1コリント10章 パウロは出エジプト 過越の祭り背景を解説している | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

パウロの手紙に記された内容を読む時、パウロが何者であるか?ということを、正しく、理解してしないと見えません。

クリスチャンの世界に浸透したパウロ像は、完全に本人の事実とは

歪められたパウロ像が語られてしまっています。

パリサイ派も然りですし、ペテロ、イエシュアに対しても同じです。

勝手な空想で語る偽物像。

 

著者が誰で、その人が何を信じ、何を生きている人か?

その事実がズレているから、パウロの手紙が、神の教えが廃れ、神の食規定は廃れ、又は祈れば、どんなきよくない動物も、今の時代は

きよくなり、人間が考える日が、安息日、記念日として良いと教えられているでしょう。祈ればなんでもきよくなる?だから、毒蛇の毒を飲んで死んだ牧師がアメリカにいます。愚かの思考回路。

 

これら全部、神の言葉を無視する反ユダヤ思想、反モーセの五書思想を持つ人達が、聖書=テキストに書いてある内容を、完全に間違った読み込み、人間の思想で曲げて読んでいる負の産物なのです。

パウロは、パウロ自身が神殿の正式な儀式を通して、公の人々に対して、身の潔白=100%モーセの五書=トラー=契約に忠実に

生きているという証明している通りが事実だからです。

パウロは生涯、死に至る日まで、100%モーセの五書に

忠実に生きて、モーセの五書を教え、神の教えが廃れた!などという

大嘘、偽の教えをするようなことをしていないのです。

では、クリスチャンの間で施されている、パウロが神の教えは廃れ

いつでもシャバット、なんでも食べ良い、割礼は廃れた?などと

解説している教えは、聖書ではない!と気がついてください。

間違った読み込みを施している。ペテロが警告した通り、

パウロの書いた内容を、間違った、無理な解釈を施し、身に滅びを

招いている!と言ったその通りのことをしているのです。

 

2ペテロ3:16 彼(パウロ)は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。

 

<これは、まさに異邦人の世界に広がり浸透した、歪んだ聖書解説そのものへの警告でもあるのです。神の教えが廃れた?神が変身した?時代ごとに贖い、救い、神の性質、神の言葉が変化する?肉の教えの色眼鏡をかけた神の教えの進化論を信じる人の解説ばかり聞かされたら、それは、偽の教えに洗脳されるだけなのです。>

 

以下を読んでも、パウロは、モーセの五書に記された、出エジプト

過越の一連のことを、書いていることに気がついて下さい。

 

そして、5章、11章でも、過越の祭り醍醐味、主旨、祝い方を

コリントの群れの人に教えているのです。

パウロが教えたのは、ローマ帝国皇帝達が作ったイースター祭りなどではありません。神が創造された「代々永遠に祝われるわたしの祭り」と神が言われたそのものを祝うのです。

そして、神が創造されたモアデイム、シャバット、新月、祭りを

人が汚すことを、神は厳重警告しているのです。

 

偶像礼拝とは、偶像=人間の思想で編み出した別の神々の礼拝方法です。それらが、金の子牛であり、人間が考えついた別の記念日を

通して、イスラエルの神を礼拝する、それらが偶像礼拝なのです。

神の言われた通りに、神に近づくのではない、人間が編み出し思いつたやり方を通して、神に近づくことです。

それが、聖書が警告している、高き所の礼拝、偶像礼拝、姦淫の罪

バビロンの正体なのです。

だから、人間の思想で、人の手で作った別物=金の子牛、イスラエルの神に属さないものを通して、神を礼拝してはならない!とずっと

警告されているのです。

パウロが同じ警告をしていることに注目して読んでみて下さい。

 

モーセの五書=トラーに記された事実、神の教えをパウロが解説しているのです。トラーとは違う、新しい別物の教え、又はトラーを

人間が変えて良い!などという、冒涜的罪をパウロは人には教えません!それをやったのが、ローマ帝国の宗教なのです。

 

1コリント10:1 兄弟たちよ。このことを知らずにいてもらいたくない。わたしたちの先祖はみな雲の下におり、みな海を通り、

 10:2 みな雲の中、海の中で、モーセにつくバプテスマを受けた。

 10:3 また、みな同じ霊の食物を食べ、

10:4 みな同じ霊の飲み物を飲んだ。すなわち、彼らについてきた霊の岩から飲んだのであるが、この岩はキリストにほかならない。

 

同じ1つの贖い、イエシュア、同じバプテスマ、同じ霊の食べ物とは

モーセの五書=トラー=婚姻契約のことでしょう!!!

メシア、イエシュアは二人いません!

ここに解説されているのは、タナックに記された内容なのです。

出エジプト、13、14、40章。エジプト脱出、過越の一連の

出来事です。

民数14 14、申命記1:33

詩篇 78:13−14 53, 109:7−11、77:18−20

105:39 ,106:7-11

ネヘミヤ9:11−12、19,ヨシュア4:23

黙示録15:2-3

 

10:5 しかし、彼らの中の大多数は、神のみこころにかなわなかったので、荒野で滅ぼされてしまった。

10:6 これらの出来事は、わたしたちに対する警告であって

彼らが悪をむさぼったように、わたしたちも悪をむさぼることのないためなのである。

だから、彼らの中のある者たちのように、偶像礼拝者になってはならない。すなわち、「民は座して飲み食いをし、また立って踊り戯れた」と書いてある。

 

<これは、シナイ山の麓、シャブオートの祭り、神の婚姻契約を

受け取る時に、イスラエルが偶像礼拝=金の子牛を作り、それを

通して、神の祭りを祝った悪事なのです。

偶像礼拝とは、神の教えを捨てて、人が考えついたこと、教え、

記念日を通して、イスラエルの神を礼拝することなのです。>

 

10:8 また、ある者たちがしたように、わたしたちは不品行をしてはならない。不品行をしたため倒された者が、一日に二万三千人もあった。

10:9 また、ある者たちがしたように、わたしたちは主を試みてはならない。主を試みた者は、へびに殺された。

10:10 また、ある者たちがつぶやいたように、つぶやいてはならない。つぶやいた者は、「死の使」に滅ぼされた。

10:11 これらの事が彼らに起ったのは、他に対する警告としてであって、それが書かれたのは、世の終りに臨んでいるわたしたちに対する訓戒のためである。

<パウロは、トラー=モーセの五書に記された教えは、同じ訓戒である!と言っているでしょう。ローマ教の教えは、古い教え、廃れた教えと、神の教えや警告を無視する、偽の教えを教えているのです。

10:12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。

 10:13 あなたがたの会った試錬で、世の常でないものはない。

神は真実である。あなたがたを耐えられないような試錬に会わせる

ことはないばかりか、試錬と同時に、それに耐えられるように、

のがれる道も備えて下さるのである。

 

10:14 それだから、愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。

10:15 賢明なあなたがたに訴える。わたしの言うことを、自ら判断してみるがよい。

偶像礼拝〜人間が作った宗教の教えを信奉し、それを通して

イスラエルの神を礼拝すること、そのものが偶像礼拝なのです。

なぜなら、イスラエルも、高き所、別の神々の礼拝場で、彼らが

やった慣わし、儀式を通して、イスラエルの神を拝んだ、そのこと

への警告なのです。今も同じことを実はやっているのに、気がついていないだけです。なぜ?神の教えは廃れて、今は人が考えるやり方教えに変えて良い!という偽の教えを教えられているから、

神の警告が、捨てられ、理解できなくなっているのです。>

 

 10:16 わたしたちが祝福する祝福の杯、それはキリストの血にあずかることではないか。わたしたちがさくパン、それはキリストのからだにあずかることではないか。

10:17 パンが一つであるから、わたしたちは多くいても、一つのからだなのである。みんなの者が一つのパンを共にいただくからである。

10:18 肉によるイスラエルを見るがよい。供え物を食べる人たちは、祭壇にあずかるのではないか。

 

<パウロが言っているのは、デイスペンセーション神学や、西洋宗教が語る2つ別物の教え、別物の群れ、別物の生き方ではありません。

1つ!とずっと書いてあるでしょう。1つは1つで、2つではない!

こんな簡単なことも、理解できなくなるのは、偽物の教えに洗脳されて1つが2と読むように、教えられているからです。

ここに記されているのは、過越の祭りの儀式であり、聖餐式ではないのです。1つのパン=種無しパン=罪が削ぎ落とされた人とされ

1つの体=1つの家族になったと書いてあるのに、どうしてそれに逆らう、真逆の人間の編み出した思想、神学で、聖書に書いてあることを曲げて解説していることに、これを読んでも気がつけないだけなのです。聖書に書いてある通りに読んでもいないことが、問題なのです。

 

 10:19 すると、なんと言ったらよいか。偶像にささげる供え物は、

何か意味があるのか。また、偶像は何かほんとうにあるものか。

 10:20 そうではない。人々が供える物は、悪霊ども、すなわち、

神ならぬ者に供えるのである。わたしは、あなたがたが悪霊の仲間になることを望まない。

 

<偶像などない。人間の思想で編み出した神々など実は存在しない。>

 10:21 主の杯と悪霊どもの杯とを、同時に飲むことはできない。

主の食卓と悪霊どもの食卓とに、同時にあずかることはできない。

10:22 それとも、わたしたちは主のねたみを起そうとするのか。

わたしたちは、主よりも強いのだろうか。

<実在しない神々、それがキリストという名を名乗ってもそれは嘘!

偽物と交われない!とパウロも警告しているのです。

それは、モーセの五書に記された、イスラエルが犯した罪への警告を

パウロが解説しているのです。

金の子牛、神の契約を破り、高き所でバアル、モレク神、作り物の

偽の神々の礼拝方法で、イスラエルの神を拝んだ=偶像礼拝。

 

10:23 すべてのことは許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことは許されている。

しかし、すべてのことが人の徳を高めるのではない。

0:24 だれでも、自分の益を求めないで、ほかの人の益を求めるべきである。

10:25 すべて市場で売られている物は、いちいち良心に問うことをしないで、食べるがよい。

 10:26 地とそれに満ちている物とは、主のものだからである。

この箇所を、絶対に勘違いして読んではならないのです。

クリスチャンの間に浸透している聖書ではない教えは、きよくない

動物、きよい動物、昇天以降の新しい時代は、なんでも食して良い!という、レビ記11章が破棄されたなどと考えているのです。

大元は、神の言葉が廃れた!だから、自分たちに都合が悪い、

受け入れたくない、自分たちの生活習慣とは異なる教えの全てを、

そのように勝手な解釈、読み込みをしているのです。

神の教えではなく、自分の都合が優先なのです。

神の教えは、完全であり永遠普遍と神が言われたことを、理解していないことが、本当の問題なのです。

聖書に記されている人々で、異邦人クリスチャンの世界で教えられたような思想や、実践、別の記念日を祝うことを考える、する人

豚やロブスターや、エビ、カニ、タコ、レビ記11章に記された

きよくない動物を食する人などは、イエシュアを含め、誰一人と

していないことを覚えておいてください。

それらを食することは、罪そのものであり、聖別を汚す行為です。

神の宮である人は、神が禁じる、神の宮、祭壇に捧げられない

きよくない動物は食せない!そんな基本的なことを知らないのは、

ローマ帝国が作った偽物の教えのせいなのです。

もし、イエシュアが率先して、マルコ7章にある、ギリシャ語原典にない、「全ての食べ物は清い!」とイエシュアが言われたと勘違いしている人には、翻訳者が勝手に挿入した文を読んで、全ての食べ物は清いと勘違いしているのです。実際それらは、調べれば2度と食べたくもない、毒、菌、ウイルスの宝庫であり、体の中に毒を溜め込む

構造の人が食するのにふさわしくない清掃動物なのです。

パウロが言うように、「なんでも」というのは、神が創造された人の

食べ物の中、レビ記11章に記された中でのなんでもなのです。

日本人が、ネズミや、ゴキブリを人間の食べ物などと微塵にも考えないでしょう。

実際にそれらはきたない動物であり、人の食べ物ではありません。

詰まり聖書を、人が編み出した思想のレンズで、歪めて勝手に都合

よく読み込んでいることに、先ず気が付かないとなりません。

神の教えは人を縛るものではありません。神が創造主であり、神が

人が食するのにふさわしい動物を造られ、それ以外は、食する目的で作られていない、別の目的、清掃動物であり、それらを人は食べるように作られていない!そんな簡単な事実なのです。

 

清くない動物を食する、それらは神の前に最もおぞましい行為であり

罪そのものであり、聖別を汚す行為であり、そのような人は神の御国を継ぐことがない!と教えているのです。

祭壇の上に豚は捧げられないのです。私たちはきよくない動物=豚のような性質ではないからです。

神の教えを捨てる人には、どこまで行っても自分の都合の良い

曲がった聖書の読み方をし続けるのです。

これは、未来預言なのです。下矢印寓話、たとえ話ではありません。

イザヤ66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。