことが聖書に書いて

あるのです。

それを、その通りに受け取る。それが信仰です。

神が、創造を6日間で完了した。それは何も欠けがない状態です。

神は、人が食せる動物を、最初から創造されているのです。

そして、その動物は、イエシュアの贖いを表すコルバンとして

祭壇の上に捧げられるタメー=きよい動物と教えているのです。

 

神の教えが、菜食から、肉食へ変わったから、神の教えが変わったと

主張する人がいますが、最初から、神は人が食せる動物を創造された

その事実だけを、考えれば良いのです。神の創造は最初から完結し

変わらないからです。

創世記の1章に全部書かれていない。人が菜食であるとも書いてない。1章の中に神の教えの全貌、全部が語られていない。

モーセの五書全体で、人がどう生きるのか?を教えています。

 

そして、こんな間違いを考えて、神の教えが変わったということを

主張する人がいます。

聖書に登場する人、創世記は個人、個人の家族の話が書かれています。

彼らが、これこれを、こう生きていたから、神の教えとは違う!と

主張しますが、ある人の辿った人生は、それは、イエシュアの性質を生きるような完全な生き方ではなく、罪、ズレ、失敗がそのまま書かれているのです。

妻を多く娶ることなど、神の意図とは違います。

最初の創造で分かる通りです。

ヤコブも、叔父ラバンに騙されて二人の妻を娶りましたが、それは神の教えではない!ということを、理解しないとならないのです。

妻以外の側女により、子孫を得る!これも、神の教えではありません。彼らがやったこと、これは、宗教文化で行われていてるだけで、

神の教えではない。一夫多妻制のイスラム教がそれです。

創造の最初、人は一体として、造られ、複数の妻を娶るように造られたのではないことが書かれています。

複数の妻を娶ることは、問題、災難。

だから、問題だらけだった事が書かれているでしょう。

イシュマエルのイサクに対する性的虐待が書かれている。

遊ぶと書いてありますが、性的に虐待したことがヘブライ語では

分かるのです。そんな暴行を加えるようなイシュマエルは、

イサクから遠ざけなくてはならなかったのです。

妬み、そねみ、ライバル心、争いetc etc etc。

人間の罪がそのまま創世記に書かれています。

 

ノアの息子も、ノアを性的に襲ったのです。それはヘブライ語では

分かるのですが、翻訳では分かりません。

このような行為は神が許しているからですか?違うでしょう。

ロトの娘が、父により子を得た?これは神の教えだからですか?

このような記事を読んで、以前はこれこれだから、神がそういう

生き方を教えていたなどと考えている時点で、聖書に書かれた人の罪、失敗が、イコール神の教える生き方であるなどと、早合点するのです。そんなわけないではないですか。

預言書も、未来に何が起きるのかの詳細を知らせる目的ではありません。

どういう意味かというと、神はいついつ、何何が、起きるということをはっきり知らせてなどいないからです。

世界ニュースのヘッドラインを読んで、即座に預言解説する人たちがいますが、そんな事の踊らされてはならないのです。

それは、歴史の中で同じことが繰り返し、繰り返し起きるからです。

そして、未来も同じように神に成り変わり支配しようとする人間たち

が出てくる。同じです。

恐怖で人を縛るのではなく、神が人を患難の中で守られること、

力付けられること、信頼して歩むこと、勇気を与えること、

それが預言書の目的です。

ダニエルたち若者の、あの勇敢でブレない信仰。

彼らが、患難を体験していないなどと言えますか?

ライオンの檻に入れられた。火の中に放り込まれた。

神が人に、いついつ何何が起こるなどという詳細を全て教えたら

私達は主に信頼することをしなくなります。

神に近く、日々を一歩、1歩歩むことをしなくなります。

世の中には、聖書とは違う教えは無数にあり、預言書解説など

クレイジーな解説がたくさんあるのです。

しかも、再臨だ!軽挙だ!と、今までどれほどの偽預言がされて、

仕事辞め、財産売ってエルサレムの山に行って再臨を待とう!

こんなことを先導したリーダーは、数多くいるのです。

そして、どうなったか?偽預言で、どれ程クリスチャンが愚かな思想

愚かな信仰、愚かな生き方しているのか、世界にさらしたのです。

イスラエルの神の名を汚し、神の評判を世界の中で貶めることをしてきたのです。

イスラエルの人々だけでなく、異邦人にも、愚かな思想、行動を

通して、それを示してしまったのです。