ディスペンセーション神学の著名な推進者であり、
ダラス神学校の創設者であるルイス・バリー・シェイファー
(Lewis Barry Chafer)は、次のような有名な言葉を残しています。
「聖書の平易な意味が常識的な意味をなすとき、他の意味を求めてはならない」
このように、ディスペンセーショナリズムは聖書に対して、
特に預言に関して、文字通りの解釈学的アプローチを取ると主張し、「旧約聖書のイスラエルに対する約束は、将来の地上の王国における民族的なユダヤ人にのみ適用される」と強く主張します。
詰まり、今日の信者に対する適用はないという意味になります。
これは人間の勝手な主張であり、神の教えなどではありません!
聖書教師が、聖書に根拠のない自分の考えを、聖書の如く堂々と語る
それが、異教まみれの教えに洗脳された世界なのです。
ノーベル賞級の科学者、進化論者に、その進化論はダーウインの
仮説に過ぎず、嘘!神が創造された世界に証拠、根拠もないまやかしの思想仮説であると、いくら伝えても、偽物の仮説を信じるその科学者達には、神が創造された世界、神が創造主であるという真実など
全く通じないでしょう。
それと同じく、ローマが作った宗教を神の教えと信じ、神の性質と
言葉の進化論を頭脳に刷り込まれて、洗脳された人に、いくら
聖書の事実を伝えても、跳ね返されるだけです。
それらは全て偽の教えを信じる人の問題であり、真実を知らない人が、聖書ではない聖書解説を世界へ発信、拡散させているだけなのです。
市場に出回ってはならない、アスパルテームのような毒物食品添加物が、拡散されてしまったのと、同じことが起きているのです。
人が取り入れてはならない、神の教えを曲げる教え、思想。
人の思考回路を歪めて、神が伝える真実を拒絶するという
構造を作り出している元凶なのです。
より現代的な「漸進的ディスペンセーショナリズム
(Progressive Dispensationalism)」の形式においては、
必ずしもこれが当てはまるとは限らない点には留意すべきです。
聖書の事実に基づかない、人の編み出した思想は、コロコロ次から
次へと訂正、変化させないと辻褄が合わないと言うことに、
留意してください。
ディスペンセーショナリズムの第2の核心的信条は、
「イスラエルと、いわゆる『教会』との間の強い二分法」です。
ユダヤ人と、異邦人を分ける。この思想こそ、聖書を正しく理解しないことが、証明される仮説思想なのです。
ここで、注意です!何度も、書いている通り、「教会」という言葉は聖書にはありません!聖書に書いてもない、存在しないものに対する概念、実態をないことを語ってはならないのです。
このような、翻訳違反がある、プラス、土台が第四の獣が作った
人の思想を土台とした、宗教!本当の問題はここにあるのです。
教会、チャーチ、クーシェ、建物のことなどではない。
教会という、言葉は聖書にない言葉、概念である!!!!と
覚えておいて下さい。
とても紛らわしい言葉であり、教会、イコール、異邦人クリスチャンの群れと考えているでしょう。
そのような概念は、聖書には書いてもないのです。
書いてもないこと、空虚を深堀しているから、聖書に書いてもない
教えを次から次へと編み出しているのです。
異邦人は、イスラエル、イエシュアが羊飼いである同じ羊=ユダヤ人羊の囲いに加えられ続けているだけです。
聖書に書いてある言葉は、ヘブライ語、カハール、ケヒラであり
神に呼び出された人の群れです。人!
それらは、たった1つしかないイスラエルの神の大家族なのです。
ヘブライ語のギリシャ語翻訳が、エクレシアで、同じく、神の声に
呼び出されて応答した人の群れ!ユダヤ人、異邦人、皆に当てはまる
言葉です。代表は、ユダヤ人ですが、この群れは1つです。
イエシュアという木=救い主、生木はユダヤ人、ユダ族メシア
ヤコブという名、かかと、かかとを掴んで生まれた、そのヤコブが
偽の自己像=兄の服を着せられて、騙しの中に生きた40年でも
表されている通り、その後、イエシュアと格闘し、本当の自分が誰かを教えられるのです。
これは、梯子の幻と、そしてヤボクの橋で神の使いと格闘したことで語られている内容です。これは福音を教えているのです。
同じ!イエシュアに出会うまで、本当の自分が分からないからです。そして、神と格闘して乗り越えた後、イスラエルという名、
神と格闘して乗り越えた、イスラ エルという名を与えられたのです。
この名は、イエシュアを通して神のものとなった人全員に与えられた
名です。血筋はユダヤ人の血筋がない異邦人でも、同じイスラエルの
神の大家族に加えられたのです。
同じ木、同じ羊飼いの囲い、同じ1つの家族であり、羊飼いは
イエシュアです。
異邦人クリスチャンが、霊的イスラエルに変わったというのは、
置換神学ですが、聖書ではありません。
神は、異邦人を契約を受け取る代表者、イスラエルの神の大家族の
代表に変えてもいません!
現代にもディスペンセーション神学の推進者、信奉者は多くいますが、ライリーの名を取ったスタディBible(ライリー・スタディ・
バイブル)で最もよく知られている著名な推進者チャールズ・
ライリー(Charles Ryrie)の言葉を紹介しましょう。
彼は1965年の著作『今日のディスペンセーショナリズム』の中で
次のように述べています。引用します。
「ディスペンセーショナリズムの本質は、イスラエルと教会の区別にある」言い換えれば、彼が主張しているのは、ディスペンセーショ
神学の思想、スローガンの正に核心的かつ基礎的な側面が、
イスラエルと「教会」との区別だということです。
ですから、彼らはイスラエル(神の地上の民と呼ぶ)と教会
(神的天上の民、あるいは霊的民と呼ぶ)の間に鋭い線引きをし、
それぞれに全く異なる計画、運命、未来があると考えます。
地上と天を分けて、それらが別物であるとし、天でクリスチャンが
永遠にイエシュアと共に統治する、クリスチャンがキリストの花嫁だからだ。そして、天では、神の教えは要らない!
いや、天で霊としてふわふわ浮いて生活すると考えているからです。
神の教えは関係ない!無効と考える。
一方、ユダヤ人は永遠に、地上を治め、父の花嫁であるのがユダヤ人という空想を話しています。
これ、全部人の作り話であり、トラーを知らない、無学、無知な人が
施す破滅を招く聖書解説であるとペテロが警告している通りのことを
主張しているのです。2ペテロ3:16
最後は、全て1つ、天が地に降りてきて、1つになり、エデンに戻る
ということが分からない、理解していないからです。
そして、全ての人が、神のトラーを生きるというエレミヤ31:31の預言の意味さえ、正しく理解していないままなのです。
このように、聖書を正しく知らない人が、自前の主張、自分達が
編み出した神学や、教えを、人に拡散させているのです。聖書に
根拠がない、作り話を聞かされ続けているのです。
ダラス神学校の創設者であるルイス・バリー・シェイファーも、
1947年から48年にかけて執筆された『組織神学』という著作の中で次のように強調しています。
「イスラエルは地上の約束を持った地上の民であり、教会は天上の民である」。
このように、彼らはイスラエルやユダヤ人を「教会」=異邦人クリスチャンから明確に区別します。
なぜなら、イスラエルは地上のもので文字通りであるのに対し
教会は霊的なものだからだと主張するからです。
いや、イスラエルも、元々混血でしょう!
元々ユダヤ人などいません。異邦人です
アダムから出て、ノアも、アヴラハムも異邦人です。
モーセの妻は、エジプト人です。ルツはモアブ人です。
ユダの息子の嫁、タマルも異邦人です。
混血は、どうなるのですか???でしょう。
地上と天を出張し、行き来する?いや、未来、天と地が1つになるという事実さえ、聖書から理解していないのです。
ヘブライ思索で語るヘブライ聖書は、サイクリック、円です。
巡り巡って同じことが繰り返される。
エデンから出て、エデンに戻る。それが聖書に書いてあるのですが、
グレコローマ哲学思想、異教徒思想は、全てを歴史線上に眺める
思考回路なので、違うのです。
そして、進化論と同じなのです。変化、進化するという思想。
これが彼ら自身の言葉による見解です。
この思想を聖書と信じる人は、イスラエルと教会の間にこの区分を
こじつけ、そこから第3の核心的信条へとつながります。
それは、「歴史を7つのディスペンセーション(時代)に分けることによって、さらなる区分を設ける」という点です。
これは、ヘブライ思索で記されたヘブライ聖書とは、異物、真逆の
思考回路なのです。
ディスペンセーショナリズムは、人類の歴史の全体が、
これら7つのエポック(画期)あるいは7つのディスペンセーションに分かれていると、みなします。
これこそが、西洋哲学思想であり、ヘブライ聖書、ヘブライ思索とは違う歴史線上に神の性質、神の言葉、神の業、救いの方法、購いの
種類を別物と勝手な解釈を施している思想です。聖書ではない。
ディスペンセーション(dispensation)とは、もともと「管理」
「経綸」「配分」「支配体制」などを意味する言葉ですが、キリスト教の神学(特に聖書解釈や終末論)においては、「神が人類に対してご計画を進める際のマニフェストや統治の方法、およびその時代的
区分」を指します。
それぞれの定義に従って、短い聖書の参照箇所とともに、
その7つのディスペンセーションを簡単にご紹介しましょう。
第1のディスペンセーションは、彼らが「無罪の時代
(ディスペンセーション・オブ・イノセンス)」と呼ぶものです。
これは、創世記第1章から第3章の堕落前までをカバーするとみなされます。つまり、エデンの園における、堕落前のアダムとハヴァの
エデン状態の時期です。
第2のディスペンセーションは、彼らが「良心の時代
(ディスペンセーション・オブ・コンサイエンス)」と呼ぶものです。これは、創世記第3章から創世記第8章の、堕落後から大洪水までをカバーするとみなされます。
つまり、アダムとエバが園で蛇と一緒に罪を犯し、園から追放されてから、ノアの時代の世界的な大洪水に至るまでの期間をカバーします。これが2つ目です。
第3のディスペンセーションは、彼らが「人間の統治(ヒューマン・
ガバメント)」と呼ぶものです。
これは、創世記第9章から創世記第11章の、大洪水後からバベルの塔に至るまでをカバーするとみなされます。
これは、ノアの時代の大洪水で水が引き、ノアとその家族が再び地に満ちるプロセスを開始した時から、ニムロドとバベルの塔の時代、
すなわち神が降りてきて、言葉を混乱させた時までの期間をカバーします。
第4のディスペンセーションは、彼らが「約束の時代
(ディスペンセーション・オブ・プロミス)」と呼ぶものです。
これは、創世記第12章から出エジプト記第19章までをカバーすると
みなされます。これはアブラハムからモーセまでの期間です。
この想定されるディスペンセーションは、神がカルデヤのウルから
アブラムを呼び出して自分に従わせた時から、神がモーセを召して
イスラエルの子どもたちをエジプトから導き出し、トラー(律法)
が与えられたシナイ山へと導いた時迄の期間をカバーします。
これが第4のディスペンセーションです。
そして第5のディスペンセーションは、彼らが「律法の時代
(ディスペンセーション・オブ・ロー)」と呼ぶものです。
今度は、モーセからイェシュアの死に至るまで、出エジプト記第20章から使徒行伝第1章までを網羅する、より長いディスペンセーション(世)が想定されます。
従って、これは神がシナイ山に降臨され、預言者モーセをご自身の
もとへ召された時から、使徒行伝第2章のシャブオット(七週の祭り)或いはギリシャ語でペンテコステと翻訳される祭りの直前に、
メシアが処刑され、復活し、父のもとへ昇天される時まで続くことになります。これが5番目のディスペンセーションです。
第6のディスペンセーション これが、彼らが恩恵(恵み)の
ディスペンセーションとみなす、第6のディスペンセーションとなります。
これについても、使徒章からヨハネの黙示録19章まで、
いわゆる「教会時代」を網羅するものとして捉えられているため、
比較的長い期間となります。
現在私たちが置かれている時代であると教えられているため、
おそらく聞き覚えのある、この所謂ディスペンセーションにより
馴染みがあることでしょう。
一般には「教会時代」と呼ばれたり、「恵みの時代」と言い換えられたりします。
この時間的期間は、使徒行伝第2章のシャブオット(ギリシャ語
ペンテコステ)における聖霊の到来から、千年の王国の発足まで
となります。
これが7番目のディスペンセーションへと導き、彼らはこれを
千年王国と見なします。
これは黙示録第20章に見出すことができ、メシアによる
1千年の統治を網羅するものです。
その為、これは彼らのいう最後の時代、すなわち最後のディスペンセーションとみなされ、千年王国の統治が終了した時点の永遠の始まりに於いてのみ終わることになります。