"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -14ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

使徒行伝以降にも、ユダヤ人はもちろん、少数の異邦人イエシュア信者も、モーセの五書を教えられ、生きて、神の創造された

シャバット、新月、過越、仮庵の祭りしか祝っていないのです。

その中には、神の教えが徐々に変化して行った、そんな教えや記録は1つも書かれていないと言うことが真実です。

聖書学者、テニー氏が、使徒行伝は神の教えが変化する過渡期の記録!と神学校の教科書に書いていますが、神学校でそんなまやかしを教えられているのです。

偽物の教えをするのは、教師です。嘘を本当と純粋に信じて生徒に、偽情報を、嘘と気がつかないまま教えているのです。

進化論は学者、科学の教師が学校で教えているでしょう?

一般の人は、人に聖書など教えないからです。

だから、偽物の教えをするのは、教師=偽教師と警告されているのです。人を騙して、偽物の教えをしているなど思わないまま、

偽物の教えをしている、それが偽教師と聖書に書いてあるのです。

聖書=神の教えではない偽の教えを施す、偽教師に注意せよ!

でも、全部が全部嘘ではない、偽物の教えではないから、

どこからどこまでが聖書の事実で、何が嘘なのか、聖書を知らない人は見抜けない。なまぬるい=ある部分神の言葉、後は人間の教えが混ざった教え。いや、教師が聖書ではない人間の作った

宗教と、人間の作った宗教の思想、教理が聖書ではないと見分けられないことが問題なのす。

置換神学や、デイスペンセーション神学は、人間創作ローマ教の教えを土台に、異邦人が作った神の教えを曲げる思想であり、

エラー、間違いらけの思想なのです。

時代ごとに人種別に対応を変化させる神?変化する神の言葉、

契約、約束?

そんな神は、聖書に書いてあるイスラエルの神ではありません。

 

人間が編み出した思想を通して、空想で聖書を勝手に読み込みしているから、ある言葉を取り出して勝手に空想しているから、

聖書に書いてある内容が正しく読み取れないままなのです。

 

しかも、トラーを知る人なら、ユダヤ人の世界の慣しを知るなら使徒20:6−7に書かれたことが、何を説明され書かれているのかはっきり理解して、読み取ることが出来ますが、トラーを知らない人、神の教え、言葉を実際に学ばず、実践せず、代わりに人間の作った混ぜ物宗教の伝統をやる人には、何が書かれているのか見えないし、字面を取り出して完全に誤解することができるのです。

この箇所何度も書いていますが、クリスチャンはここに書いて

ある意味を、書いてある通りに読み取っていない解説だけを

聞かされているのです。

しかも、この箇所に日曜礼拝になった証拠が書いてある!などと皆が主張して言っています。

クリスチャンが、日曜日に集まろうと、月曜日、木曜に集まろうと神がシャバットを、別の日に変えたのではありません!

それぞれの都合で、何かの理由で、その日に集まることをする

ことがあったというだけです。

誰かの誕生会や、送別会、歓迎会を水曜日にしたらその日が

安息日になるのだと言う、おかしな思想を語っているのです。

 

しかも、この箇所、パウロを送り出す送別会、次の場所に移動する前の日だから、集まっているだけです。

諸外国に住む人は、もちろん土曜日は休みではないですから、

労働している人がいる。その人たちは、土曜の日没=聖書では

日曜が始まる時に集まることをしていた人もいるのです。

この箇所、曜日は不明なのです。なぜなら、日という言葉は

原典ギリシャ語には無いからです。

しかも、ここには、除酵祭が終わり、週の初めとあれば、

それは週の最初の日から、それとも、シャヴオートまでの7週間

のオメルを数える7週の最初の週という意味であるのか、

両方考えられるからです。

これは、後にもう一度書きますが、神の創造された祭りの暦を

知る人なら何が書いてあるのか、クリアーに理解出来ます。

仮に週の最初の日であっても、それは聖書では土曜日の日没のことです。

そしてそれは、日曜礼拝などではありませんし、シャバットを

日曜日に変更せよ!と神が命じて、昇天以降は日曜礼拝に変更になったのでもない!聖書を正しく読み取ることをしない人は、

翻訳の字面をすらすら読んで、空想で早合点の解説ばかりを

し続けているのです。

そして、今もシャバットを祝う人、イスラエルに住む人には

分かりますが、土曜日の日没に、シャバットを閉じる儀式をし

一緒に集まれば、晩餐だってするのです。

使徒20:6−7では、日曜礼拝をして、聖餐式をしているのではありません。1コリント16:1−3も日曜礼拝の献金のことなどパウロは話してなどいません!空想で読み込みしたら、書いてある意味が、全く見えないまま、聖書ではない解説をし続けているのです。

聖書には、日曜礼拝も、西洋宗教の礼拝式も、西洋宗教が主張する宗教組織に対する十1献金の仰せも書いてないのです。

除酵祭を祝うという意味は、シャバットを土曜日に毎週祝っているという意味なのです。ローマ教を教えられた異邦人には通じませんが、神の記念日は、全て祝うものであると神が教え、

その中心がシャバットであることを、クリスチャンは、教えられたこともないから、書いてある意味が何か分からないだけなのです。

日本人で正月と言えば、元旦だけではなく、正月に関する一連の行事をすぐに関連づけられることと同じです。全部祝う。

仕事納め、大掃除、お正月の飾り付け、お正月のお料理の買い出し、準備、大晦日、年越し蕎麦、元旦、お屠蘇、三ヶ日。

昔なら、羽つき、凧揚げなどなど、説明されなくても、正月を

迎えて祝う一連のことが思い浮かぶのです。

 

クリスチャンは、パンを裂くと書いてあったら、「聖餐式」と

即座に考えるでしょう。

聖餐式は、カトリックが過越の祭りを祝わず、過越の晩餐の中で

する儀式、種無しパンと4つの杯、出エジプト6:6−7永遠の中から語られて教えられている子羊の血の購いの業、イエシュアの業、それが出エジプトに書かれている、その歴史の事実を皆で

回想して、この過越の祭りを祝い、晩餐の中で、イエシュアの業

を網羅する全てを皆で実践して再現する儀式なのです。

それを、カトリックが日曜日にする「聖餐式」と言うものに変えたのです。

普段の日、又はパーテイでワインやビールを飲んだら、その日に

日本の正月の元旦でお屠蘇を飲んだと言っているのと同じです。意味不明な、聖書解釈、解説をしているのです。

パンを裂く、イコール、クリスチャンが空想している、

カトリックが変えた「聖餐式」の事などでもありません。

シャバットや他の記念日、祭り、晩餐で集まれば、神の前に

パンを祝福してさく儀式はするのです。

毎週シャバットの晩餐に行う、ハーラーのパンを裂く儀式は

過越の晩餐でする種無しパンと4つの杯の儀式とは異なるものです。

クリスチャンが空想している、聖餐式と名付けられているのは

本来、日本の正月のお屠蘇と同じです。

どういう意味かというと、それは普段の日、又はシャバットに

やるのではなく、過越の祭り、特別に聖別された日、イエシュアが地上で、永遠の中に屠られた子羊である証明をされた預言的

春の祭りの最初の日に、種無しパンと4つのワインの杯で祝う、過越の晩餐の中で行う儀式なのです。

聖書の教えではないのに、聖書だと勘違いしている理由は、

カトリックが、過越の祭りを捨てて、過越の祭りでする儀式だけを取り出し、普段の日曜日にやる「聖餐式」というものに変えてしまったからです。

変えたのは祭り、日だけでなく種無しパンを、種ありパンに変えたのです。

カトリックは、神の教えをたくさん変えています。

元が、神のトラーを禁じる!だからです。

その教えを、プロテスタントも宗教改革後もそのまま継承しています。信仰の土台はカトリックと同じだからです。神の教えが

廃れた!と言う神の教えを退けて捨てた、ローマ帝国皇帝の思想を信仰の土台にしているからです。

そして、神の教えではないものを、ふんだんに作り出して、

あたかも神の教え、仰せの如く、人に教え続けているのです。

その他色々神の教えを変えています。神の記念日を変えていることもそれです。神の教えや記念日を、人間が勝手に変えて良いと、考え教えている。

日曜礼拝、クリスマス、イースター。聖書にない教え。

四旬節や、クリスマスまでを数えるアドベント。

クリスマスは、これこそ架空設定の日であり、異教の神々の既存の冬の祭りを作り替えたものです。そしてイエシュアの誕生を

祝う仰せは、永遠に神の仰せではありません。ローマ帝国の

作った記念日です。幼児洗礼も、聖書にありません。

割礼を、幼児洗礼にカトリックが変えたのです。

何世紀にも渡る数々の宗教会議で、聖書ではない教えを、創作し続けています。

今も、LGBT賛同する、同性婚を教皇が祝福するとありますが、

人間が神の如く神になり変わり、神の座に座る。宗教階級制度=これはプロテスタントも同じですが、上から下へ支配するシステムで、皆が上の言うことに対してYesマンにならないとならない。神の教えとは違う、おかしな思想であるのです。

聖書にない教えは、イスラエルの神に属さない、イスラエルの神から出たものではない、全部ローマ帝国の産物なのです。

聖書ではない。聖書には、ローマ教の教えを実践し、生きて、

人に教えている人など、聖書には誰一人記されていません。

パウロが今の状態を見て、パウロがトラーを塗り替えた教えの

先駆者、ペテロがカトリック教の初代教皇?なんて聞いたら

ドン引き、卒倒するでしょう。

イエシュアや使徒、パウロ達が教えた神の教え、トラーとは違う、神の教えを否定する、別物の宗教の教え!と即座に認定するでしょう。

聖書とは、全く関係ない混ぜ物宗教の偽の教えに驚愕することでしょう!しかも、パウロが神の教えを変えた張本人という冤罪を着せられているのですから。ペテロも西洋宗教の初代教皇などでもありません!ペテロも、100%モーセの五書=トラーに

忠実に生きて、教えた人なのです。

この様な空想話創作、偽の教えの連発に耐えられないのです。

神は昇天以降は何でも良い!人が勝手に神の言葉を変えて良いという権威など人間に与えてなどいません。

聖書の教え、書かれていることとは違うのではないでしょうか?などと上の人に、教師に言いにくい。

でも、神が絶対であり、神は人間ではない。そして人は神ではない。

人が神の言葉に対する冒涜をしているのに、それを指摘する、

聖書とは違うことを言い続けている!と言うことがはばかられ、あたかも、人を批判していると勘違いされる。

人を批判しているのではないのです。聖書とは違う教えが、

嘘、偽物!事実を指摘しているだけです。

それが真実であり、人が知らなくてはならない、正しい情報だからです。

では、人間が、神に対する冒涜をしていることを、まず聖書に

基づき考え直さないとならないからです。

世界中がまがい物だけを伝えられたら、汚染されているからです。

でも、神はそんなことは許さないし、麦を守り、偽物、毒麦から引き離すことを、神の時が来て神がされるのです。

もし、神の祭り、シャバット、新月、仮庵を祝うと書いてあったら、それはレビ記23章に記された、神が創造された神の全てのモアデイムを彼らが祝っている事実が書いてあるのです。

 

その意味が、全く通じないどころか、神のモアデイム=アポントメントの日、神が神の子ら全員を呼び出している日がいつであるのか、西洋宗教の教えのおかげで、クリスチャンは聖書に記された永遠の事実を、全く教えられていないのです。

なぜ?聖書=神の言葉、教えではない、人間が作った宗教の教えで神の言葉を塗り替えた教えを聞かされているからです。

 

使徒20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから

出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、

そこに七日間滞在した。

 20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 

除酵祭りとは、過越の祭り、その日から始まる7日間の種無し

パンを食べる週。そして、その真ん中に「初穂」復活のイエシュアに連なることを教える記念日を祝ったことが書いてあるのです。

このような箇所を読んで、事実通りに読み取れて理解している

というのは、どのくらいの度合いでしょうか?

ほぼいないでしょう。もしこれを読んで、その通りに読み取るのは、トラーを理解して、実践して生きている人以外いないからです。

除酵祭と読んでも、スラッと読み流し、過越の祭りの一連を

過ごした記録が書いてあるとは、読み取り考えないでしょう。

除酵祭、酵母がないパンを食べる祭りは、過越の日、

第一の月の15日から、7日間です。

その時に、子羊の血で死が過越、出エジプトをし、奴隷から

購い出され、救いを受けて、神に娶られたと言うことが書かれているのが、出エジプト6章です

信仰義認=子羊の血を鴨居に塗りなさいと神が言われた通りを

信じて、死が過ぎ越し、イエシュア=子羊の血で守られ、新しくされた人となった。過越の祭りの日に、地上でイエシュアが処刑され、そして、3日後、初穂の祭りの日に、イエシュアは昇天

されたのです。

そして、出エジプト19章、これが出エジプトから7週後、

シナイ山で婚姻契約を受け取るシャヴオートの祭りの日です。

神のものとされた、信仰義認=アヴラハムの契約の後、

花嫁となった人に与えられたのが、婚姻契約なのです。

神の教えを生きて義とされると言う、偽の教えを捨てないとならない。義とされた人が、神の家の家訓、トラーを生きれるように

され、イエシュアの似姿を生きれる栄光、恵に加えられたと

理解を正さないとならないのです。神の教えを生きる、イコールそれは、イエシュアの生き方であり、麗しい生き方、神の似姿にされた本来神が創造された人の生き方なのです。

神の家に嫁ぎ、加えられた人が、神が伝える家訓を生きる。

命を選ぶ!呪いではなく、祝福を選ぶ!と教えているのに

全くその意味が通じていないのです。

神の教えを捨てて生きることが、恵の時代の生き方?どこまで

行っても聖書に書いてある意味を理解しないのは、ダービー教

エラー、間違いだらけのデイスペンセーショ神学で、神の教えを曲げて解説する聖書の読み方しか教えられていない代償です。