神の家に人間が編み出した生き方は持ち込めない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

神が人の為に、全世界を創造されました。

人は神に造られたので、創造主だけが、人がどのように生きるのかを

伝えられる唯一のお方です。

そして、エデンの園の中から、人は神が伝えた通りに、この世界の

全てを治めるよう、神から直接口頭で教えられていたのです。

神に造られた人は、神のように、無から何かを創造したものは、

1つもありません。神が与えた全ての中で、人は生きるように

造られているのです。全ては神に属し、神が創造されたものです。

そして、人は神の中に住まうように造られました。

人の性質、人の構造、成り立ち、個人、共同体は、神のデザイン通り

に生きる時、それが、神の意図通り〜トヴであり、神の創造の目的通り、完全に本来の状態で機能できるのです。

 

神の中〜場所〜ハマコム、神の家の中に住まうように造られた人は

どのように、神の家に住まうのかを、教えられたのですが、

それを、エデンの園の最初から、捨て、拒絶し、神が創造された

デザイン、構造、性質ではないことをエデンの中に持ち込みました。

 

神の家に、人が招かれているのです。人が自分の家に住まうよう、

神を招いたのではないのです。

神の家の一員とされて、神の大家族の中に生きるよう招かれた人は、神が創造された神の家に、イスラエルの神に属さない別物、異物、

異なる性質のものを持ち込めないという、大前提を理解しないとならないのです。

 

これ基本中の基本なのですが、全く理解されていない、神が伝えている永遠普遍の神の大家族の家訓=トラーなのです。

日本、海外の王室には、独特のしきたり、生き方、習慣、記念日、

儀式があるでしょう。

天の神の家のロイヤルファミリーには、神の似姿通りの人が、

神の性質、神のデザイン、神の大家族の構造の本質通りの生き方を

することが、教えられているのが、神の伝える教え=トラー=神の家の婚姻契約なのです。

神の家の特別な記念日、神が呼び出して聖別された日の全ては、

レビ記23章に記されています。神が創造された、神が聖別された

神が神に属する全ての人を呼び出し、特別な会見、出会いをすると

約束している、神のモアデイムの暦が人に伝えられているのです。

 

神が伝える、神の家の中に招かれ、神の家に上がった人の生き方を

神が伝えている、それを曲げた、変えたのが西洋教父達なのです。

神が神の教え、神の家に住まう、神の民、聖別された人の生き方、

記念日を変えたのではありませんし、人が神のモアデイムを変える

ことを、禁じています。

それをしたのは、今、今日に至るまで、全て人間がやったことなの

です。

それが、人間の思想を混ぜた宗教の教え、実践、ならわし、儀式、

記念日として行われていることなのです。

 

神の国の中では、神が提示する聖別された境界の上、神が提示した

婚姻契約の生き方の上だけに成り立つものなのです。

 

これは、普通の婚姻関係でも、理解できることでしょう。

嫁ぎ先、夫の家に入った嫁は、夫の家の生き方、しきたり、大事にしている記念日、行事、全てを嫁は、1つ1つ教えられて、それらを

夫の家族と共に大事に守って、生きるでしょう。

それを、無視する嫁は、嫁ぎ先の家に馴染まない、ふさわしい生き方をしない嫁です。

神と共に住まうという事は、イコール、神が提示された生き方、

聖別された生き方だけに沿って、神と神の家の人と共に住むことが

成り立つのです。

 

普通の生活でも、この構造、成り立ち、性質を理解できませんか?

家庭には、職場には、学校には、共に住まい、活動、時間を共に

過ごす上での共同体の生き方、ルール、秩序が存在します。

それがない場合は、無秩序、混乱、カオスでしょう。

 

人間が主体になり、神の家に住まう生き方は、これこれ、あれこれと、それぞれが勝手に人間が自己主張して、決めても、それは無意味なのです。

それらは、神が伝える神の家に住まう、神が聖別された通りの生き方ではないからです。

神が言われる事を無視して、勝手に生きる人=神に聖別された人の

生き方を、神が教えているのに、理解しようとしない、自分の考えを

ゴリ押しし、無理強いし、それぞれが考えるところを、好きなように生きて良いと神が言ったなどと言い換えているのです。

ローマ=人間が作った神の教えを否定した教えを土台とする、

イスラエルの神に属さない思想、聖書に1つも根拠のない人間の思想を信じているのです。イスラエルの神の教えではない、別物の教えを

信じて、実践していることに、気がついていないだけなのです。

 

神は最初から、ずっと人に教えて、言われているでしょう。

神が示した通り!その通りをして!と。神が全てを創造されたから

です。神だけが、人にどう生きるのか、神が創造された世界をどう

治めるのか、教える事のできる唯一のお方だからです。

 

当然だと思いませんか?神により命が与えられた。

神により、新しくされ、聖別された人を生きれる命を与えられ、

イスラエルの神の大家族に加えられたのに、以前と同じ異教徒の世界の生き方を勝手に主張し、持ち込めない!という神が教えている事を、理解しない、分からないまま自分の考え、人間が編み出した思想宗教の教えを主の教えとしてズレたことを、考えてて生きているのです。

神が提示する、神が創造された人の生き方、個人、コミュニテイ、

国全体で、神が創造された人の生き方をすることが、聖書に書かれているのです。

神の伝える人の生き方を、不自由、面倒、縛りと受け取る人は、

思考回路が、神の考えと、全くズレた場所にいるという事に、

気がついてないのです。

自分の家の中でも、親が言う事を、子が無視して、それぞれ勝手に

やる場合、それは親を尊敬、尊重、敬意など払わない、親を軽視し

馬鹿にした態度でしょう。

人の言う事を、無視すると言う事は、その人を軽く扱っている事の

表明なのです。

神より、自分=人間の考えの方が優れている?それを、神は人に

今はなんでも自由に人が選んでやれば良いと言ったという嘘を信じている。そんな事、聖書に1つも書いてありません!

人は、神に与えられた実態の中、境界線の内側で、あれも、これも、

それもする自由を与えられているだけで、境界線の外、神の意図とは

ズレた場所=悪をすることを、神は1つも許可していません。

それは、危険であり、神から離れる要因を次から次へと作るからです。

異教徒の神々を崇拝する異邦人の国、メソポタミアに生きていた、

異邦人であったアヴラハムが、神に突然呼びだされて、その神の声に

応答し、神の言われる通り、生まれた家、故郷を突然出たのです。

 

そして、神の目から見る通りを見て、神の民〜しかも、全民族の

代表となる父、神の教え、祝福、福音を世界へ伝える民族の父とされた人が、神が伝える通りを、1から教えられたのです。

イエシュアを通して、アヴラハム同様、父なる神の元に戻った人は

もれなく、全て同じ教えを、神から教えられて、神の目から見る通り神が伝える教え=トラーを1から教えられて生きる事をする!

 

イスラエルの神を信じた後、教えられてしまうのは、西洋人が作った

宗教思想。神の教えは廃れた!と教えられてしまったのです。

自己主張、人間中心、自分の判断が基準と教えられている。

だから、今は神の教えが廃れ、今は人が考える日いつでも、安息日

主の日だなどと、聖書とは100000%永遠に関係のない教えが、神の教えという偽情報を信じ込まされているのです。

 

神が伝えること、トヴ=神の意図通りであることを、理解しない人が

自己主張を勝手に生きる事が、自由であると感じる、勘違いするのです。

宗教が伝える教え、今の新しい時代=聖霊時代は神の律法に縛られず、自由に生きれるのだという、聖書に1つも根拠のない人間の

思想、主張をしていますが、それは何を意味していると思いますか?

神を神としない、人間が神の権威の座に座る行為です。

恐ろしく無秩序、どこまでも自己中心、神の主権を無視する生き方そのものなのです。

神の権威に敵対する者の、思想、行動そのものなのです。

 

神が与えた自由とは、好き勝手にその人が勝手に生きることではありません。

神が人に与えられた自由とは、罪に束縛されない、イエシュアと同じ性質を、イエシュアの性質通りに生きれる自由が与えられていると

書いてあるのに、何でもする自由を与えられたなどと、とんでもない誤解を解説し続けているのです。

 

「キリストの律法と、モーセの律法」などと、あたかも、神の教え=契約に2種類あるかの如く、不適切な言葉で解説しています。

キリストの律法〜聖霊により生きる、モーセの律法律法=古い教えを生きる、律法主義を生きて、神の恵みを捨てる生き方だと主張しますが、神が伝えている意味とは全く違います。

 

一旦、時空を完全に取り払って下さい。

歴史線上にここから、神の教えが無効、ここから贖い、救い、聖霊が住う事が初めて開始されたという、人間の思想を捨てて、永遠の中に完結し、永遠から永遠に変わらない神の教え、神の購い、神の救い、

許し、聖霊がどの時代のどの人種にも、神が伝える、神の購いの業を信仰により受け取る人の内側に住まうことがあるのです。

 

イエシュアが教えられた教えは、父の教えです。

それは、モーセのトラーです。教えの中身が違うなどと勘違いしてはならないのです。

何が違うのですか?そうです。頭脳に割礼がされた状態で、神の教えを理解している人と、神の言われる事を、神が言われた通りではない

理解をしている人の違いです。

それは、内側に聖霊を受けて、神の目から見る通りに見る人は、

モーセが文字で記した神の教えを、神の意図通り受け取り、生きる事が出来ている状態、それを話しているのです。

字面だけ読んでも、神の教えを聖霊により理解しない場合には、

単に文字を読んでいるだけで、そこに書かれた実態はその人の生きる

実態、実とはなっていないということです。

違いは、それだけです。

聖書が目の前に存在するから、皆が神の教え、神が意図する通りに

理解して、実際に神が伝える生き方を生きているわけではないでしょう!?と分かりませんか?

 

聖書を読む前提がずれている事=神の教えが変化するというズレた

思想を土台にし、神の教えに、2種類ある、古い教え、新しい教えがあるという空想、幻想を信じているから、神が伝える事とはズレた

理解を教えられてしまっているのです。

 

今の時代も、聖書が与えられ、イエシュアが地上に来られ、

そのイエシュアがメシアと知りながら、それぞれ個人個人が神の教えの理解の内容、度合いが違う、同じ考えをしているのではないのです。

聖書が与えられたから、今の時代、イスラエルの神、イエシュアを

皆が、神が伝える通りに知っているわけではないではないですか。

 

イエシュアが来られて以降、神の教えに対する人の理解が倍増した、新しい啓示が与えられたという誤解、デイスペンセーション神学の

ように時代ごとに神の教えが明らかにされて行くという、勘違いを

しているのです。

イエシュア、購い、救い、許し、その他、神が教えた事を、太古の預言者達の方がよっぽど、今よりはるかに深く、理解していたからです。

今は、人間が編み出した思想のおかげで、神の教え=聖書=トラーとは遠くかけ離れた、宗教の教えが浸透して、違う教えにすり替えられているでしょう。

異邦人の手により、神の言葉が曲げられて、ヨーロッパを通過し

完全に西洋宗教〜イスラエルの神、神の言葉の進化論思想が、浸透してしまったのです

 

聖書に預言された出来事は、その時になるまで、もちろんその預言の詳細の一部始終は、神は人に前もって事の詳細は伝えていないのです。その時になって、その事が起きて、その後に、そうか、あれが

そう言う意味だったのかと分かるようになっているのです。

でも、神の教えは、最初から同じです。

何を説明されているのか?という事が、問題なのです。

神の教えに2種類ありません!神が伝えているのは、受け取る人の

状態、内側の変貌、その違いを話しているだけです。変わらなくてはならないものは、人の内側であり、神の教えは完全で変わる必要がない、変わらないのです。

 

神の教え=父の教え=契約=トラーは1つだけです!

時代ごと、人種ごとに別物はありません。

レビ記には、神の家に生きる、聖別された生き方が書かれています。

1章から10章までは、神の家、神の家を司る祭司に関して書かれています。

11章から27章は、神に聖別された人の生き方の詳細が記されて

いるのです。

 

神が、神が聖別されたもの=タホーと、他の一般のもの、俗とを分けて強調しているのは、人が、俗に汚されない生き方、聖別された

状態、生き方に留まるためです。それは、神の似姿に創造された人の生き方とは、異なるからです。

汚れた状態、ズレた状態、タメーでは、神に近づけないからです。

イエシュアを通して神と近づけると知っているならば、その聖別を

汚す生き方は、できない!と理解する必要があります。

 

以前に自分=偽の神々の奴隷=異教神の国々に生きている生き方

エジプトの生き方と、神の目的通り、神が提示する、神が創造された神の似姿の人が生きる、神の国の生き方は、本質的に両立、共存

混ざり合えないのです。

 

水と油を混ぜられない!

神に聖別された人は、神が伝える事ではない別の生き方、仕組み、

構造を神の家の中に持ち込み、同時に生きることはできないということを神がはっきり教えています。

 

それは、神を中心とする〜神が言われた事を、認めて、その通りに

受け取り、その通りに実際に生きるか?

それとも、自己主張〜自分の考えを中心にするかの、二つに1つなのです。