神の教えを捨てることは罪を招き入れる戸口を開くこと | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

イスラエルの神の家の家族メンバーは、血筋が重要ではないのです。

ユダヤ人として、世界の中に唯一存在する創造主である本物の神、

そして、唯一の神の性質を生きる民族、そして聖別された場所=国

神の家が存在する選び出す必要があったのです。

それは、歴史の中で、イスラエルの神が本物であり、それを全世界へ教える、証明するためでもあるのです。

異教の神々の国、世界と分たれている、境界線が敷かれている、

偽物と本物を区別する神の聖別された家、人の生き方、場所。

神が聖別されたものは何ですか?神の時、神の場所、神の人です。

それらの人は、異教の神々に仕える、異教の神々の国の人とは異なる生き方をし、創造主が造られた記念日を、神と共に祝う事を教えられているのです。他の異教徒は誰も祝わない、イスラエルの神が創造されたモアデイム〜アポイントメントの日〜神が聖別された特別な

会見の記念日。

異邦人アヴラムが神から直接呼び出され、神から直接同じ教え=

トラーを教えられ、そして全世界へ同じ教えを伝え、生きることを

教える代表者として選ばれたのです。

そして、神のもとに戻る唯一の手段=子羊イエシュアの血の代価は

永遠の中に既に支払り済みであり、完結していることを世界へ教える代表とされたのです。

太古の人は、ユダヤ人は、律法を生きて義とされたという人の思想を

語る人は、聖書に書かれている意味を正しく理解していないから

そのような、ズレた思想、仮説を語るのです。

そんな事は、聖書に書いてもないからです。

誰一人、人種、時代に関わらず、人間の努力や手柄で神の元に戻れる人はいません!誰一人、自分で自分を生み出せる人はいないのです。

全ては神が由来、起源であり、神がプラン、デザインした通り以外

人はそれに沿って生きることができるだけです。

 

特別にアヴラハムが優れた人間だからとか、ユダヤ人が優秀だから、

良い人たちだから、そのような理由で、アヴラハムは神に選ばれたのではないのです。

全ては神の主権、考え、理由で、神の契約を神が伝える通りに世界へ伝え、生きる人を神が選び出したのです。

そして、神に選ばれた人は、神の言われた通りに忠実に、神に託宣

された事実を人に伝える役割をしなくてはならないのです。

イスラエルが、契約=神の教えからずれて、異教徒の教えに混ざり

生きたら、それは絶対にやってはならないことだったのです。

神の大家族に加えられた人も同様なのです。

神の家の花嫁として嫁いだ人は、その家の家訓、生き様を反映して

生きる人、聖別された人となったから、別物を生きては、その家に

ふさわしくない振る舞いをしていると言うことは、分かるでしょう。

 

そして、大事なことは、神に託された事実通りを、神の子らは世界へ

伝えて生きないとならないのです。それは、人種により違いません!

1つ大家族は、1つしかないイスラエルの神の家の家訓=トラー=

契約に根付いた生きかたをする!と聖書に書いてあるではないですか。読者がそれを読み取れない問題があるだけで、神は神の言葉

教えとは違うことを、人に教えません!

それを、覆すのが、混ぜ物の宗教=人間の教えで神の言葉を塗り替えて、別物に変形させた教え、宗教、実践、活動、etc なのです。

 

神の創造されたシャバット、新月、過越、初穂、種無しパン、

そしてシャヴオートの祭り。これが、春の4つの祭りです。

これらを通して、イエシュアがされた贖い、救いの業を永遠に人々の中で再現し、皆で体験し、継承され、学習していくものです。

イエシュアが処刑される前の晩祝ったのは、過越の祭りです。

イエシュアは、毎年この過越を祝うたびに、皆でイエシュアのされた

業、この出エジプトでされた業、永遠の中に既に屠られ完了されている子羊の血で新しくされた事実を思い出して!と遺言されたのです。

イエシュアは、イースターという異教の女神の名にすり替わった

別の記念日を祝ってと、イエシュアはここで使徒達に言われましたか?言われてません。そんなこと言うわけもありません!

聖餐式も、カトリックが、この過越の晩餐の中で行う儀式を

変えてしまったものなのです。幼児洗礼も同じです。

8日目に施す割礼を、幼児洗礼に変えたのは、カトリックであり

神は信仰義認の譲渡契約の印として与えた割礼は永遠に有効と

教えているのです。

種無しパンと、4つの杯。このイエシュアがされた記録は、

食後にする3杯目のワインと種無しパンで、贖いの杯と呼ばれるものなのです。

変えては、元の意味が分からなくなります。パン種とは、罪=

ハメッツを表すものであり、罪が削ぎ落とされた人=マッツア=パン種がない人にされている事実を、種無しパンで教えているのに、

種ありパンでしては、意味がなくなります。

そして、この儀式は、毎週毎月日曜日、普通の日にする儀式ではない、過越の祭りの時にする特別な儀式なのです。

日本人は毎週日曜日に正月を祝い、お屠蘇を飲まないでしょう。

普段の日にいつでもするならば、特別な意味がなくなるのです。

普段の日ではない、神が聖別された時にする特別な祭り、儀式なのです。

その晩餐の中でされた再更新された契約=シナイ山の契約を、

出エジプト6:6−7の中に記された事実、

6:6 それゆえ、イスラエルの人々に言いなさい、『わたしは主であるわたしはあなたがたをエジプトびとの労役の下から導き出し、

奴隷の務から救い、また伸べた腕と大いなるさばきをもって、

あなたがたをあがなうであろう。

 

 6:7 わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。わたしがエジプトびとの労役の下からあなたがたを

導き出すあなたがたの神、主であることを、あなたがたは知るであろう。

秋の祭りは、再臨を表す、3つ、ヨムテルア、大贖罪日、仮庵です。

 

これら全て、クリスチャンはイエシュアを知りながら、教えられない

祝わない、捨てているのです。宝をドブに捨て、神が呼び出している日に一度も参加していない損害、損失に全く気がついていない。

それは、神に属さない別物、代替えで満足しているからです。

 

過越の祭りの時近くに、詳しく書きたい内容がたくさんあります。

歴史の中で起きた出来事の前後で、神の性質や、神の教えが

変わるという、とんでもないデマ、嘘、作り話、偽情報を教えられて来ました。

クリスチャンの間では、使徒信条というのがあるでしょう。

それぞれの群れが、何を根拠にして、信仰を生きているのか?という声明です。

「私たちの教会は、聖書は、誤りなき神のことばと信じています。

聖書信仰に立っています。」

キリスト教、プロテスタントにも今や世界には、5千以上の派がありますが、それぞれが、それぞれの考える「イスラエルの神」を信仰しているのです。

聖書に書かれていない、別の神像、神の教えとは別の教えをそれぞれが信奉する。それは、人が作った思想を根拠としているのです。

一般的に、プロテスタントは聖書を信仰の基準、絶対である

発表しています。

それは、16世紀に起きた宗教改革、カトリックから分かれて、

聖書ではない教えを信仰しない、プロテスト=抗議、反対、異議申し立てした、何に意義申し立てしたのでしょうか?カトリックが、神の教えを、さまざまに変えて、歪めて、塗り替えて作り出した聖書ではない教えに、抗議したのでしょう。

西洋宗教、ローマ教の思想その大元は、神の教えそのものを覆し、

否定した作った人間由来の宗教であることを、忘れてはならないのです。

そして、プロテスタントも、結局、信仰の土台=神の言葉=トラーを

終了!とした、人間の思想を土台とした信仰を続けてしまったのです。

16世紀当初、残りの民はいたのです。カトリックの教えから抜けた人が、完全に元に戻ろう!トラー、神の教えに記された通りに戻ろう!と主張したのに、却下されたのです。

宗教改革をし、カトリックの曲がった教えに異議申し立てした、

そのルーターが、最後、反モーセのの五書、反ユダヤ思想に翻り、

神に敵対する行為を書物に書き、ヒットラーがそれらを実行してしまったのです。

人は、ズレることができます。それは、神の教え、トラーを捨てることから始まるのです。その警告がエデンの園の最初の事件、警告

なのです。神の言葉を歪めたことを言われ、それを信じ、神の言葉は

廃れたと勘違いしている、それそのものが騙しなのです。

 

だから、未だに、キリスト教は、ローマ・カトリックが作った神の

教えは終了という思想を土台にし、神の創造されたモアデイムを全部

捨て、代わりにローマ・カトリックが作った教えと、その記念日を

同じように祝っていることでも、分かるはずです。

聖書ではない!それは、人間の作り物であり、神の教えを否定する

思想は、神の前に、1000%完全に罪であり、聖別を汚す行為で

あることを、聖書の事実から目覚める必要があるのです。

 

①「聖書を、誤りなき神のことばと信じ、」と言う群れが殆どですが、実際には、神の言葉=聖書をそのようには取り扱ってなど

いない事に気がついていないだけです。

いや、聖書を読んで、自分で気が付かないとならないのです。

神の教えは変化した、廃れたなどと、どうして聖書に書いてもないことを、聖書に書いてあるなどと言えるのでしょう?

それは、イエシュアやパウロの言葉を誤解して間違った解釈を

していても、そのことにさえ気がつけない無感覚、無知状態に

陥っているからです。

人間の教えという歪んだレンズ、色眼鏡、思想で、神の言葉の方を

曲げ続けて、聖書とは異なる聖書解説をしているからです。

聖書に登場する人、使徒やイエシュアや、パウロその他は、誰一人

現代のクリスチャンが主張するような神の言葉、神の業、神の性質の

進化論など微塵にも考えに浮かばない人々であることを、はっきり

知ってください。

②「聖書を信仰と生活のすべてにおける唯一、不変、不動の基準と

認め、聖書の教えに従って生きることを目指します」

と言うならば、どうして、神の教えが破棄され、異邦人には関係ない教えだ、今はなんでも自由にして良い、LGBTもOK、皆が皆、そう言う主張を主張をするのではないですが、聖別を汚す行為、なんでも

取り入れ食べることOK、今はいつでも安息日だ、これらの主張、

行為、行動は、神の教えを、行動で否定した生き方を、世界へ表明しているのに気がつけない。神の教えと、偽物の教えとの境界線がない、融合。

異教徒と同じ生き方をしていても、気がつけない。

それは、神の教えは廃れて、それぞれが考えることをすれば良いと

いう、パウロの手紙の内容を完全に誤解した、歪んで間違った聖書

解説を本当だと信じているからです。

 

③聖書にある神の教え、恵み、救いをよりよく知り、理解するために聖書を大切にします。

そう言うならば、その通りにしないと意味がないのです。

聖書に記された人々、イエシュアや使徒、パウロ、それ以前の預言者や残りの民が生きていた、神の教え、契約を生きるクリスチャンは

いないのです。信じた最初から、ローマ教という宗教の教え

実践、記念日を生きているのに、それに気がつけないのは、

それらが昇天以降の新しい教え、契約、生き方だ!などと疑いなく

信じているからです。未来イエシュアが戻られたら、それは全て

一掃され消えます。全世界が、神のトラーに戻り、神のモアデイム

シャバット、祭りを祝うようになると預言されているのです。

ザカリヤ14:16-21

④「礼拝を大切にします。礼拝は、「神を愛する」という第一に大切な戒めに対する信者である人の応答です」

礼拝は信仰者としての務めであり、招いてくださる神と出会う最高の恵みの場です。
主にある兄弟姉妹が集まってささげる主日礼拝が、公的な教会活動

および個人的な信仰生活の双方の基本です。

主日礼拝は、日曜日ではありません。日曜日は、聖書=神の暦では

普通の日であり、名前がない、第一日と言う日なのです。

普段の労働日です。イスラエルでは、日曜日は業務、学校へ行く日。

異邦人の世界は、土日が休みが多いですが、だからと言って

シャバットは、日曜日と神は変更などしていません。

このように、人間の教えを神の教えの上に持ってくる行為こそが、

神を冒涜、敵対する行為である警告が聖書に書いてあるのに

気がつけないほど、人間の作った宗教の教えとその実践が

どっぷり浸透してしまっているのです。

神の聖別されない日を、主日、聖日と呼んではならないのです。

それは、人が神になり変わる行為そのものです。

それは普通の日に仲間と集まり、聖書を学んだり、歌ったり

交わりをしたりと言い換えないとなりません。

偽証をしているなどと、気がつけないのは、神の言葉を曲げた

ローマが作った宗教の教えが、本物という欺瞞があるからです。

 

「聖礼典を大切にし、聖餐を執り行います。」

聖餐式は、過越の祭りで行う儀式であり、日曜日にするものでは

ないのです。

福音を述べ伝える。。。。福音て何ですか?

キリスト信じて、罪赦され、天国に行ける?それが福音?

神に新しくされた人、父の元に戻った人は、罪に縛られず、

イエシュアが生きた通りの本来の生き方ができるようにされている。

その人達は、神の教えに反する生き方などしない、できないのです。

しかも、神が言ってもないことを、神が言ったように主張することは神に対しての罪であり、冒涜であり、偽証罪なのです。

ローマ帝国皇帝が作った思想の代弁者になってはならないのです。

誰かの生き方を批判しているのではないのです。

神が伝えてもいないこと、人間が作った宗教の教えが嘘なのに、

本当だとされてしまい、神が神の教えを変えた、今はなんでもOK、

シャバットは日曜日だ!異邦人とユダヤ人は別の教えを生きるのだ!と言う大嘘。

その偽情報〜聖書ではない人間の思想、宗教の教え、実践を世界へ 気が付かないまま拡散していること、この偽情報、嘘に気が付かないとならない警告があるのです。

イエシュアの贖いの業により、父の元に戻った!それ以降の生き方が

重要であり、大事な成長過程、荒野の旅路の訓練があるのに、

神の声=言葉=教えを聞かず、人間が作った宗教の教えの声などに

聞き入ってはダメなことは、聖書にはっきりずっと記されているのです。

聖書を読めば、至る所にイスラエルが犯した罪、高来ところの礼拝

それは、神の教えに、人間の思想を混ぜて変えたもの、

それが西洋宗教でもあることに、気が付かないとならないのです。

聖書には、ユダヤ教も、キリスト教の教えも書かれていません。

神の言葉、教え、トラーしか記されていません。

そして、それらは神の教えに、人間が考えた思想をつけたし、差し引きするな!と警告されているのに、それをやって良い時代だとされ

聖書ではない、宗教実践に駆り出されているのです。

その代わりに、神の教え、記念日を捨てて、聖別された生き方を捨て神の聖別されたモアデイムを汚し、罪の定義を取り払い、

境界線がない、歪んで、ぼやけた人間の思想〜異教徒と何ら変わらないライフスタイルと同調する生き方に甘んじているのです。

その果てが、神の性質を塗り替えるLGBTでもあるのです。

命の根幹を揺るがすサタンの罠、神の言葉を捨てることから始まる

のです。