神の教えに生きる人 生きない人 命を選ぶか死を選ぶか | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

1年サイクルで、トラーを読む人たちは、世界中同じ箇所を

シャバットで読み、学びます。

去年の仮庵の祭りから、創世記、出エジプト記を、毎週、2−3章

ずつくらいに分かれた箇所をずっと学び続けて、今はレビ記に入っています。

今週の聖書箇所は、パラシャット・シェミニ  שְּׁמִינִי (第八)

トーラー:レビ記 9:1–11:47、ハフタラ:サムエル記下 6:1–7:17

これが、今週のトラーの箇所でした。

この箇所は、ミシュカン建設が終わり、ミシュカンが稼働する時の

ことが記されています。

 

イエシュアや、パウロ、その他、トラーや預言書をシャバットごとに

会堂で読み上げる伝統があります。

福音書、使徒行伝にも、安息日=第7日目に、イエシュアが会堂で

トラーを読み上げたり、パウロが安息日に同じようにトラーを学び

色々な人の質問を受けていたことが書かれているでしょう。

 

安息日と読んで、 日曜日などという、聖書に書かれた意味とは、

全く違う読み替えを絶対にしてはならないのです。

それこそが、人間の思想で、聖書に書いてあることを、勝手に曲げて読み込んでいる、違反そのものであることに、気がついて下さい。

そんな読み方、書いてもない意味で、聖書を曲げて解釈をしていたら、いつになっても、聖書=神が伝える永遠普遍の真実に気がつく

ことなどできなくなります。

 

永遠普遍と書いてあったら、それは暫定的、一時的などという意味ではありません。そして、聖書のどの箇所でも、聖書と書いてある意味は、モーセの五書、預言書、諸書だけを指して書いているのです。

なぜなら、福音書以降は、モーセの五書、預言書、諸書を解説して

いるからです。それ以外の聖書はないからです。

 

クリスチャンの間では、タナック=モーセの五書、預言書、諸書

廃れた!と教えられていますが、それならば、聖書全部崩壊!破滅、破棄、処分されたという意味になります。

なぜなら、聖書は、トラー、預言書、諸所であり、神の教えは、

モーセの五書だけであり、聖書の他の箇所は全てモーセの五書に記された父の教え=トラー=婚姻契約=イエシュアが教えられた教えを

解説しているだけのものだからです。

聖書に書いてない意味で、聖書を読み替えるような、聖書の読み方をし続けたら、それは事実ではない、空虚、空想を考える、意味ない

行為であり、神に対する違反行為、偽証、偽の教え、異端思想を編み出している原因そのものです。

そんなことをしていたら、神が伝える真実など、そのような読み方を

する読者には伝わらないのは、当然の結末なのです。

聖書に書いてあるのは、何か?読んでみれば、分かるはずです。

 

マルコ12:24イエスは言われた、「あなたがたがそんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではないか。

1テモテ4:13わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、
勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。
ルカ4:16それからお育ちになったナザレに行き、安息日にいつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。
た。
24:45 そこでイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて
24:27こう言って、モーセやすべての預言者からはじめて、聖書全体にわたり、ご自身についてしるしてある事どもを、説きあかされそれ
 
古代は、一人一人の家、手元に手書きのトラーや、預言書はありませんでした。印刷機、コピー機などないからです。
しかも、トラーの巻物は高価であり、個人が所有できるようなものではありません。
そして、イエシュアは、日曜日ではなく、シャバット=第7日目を
シャバットであることを、ずっと教え、実践していることしか
聖書には記されていません。
 
ヨハネ5:39あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書は、わたしについてあかしをするものである。
 
7:42キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。

19:24そこで彼らは互に言った、「それを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう」。これは、「彼らは互にわたしの上着を分け合い、わたしの衣をくじ引にした」という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのようにしたのである。

19:28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、

「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。

19:36これらのことが起ったのは、「その骨はくだかれないであろう」との聖書の言葉が、成就するためである。

成就する、神の教えは廃れたなどという、読み違えをしてはなりません。そんな意味は1つもないからです。

19:37また聖書のほかのところに、「彼らは自分が刺し通した者を見るであろう」とある。

20:9しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。

 

<イエシュアは、モーセの五書、諸書、預言書にずっと記されているのです。突然マタイ以降に、別の教えが出たという勘違い、空想は

やめないとなりません。その箇所には聖書=モーセの五書、諸書、

預言書の短い解説しか、書いてありません。>

使徒17:11 ここにいるユダヤ人はテサロニケの者たちよりも素直であって、心から教を受けいれ、果してそのとおりかどうかを知ろうとして、日々聖書を調べていた。

ローマ1:2この福音は、神が、預言者たちにより、聖書の中で、
あらかじめ約束されたものであって
9:17聖書はパロにこう言っている、「わたしがあなたを立てたのは、この事のためである。すなわち、あなたによってわたしの力をあらわし、また、わたしの名が全世界に言いひろめられるためである」。
ガラテヤ3:8聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したのである。
 
1テモテ4:13わたしがそちらに行く時まで、聖書を朗読することと、勧めをすることと、教えることとに心を用いなさい。
 
2テモテ3:15また幼い時から、聖書に親しみ、それが、
キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を、
あなたに与えうる書物であることを知っている。
<聖書を読み、学び、神の仰せを生きると教えているのに、キリスト教の教えは、神の教えは古くて廃れたので、聖霊により生きなさいと
意味不明な教えを主張しますが、聖霊が預言書を通して、書かれたものが聖書と書いてある事実に、全く気がついていないのです。
聖霊は、ローマ帝国=反トラー=モーセの五書、聖霊が記した
トラー、聖書に違反することなど、決して教えません!
それをするのは、聖霊ではなく、悪霊であることを、はっきり知って下さい。
3:16聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、

人を教え、戒め、正しくし、義に導くのに有益である。

ヘブル4:4すなわち、聖書のある箇所で、七日目のことについて、「神は、七日目にすべてのわざをやめて休まれた」と言われており、
 
ヤコブ4:5それとも、「神は、わたしたちの内に住まわせた霊を、ねたむほどに愛しておられる」と聖書に書いてあるのは、
むなしい言葉だと思うのか。
1ペテロ1:16聖書に、「わたしが聖なる者であるから、あなたがたも聖なる者になるべきである」と書いてあるからである。
 
<ペテロは、レビ記11章に記された、神が教えた食規定、きよくない動物、きよい動物、きよい動物だけしか食べるように造られていない、聖なるものとなれ!と言うのは、清くない動物を食べて、聖別を汚すな!と言うことが、クリスチャンは、ペテロの手紙を読んでも
全くその本当の意味など通じていないでしょう。
聖別された人の生き方は、レビ記11ー27章に記されていることさえ、教えらてもいないのが普通です。なぜ?神の教え=聖書は廃れた!というローマ帝国主張=反モーセの五書思想を持つ人の思想を
刷り込まれ続けているからです。それが継承され、今に至るからです。
2ペテロ2:6 聖書の預言はすべて、自分勝手に解釈すべきでない
ことを、まず第一に知るべきである。
3:16彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な
解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

ユダヤ人は、トラーを丸暗記している人もいました。

パウロのような学者は、トラーや預言書、諸書を丸暗記して頭の中に

インプットされるような教育を幼少からずっと受けたのです。

パウロが諸外国にあんな重たい、トラーの巻物を持って、諸外国に

トラーを教えに行きませんでした。

頭の中に記憶されているからです。持って行けもしません。

教育が全く違うのです。知恵の初めに知恵を得る。神の言葉、

トラーを学ぶ事は、教育の中心だからです。

福音とは、イエシュアの贖いにより罪許され、永遠に神と共に住まう天国行き切符が与えられたという小さな小さな範囲のことではないのです。

天はあなたのただ中にあると、言われた意味は何でしょうか?

神の創造された性質、エデン、人が神のトラーに沿った生き方をする

イコール、それそのものが天の現実を反映している、天の現実が

その中にある状態なのです。

クリスチャンの世界で教えられていることは、神のミシュカン、

神殿は、古い仮の劣るシステム、物であり、昇天以降はより優れた

教え、一人一人が神の宮であり、生贄システム〜コルバンを捧げる

ことも、劣った影の教えであるそのような教えられ方をしていますが、聖書には全く違う概念が記されています。

 

そして、未来、イエシュアが来られたらエルサレムの神の家〜神殿

から世界を統治するのです。

聖書を記したユダヤ人預言者は、自分の考えではなく、全て神の言葉を人に伝えているのです。

西洋宗教は、聖霊により預言者たちを通して記した言葉を、勝手に

無効にし、預言者を嘘つきと認定しています。

いや、神を、嘘つきと認定しているでしょう。

なぜなら、神は、神の言葉は永遠に廃れない!と神が言われているのに、その神の言葉を人が遮り、どうして、神の言葉が廃れたと主張しているのですか?

神は、神の性質、言葉を歴史の途中で変えたのですか?

神は神の言われたことを変えないと言ったのに、神が神の言葉を

変えたなら、それは神が、嘘つきということになるでしょう。

神は、偽りを言わない、言えない!と言っているのに、その神の言葉をさえぎり、否定した教えを、堂々とし続けています。

それは、昇天以降、別物の教えが出現し、今迄聞かされた教えは、

古く廃れて破棄された!という、聖書に書いてもないことを、

信じているからです。

 

今日は、日曜日でカトリック、プロテスタント、ギリシャ、ロシア

正教はこの日が、主の日、聖日、安息日としていますよね。

でも、それは神が創造されたシャバットとは、違います。

普通の日〜労働日、日曜日を、人=ローマ帝国が4世紀以降決めた日に、シャバットを変えた!それが本当の事実です。

人間が、神の創造されたモアデイム=シャバットの日や祭りの日を

捨てても、神は、永遠に祝われるわたしのモアデイムと教えています。それが、神が呼び出している本当の日、聖日だからです。

未来は、全ての人が神の前に、モアデイムで出てくるとあります。

種=神の言葉を捨てる場合、その人の中には、神が与える命が芽生えません。御霊の実が芽生えなくなる。

いつ集まろうと、何の目的で集まろうと自由であり、何でもして良いのです。でも、神のモアデイム=定めの日=アポイントメントの日ではない日を、人が勝手に聖別し、それがシャバット、主の日、聖日という偽証をしてはならない!ということを、理解しないとなりません。

イスラエルの仲間や、私も日曜日は、シャバット以外に学びがあります。

それは、シャバットだからではなくて、単にイスラエルの普段の日

労働日の初日の午後に、夕方に、トラー以外の他の箇所を学んでいるのであって、シャバットとしての目的のために集まっているのではありません。この違いを、理解しないとならないのです。

いつでも安息日というクリスチャンの間に浸透したスローガン、

教えがありますが、正しく言い換えて下さい。

いつでもシャバット=止まる日なら、それは労働日がなくなります。

神は、1−6日の間に働いて、7日目を止まると言われたことを、

人間が神になり代わり、言い換えているだけです。

シャバットは第7日目だけです。シャバットで学んだこと、神の中に

憩い、住まい、信頼し、委ねること、それを他の7日間もする!

もし、全ての日がシャバットなら、神が創造された労働日はなくなり、聖別もなくなり、境界線がなくなります。

神の創造を見ても分かる通り、神は分けている、境界線を敷いているでしょう。

それを、人間が勝手になし崩しにする、それは神に対する罪、冒涜

行為なのです。

神が創造されたことが、教えていることが絶対であり、人間がそれを

言い換えたり、作り替えることこそが、罪そのものの根であることを

知らないとらならないのです。

人に許されていることは、神が許可された境界線の中、囲いの中で

あれ、これ、それを生きれることです。