"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう? -13ページ目

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

異邦人の間に広がってしまった、聖書ではない聖書概念や、解説の

原因は全て、異邦人由来、ローマ帝国が作り出した勅令、イスラエルの神の特徴的な教えや記念日の全てを実践することを処刑、死刑を

持って、ローマ帝国が禁じたことによるものです。

 

嘘が世界中を巡るのは、ズボンを片足に入れるより早いと言った人がいますが、一旦嘘が浸透するとそれを正しい情報に変えるのは、

至難の業なのです

 

これはイエシュアが来られる以前の、紀元前2世紀ギリシャ帝国

でも全く同じことが行われてしまったのです。

ダニエル書の預言は、この反キリスト行為を預言していたのです。

そして、70年のローマ帝国による神殿崩壊もダニエルにより

預言されたのです。

 

ダニエル7:25に書いてある通り、これは未来にも起こるでしょう。

政府が決めた日を、礼拝日としなくてはならないとされたら、

それに違反したら、処刑されるならば、そうするのでしょう。

それが、行われたのがローマ帝国の太陽神とローマ皇帝の日の

日曜休日でした。

 

最初は、元はキリスト的な意味など何もない、ゼロ、全くない。

ローマ帝国皇帝の日、彼の信仰である戦勝を与える太陽神、ミトラ神

太陽の日、サン=太陽、だからサンデー、日曜日だったのです。

 

歴史の中で何が起きたのか調べると、事実が色々と見えてきます。

誰が、神の言葉を塗り替えたのか?神ではない!人間です。

神はそのようなことを人にして良いなどと、許可していません!

復活が日曜日?いやイエシュアがいつの日に復活したのは、不明です。土曜の日没かもしれないその時がいつか、聖書には、記載されていません。

そして、イエシュアの復活と、神の創造された記念日は、全く関係ありません。何曜日に復活しようと、神のモアデイムには何の変更もないのですが、人間が勝手に変えたのです。

 

どう言う意味かというと、神の創造、神が主権者であり、神との関係にある人に与えられた婚姻指輪=印は、イエシュアが到来しようと

未来にイエシュアが再び再臨されようと、処刑されてどの日に復活しても神が創造された記念日は変わらないことが、聖書に神の言葉で

はっきりと記されているからです。

 

人間が神の言葉、教えを再定義、言い直して、別の教えに変えている

エデンの園の誤りをずっとやり続けるから、神が伝える真実から

ズレるのです。

イエシュアが昇天されたから、「キリスト教」という今まで聞いたことのない教え、救いの方法が人類に初めて伝えられたと疑いもなく

信じているでしょう。

新しい教えが出て来た!子羊の血で罪が初めて許される事が始まった!それが福音だ!という、聖書とは違う教えを信じているから、

時系列上に神の業を考える方が、肉に納得アピールするのですが、

それは神が伝える事実ではありません!

聖書を読むスタート地点の最初の最初がずれているのです。

 

モーセの五書、預言書、諸書にメシア、イエシュアのことが最初から

書かれていることに、気がつけない、イコール、聖書を正しく理解していないことなのです。

その事実を知っていた人、いない人は歴史の中に存在しているだけです。弟子たちでさえ、イエシュアがどのような意味があり、地上に来て、そして再臨される意味を、トラー、預言書、諸書から、

復活のイエシュアから、正しく教え直されているではないですか。

ルカ24:25−27

 

神の言葉、神の性質、神の救い、贖い、赦しに関する理解がずれていることが、一番の問題なのです。

最初から、永遠の中から同じ!神の教えも、救いの方法も全て

何も変わらない。同じ。

 

イエシュアが地上に到来し、実際に処刑され、復活されるまで、

贖い、救い、罪の赦し神=聖霊が内側に住まうことが、人の内側には始まらなかったと解説するのは、聖書ではなく、人の思想です。

クリスチャンは、もれなくそう教えられていますが、これは聖書に

書かれている神が伝える事実とは、全く異なる人間の編み出した

思想です。

聖書には、永遠の中から神により選び出され、聖別された人が記されています。

その人達を、「残りの民」と呼び、そして、彼らは神と今と同じように、いやもっと深く神との関係の中に生きていた人達のことが記されています。

そして、聖書には、神が選び出した人達、例えば、全人類の父とされた「アヴラハム」でさえ、ズレた生き方、失敗したこと、嘘をついたこと、全ての罪がそのままトラーには書かれています。

 

ある人が、聖書には間違った生き方をしたことが書かれている

それらの人の生き方は神の教えではないから、神の言葉が変わったのだと、勘違いして考える人がいますが、個人の人生での誤り、罪、

生き方、それらは神がデザインした通りの人=神の似姿の人、

イエシュアの性質どおりを生きたのではないことが、聖書には

書いてあるのです。

そのズレ、誤りを通して、神の教え、教訓を教えているのです。

エデンの園、騙し!です。

ずっと騙しが浸透して、偽の教えに騙されているのです。

 

ソロモン王が晩年に多くの異教徒の側女がいた、イコールそれが

神の意図どおりの生き方だ!などと、勘違いした読み込みはしてはならないのです。

ソドムとゴモラ、ノアの時代のように、今の時代はLGBTは解禁だ?そんな教えは、聖書ではない教えを、人が主張しているだけで、

危険な教えです。

 

歴史の中で神は特別な時、これは「神のモアデイム」とぴったり

合っていますが、特別な業をされて全人類に大々的な印象を与える

出来事をしています。

 

出エジプトの一連の出来事もそうです。

神の民が異教徒の国、エジプトに住まう。奴隷。

偽の神々、太陽神、偽の王に下に仕えている。

これはもれなく全ての人の人生、神の中、エデンの園の内側から

外側に飛び出し、神の中ではない外側の中に閉じ込められたことを

教えているものです。全ての人は、もれなく奴隷だった。

偽の教えの奴隷、偽の人生目標の奴隷、偽の自己像の奴隷で、

自分が誰か、神の目から見る通りに見えなくなったことが教えられているのです。

そこから、神の方で近づき、神ご自身が救い出し、贖われ、きよめられ、神の民となったことを教えているのです。

イエシュアの業が、過越の祭りでそれが表されているでしょう。

イエシュアの業、福音を網羅し、そして預言的出来事の全ては、

神の創造された記念日の中で、実際に起きて、イエシュアのされた

事実を祝うのが、神の創造された記念日、祭りだからです。

 

シナイ山で、天が、神〜イエシュアが直接山上に降りて来て、

神が直接語り、稲妻、光、サウンドショーがあったのです。

神の民、花嫁として娶られた人に、神の家の家訓、婚姻契約が

正式に与えられたのが、シャヴオートの出来事です。

 

この事件、大々的歴史の中に起きた出来事は、全民族、全世界、皆が知るところとなるようになったのです。

出エジプトしたことも、近隣諸国にはすぐに噂で伝わったのです。

大々的な事件、儀式を通して、イスラエルという新しく生まれた国家に、神の婚姻契約を与えたのがそれです。

それがシャブオートの祭りです。

 

クリスチャンが「ペンテコステ」とギリシャ語の名の「都上りの祭り」を話しますが、これは、「聖霊降誕祭り」ではありません。

神が神の民に神の家の家訓であり、永遠の保証であり、神との関係にある証拠土台、神の民の生き方を、口頭で語られたものを正式に文字として与えた出来事、契約が交わされたことを祝う祭りなのです。

 

①過越、②シャヴオート、③仮庵の祭りは全部繋がって、イエシュアの業を網羅する預言的祭りであり、1つだけ取り出して祝うものではありません。

 

見えますか?①過越〜神の民となり奴隷から救い出された。

②神の民、花嫁となった人が、神の家の婚姻契約を与えられ、

それを地上の旅路、荒野で神の声=教えを聞いて、新しくされた

自己像で生きる再学習の旅。それが、地上の人生です。

③最後、イエシュアが来られる。仮庵、朽ちる体にイエシュアが住まわれた事実を、ミシュカンで教えているのです。

そして、未来神の民が神のもとに1つ家族として引き寄せられ、

新しい朽ちない体が与えられ、全ての人が神のトラーを裏も表も

頭脳にDNAに刻まれ、神の性質どおりを皆が生きるようになる。

イエシュアが統治する新しい時代を生きる、これが仮庵で表されている未来預言である神の祭りなのです。

 

何も変わらない、神の教え、人の生き方は変わらないという

神が伝える事実だけに立って考えれば、どのようなズレた聖書解説が

されているのか、聖書から、聖霊により書かれた神の言葉がそれを

証明してくださいます。

 

クリスチャンの間では、イエシュアが来られるまでの教えが

仮の教えであり、それを「律法」という誤訳で語られ、

モーセの五書に書かれた教えは、仮の教えで、廃れたと教えられています。

イエシュアが何を教えて、生きたのか聖書を読んでも知らないのでしょうか?

いや、このような解説をされます。

イエシュアが神の教えを生きたから、それ以降は終了だ!

誰も、厳しい律法は生きる必要がない!イエシュアが神の教えを

終了させたのだ!意味不明な、人間の教えを解説し続けているのです。言語の意味を理解しない、神が神の教えを変えない!と言って

いる、その神の言葉を信じていない人が語る、聖書ではない教えです。

意味不明な、神の教えに反する思想を、堂々と公言して、

その誤りに、聖書に基づき考えていないので、全く気がついていないのです。

イエシュアが来られる迄の一時的な仮の教えも、仮の罪の赦しも

モーセの五書以外の別の教えも、又モーセの五書に記された神の

教えの完全版を削除、付け足し、終了した教えは、聖書には存在しない!という真実からだけ、神の言葉を考えてください。

 

モーセの五書に記された教えが、仮の教えと考えている時点で、

聖書からズレていて、聖書に何が書いてあるのか根本的、基礎的なことを全く理解してない証拠です。

しかも、マタイ以降だけを読んでいる場合は、そこに記されている

解説は、単なるモーセの五書の抜粋、引用のみであることにも、

気がつけないままいるのです。

何が聖書に書いてあるのか、理解していない事が本当の問題なのです。聖霊により書かれた言葉を、聖霊=イエシュア=神も、聖書記者も誰一人として、否定、削除、付け足し、差し引きする教えなど

していないことが、書いてあるのです。

聖書には、クリスチャンが律法と言い続けている神の教え=トラー=モーセの五書に記されている教えだけが、神の教え!と書かれているからです。

神の性質、業、救いの方法、神の言葉の進化論は全部捨てないとなりません。そのような思想の種が蔓延っている限り、結局聖書を正しく理解する

種=神の言葉が正しく植わり、根付くことのできる頭脳=良い地は

耕せないままになるからです。

 

そして神の教えは、クリスチャンが教えられて考えているように

分解、取り外し、削除、否定、終了などしない性質のものであり

全部神の教えが丸ごと揃って神の教えの完全版、人の生きる性質を

神が教えて網羅しているものだからです。

 

そして、イエシュアが到来する以前の人は、動物の生贄で一時的に

許されていた、律法を生きて義とされていたとか、又は、イエシュア到来以前の人には救い、贖いがないとか、そのような聖書に書いて

ある意味を理解しないまま、人間の教えを主張しています。

 

福音書以降に記されている、神の教えの抜粋に照らし合わせただけでも、それらの思想は聖書ではないことは、神ご自身の言葉が、

100%証明しています。

イエシュアもトラー=モーセの五書に書いてある様々な事実、

教えを通して、言われた事が真実です。

「誰も、イエシュアを通して以外、父の元に戻る事はできない。」

ユダヤ人は、2000年前の人は、神の教えを生きることを通しては、父のもとに戻れなかったと言ってるのです。

では、イエシュアが来られる以前の人は、父の元に戻れなかったのですか?

そうではないことが、トラー、預言書、諸書に記されています。

ノアも、アヴラハムも、全ての「残りの民」は、イエシュアを知っていた!聖霊を内側に受けて、新しくされていた。

贖い、救い、赦しを得て、神との関係を持って神と歩んだ事が書かれているのです。

アヴラハムが、イエシュアの日を未来に見て、それを喜んだと

イエシュアが言われたでしょう。

黙示録に記されている通り、子羊の購いは、永遠の中に完了!この世の礎が造られる前から完了していた!と書いてあるでしょう。

聖書に書かれた神が解説する永遠の事実に立たないで、人間の思想、教えに立って、聖書ではない思想を通して考え続けている場合

聖書に書いてある事実が正しく把握できないままもなるのです。