西洋宗教はギリシャ神話と神の言葉を区別なく混ぜて解説している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

マタイ25:13 だから、目をさましていなさい。

その日その時が、あなたがたにはわからないからである。

ここにある「目を覚ましている」と、眠った状態〜神の教え=

トラーを捨てて生きていた、愚かな五人の乙女と同じ意味で

繋がっています。

目を覚ましている、イコール、神の教え=トラー=はじめの愛、

神の契約に根付いて、神の教えを常に意識して、それを生きている

ことを、聖書では、「目覚めている」と書いてあるのです。

「眠った状態」〜神の教えに注意を向けて、神が言われた通りを

聞いていない状態のことです。

どこから落ちたのか?それは、偽物の教えが浸透した最初からです。

宗教の教え〜神の教えが廃れた!という思想自体が、聖書ではないと先ず聖書から発見することです。

そして、歴史の中で、第四の獣〜ローマ帝国がやった数々の大罪

神に対する冒涜、反逆〜神の教えを生きることを禁じて、捨てさせたこと!!!!!神の教えを塗り変えた別物を作り続けたこと。

これは、16世紀の宗教改革後も、元通りには正されていません!

元通り、神が最初から教えている教え=トラー=イエシュアが

教えられた父の教えには、完全に戻っていない!これが事実です。

中途半端。それが、サルデスの群れに向けらた警告そのものなのです。

ローマが作った同じ、偽物の教えを共有し、神の契約を捨てて生きていないことで、それらが証明されるからです。

聖書とは違う、宗教の教え、活動、儀式、記念日を代わりにやっているからです。

サルデスへ伝えられた、イエシュアの言葉も同じ警告なのです。

 

黙示録3:3 だから、あなたが、どのようにして受けたか、

また聞いたかを思い起して、それを守りとおし、かつ悔い改めなさい。もし目をさましていないなら、わたしは盗人のように来るであろう。どんな時にあなたのところに来るか、あなたには決してわからない。

悔い改めとは、ただ反省することではありません。

神の言葉、教えに照らし合わせて、何がズレた思想、考え、生き方なのかを知り、そして、神の言葉、神が伝える通りの生き方に戻る!

それが聖書が教える本当のこと、悔い改めという翻訳で表される、

ヘブライ語のシュヴァ=戻る!です。

「目をさましていない」〜はじめの愛を忘れ、捨てて、偽物、ローマが作った偽物の宗教の教えに交わり、偶像礼拝=偽物の神々、女神の礼拝、祭りに参加し、汚れたきよくない動物を食し、不品行をするようなことをして、神の宮である自分の聖別を汚し、罪、ずれた生き方を継続するなら、イエシュアが来られた時、準備がない!

つまり、神の教え=トラーを捨てた愚かな五人の女たちと同じ

結末になる!と、これを読むユダヤ人は、理解しているのです。

厳しい神?いいえ!神は神が創造された人の生き方を、人に教えているだけです。何も難しいことなど教えてもいないのです。

 

黙示録 3:4 しかし、サルデスにはその衣を汚さない人が、数人いる。

彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。

彼らは、それにふさわしい者である。

 3:5 勝利を得る者は、このように白い衣を着せられるのである。

わたしは、その名をいのちの書から消すようなことを、決してしない。また、わたしの父と御使たちの前で、その名を言いあらわそう。

 

白い衣とは何ですか?エデンの園で与えられていた、神の義で覆われている実態です。

ヘブライ語では、名、衣とは、その人の実態、評判、性質を表すものです。神の家に仕える祭司たちは、白い衣を着ていました。

それは、神の前に義とされた、神のものとなった人の実態を表すものです。

神に義とされた人は、神の教え=トラーを生きると神が教えられて

いるのに、キリスト教、ローマ教の教えは、神に義とされた人は

神の教えを捨て、人間が考えたことを自由に選択して生きると

教えていますが、それは神の教えとは異なる、異端、偽の教えです。

神の言葉に戻るとは、偽物の教えを捨てること、そして神が伝えた

通りの生き方をして、地上でイエシュアの実態を表すことなのです。

イエシュアを信じながら、同時に人間の作った宗教の教えや実践

異教の神々、女神の要素が裏にある、人間の作った祭りなどを通して祝わえない。神の教えが廃れた!という大嘘、偽証はしてはならない!

クリスチャンの間に浸透している概念、思想が、聖書ではないことが分かる言葉が、ここに記されています。

「命の書」とは何ですか?

クリスチャンなら、天国行き切符を持たない人、地獄に行く人は、

命の書に書かれていないと考えるでしょう?

しかし、聖書にはそのような意味では書かれていません。

 

「命の書」とは、最初から書いてあります。ヨハナンは、トラー、

預言書、諸書に記された事実だけを、暗号で書いているのです。

 

出エジプト32: 32今、もしもあなたが彼らの罪をお赦しくださるのであれば……。もし、それがかなわなければ、どうかこのわたしを

あなたが書き記された書の中から消し去ってください。」

 33主はモーセに言われた。「わたしに罪を犯した者はだれでも、

わたしの書から消し去る。

 

命〜生きているものの書とは、クリスチャンが空想するような、

天国の書に、永遠に生きれる人の名がリストとして書かれている書という意味などではありません。今でしょ今!なのです。

今を生きる!永遠の中の今だからです。

 

これは、秋の祭り、第7の月の1日ショーファーを吹く日、

そこから、10日間、10の言葉に照らし合わせて、全国民、

神の民が皆軌修正する特別な時なのです。

10日目の大贖罪日が来ます。

その日に断食しているのは、この世の底辺、見捨てられる場所にいる

詰まり、食べることにも事欠く人々がなぜ居るのか?

断食をすると、空腹で腹が痛み、飢餓を味わい、人の当然の権利で

ある食がないことで分かるから、断食するのです。

そして、飢餓があるのは、神のトラーを生きない結果、貧しい人が

いる、それはどうして?どういう生き方を皆がしているのか?

という問を、国全体、国民、民全体で考える日だからです。

 

命の書に記される、命の書から消されるという意味は、この地上で

次の年も生きながらえることを、語っているのです。

神の性質通りに生きていない人が、命の書から消されて行く。

祭りの意味を知って、体験、実践し続ける人は知っています。

過越の祭りの後、交わす言葉があります。

 

「来年はエルサレムで!」は、希望に満ちた有名な言葉です。

これは『ハガダー』と呼ばれるユダヤ教の書物に由来しています。

ユダヤ人は毎年、過越(すぎこし)の祭りの食事の終わりにこの言葉を歌います。そこには、平和と自由への願いが込められています。

 

ゲヘナ、ハデスの門という言葉を聞いて、燃えるかまどの地獄などと

考えて、そう人に教師、牧師が教えていますが、それはギリシャ神話、神話を考えているから、そう誤解ししているのです。

これらの言葉は、黙示録と同じように、その当時の文化、

グレコローマ文化、思想、哲学、そして神話を知る人に、その内容で書いてあるものでもあるのです。

ハデスの門もそれに打ち勝たないとマタイ16:18でイエシュアが言われたのは、ギリシャ神話のハデスです。

それは、ギリシャ神話の冥界の入り口に立つ門番のことです。

実在しない、神話です。しかし誰もがそれを聞いたら、それが何か分かるから、そうイエシュアが話しているのです。

ギリシャ神話において、死者が行く地下の国は「ハデス」と呼ばれます。

ハデスは、ギリシャ神話の地下の深いところにある牢獄の門番である

神、又は人であるハデスです。

その国へと続く門のことで、番犬ケルベロスが守っているとされています。

その門番ハデス神、又人物は、人が地上に戻らないように見張って

その牢獄に閉じ込めているのです

これは、どれほど強い「死の力」や「悪の力」であっても、神の教えは決して滅びないことを意味しているものなのです。

 

それを、ギリシャ神話が浸透する思考回路のローマがカトリックの

教えとして、煉獄などという思想を作り出したのです。

プロテスタントのあるグループもそう信じている人がいるでしょう。

それは完全に作り話!ギリシャ神話そのものです!

本当と嘘を混ぜる、それが人間の作った混ぜ物宗教の教えなのです。

この地上で息がとられたら、即座に目に目ない神と共にいる場所に

いることに気が付く、移行するだけ!隣の部屋にドアを開けて入るように。

ゲヘナとは、エルサレムに実際存在した場所であり、今もあります。

ゲヒノムの谷です。そこは、囚人や身寄りのない人、ゴミが燃された

焼却場です。イスラエルでは人は、土に埋葬します。土葬です。

しかし、囚人、身寄りのない人は、ゴミ同然に火の中に投げられ、

くべられるたのです。

ゲヘナ、イコール、キリスト教が想像するような地獄ではありません。

出エジプト32章で命の書から名が消される〜地上で生きることから

消されるという意味です。

それらは、どうしてですか?10の言葉で表される神の教えとは

ズレた生き方をする人達は、消されるとあるのです。

人を殺し、盗み、偽証をする人達は、命の書から消される。

もし、皆がトラー=神の教えの題目を生きたら、警察など入りませんよね。

誰も、神を歪んだ思想で、違った解説をしない。

偶像、偽物を礼拝崇拝しない、神の実態ではないものを生きない、

シャバットをガードし、皆が休息、止まれる。親を敬う。

殺さない、姦淫しない、偽証しない、妬まない。隣人の所有物を

むさぼらない。

もし、これだけガードしても、世界は全く違いますが、そのような

世界は、未だ到来していないのです。

罪、ズレは簡単に入り込みます。戸口に来る罪を制さないとならないと、カインがアベルを殺した後、そう警告されます。

 

人は誰でも、見えない未来を恐れます。そして、死後どうなるか?を

恐れています。そして、宗教を作るのです。

迷信を信じる人々、ローマ帝国、ギリシャ神話の神々、女神を信じる。

その神話の中の神々は自然界を支配する天体の神々や、豊潤、

多産、死後の命を保証する神々、人が考える全てが神々になるのです。日本でも、無病息災商売繁盛、子孫繁栄。

全く同じです。それが、ギリシャ神話やその他になったのか、

その他の国々の人が編み出す神話になったのかの違いだけです。

そして、その神話にある神々、女神、思想を取り入れているのが

ローマ帝国教なのです。

そうすると、どこからどこまでが神話で、どこからどこまでが

神の教え=聖書なのか、正しく見分けが付いていないのです。

その理由は、黙示録同様、イエシュアが使われたハデスやゲヘナでも

同じく、その当時の人たちが理解していた通りには、現代の

クリスチャンは、聖書に書いてあるその通りの意味が、教えられていない、事実が見えないから、別物の教えに作り変えているのです。

詰まり、聖書ではない、人の考え、思想を通して、聖書とは違う解説をしているのです。

黙示録やその他も、暗号で記されている部分があります。

白い衣とあるのは、神の義=トラーの実態を生きている人のことなのです。そして、14万4千人という数字も、暗号です。

これを取って14万4千という数字は、自分たちの教団のことだ

などと言っているのを読んだことがありましたが、ローマ教、

そこから派生した西洋宗教の教団のことを話してなどいません。

 

黙示録14:3 彼らは、御座の前、四つの生き物と長老たちとの前で、

新しい歌を歌った。この歌は、地からあがなわれた十四万四千人のほかは、だれも学ぶことができなかった。

 14:4 彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。

この数字は、神の民〜神に贖われてそして、神の契約に根付いて生きている人たちのことが、黙示録には書かれているのです。

最初の箇所と同じ、7つの群れ。5つ〜神の契約から外れて生きた

群れと、そして2つの群れ〜神の契約=トラーに忠実に生きて、

イエシュアから賞賛と励ましだけを受けた群れです。

その2つの群れが14万4千人と同じ意味で表されているのです。

十二弟子、ヤコブ=イスラエルの12人の家族〜それに連なる残りの民です。

その人たちの特徴は、はじめの愛〜神の契約=トラーに忠実に生きる人たちです。

そして、この次の4節にある、「女にふれたことのない者である。」

箇所を、今カトリックの司教のことであると解説していますが、

カトリックが司教に結婚を禁じたのは、教皇の考えです。

人間が決めた!神の教えと、人間の考えをカトリック、

キリスト教は混同した間違いを解説しています。

 

11世紀のカトリック教皇グレゴリオ7世は、聖職者に「聖職者の妻帯(結婚)の禁止」を定めました。

当時の教会では、聖職者が妻や子どもを持ち、財産を家族に残そうとする問題がありました。グレゴリオ7世は、カトリックの財産が

外に流れ出ることを止めるために、この勅令を出したのです。

しかも、パウロが言う通り、トラーでは、結婚を禁じるのは

悪霊の教えだ!とクリアーにあるのです。

なぜなら、結婚は、神が創造されたものだからです。

神の創造に反する生き方を教え、しかも、人に強要する。

それは、神から出たものではなく、神に敵対するものの考えそのものなのです。

自分で、神の言葉に基づき考えないとなりません。

大きな集団、組織がすること、イコール、神の教えなどと考えてはなりません。神の言葉、教えとは違うこと、それは異端思想であり、

神に敵対する思想そのものなのです。

どれほど人を苦しめ、縛る教えを、宗教が作り続けているのか?

偽物の教えを、全て排除しないとならないのです。

 

ここで記されている「女にふれたことのない者である。」とは、

ニコライ派、バラムの教え、偽女預言者イゼベルという言葉で表されていることと同じです。

詰まり、神の教え=トラーではなく、偽物の教えに交わり、妥協すること。そして、それらは実際、異教の神々、女神の偶像礼拝、

神殿娼婦との不品行、汚れた動物、豚やその他なんでもきよいものと、きよくないものの区別なく、なんでも食すること、

それらをしない人、詰まり、神のトラーに根付いた生き方を

している人〜「女に触れたことのない者」とあるのです。

結婚していない人などという意味ではありません!

結婚は、神が創造したものだからです。

 

ギリシャ神話 ハデス神とその門。番犬のケルベロスは、人が

地上に戻らないことを見張っている。

冥界の入り口〜ハデスの門。