昨日ヨムキプールが終わりました。
とても、良い、充実した一日でした。
今やネットで世界中と、イスラエルの仲間と同じ時間にオンタイムで繋がって、ヨムキプールの祝い、賛美、祈り、トラー解説など全て参加出来ます。
毎週シャバットも同じように、それぞれ別の国に居ながら、
イスラエルと繋がっています。
世界中です。イスラエルに近い場所、ヨーロッパやその近隣は
時差が余り無いですが、アメリカなど東海岸は朝の2時、
それでも参加する仲間がいます。
それぞれの背景は違っても、皆、以前はカトリック、プロテスタント、聖公会で聞いた西洋宗教の教えが、聖書とは異なる事に
気がついて、オリジナルの神の教えと、神が教えている通りに
生きることに戻るという共通点があります。
それぞれの体験、背景、発見、気がついた経緯、旅路を聞くことは、とても興味深いことでもあります。
異口同音、聖書ではない教えを聞き続けた事、そこから
シュヴァ、戻る!本物の神の教えと、神の創造された本物の
アポイントメントの日を祝う、モアデイムに戻るということを、世界中の人がし始めているのは、偶然ではありません。
日本は丁度、今大型連休だそうですね。
諸外国では、仕事をしている人は、祭りには、休みにぴったりとは当たらないのが当然で、シャバットでもイスラエルでも、勤務に就く職業はあるのです。病院、施設、原発、発電所その他。。。
今年は、ヨムテルア、ヨムキプール、そして、仮庵の最初の日も全て週一度のシャバット=第7日目の金曜日に来ます!
しかし、国全体で、神の創造されたモアデイムに止まり、
祝うという事は、イスラエル以外にはありません。
シャバット、祭りの時にイスラエルにいると、それが肌で、
実際に体験、体感出来ます。
これは、神が選び出したという事実、神の聖別された生き方が
地上で反映される場所、イスラエルという国を創造の最初から
選び出しているのです。
天と地が直結し、神の聖別された実態が地上で人を通して
現される、映し出される場所。
世界の中心。ビジネス旅行、旅人、商人、様々な人がイスラエルを通り、他の国へ移動する丁度中心です。
普通のクリスチャンは、聖書を翻訳だけで読み、しかも殆が
新約聖書と名が付けられているマタイ以降から読み、
そこしか読まないのが普通です。
私個人の体験、感想ですが、キリストと出会った、神を信じた、神が居ることが分かったという、いわゆる新生体験後、
聖書に対する正しい知識など本当に全くありませんでした。
もちろん、翻訳聖書を自分では読んでいますが、聖書が遠い時代のカナンの地、イスラエル、ヘブライ語で記された書とは
考えにも思い浮かばない程、アメリカン、ヨーロピアンな
ものだと思っていました。思い浮かぶのは、ヨーロッパの聖堂や、アメリカのチャーチであり、サンデーサービス、クリスマス
イースター祭りだからです。
そのとおりです。西洋宗教というものは、ヘブライではない、
イエシュアが教えられた父のオリジナルの教え、トラーではない、その生き方ではない。
契約に根付く生き方などしていないし、教えられてもいない。
ある部分の教えは似ていても、本質が違うもの、西洋宗教の教えを教えられていたということに気がついてもいなかったからです。
ヨーロッパ、アメリカが拠点、キリスト教のメッカ。
ヘブライ、オリジナルではない、西洋人が、ヘブライのヘブライ聖書、トラー、神の言葉を勝手にアレンジして作った宗教だから、西洋宗教と呼んでいるのです。
キリスト教の幼稚園や、日曜学校で、子供賛美歌を歌いました。
「馬やで生まれたイエスは
」と歌っても、それは全部西洋の
クリスマスとリンクしていました。羊飼いは、外で野宿しているけれど、彼らが神殿に捧げる子羊のコルバンを飼育していた
レビ族の祭司達であるなどとは、ヘブライ聖書を学ぶまで全く知りませんでした。聖書はヘブライの世界、ヘブライ思索で書かれたヘブライ聖書であり、西洋宗教の、西洋哲学思想やデイスペンセーション神学で語られる翻訳聖書の解説とは違うものです。
しかも、アーメン、ハレルヤという言葉は知っていても、
聖書自体がヘブライ語で書かれているとか、聖書に書かれているヘブライ語の基礎的、基本的な重大な概念など、全く知らない
まま、翻訳聖書の世界、日本やアメリカ、西洋文化、思想を通して聖書を読んでいてました。
聖書はヘブライ語と、ギリシャ語に翻訳されていると聞いていても、それが意識に全く上らないのです。
いつも頭には、西洋、アメリカン、白人のキリストのイメージ
ばかりが浮かんでいました。神が隣の親しい叔父さんのような
軽いノリの教え、意識も教えられました。
もっと不思議なのは、アメリカのキリスト教のパスターが、
キングジェームス聖書(欽定版)が本物、オリジナル聖書だと
信じて居た人がいました。
英語の世界は、元の言葉をたくさん変形した発音をしています。
なぜ、キングジェームス、欽定版だと思いますか?
1604年、1611年に、イギリス ジェームス国王1世が、
この聖書を出版する出資をしたからです。
イギリスの王様の名なのです。
日本語で「ヤコブ書」と言う箇所がありますが、英語ではそれは、「ジェームス」なのです。ジェームス王の名前です。
ヤコブとジェームスは別人、別の名で結びつきなどないのです。
関係ない人の名前が、聖書に入れられています。
そしてそれと同じく、聖書を、旧約聖書、新約聖書と言う不適切なタイトルを付けた行為も、同じく、神の聖書に対する歪んだ
概念を刷り込む、邪魔なタイトルなのです。
聖書は、「トラーの書、セファ トラー」「証 ハエデウト」と
神が付けたタイトルがあるのです。
人が編み出す概念や、タイトルで、神の教えや言葉、聖書に
対する、神が伝える神の言葉の性質とは違う概念を刷り込んでいるのです。
日本語はオリジナルの発音に近いですが、英語は
オリジナルの発音とは全く違う発音をします。
それ故に、オリジナルの名前で呼びます。
私達が聞かされたのは、セカンドハンドよりもっと、もっと
ずっとかけ離れた、人の思想というフィルターに何層も通されてしまった、誰かの信条が混じる、不純物が交じる聖書解説で
あって、オリジナル、ヘブライ聖書に書かれているものとは
異なりました。
本物を聞けば、人は生き返ります。本当の自分を知らされれば
生きることが出来ます。
異邦人の間の聖書解説、聖書教育は、オリジナルヘブライ聖書から教えられる事など、ないのが普通なのです。
それは、2世紀以降、異邦人はローマ帝国下の弾圧により、
偽物の教え、皇帝崇拝、異教の神々、女神の思想が混じる
西洋哲学、西洋宗教の教えに迎合し、ユダヤ人は、それに同化
シンクロ出来ないので、離れたからです。
2つ別の路線を行ったのは、偽の教えに交わることをユダヤ人は
選ばなかったからです。
異邦人は、ローマ帝国が作った時の新興宗教にまかれて行ったのです。
ドアを開かないまま、家の外に居て、その家の外観だけを眺めている感じです。
その家の中、ドアを開けて中に入り、部屋が無数にたくさんあるのに、宝の山が埋蔵されているのに、中に何があるのか知らない、見ていないという、そんな状態の理解でした。
不思議ですが、皆同じだと思います。
ヘブライの世界、神ご自身が、神の言葉は変わらないと言って
いる言葉が、聖書にそのとおりに書いてあるのに、西洋人により神の言葉がハイジャックされてしまったのです。
そして、神の教えが十字架で破棄されたことにされてしまい、
神の言葉が人の教えにより変形させられ、西洋化に変身し、
変化する西洋のジーザス、オリンピアローマのイエススと
教えられてしまいました。
聖書に書かれているヘブライの世界、イスラエルの神とは別物を
刷り込まれて来てしまいました。
西洋宗教の教え、ジーザス、イエスス、キリストはアメリカンやヨーロピアンの白人の顔で、サンデーサービスや、クリスマス、イースターを想像して、聖書を読んでも見えないことがたくさんあります。
マタイ以降、シャバット(安息日)祭りを中心に色々な事が
書かれている事に気がつけますか?
その祭りを知らなければ、字面を読んでも何も頭脳、意識に届いて来ません。
クリスチャンが、カトリックが過越の祭りの晩餐で行われる
儀式を、聖餐式という儀式に変えたものが、1コリント5:6−8、 そして、10章は、出エジプト11:23−26,7
に書かれているのは、過越の晩餐で行われる儀式のことを
書いているということに、気が付かないで読んでいるのです。
イエシュアが祝われたシャバット、過越の祭り、秋の仮庵の
祭りでのイエシュアが行われた出来事を読んでも、その場面が
神のシャバット、祭りと繋げて考える事は出来ません。
聖書に記された事実から隔離されて、記述が繋がらず、何を
話しているのか、よく見えない状態になってしまっているのです。
これは、私自身の体験、辿った道ですが、西洋宗教と、
実際イエシュアが教えられたトラー、聖書、父の教えとは異なる
ものだと発見した人、全てが辿る体験です。
なぜなら、教えられて来た内容が、聖書で語られる事実とは異なる人の作った宗教の教えを聞いて来たので、その情報を聖書に
書いてある元通りの事実にリセットする作業は大変なのです。
いつも教えられて来た教えを基準に考えてしまうからです。
英語では、箱から出て考える、又は箱の中でしか考えていないという表現をします。
箱とは、自分の頭脳の中にある固定概念、先入観、偏見、その他です。
こんな時代が来るとは、ゆめにもつゆにも思い浮かびませんでしたが、ネットの世界で正しい情報にアクセスする時代が
来ました。
しかし、一方、偽情報も無限にあります。
偽の教えの拡散は、誰も止められません。
聖書を正しく解説し、教える教師の方が本当に少ない、稀です。
そしてやはり、聖書に書いてあるとおりを正しく教える教師は
必要なのです。
どの世界でも同じでしょう。ピアノやバイオリンを、素人に
手ほどき受けて、習ったとしても、まともに教えてもらえず、
悪い癖がついて、その先の技術は習得出来ないのです。
自己流になる。正しい上達は、できないと知っています。
どの分野にも、教師がいるのが当然です。
だから、学校で、色々な学科、学問を教師から学ぶのでしょう。
教師もいらない、教科書もいらない、聖霊がいるから、何でも
自動的に教えてもらえると言う人は、普通の常識が無い状態、
宗教を信じると普通の常識がなくなるという、それです。
それならば、学校も、教科書も、書物も、聖書もいりません!
となります。聖書教師もいらないし、教える人もいらないという神が言われた事の逆になります。
聖書も同じなのです。ましてや、ヘブライ語で記された聖書を
原典に書かれた事を知らないまま、翻訳だけを読んで教えられてしまう、しかも、宗教、置換神学、デイスペンセーション神学という人の思想を通して、聖書解説がされてしまっているのです。
これでは、オリジナルに書かれた、神の言葉、神が意図する
本当の意味など、知るよしがないのです。
正しい判断が出来る唯一の条件は、正確で真実な情報が与えられ、それに基づき、嘘とまことを見分ける、識別すること。
間違った聖書解説、聖書概念、聖書に書かれていない違う神像を
教え込まれたら、そこから抜け出すのは本当に大変です。
命は神の言葉から出来た、現れ出て来た 命の源は言葉=神
それを捨てよ!と龍は語り続けているのは、人を破壊するため
まどわすため、本来の生き方をさせない、神と隔たりをつくり
自分が誰か分からなくさせるためです。
1世紀後半以降、西洋教父達が神の教えを塗り変えて、
神のシャバットや祭りを全部排除し、日曜礼拝、クリスマス
イースターなどの記念日を人間が作り出さなかったら
今頃、クリスチャンも全員、神が創造されたモアデイム、
アポイントメントの日、呼び出し日を、イエシュアが教えて
された通りにしたことでしょう。
もしも、異邦人も神が言われた通り、イスラエルの神の元に
戻り、大家族の一員になった人は、今も未来も、イスラエルの神が呼び出している聖別された記念日、聖なる集会、祝宴の日を
一緒に祝うのが常識、普通、当然のことと理解しているはず
だったのです。
しかし、預言された通り、第四の獣が、神の教え、トラーを
曲げ、人に終了だ、生きるな!と勅令で強要し、そして、
神が創造されたイエシュアの業、預言的祭りの全てを捨てさせ
別物を作ったのです。
別物でも、なんでも良いよ〜、気持ちが大事、愛さえらればそれでOk!などと言う神は、神は聖書には書には書かれていない空想の神、別の架空の神です。