木という言葉を聞いて、「木」を想像します。
そして、聖書にある「木」という言葉は、神が創造された木から
又もっと霊的な意味も含まれています。
木は、メシアを表す言葉でもあります。
同じ言葉でも、その裏にある意味が異なるのです。
それは、文脈で判断できます。
現代と、古代と、又異なる文化で語られるその時代時代に使われて
いる言葉の意味など知らないと、何を意味しているのか分かりません。
今はネット時代です。その時代以前では、今使われている言葉は、
何十年前は使われたことなどありませんでした。
物理的にも存在しないものを、そのシステム、機能が存在していないからです。
インストール、アンインストール、そのような言葉など聞いても
インストールとは、この言葉は空調や洗濯機などを設置する英語で
すが、今ではこれを聞いたら、説明がない場合には、パソコンに
ソフトを入れる、外すと理解します。
「911」という言葉は、今世界的に通じますが、あの事件が2001年の9月11日に起きるまで、「911」はその事件を指す言葉として
使われませんでした。
911は、アメリカやカナダでは、Emergency callと言って、
緊急ダイアルナンバーで、警察、消防や、救急車にも繋がります。
アメリカでは、子供たちが、”Bad"「悪い」という言葉を、
”良い、かっこいい”という意味で使っているのです。
又は、かっこいい車が走っていたら、その車を、”sick”などという
のです。
スラングでは 「sick」病気とか気持ち悪いという言葉 は
「本当にかっこいい」「最高」「すごい」「素晴らしい」といった
意味で使われ、文字どおりの意味である「病気」という意味とは
正反対になります。
例えば「That skateboard trick was sick!
(あのスケボーの技、マジですごかった!)」や
「Your new shoes are sick(その新しい靴、超イケてる)」
のように、際立って優れたものを褒めるときに使われます。
詰まり、普通の会話で「具合悪い」と話しているのと、
誰かの行動や、所有物が「かっこいい」という意味でその言葉を
使っているのとは、意味が全く違うのです。
そのように、古代の時代に使われた、当時の国の、その文化の中で
使われていた言葉の意味通りを知る必要は、必須なのです。
聖書を翻訳だけ読んでみても、深いところまで見えないのは、
それが理由です。
他の言語でも同じでしょう。例えば、よその国の人が日本人が歌う
歌や、国歌を聞いても、私達のようには、意味は通じていない、
全く理解しないのと同じことなのです。
言葉だけではなく、文化、慣わし、地理や天候や地形や、その他様々な情報に欠落して読むので、見える範囲が本当に狭まるのです。
同じ日本語でも、時代により、言葉の使われ方は違いますし、
住んでいる地方でも違うのです。
信じられないことに対して、「うそ〜」という表現が、日本ではあります。
これを、以前祖母に言ったら、「おばあちゃんは、嘘など言いません!」と本気でムッとして叱られてしまいましたが、その意味を説明してやっと納得してもらえました。
そのような理解がないまま、字面だけを読む、ましてや全体を読まない、文脈内容を逸脱し、聖書を読む思考が、最初の75%廃れた!
という人間の思想に基づいて聖書を読めば、それは混乱なのです。
多くの真実ではない、人の教えを、聖書だ!と、偽情報イコール
本当!と信じる、今のメデイアの嘘を信じるのと、全く同じことが
聖書解釈に対しても起きていることに、気が付く人は気が付くのです。
キリストの律法とモーセの律法は何が違う?という解説を聞いていると思います。どうして、こういう思想があるのでしょうか?
何も違いません。
それは、古い教え、旧約と、新しい教え、新訳がある、キリストが
来られる以前の、一時的な仮の救い、贖い、許しの方法〜それは
モーセの律法を厳格に守り、生贄を捧げて許された、キリストが来られて、救い、贖い、許しは信じて、告白するだけで受け取れる、
別物の方法になったというでしょう?
もし、生贄、動物を捧げなくては許されないなら、そんなのは、
エルサレムの神殿、又はミシュカンの周りに住んでいたある一部の人だけに可能であり、その時代どころかごく少数の人にしか提供されない許しだということになってしまいます。
生贄を通して許されることは終了した、というキリスト教、
カトリック教、元はローマ教が編み出した聖書ではない思想、
人間の思想で解説しているから、神の教え、救い、贖いの方法に別物がある変化したのだと思うのです。
しかも、イエシュアが地上に来られるまで処刑されるまで,救い、贖い
許しがなかった、誰も救われたことは以前なかった、聖霊も内側に住まわかったなどと考えていませんか?
聖書には逆が書いてあります。最初から、神は人の中、人の間に住まわれること、エデンの園を飛び出した後もずっと同じ福音を教えているからです。
もし、聖霊が内側に住まわないなら、人は神が神であるとは認識出来ません。
聖書を、読みながらどうして、そんなことを考えられるのか?
聖書に登場する人、預言者、聖書記者たち、アヴラハム、イサク、
ヤコブ、全ての人が神のもとにイエシュアを通して父の元に戻り
神のもとに繋がれた事実が、クリアーに書いてあるのです。
聖書を分断して考えている、教えているのは、異邦人であり、
西洋宗教を作った人達です。
聖書ではない教えを、教師がしているのです。
神は古い、新しい教え、変化し続ける神の言葉の進化論など人に
教えてなどいません。
神が一度言われたら、それは永遠の真実なのです。
神の言葉は変わらない!神は永遠から永遠に同じ!と言われたら
一度でも言われたら、それが永遠の真実であることを、理解しない人には、聖書とは違う教えは、何十万、何百万と編み出せます。
そして、神が預言者ヨナを遣わしたように、条件付きの選択があるでしょう。モーセに対しても同じです。
それを、神がこう言われたのに、後で気を変えたなどという
読み込みする時点で、ズレた思考回路で聖書を読んでいるのです。
面白いことに、ニネベの人は、牛までもが悔い改めたと書いてあります。それほど、その街の人々全てが、神の前に神の性質通り
トラーに記された通りの生き方に戻ります!と決意したのです。
この場合は、神が神の考えを変えたのではなく、このまま行くなら
滅ぼされる、悔い改めるなら救い出される、その選択をさせたのです。
最初から、1000%モーセの五書=父の教えしか人に教えていません。イエシュアは、父の教えだけをしに来た!と言われたでしょう。
太古から語らえる同じ福音、同じ神の言葉と書いてあります。
しかも、イエシュアが、失われたイスラエルの羊のところだけに
遣わされた!と言われました。
古代の人、イエシュアが来られる前の人には、救いはない、又は
贖い、救いの方法が違うなどと考えられるのかその方が不思議です。
仮説1)古代の人は、神の律法を生きて、仮に許された、義とされた。
これは、聖書によれば全く、間違いであり、完全に違います。
神の教えを生きて義とされる人など、誰一人としていないと
イエシュアも言われたではないですか!
トラーには、それが書かれています。
人は自分を他者を救い出せない。だからイエシュアの子羊の血の購いが永遠の中に屠られて、完結しているのです。
そして、神の教え=契約=トラーは、贖い、救いを受けていない人に与えられていません!!!!
結婚した相手に、婚姻届、契約書を与えるのです。
婚姻関係を結んでいない、不特定多数の知らない人に、神との関係に
入っていない人に、神は神の教え=契約を与えません!
順序が逆!最初に、娶られ、神の者となり、聖別された。
聖別された人は、神の家の独特の家訓、イエシュアの性質通り、
異教徒が生きていることとは、全く違う性質の生き方をすることを
最初から教えられているのです。
それが神の家の大家族の生き方であり、それに異議がある人は、
かやの外に出ていくとあります。
あなたは、命を選びなさい。神の教えを捨てることほど、愚かで、
死〜神との隔たり、本来の性質、イエシュアの性質通りに生きられない生き方になるとも、気がつけなくなります。
人が考えついた間違った、聖書と外れた思索、教えを教えられるから聖書に書かれている事実が、目の前に書いてあっても見えないのです。
固定概念〜神の教えは古く廃れた。神の教えは、イスラエルにだけ
与えた〜。こんな教育をされては、聖書を正しく読むスタート地点にも立てないまま、結局人間=ローマが編み出した思想を土台とした
宗教が神の教え、聖書だと誤解したままになります。
何が聖書に書かれていて、何が書いてないのか、読んで識別する力は
聖書に書かれた預言者=記者が書いた意図通りをまず正しく把握、
理解することです。
これが、抜けているから、自分の考え、空想、人の思想で神の教えを
どれほど曲げて読み続けているのか、気がつけば唖然とします。
イエシュアが地上に来られる以前も、聖霊を内側に受けた人達
信仰により義とされた人に神の教えが与えられたのです。
それが聖書に書いてあるでしょう。
詩篇をクリスチャンは読むではないですか?神との関係を修復された人が、神のトラーに根付いて生きて、賛美、告白、感謝が赤裸々に
綴られています。
詩篇119章には、トラーの中に記された様々な教えに関して
書かれています。
そして、新しくされた人は、新しい命=聖霊を内側に受けているので、神の教えを生きるのは難しくない!と神が直接教えているでしょう。申命記30:11-14 1ヨハネ5:3
聖書で、罪の定義は何と教えられているか知っていますか?
神が伝える罪の定義とは、神の教え、トラーに違反することの全て
それが罪であると書いてあるのです。
罪、的外れ、ハタです。本来の姿、イエシュアの似姿に造られた人の
生き方から外れる全てをズレというのです。
神の言葉、律法という誤訳、本当は神のトラー=教えを生きても
誰一人として義とされない、新しくされない、生まれ変われない
神のもとに戻ることは出来ない!こんなシンプルな事実が見えない
ままなのです。
時系列上に、神の救いの方法や、贖いの方法が変わると思わされている理由は、聖書に書いてあるからではなく、人間の思想、ローマ教やデイスペンセーション神学思想をとことん教師から教えられ、その教えに洗脳されて、固定概念が頭に植え付けられているからです。
そして、それらの教えが聖書だと思い込んでいるのです。
永遠から考える。ヘブライ思索で考える。
永遠の中に全てが完了、完結した状態で、この世の礎が造られ
全てが物理的に造られたのです。
子羊の血の贖いの代価も、永遠の中に完了。私達も永遠の中に既に
選び出され取り分けられ、聖別されている!とある。
歴史の途中で、2000年前に、それが初めて有効になったなどという思想は、完全に西洋哲学思想から考える、聖書とは異なる思想そのものです。時系列上に考え、神が語る永遠の中に完結した事実から
考えることを、しないままなのです。
最初の最初から同じ。エデンの園の中で、罪を犯した、ズレた、
神の言われる事とは違うことをする、これは、悪です。
今もしているでしょう。神の教えそのものを捨てよ!とやっている。
悪とは、神の意図通りではない、デザイン通りではないこれが、
ヘブライ語の悪の意味のです。
神が言われた言葉を退けて、偽物の教えを信じて実行した。
でも、今と同じように、神ご自身が彼らアダムとハヴァを呼び出して、神の方から彼らに近づき、探し求めて、彼らに神が見ている通りのズレ、罪を考えさせ、そのズレを告白させたでしょう。同じです。今と一体何が違うのですか?
そして、神ご自身が屠った動物の毛皮、義の衣を、神ご自身が彼らに着せているではないですか。自分の努力で義の衣を得たのではない。
全部、神が用意、提供してくださったのです。
仮説2)異邦人には契約は与えられていませんから、異邦人は神の
契約=トラーを生きる必要がありません!
こんな教えを、クリスチャンはずっと、真実の如くに聞かされているでしょう。でも、聖書とは関係のない人間の思想です。
前述した罪の定義、聖書にある神が伝える罪の定義とは、神の教え
トラーに反する生き方であるのに、異邦人だけは、神の教えに違反して良い!?何の宗教の教えですか?聖書とは関係ない。
イスラエルの神の教えなどではない。
神の教えを捨てて良い、生きなくて良いという思想は、こういうことを言っているのです。
キリストを信じたら、交通ルールもなんでも破れます。なんでも違反あり!自分のフィーリング、意見、判断で神の教えを仕分ける!
時速80キロの道路を、ドイツのアウトバーンと同じく、時速制限なしで今は走れるのだ〜!
そういうクレージーな教えを、クリスチャンは教えられているのです。