神の教えを勝手に塗り替え変える人 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

聖書に書いてあることは、全部1つに繋がっています。

イエシュアは最初から教えられています。

そして、一つの糸で繋がっている。分断はされません。

大きな🌳木と同じく、全部繋がっているのに、それを切り離しているのが、人間の思想です。

 

マタイ以降から、聖書を読んでも、元に書かれている神の言葉、

教えは全部書かれていませんから、たくさん穴が空いた状態になります。

そして、当時の人々が聞いて理解していた通りが、それだけではよく見えて来ません。

それは、21世紀の日本人、又は西洋、自分の中にある思考回路

固定概念から読むからです。

 

マタイ〜黙示録に記されている短い註解、解説は、トラー=モーセの五書の神の教えに関しての短い解説、抜粋です。

その裏には、何章という長い箇所に書かれたことを、短く解説しているのです。

パウロの解説は、モーセの五書に記された父の教えを根拠に解説しているのです。

神の教えとは違う、勝手な思いつきや意見を述べているのではありません。

パウロが、意見を述べる時は、それは神の教えではないことに関して

です。

 

クリスチャンがパウロが、神の教え=トラーを終了した教えを

記していると勘違いしているトピックは、主に神が創造された

シャバット、祭り、食規定、割礼などではないでしょうか。

 

この割礼ということに関しては、当時のユダヤ人の世界にあった

人が編み出した「改宗儀式」のことであることを知らないとなりません。

当時のユダヤ人は、異邦人は契約の中に元々ない民だから、ユダヤ人になる改宗儀式をしない限り、神に聖別された人とはならないと考えていたのです。

この改宗儀式は簡単なものではありません。

今もあるのです。難しい学び、トラーを学び、その他諸々彼らの

教えを学ぶ工程がある。

しかも、こんな改宗儀式をした異邦人は、異邦人の世界の人間関係を

一切断ち切らなくてはならないと命令されたら、これは辛いですよね。

これら、全部神の教えではないので、誤解しないようにしてください。

当時のユダヤ人は、異邦人は汚れた生き方を平気でするから、

近寄らないようにしていたのです。

使徒15章でも、分かる通りです。イエシュアを信じます!と言った

その醍醐味はあるけれど、実際の生活は、異教徒と同じ生き方だった。神の教えを知らないままだったからです。

異教神の神殿で汚れた動物を、しめ殺す儀式を通して、異教神の祭壇に捧げ、その動物=豚の血を飲み、食べ、そして神殿娼婦と交わる

不品行までする。これが、異邦人イエシュア信者だったのです。

全員ではないです。でも、そんなことが平気でできてしまう。

イコール、神の教えを知らないからです。

そのような人とは、食卓を囲めないし、交われない。

他のユダヤ人が、そのような異邦人イエシュア信者と交わるのをみたら、白い目で見られ、誤解されてしまう。

だから、神の教えを正しく知り、改宗儀式をした異邦人としか

関わらないというしきたりがあったのです。

 

これは、実はクリスチャンの世界の中にも、同じ思考回路、儀式が

あるのです。

これこれの方法で、洗礼準備会をし、この教会で何何牧師から洗礼を受けないとならない。

この教会の正式な会員になり教会員登録をして、初めて正式にクリスチャンと認められるのです。

これ、全く同じ「口伝律法」であることに、気がついて下さい。

 

人の編み出した儀式や、どこかの宗教組織の会員になり、宗教活動をする、日曜礼拝を厳守する。クリスマス、イースターを祝う。

宗教の組織に10分の1献金をするのが義務。

これらは、神の教えではないのです。

 

人が編み出した宗教の教え、儀式、記念日は神の教え、仰せでは

ないからです。

 

ルツは、「あなたの神は私の神」と告白しただけです。

アヴラハムも神の呼び出されて、神が言われた通りに、生まれた家

故郷を出ました。

神のものとされるのは、儀式を通したからではなく、信仰により神の

伝える事実を受け取り、神と出会うということを、神が与えた

それだけです。

儀式は、内側の信じている信仰を、目に見える形で表明することです。

 

聖書に書かれていることは、100%モーセの五書=神の教えを

解説しているものです。

創世記には、個人個人が呼び出された彼らの人生の記録が書かれています。

ノア、アヴラハム、これらの人たちが、イスラエルという神の大家族、民族を表す代表として取り分けられました。

イスラエルというのは、神の大家族の苗字です。

その中には、異邦人もいるのです。

だから、イスラエルの神を愛する人、イスラエルの大家族の中に住まうものは、同じ神の契約=教え=トラーを生きるとずっと教えられているのです。

イザヤ56:1-7の未来預言でも、神のトラーを愛して、神の創造された

シャバットを、神と同じように大事にし、愛する人、神のモアデイムを生きる人、神の教えに生きる人は、未来神の家の一番親しい場所

最も神に近い場所、お茶の間、会見の祝宴テーブルに招き入れると

預言されています。

 

神を愛する人は、神の教えを憎み、古い悪い廃れたと言い、

神の教えを捨てるように人に教える人などと書いてありません。

 

律法という言葉を、本当の言葉に直してみれば、言っている意味が

意味不明であることが、分かるでしょう。

神の教え、神が教えるインストラクション、指針。

神の教えは、悪い、古い、変わる、十字架にかけられた?

聖書に根拠のない教えを土台に、根拠のない思想をこねくりまわしても、そこから真実は永遠に出て来ません。

 

神の記念日や食規定が変わった証拠とされる使徒のルカの書簡、

パウロの手紙を完全に読み違えているのです。

 

使徒に多くの信者が持ち物を売って、皆で生活していたと書かれていても、それが皆がそうせよと神が言っていることではありません。

その当時の人が、そうしていた記録が書かれているだけです。

 

そして、使徒20章の箇所も、日曜礼拝に変わったという根拠にされていますが、日曜礼拝どころか、パウロは、次の日が日曜日でしたら、その日に旅をしているのです。

辻褄が合わないでしょう。日曜日は安息日ではないから、次の目的地に立ったのです。

ギリシャ語原文には、日という言葉は入っていません。

考えられるのは、穂を数える7週間の最初の週という意味にも読めます。とにかく、ここにあるのは、土曜日の日没、又は、過越の祭りの

7日間が終わって、穂を数える7週間の最初の週です。

しかも、過越の祭り=種無しパンが終わった最初の週、穂を数える

最初の週です。過越の祭りを祝う、イコール、毎週第7日目に

シャバットを祝っている証拠なのです。

 

使徒20:6 わたしたちは、除酵祭(過越、種無しパンの7日の祭り)が終ったのちに、ピリピから出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、そこに七日間滞在した。

20:7 週の初めの日に、わたしたちがパンをさくために集まった時、

パウロは翌日出発することにしていたので、しきりに人々と語り合い、夜中まで語りつづけた。

 

このように書いてある意味が見えないのは、マタイ以降から読んで

神の教えの完全版を読まない、学ばない、教えられていないからです。

 

しかも、パウロ達が、この日が週の最初の日としたら、これは聖書の暦では、土曜の夕方です。

これは、今でもイスラエルで、他の国でも、ユダヤ人が集まって食事をして、シャバットを閉じることをするのです。

これは、その人達の習わしであり、その日は日曜日ではないのです。

誰かの慣わし、イコール皆がするものではない、神の教えではなければ、それはしてもしなくても良いからです。

聖書を、多大に読み違えていることに、先ず目を開かれなければならないのです。

ユダヤ人とて、異邦人には神の教えは関係ないという、反トラーを

教える人もいますが、それは誰にも止められません。

そういう思想を信じる場合、聖書ではない解説をしているだけです。

 

異邦人には関係ない教えです。今はいつでも安息日です。

このような、解説は、聖書から逸脱した思想を、勝手に解説しているだけです。

安息日を変えたのは、ローマ帝国であり、カトリックです。

ローマ教は、反ユダヤ思想、反トラー思想から生まれたことを

はっきりと知ってください。

神の教え、ユダヤ的なこと一切排除!という当時の思想から生まれた

人間が作った宗教です。

西洋教父達は、反トラー、反ユダヤ思想を持つ人ばかり。

ルターとて、最後は反ユダヤ、反トラー思想にひるがえったのです。

ローマ帝国も、トラーを実践する人は、迫害、重税、処刑したのです。

その中で、異邦人イエシュア信者が、トラーを実践してません。

シャバットを祝っていません。ローマ帝国の日、皇帝を崇拝する日を

尊重しています。etc etc etc 

神の言葉を、イエシュア信者が否定して、ローマ帝国に、行動を

持って、ユダヤ人とは違う信仰です!と示したのです。

 

ぜひ、歴史の中で起きたこと、事実に目を留めて、偽情報を削除してください。神が神の教えを捨てたという、こんな聖書に書いてもない1つも根拠がない、実はローマ帝国の仕業、人間が決めたことなのに、神が神の教えと記念日を変えたという嘘に、真実に気がついた人は耐えられなくなります。

 

日曜日、月曜日、いつでも集まれます。何をしても良いのです。

でも、その日を、安息日、主の日などという偽証をしてはならない。

 

聖書を人の思想を通して、読み違えていることに、先ず気が付く必要があります。

聖書は、聖書で読み解き、人間の考えを介入させてはならないのです。なぜなら、神の深いところにある神の考えを、人の言葉で神が

人に伝えているからです。

音楽、映画鑑賞のように、それぞれが感じること、考えることではなく、先ず何が書かれているのか、書かれている意味通りを把握しないとならないという、大原則を知って下さい。

 

黙示録に記された主の日とは、日曜日のことを指して、ヨハナンは

書いてなどいません。

 

シャバットを、第7日目から、第一日目に変えたのは、ローマ教

人間です。

そして、最初はローマ帝国の日、皇帝の日、ミトラ神の日である

ローマの日を、後から、キリストの復活だという意味を後付けした

だけです。

神のシャバットは、イエシュアが何曜日に復活されようと、

第7日目であることは変わらないのです。

人間が勝手に変えたことを、はっきり知らないとならないのです。

神は、神の記念日を人が変えることを、禁じ、許可などしていません。

ない曜日に集まろうと、何の目的で会合を開こうと、それは人の

自由なのですが、主の日=シャバットや祭りではない日を、

主の日と偽証してはならないのです。

神になり代わり、不真実なことを、人に伝えることを、やめないと

ならないのです。

黙示録 1:10 ところが、わたしは、主の日に御霊に感じた。そして、

わたしのうしろの方で、ラッパのような大きな声がするのを聞いた。

 

主の日と書かれて、即座に日曜日という、間違った読み込みをしています。

ヨハナンは、未来に神が特別なことをされる日を指して、預言して

いるのです。

主の日とは、過去、未来、神が特別な業をされた日のことであり、

それは曜日には全く関係がないのです。

そして、主の日とは、神の創造されたモアデイムです。

レビ記23章に記された記念日のことです。

そうすると、聖書に主の日と書いてあるものは、

1)神が歴史の中で特別な業をされる日。預言的日。

2)レビ記23章に記された神が創造された、神の子ら全員を

呼んで、特別な出会いをするために設けられたアポイントメントの日

です。

そのように、聖書を読んだ当時の人は、理解しているのですが、

それが、いつのまにか、ローマの手により、神の言葉が曲げられて

シャバット=安息日は日曜に変わり、日曜日=主の日と聖書に根拠がなに、人間の創作日を、安息日などとされてしまったことが、

永遠の事実なのです。