"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -19ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

人が作った作り話を、信仰の根拠として信じることの空虚さ、

馬鹿馬鹿しさ、偽の教えだったと気が付くには大分時間がかかるのです。

これは1つ1つ事実を学ばないとならないのですが、宗教は人の教えが混じったものなのです。

一世紀当時は、今のようなユダヤ教も存在しませんでした。

そのことを、クリスチャンは知らないと思います。

 

一世紀には、カトリック教も、キリスト教もありません。

昇天以降も、同じように神の教え=トラーを生きて、シャバット

新月、過越、仮庵の祭りを祝ったことしか書いてないのです。

シャバットを祝う、イコール、それは神のモアデイムの全てを

祝った証拠なのです。

なぜなら、神の教えを理解する聖書に登場する人は、今のように

ある部分だけ、祝うとか、全部祝わないとか、そんなことをする人は

誰もいないからです。

ゼカリヤ14章の預言のように、仮庵の祭りでエルサレムに敵対した

国も上って祝うようになるとは、神のモアデイムの締めくくりであり

それを祝う、イコール、レビ記23章に書かれた神が創造された

記念日、モアデイムの全てを祝うと読み取れないとなりません。

 

日本人が正月を祝うと言えば、大掃除、仕事納め、忘年会、

年越し、元旦など全部の行事をすると言われなくても理解するし

そうしているでしょう。

それが、聖書に書かれていることなのです。

神のシャバットを祝う!これは神の記念日の中心であり、神に属する人が神との関係にある印=婚姻指輪、目にみえる形で分かる証拠として与えられたとあるのです。

 

聖書を読むならば、それはイスラエル=神の民とされた人全てに与えられた神の家の家訓、婚姻契約書であるという正しい理解をしないとなりません。

クリスチャンの世界では、神の教え、言葉を塗り替え、再定義し

聖書ではないことを、ことごとく教えらてしまった負の遺産を

抱えているのです。

だから、ユダヤ人だけの教え、クリスチャンには関係のない教え!

と何を言っているのか理解もしないまま、神に対する冒涜を平気で

皆が復唱しているでしょう。

 

人が神の教えに敵対する行為、それが何と聖書に書かれているのか

学び直す必要があるのです。

 

神の教えをなし崩しにする行為。実際そのようなことが、ローマ帝国独裁者皇帝によりされ続けて来ました。

これは、イエシュアが到来される前のギリシャ帝国でも同じように

神のトラーを生きることを禁じて、多くのユダヤ人が処刑され

多くのユダヤ人が聖別を汚す行為に同化、同調してしまったのです。

マカバイ記をぜひ読んで、何が起きたのか、理解してください。

 

多くのユダヤ人が処刑され、神のトラーを生きることを処刑、死刑を持って禁じてきたことを、どうして理解しようともしないのでしょう?

 

イエシュアが来られたから、神の教えが十字架にかけられて

終了した?そのような聖書に書いてもない読み込みは、

いい加減な聖書の学びをする人が、勝手にズレた聖書解説し続けているだけで、それらの解説は聖書に根拠のある正しい聖書解説などではありません。

これは、勝手に主張する声が異邦人の間の主流な教えなので、

それは誰ももう阻止出来ませんから、神の言葉を終了とする聖書

解説の方が嘘であると気が付く人は、その偽物の聖書解説を自分の中で排除する、そのような教えに聞き入らないことが出来ます。

 

こんなことを、司教が人に教えるのです。

同じことをキリスト教も、同様に今も今日も教えているのです。

人間が作った宗教は、神の教えの方を人間が平気で曲げる、歪める

変えることをし続けて来たのです。

 

『信仰の規範、あるいは天国への有能な導き手は、救いに必要なすべての真理を教えることができなければなりません。

聖書だけでは、キリスト教徒が信じるべきすべての真理を網羅しているわけではなく、また、実践すべき全ての義務を明示的に命じているわけでもありません。

ジェームズ・ギボンズ枢機卿『我らの父祖の信仰』 』

アメリカのカトリックの司教です。1834年 - 1921年

 

こんなことを聞かされた時点で、これは聖書、神の言葉に反する

偽物!と識別できないとならないのです。

 

人が神になり代わり、聖書とは違うことを主張し、神の言葉が歴史の途中で変わる、又は時代ごとに解釈を変えて良い、異邦人には関係のない教えですと、堂々と教える!その大罪、大冒涜を言い続けながら

何も感じない無感覚、異常事態なのです。

 

教師、牧師、司教、教皇の主張を普通の人が、聞かされて、聖書だと思わされて、今のような大冒涜がイコール神の教えだ!などと、

伝えられてしまったのです。

未来、イエシュアが到来したら、ユダヤ人も皆イエシュアがメシアであることを知るようになる。偽物の教えを信奉し、神の言葉を蔑ろにし廃れた、終了だ!と言い続け、代わりにローマ帝国皇帝、人間が

作り出した宗教の教え、実践、記念日を生きていた異邦人も

イエシュアが到来されたらそれは、人造宗教の聖書を曲げた教え全ては偽情報だった!嘘だった!と気が付く日が来るのです。

 

それまでは、ずっと嘘を信じる人と、嘘から目覚める人、

ユダヤ人も異邦人も神の言葉=声=聖霊に聞く人、聞かない人

益々、別物に分かれて行くのです。

 

神の言葉に、イエシュアを信じる人が、敵対し、神の言葉を廃れた!

と言い続ける冒涜。。。

人が神になり代わり、神の言葉を否定すること、捨てること、蔑ろにするよう人に教える行為こそ、あってはならない、エデンの園の

あの蛇のそそのかしと騙しなのです。

 

ダイアモンドやゴールドが、道端にごろごろ転がっていたら、

誰もそれらに気を留めて、拾い出しません。

いつでも、どこでも、それらが手に入るからです。

石ころと同じように、雑草と同じようにどこでも手に入るから、

努力して得なくても良い。

 

ダイアモンドや、金は、実際には掘り出さないと手に入らないのです。神の言葉もそれと同じなのです。宝を掘り出そうとする人は、

神の真実に出会えるのです。

神の言葉を捨てる人は、神の真実、本当の本物の神のみ顔に出会えない。

その代わりに、祈りや賛美で高揚感だけを求める感情を追求するのです。それでは、そこには根は生えない。

神との本当の関わりは育たないのです。

得に神の言葉が廃れた!という大嘘は、神の深いところにある考えも

何も分からないまま、自分の空想の中にある、神との関わりをするのです。