人間の教えが混ぜられて、人が作った宗教は、イスラエルの神に
属さない人間の思想です。
架空、偶像、人間由来のものを信奉する。これは他の宗教も同じ。
神が言ってもないこと、変えてもないこと、やってもないことを、
聖書にも記されていない根拠のないことを、言った、変えた、
やったという偽情報にすり替えられているのです。
もし、人が自分自身が言った事、やった事、変えてないことなのに、言った、やった、変えたと言われたら、それは名誉毀損でしょう。
偽証です。自分ではない、自分像を、他人が勝手に言いふらして
誤解を招く誤情報を拡散させていることです。
神は人が神の言葉を自由に塗り替えて良い許可など、一度も人に
与えてなどいません!その逆が書いてあるでしょう。
神が禁じていることを、人間が境界線を乗り越えて違反行為を、
神に対してやっているのです。
嘘は浸透すれば、嘘が嘘とも分からなくなるのです。
しかも、聖書に書いてもない、根拠もないこと、そして、ローマ帝国
ローマ教がはっきりと人間により、神の教えを捨てて、神の教えを
変えて、聖書ではない教えを、次から次へ、宗教会議で人が決め続けた歴史の事実があるのです。
そのカトリックの編み出した聖書とは何も関係のない、数々の教え
思想、教理に対して、ルターは99の論題を、カトリックに提示したのでしょう!聖書ではない教えを、数々生み出した人間の思想。
そのルターでさえ、結局神の教えの真実の大元=神のトラーには
戻らず、その逆で、彼は晩年、反ユダヤ思想的、反トラー思想に
ひるがえったのです。
ヒットラーがやらかした全ての大罪を残酷、無惨、無慈悲、人非人と認識するならば、それらの考えはルターが全部、彼の書に記している、それが由来出所なのです。
人は、神の言葉、教えを捨ててズレたらどこまでもずれることが
できてしまうのです。
人間なのに、神に成り変わり勝手なことを主張し続けて行きます。
LGBTも同じです。神の創造のデザイン、人の命の性質、根幹に
対して、真っ向から反する思想を、堂々とクリスチャンが、牧師や
教師、教皇が主張し述べている。
人権擁護?話がすり替えられているのです。神が罪であり、禁じている行為を、人間の思想で塗り替えて、うまく解説しているのです。
他者の生き方を批判してはなりません。人権がある、どう生きようと
自由だ!それは、神を知らない人の発言なのです。
私達は、人間が編み出したローマ帝国の神ではなく、
全世界の創造主、イスラエルの神、イエシュアに属している人なのに、イエシュア=神の言葉に反する思想を、平気で述べてしまえるのです。
人間が神になり、神になり変わり、神の座に勝手に座り、
神の言葉、教えを塗り替えた解説をし、自分たちの宗教の生き方、
文化を、聖別された神の国の中にゴリ押しで共存させようという、
とんでもない主張、行動をしているのです。
境界線、区別がないとは、神の創造のデザインとは異なることです。
昇天以降は、いつでも安息日で良いのだなどと言う場合、
それは神の創造の性質を正しく理解しない人が、主張する思想であり、神が伝える事実ではありません。
境界線がなくなれば、聖別の定義もなくなります。
罪の定義も消えます。区別がなくなるからです。
神は神の目的通りに沿って全てのものを創造し、目的によって
取り分けているからです。
もし、今はいつでも安息日だったら、全て休日、毎日休み、
労働日がなくなります。
言っていることが、正しくないと分かるでしょう。
神の創造を塗り替えているのです。
神は全てを創造されたのです。神の時も神が創造されたのです。
神のモアデイムは神が創造されたものであり、人間が作り変えられません。
神は、人を神がされた通り、6日の間、活動し、働き、創作し、
製造し、生産し、そして7日目に神が止まられたように止まると
教えているのです。
神が創造された世界、性質を、人間が再定義して、変えても何も意味がありません。
アダムの中から、ハヴァが出て来て、二人は分けられて、
そして、向き合わされて置かれたのです。
シャバットは、神の創造のデザインそのものです。
人は神が用意した、神がデザインしたその通りを生きることを
教えているものです。
そして、その日は、努力の手を止める。労働を止める。自分の考えであれこれ、未来はどうしようというそういう徒労を止める。
イコール、神だけに信頼して生きること、だから止まる日なのです。
週の1〜6日も、シャバットで体験した神との関係を、神の前に
生きる〜これが礼拝の本当の意味ですが、何をしていても、
神が造られた自分を生きることをするのです。
今はいつでも、安息日、礼拝日と言いたい意味は、神といつでも
出会い、賛美し、祈れる、対話できる、交われると言っているつもりだと思いますが、解説する意味、事実、内容がずれているのです。
毎日が休み、記念日ではない。それでは、区別のない、特別な日の
特別な祝い、全く意味がなくなるのです。
今旧正月の時期ですが、日本でも毎日が元旦ではないでしょう。
人の世界でも同じでしょう。毎日が祭り、パーテイ、記念日だったら
特別な日の意味は何もなくなります。
その日に向けて、頭も心も物理的にも準備、用意して待ち望むことが
無くなってしまいます。
神は、神が創造されたモアデイム〜アポントメントの日に、
その日には特別な出会いを設けていると約束しているのです。
神が人を呼び出している日を創造され、その日を神が聖別しているのです。
人間が作った日には、神の意図、目的、呼び出しはありません。
神が聖別された日ではないからです。
しかも、シャバットを中心に、神のモアデイムを祝う、その祭り
記念日の意味を知ると、西洋宗教では教えていない、神が伝える
イエシュアの業の全貌が見えるようになっていくのです。
それが、神が創造された記念日、モアデイムの意味だからです。
体験して、再現して、繰り返し、繰り返し、生きる。
それが詩篇1章にある、一年のサイクルを、神が創造された暦の中を
神の意図通り、神が教える通り生きて、新しい人を再取得、再学習
する地上の旅路、荒野の旅路でもあるからです。
パウロの手紙を完全に誤解して読み込んだ解説ばかりを聞かされていますが、パウロは、神の教えや割礼、記念日など終了、否定などしていません。
1コリントを読んで、気がつないとなりません。
パウロは、コリントの群れ、諸外国でも全てユダヤ人が主流の群れですが、過越の祭りをどのような心構え、態度、意識で祝うか、
コリントの群れの人に教えているではないですか。
過越を祝う、イコール、シャバットを毎週第7日目に祝っている証拠
でもあるのです。
今の宗教の世界のように、神のシャバットを祝わず、神の祭りも祝わず、別物を祝っていることなど、聖書には記されていません。
神の創造されたモアデイム〜アポイントメントの日は、レビ記23に
神の時、呼出日の暦が記されています。
それは、1つだけ取り出すとか、全部捨てるとか、そのように祝うものではないことを、異邦人は理解していないだけです。
パウロがもし、アヴラハムの割礼を捨てよ、無効だと教え、
食規定も終了して、なんでも食べて良いのだと言い、
そして、神の記念日もそれぞれが考える日にすれば良いと
言ったら、そうしたらイエシュア信者、他のユダヤ人の間でも
それは、大問題、大議論になり、パウロは使徒として追放されるのです。
なぜなら、使徒とは、神に派遣された人という意味であり、
イエシュアと同じく父の派遣され、父の言葉=トラーをそっくり
そのまま、父の意図した意味通りを教え、伝え、生きることを
するからです。
神は、神の創造された世界、罪の定義、聖別の定義を歴史の途中で
変えたりなどしていないからです。
聖書に根拠のない、人間の思想から語るのが人間が作った人造宗教の聖書解説なのです。
地上で、目に見えない天、父、神の性質そっくりそのままを写す役割が、子であり、使徒、天の祭司、聖別された一人一人なのに、
イエシュアを通して父の元に引き寄せられた人が、それぞれ勝手な
別の影=人間の作った思想や、宗教の偽物、別の影を映し出して
勝手に行動、動きまわってはならないのです。
神の性質通りを、そっくりそのまま映し出さず、人間の作った
混ぜ物の宗教、ローマ教という別の影を映し出してしまうからです。
この箇所は、ローマ14章の「断食の日がどの日が良い」とか議論している人達に、パウロが意見しているのが、パウロの意見の例です。
神の教えではないことは、皆がやらなくても良い、それぞれが考えてやれば良い、やらなくても良いことだからです。
この箇所では、断食の日がいつであるべきか?と議論しているのです。当時の人の間では、断食をする人がいたからです。
断食をすることは、神の教えではありません!それは、トラーに
記された教えではないからです。やりたい人がやれば良い。
野菜しか食べないと考えている人は、偶像に捧げた肉を食べたらその肉はきよい動物でも、汚れていると考えていたから、野菜だけ食べていた方が安全と、信仰の弱い=浅い人は、そう考えていたのです。
その人たちの幼い信仰、神の言葉を理解しない、恐れなくて良いと
いうことが分からない人の意見を裁くなかれというのが、パウロの
アドバイスなのです。
もし、神の教えを破り、食規定を破り、シャバットを破る人たちなら、パウロははっきり、そのような罪を犯して、神と正常な関係に
留まることできない!と教えるのです。
14章は、神のモアデイム、神の創造された記念日や、食規定を
人の考え、選択で自由に破って良いなどということなど、
1つも記されていないことを正しく読み取らない人達が、
神のシャバットや食規定が変えられたことが書いてある根拠である!などと、パウロの意図していないこと
聖書とずれた解説をしているだけのです。
神の言葉を、人間が勝手に判定する、仕分けて良いという思考回路が、ずれているのです。それは、神を神と認めない行為です。自分が神、判断の中心基準になっているズレに気がついていないだけです。
神の言われたこと、聖書を人が塗り替えて、解説している!という
ことに、まず目が開かれないとならないのです。
聖書に書いてもないことを根拠に、いい加減な学び、解説をしている
それを、神学校で教えられてしまい、一般の人にそのような間違った聖書解説を施し続けているのです。
これは、進化論=偽科学を本当だと教えているのと、全く同じこと
神の教えと、神の進化論を教えている、それが問題なのです。
偽物の学問を追求しても、意味がないのです。
偽科学、偽の教えを追求しても、それは全く無意味。
偽物と本物を見分けられないのは、聖書ではないことを、聖書だと
教えていること、それが問題なのです。
神の言葉は完全であり、変わる必要などない、変わる性質ではない
ことを、聖書から理解しないローマ出自の思想が問題なのです。
2コリント10:5 神の知恵に逆らって立てられたあらゆる障害物を打ちこわし、すべての思いをとりこにしてキリストに服従させ、
思い〜頭脳、思考、考えです。ヘブライ語のレブをギリシャ語に訳しているのですが、思いと日本語では訳しています。
頭脳です。神の考えを捉える頭脳。
服従というギリシャ語は、フパコウです。
これは、ヘブライ語のシャマ〜聞くと同じ意味です。
意図的、意識的に集中して神の声=言葉を聞く行為です。
神の声の下、神の声の中で、神の声を聞くならと、ヘブライ語で
何度も出て来ます。
それを言っているのです。人間が作った西洋宗教は神の声の下
神の声の中で、神の声を注意深く意識して聞くのではなく、
人間が編み出した聖書ではない教えの下で、人の教え、考えの中で
人の教えを聞くということにすり替えられてしまっているのです。
人の編み出した宗教、思想、神学など最初から存在してはならないものなのです。なぜなら、神の伝える永遠普遍の真実を覆い隠し
塗り替えて、別物の教えを作り出し続けているからです。