これから9月22日水曜日日没に、ショーファーを吹く日
ヨム テルアが来ます。
イスラエルではこの日を、ローシュ ハシャナ(頭、the年、
新年を意味する言葉)と呼んでいます。
この日は聖書の暦第七の月の1日、新月の日であり、この十日後
大贖罪日、その5日後、新月から二週間後の、14日の日没、
十五日になる日から、7日間の仮庵の祭りが始まります。
これは、神が創造された記念日、福音を網羅する預言的記念日
祭りであり、秋は一年の最後を締めくくる祭りです。
農業サイクルが始まる始めでもある時です。
春から、この仮庵の時まで、イスラエルには一滴の雨も降らない
カラカラに乾いた時期でもあります。
この仮庵の祭りの時に、カラカラに乾いた大地を叩き割る雨が
降り、地を柔らかくして次の新しい年の農作物を育てる地が準備
されるのです。
ヘブライ思索で、ヘブライ語で記されている神の言葉、教えは
命のサイクルが書かれています。
円、そしてずっと巡り巡り同じことが繰り返されて行くのです。そして、神が創造された物理的世界=見える世界と、霊的世界=見えない世界はぴったり1つで同じです。
神は神の創造物を通して、様々なことを人に教えています。
命の木、生ける水、山、雨、荒野を付いてきたイエシュア救いの岩、etc etc etc
エデンの最初を見ても、神が最初から同じことを教えていることが記されています。
命の木をガードして、エデンの園を耕す。
これが、人が与えられた仕事です。「礼拝」と訳されている言葉は、「仕事、サービス=仕える」という意味の言葉、アヴォダです。生きることの全てが、神の前のアヴォダ(礼拝)なのです。
神がまことの礼拝者を求めていると言われた意味は、神の言葉
伝えた通りを、神の性質、デザイン通りにガードし、生きること
をする人を求めている!と言っているのです。
それが神が創造された神の性質に似せられて造られた人の本来の
生き方だからです。
そして、エデンの園の中心にあるのは、「命の木」これは、
神の言葉、命そのものをガードして、生きることを最初から
教えているものなのです。
命の源は、神ご自身であり、神=言葉を発して全ての創造物が
現れ出ました。神の言葉をガードして生きよ!人は神の口から出る一つ一つの言葉=トラーに記された教えにより生きる!命のパン、聖霊=言葉=イエシュアと教えているのです。
これが、命を与えられた性質通りに生きる秘訣であることを、
エデンの園を出た後も、天にある見えない神の家を、地上で
そっくりそのまま作らせたレプリカ、ミシュカン=神の臨在が
宿る家を通して、イエシュアご自身と、人の生きる全てを、
神の家の祭壇を中心に教えているのです。
命を考えても分かります。神が創造された時の中に、命は、神の
暦、サイクルに従って、ずっと巡って行くからです。
命が生まれ、育ち、そして命をまた産み死ぬ。でも子孫が同じ
命のサイクルをずっと繰り返して、歴史は続いているのです。
線上ではなく、円、サイクルです。
これらは、神の創造された記念日でも表されています。
福音は、イエシュアは、神が創造された記念日の中で全て網羅され教えられています。これらは、神との特別の会見の時でもあり
神のモアデイム=アポイントの日から日へ、シャバットからシャバット、新月から、新月、祭りから祭りを廻り、神のデザインされた時の中、子羊の血の購いで新しくされた人が生きる時の中で、神は人と出会い、人が神の性質通りに変えられて行くレッスンの中を生きることを、神のモアデイムを通して教えているのです。
福音、イエシュア、子羊の血の購い、そしてこの世の地上の最後
悪が統治する時代は終わり、エデンから出て、エデンに戻る
神の創造、デザイン通りの世界が来ることが、聖書には書かれています。
だから、イエシュアが再び来られたら、全ては1つ、神の名=
1つの名=実態になる。1つの名とは、神の実態を、神が解説
伝える通り、人々の中で認識されると言う意味です。
今のように、人間ローマ帝国が神の言葉を作り替え、塗り替えた
教えは消える!と言う意味です。
それが、預言書の至る所に記されているのです。
そして、イスラエルの神の大家族は2つに分裂したものではなく
1つであり、その大家族は偶像礼拝はしないと預言されているのです。エゼキエル37
そして、誰も経験したことのない神の国、エデン=喜び
神の義がイエシュア、主の主、王の王の礎、王座の土台である
神の義が世界の隅々まで執行される、つまりエレミヤ31章に
記されていることが、実現するからです。
エレミヤ 31:31 主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。
<神の家に嫁いだ花嫁に与えられている契約は、1つしかない!
異邦人とイスラエルとに対して、2つ別の契約はない!と言う
聖書に記された事実をまず把握してください。
神が人に立てている契約は1つしかありません!
ユダの家とイスラエルの家だけに対してたてた同じ契約です。
同じ契約がずっと再更新し続けられる、それが新しい契約と
言っていて、中身は同じシナイ山の契約なのです。
この契約は歴史の節目節目で、更新し続けられているものです。
申命記は、イスラエルが約束の地に入る前に、再更新された
同じシナイ山の契約書なのです。
イエシュアが過越の祭りでされた、契約の再更新も同じシナイ山の婚姻契約です。
そして、この同じ契約、同じイスラエルの大家族に、異邦人も
加え続けられるだけ!その事実を、聖書から正しく把握してください。
契約を捨てるという意味は、神との関係に亀裂ができることです。なぜなら、神は神が提示された婚姻契約を元に人と関係を
結んでいるとずっと教え続けているからです。
神の教えを捨てる、呪われる=防御服を勝手に脱ぎ捨て、無謀に
生きること、それが呪いです。祝福とは真逆の状態になる。
ローマ教、置換神学、ダービー教デイスペンセーション神学は
聖書とは真逆な思想を人に伝え続けています。
それらの偽の教えの方を捨て去る、削除、破棄しないとなりません。
契約は1つ、神の家族も1つ、神も唯一、神の名=実態も1つと神が伝えていることに方が真実だからです。
そして、神は、神が提示した婚姻契約、これは宗主契約と同じ
内容であり、神の国=宗主が提示する生き方を、家臣が理解し
その内容に忠実に生きる時、宗主の国に生きる上での全てが
守られ、祝福されると言う、条件付きの契約なのです。
花嫁とされる、信仰義認は、完全に譲渡契約です。
取り消し不可能な、永遠の約束、保証、契約です。
それが、アヴラハムの契約、「割礼の印」で表されているものです。
神からの一方的な譲渡、贈り物、自分の努力、手柄、お金で買えないものです。
これを、お金で買えると教えたのが中世のカトリック教です。
これ1つだけ考えても、聖書にない教え、神の契約の意味を
理解していない人達が、聖書とは違う教えを次々と編み出し続けていることが、理解出来ると思います。
そして、当然の事ながら、今まで野生、異教徒、異教神に属した
人々が、イスラエルの神の元に子羊の血の購いの代価、神の
一方的な譲渡契約、恵により引き寄せ、取り戻された人たちは
もれなく、イスラエルの神の大家族、カハール(エクレシア)に
加えられたのです。
その人達も同様に、神が提示する宗主契約に生きると教えられているのです。そして、神の婚姻契約に加えられた人に与えられた印がシャバット、シャバットは神のモアデイム=記念日の中心
代表であり、神の花嫁は神と共に、神の創造されたモアデイム
レビ記23章の全てを祝うように招かれているのです。
難しく考えないで、普通に考えてみてください。
生まれてこの方、全く見聞きしない生き方をする主人の家に嫁いだ花嫁は、1からその家=神の家の生き方、神の似姿、性質=
イエシュアの生き方を生きることを教えられるのです。
それが、新しくされた人の生き方だからです。神が創造された
本来の生き方、神の性質通り=イエシュアと同じ性質を生きることを、学ぶ、知ること。
神は神の言葉を探り、学ぶことに没頭しなさい!と教えているのです。そうすれば、神が分かる、神との関係が神がデザインした
通りを人が獲得することができるからです。
それが、異邦人、異教徒文化に生きる人にはピンと来ないもの
なのです。
1つ1つゆっくり考え続ければ、見えてきます。
神の教えは、人の頭ですんなり理解出来るものもあれば
そうではないものが、数々あるのです。
これは、ヘブライ語のトラー、預言書、諸書、古代中近東の人たちが話している言葉、内容、意味が分かれば、理解の窓、扉は
どんどん開いてくるのです。
神の祭壇の前に捧げる動物に関して、説明すれば、びっくりするほど、私達の考えている思索では想像できないことが書いてあります。
でも、詩篇を読むと、ダビデや詩篇の記者が、神のミシュカン
の中で行われた祭壇の前で神と語り、祈ることを、臓器を通して
教えているのです。
私達には、ピンと来ない内容なのです。
これは、別の記事で解説します。
自分が理解できない、イコール、無用、意味なしと勝手に判定するのが、知識の欠如、肉の思想なのです。
神が言われていることは、人が理解できなくても、深い意味が
あり、神の中の深いところにある考えを人に伝えているのに
人がその意味を理解できていないと言うだけなのです。
理解できない教え、イコール、厳しい、古い、呪い、縛りの
律法だと勝手に判定している時点で、人間なのに神に成り代わっていると言うことに気がついてください。
人が神の言うことを認めて受け取る!それこそが、一番基本中の
基本の態度、姿勢、生き方であり、神が伝える真理の道に入る
唯一の方法なのに、それを勝手に捨てているのです。
つまり、こういうことです。神の家の中に入っても、神の教えを
捨てる人には、開かずの間が数多くできている。入れない。見えない。理解できない。それが神の言葉を捨てる代償なのです。
その結果、神との関わり、コミュニケーションも限られたものになり、顔と顔を合わす、ベールがはずれた状態で神と出会い続ける体験を全て阻まれて行くものなのです。
殺人は悪い、正当防衛ではないのに人を殺すのは悪いと、
腹に書かれたトラー、 DNA、良心と言うものがある人には
そんなことは人の道に外れたことだと分かるでしょう。
それが分からない人もいるのですが、それは又別の問題です。
そして、道徳的なことが悪いことは、神を知らない人でも分かる
のは、人は神の性質に似せて作られているから、それらは本能的に悪いことだと認識している。
それ以外は、どうして?と思う教えがたくさんあるのです。
どうしてシャバットを破ると死に匹敵する罪なのか?
聖別を汚す、神を汚しているとまで、神が発言しているのです。
きよくない動物を食することが、どれほど神にとりおぞましい
罪、行為であり、聖別を汚す行為なのか?
その他諸々、神の教えを捨てて、理解しないこと。
人間が編み出した教えを、尊重し、固執し、それを生きることが
どうして悪いのか?様々なことに対して、無感覚状態になるのです。
偽情報を与えられたら、危険、悪、害が何か分からない
善を悪、悪を善とし、それらが肉の人の目にはなんでそれらが
悪いのか、神の前に罪なのか、理解できないのです。
大体、神の教えを捨てる人は、罪の定義をそっくり捨てていますから、道徳的な普通の人でも理解出来ること以外、罪が何と
神が定義しているのか、全く理解していない状態のままなのです。
エレミヤ31:32 この契約はわたしが彼らの先祖をその手をとってエジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。
わたしは彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を
破ったと主は言われる。
<この箇所を、翻訳だけで、しかも西洋宗教、キリスト教の
思想、教理、人間の思想で読み込みしたら、何が書かれているのか完全に読み違えますし、現に読み違えています。
契約とは、常にシナイ山で与えられ交わされた契約の事です。
その契約は、節目節目に更新され続けるものです。
先ず最初に更新されたのが、約束の地に入る前、それが申命記
であり、申命記は、宗主条約と同じ形態で記されたものです。
そして、神が人と交わされた契約は、神の側では永遠に変えない
破られないものであるという正しい理解を得てください。
エジプトから出てシナイ山で与えられたあの日、あのシャヴオートで立たようなものではないと書いてあるのを、シナイ山で
与えられた神の古い契約の内容ではない!と読み違えているでしょう。
次の文を読んだら、その意味がはっきり記されています。
神が交わされた完全な契約書の内容に問題があるのではなく、
それを受け取った人の状態の問題が書かれているのです。
彼らの夫であったのだが、彼らはそのわたしの契約を破った
とあるでしょう。
詰まり、頭脳に割礼がされない人、神の教えを内側から聖霊によりよく理解しない人が、神の教えを勝手に変えて、偶像礼拝を
通して、イスラエルの神を拝むような姦淫の罪に陥ったことが
ずっとイスラエルの歴史=聖書の中に記されています。
現にイスラエルは何度も神の教え=契約に記された生き方から
離れ、そして異教の神々の礼拝方法、教え、慣し、儀式と交わり、姦淫の罪を犯した!とあるのです。
異教の神々の神殿で、使徒15章にある異邦人イエシュア信者と
同じく、神殿娼婦と、実際に高き所の木の下で、多産の儀式を
するような不品行=姦淫の罪を肉体的にも霊的にも犯したという事、タナック=モーセ、預言書、諸書に記されています。
それが、姦淫の罪、大淫婦、バビロン、666、反キリスト
獣の刻印、神の婚姻契約を破るように教え、そそのかす別の
宗教、異教の神々の教えを通してイスラエルの神を礼拝する事なのです。
続く