異邦人の世界に浸透した教えは、イエシュアが教えられた父の教え
純粋なトラー、モーセの五書に記された神の考え、言葉、教えでは
ありません。
そんな事はない!キリスト教こそが最新の新しい優れた教えだ!
と思っているでしょう。
聖書には、人が作った宗教の教えではなく、神の考えを人の言葉で
人を通して聖霊により記された教え=トラーしか記されていないの
です。
宗教とは、神の言葉に、人間の思想を混ぜたもの、それを宗教というのです。西洋宗教は、ローマ帝国が、神の教えを捨て、再定義し直し神の教えとは違う教え、神の記念日全てを捨てた宗教の教え。
だから、イエシュアが教えて祝った、モアデイムの全てをクリスチャンは、全く知らないし、祝ってもいないのです。
その代わりに、聖書に書いてもない、存在もしない、神が命じてもいない、4世紀に人間、ローマ帝国が作った宗教の教えと記念日を実践していることにさえ、全く気がついてもいないでしょう。
面白い動画あります。赤ちゃんが親ではない人に抱っこされていても
気がついていないのですが、ある瞬間ふっと顔を見たら親ではない
別の人!と気がついて、泣き出すと言うのがあります。
それと同じ。親だと思っていた、本物だと思って信じていたのに、
その顔=実態が違っている!ということに、気がつかないままなのです。本物を知らないからです。
全部が全部偽物ではない。イエシュアが処刑され、私達の罪を背負い
代わりに死に伏して罪を全部処分された。
私達の罪の罪状は、イエシュアと共に消え去った。肉の自分も
イエシュアと共に葬られた。
そして、イエシュアと共に新しく生まれ変わった。
この点は、聖書の事実ですが、この点もそれぞれが誤解して、
考えている内容でもあります。
1)イエシュアが2000年前に来られるまで、罪の赦しはない。
2)それ以前の人は、生贄で一時的に許されていた。
又は、全員地獄に落ちたと教える。
3)神の教え、律法を生きて義と認められていた時代だった。
4)以前の人の中には、聖霊が住まう事がなかった。
5)イエシュアが来られる以前の人は、救い主など知らなかった。
6)新しくされたけれど、今も罪人のままである。
7)2000年前迄は、怒りの神、それ以降は恵の神になった。
8)昇天以降は、聖霊時代。以前は律法時代。
このようなことを、聖書だと教えられているのではないでしょうか?
これ全部、聖書の記述とは異なる人の思想です。
聖書に根拠がない、根拠ゼロの仮説=人間の教えです。
聖書が教える事実は何でしょうか?
1)永遠の中に屠られた子羊の代価は、この世の礎が造られる以前から完了、完結!稼働していたのです。準備万端。完了です。
それが、創造の6日間、完成、完了、何も付け足すものがないから
止まられた、シャバット=第7日目で表されているのです。
どの時代の、どの人種の人も、イエシュアを通して父の元に戻れる!
そして、神の方から、人に近づいて下さることが書いてあるのです。
アダムとハヴァは、ユダヤ人ではありません!
神の似姿通りに創造された人です。
彼らが罪を犯した後、神の方から彼らを求めて、近づいたでしょう。神の前に、神が見た通りの事実を考え、罪告白し、許されて、
そして神が屠られた動物の衣、義の衣を着せたことが書いてあるのです。何も変わらないでしょう。今と同じです。
生贄と訳されている、コルバンは、イエシュアの業、天の中、永遠の中に存在している贖い、救い、赦し、神への近づく近づき方、全てを
教えているものなのです。
2)動物の血は永遠から永遠に人の罪を消さない。
動物のコルバンで、人の罪は一時的にも永遠にも消されない。
その事実が聖書に書いてあるのに、人間の作りだした宗教、神学は
聖書に書いてあるのに、その事実を平気で人間が否定して、神が
教えることとは逆を言います。2歳児が何を言ってもNo Noと言う
のと全く同じことをしているのです。神の言うことを認めない。
それが、人間の中にある、偶像礼拝、人の編み出した神々の教えなのです。
クリスチャンの中にある、天国地獄は、異教徒の中にある天国地獄
極楽地獄の概念そのものです。
<聖書には、実際にあった場所、エルサレムのゲヘナ、
ヒンノムの谷(ゲヘナ)は、エルサレムの南西に実在する谷で、
歴史的には異教的な幼児犠牲の儀式が行われていた場所、
又囚人や身寄りのない人が葬られた場所です。
後には絶えず火が燃やされるごみ捨て場として知られていました。>
すぐ、天国地獄行きのような教えに結びつけているのが、西洋宗教です。
3)神が教えている通りに、聖書に基づき考えない限り、偽情報に
騙されます。神は、神の教えを生きて人を義とする事など、一度も
教えていません。人は自分の行い、行動を通して自分を義とすることができないから、永遠の中に既に子羊イエシュアの代価を用意したことが書いてあるではないですか。もし、人が行いで義とされるならば、その時点で、イエシュア、子羊の血の代価は無用になる!という
ことです。聖書ではない教えを、聖書のごとく語る全ての教えの方を
一掃すれば良いのです。
聖書だけに戻る!と言うならば、そうしない限り、結局半分嘘、
半分本当にとどまり、真実など語られないままになります。
神が神の契約書=トラーを与えたのは、神の民=聖なる人として
奴隷状態から贖いだされ、救い出され、神の者、天の家の大家族に
された人のみに与えた事実だけに、立ってください。
エジプトを出て、偽物の主人から買い取られて、奴隷から解放されて
花嫁にされて、きよめられた、聖別された、神の民となった人、
ユダヤ人、異邦人混合の大家族、神の家族にされた人に与えられたのが、神の家でイエシュアの性質通り、世と分たれた聖別された人の
実態を生きるようにされた、それが神の教えに記されている神の家の
家訓なのです。
それを捨てる人は、イエシュアが内側に住まう事実を頂きながら、
その実態とは、異なる生き方をする、異教徒と変わらない生き方をすると言うこと。地の塩、世の光、天の神の栄光を地に正しく反映しない、偽物の影を映し出すことをしてしまっているのです。
4)クリスチャンは聖書を読むでしょう?読まない人が殆ど。
しかも、最初の箇所など読んだこともないというのが、一般的ですし
通してまんべんなく常に読むと言う事もない。部分的な抜粋だけ。
もちろん、書いてある内容を正しく教えられてもいません。
普通に創世記の最初から読んでも、その中に登場する人が、
神との関わりを持ち、対話し、祈り、助け、許され、聖霊に満たされて生きたことが書いてあることに、気がつけないのでしょうか?
ノアがおぞましいことを生きる人ばかりの時代に、たった一人神の前に義とされていました。
重要なポイントが、短い言葉で表されています。
創世記 6:8 しかし、ノアは主の前に恵みを得た。
6:9 ノアの系図は次のとおりである。ノアはその時代の人々の中で
正しく、かつ全き人であった。ノアは神とともに歩んだ。
これは、5)を網羅している内容です。
ノアが神から恵を得ていた。恵という言葉は、「ヘン」これは、
神から何かをしていただく、それに値することを、何もしないで
受け取っているから、「恵、ヘン」という言葉なのです。
そして、ノアは全き人だったとあるでしょう。
これ重要です。全きとは、タミンという言葉であり、シミ、傷、
欠損、欠陥、不具合が全くないと言う意味です。
これは、祭壇に捧げられるコルバンにも使われる言葉であり、
イエシュアの性質通りを表す言葉でもあります。
詰まり、シミ、傷、汚れ、欠陥がない状態、義とされるには、
どうしたらそうなれますか?
神が一方的に贖いだし、救い出して、聖霊=イエシュアが内側に住まう状態を与えている事実が書いてあるのです。
イエシュアを通して以外、誰も父のもとに戻ることはできない!
という神が伝える永遠の事実からだけ考えるのです。
ノアも、アヴラハムも、イサク、ヤコブその他皆、同様にイエシュアを信じて、新しくされ、義とされ、聖霊を内側に受けていた。
聖書に登場しない、歴史の名を刻まない人も、同様なのです。
残りの民とは、同じように子羊の血の代価で贖われ、救われ、
聖霊を受けて、義とされ、神と共に歩んだ人のことを、聖書では
「残りの民」と書いてあるのです。
このような聖書に記述されている事実を読み落としているから、
2000年前にイエシュアが来られて初めて許されたとか、
聖霊が住まうようになったという聖書とは違う思想を語ってしまうのです。
ヘブライ語の原文では、「タミン」という言葉の前に、
「ツアデック」〜義というヘブライ語が書かれているのです。
神に義とされるのは、何かをしたからではないでしょう。
恵、受けるに値する何もしていない!ただ、神の前に神が伝える
贖い、救いの事実を信仰により受け取っただけ!
神に義とされたイコール、子羊イエシュアを通して、父の元に戻った、ノアは神の言葉を聞いて、信じた!今と同じでしょう。
信仰義認。
そして、神と共に歩むとは、勝手な考えを生きて歩むのではなく、
神のトラー、同じ教え、モーセの五書では、文字で記された神の教えを、神から直接口頭で聞いて、それを理解してノアは生きたから、
神と共に生きたと書いてあるのです。
神と共に生きる人は、神の教えを捨て、神の教えに逆らい生きることなどしません!
そして、このノアの記述は、聖霊がどの時代も、どの人種でも
神の言われることを信じて、信仰により義とされている事実を受けて
その事実を生きる人のことが、書かれているのです。
その人達の中には、もれなく聖霊が住まわれていたことが、
書いてあるのです。そうでなければ、ノアのように神と共に歩む、
神に聞いて神の教えを教えられて生きることなどできません!
キリストの律法とモーセの律法は違うとか、2000年以前は
モーセの律法を生きて、今はキリストの律法、神の教えを生きるのだと、意味不明な解説を教師がするのを聞きましたが、何を言っているのか分かっていないのです。
同義語、同類語というのがあるでしょう。違う言葉でも、同じ意味を表す言葉。又は、ある人の名前を、違う名前で呼んでも、その人を
呼んでいるのです。
山田太郎さんを、山田さん、太郎さん、山ちゃん、タロちゃんと
言っても、その人物と、彼のニックネームの全て、呼び名を知っている人は、「山田太郎さん」の事を話していると分かるでしょう。
モーセは人です。モーセは聖霊=神により、神の深い考え、神が
どんなお方か、そして神が創造されたイエシュアの性質通りに造られた人はどう生きるのかを、神のより文字で正式に、永遠の保証、神との関係に結ばれた証拠である婚姻契約書として書き記した人です。
イエシュアご自身が、モーセの五書に記された生き方、新しくされた人、新しい命を与えることができるお方です。
この違い分かりますか?こう説明するともっと分かります。
建築家がいて、その建築家が設計図を描きます。それは図、文字、
寸法で説明を書きます。その設計図通りに実際に建物を建てたら
設計者の意図通りの建物が、その建物を建てる人により出現するのです。
楽譜も同じです。作曲者が譜面に書き記した通り、その楽器で奏で
たら、作曲者が作った曲を実際に音として聞くことができるのです。
モーセの五書、トラーは文字で記したものです。
それを、実際に人が生きる時、イエシュアの似姿そっくりを生きることを通して、環境の中で見えない神を、神の性質を、他の人が見ることができる、体験できるのです。
分かりますか?文字と実態。本体と影と同じなのです。
キリスト教の教えは、聖書ではない教えをふんだんにします。
それは、教えの土台自体が神の言葉、聖書を実際に否定して、
神の言葉が廃れた!という偽情報を前提にした人造宗教だからです。
そして、その人造宗教が、聖書ではない様々な教え、神学を編み出し
聖書ではない思想から、聖書解説をし続けているから、神が伝える
真実が、その通りには見えなくさせられているのです。
詰まり、設計者が設計した設計図ではないことを、根拠、実態が
違う建物を建てて、別物が地上で反映され、見えているのです。
作曲者が意図した通りの楽譜ではない、別物の楽譜を奏でて、
別物の音がたくさん混じった別の曲が演奏されているのと同じことが起きているのです。
5)キリスト教やカトリックは、人を罪人であると強調し、
本来神の似姿に造られた人、そして、イエシュアを通して新しくされた人は、新しくされた人をその通りには教えないのです。
イエシュアと共に死んで、イエシュアと共に復活した人の事実を
正しく教えません。
以前の自己像 IDを強調する人もいます。以前犯罪者でした、
以前何何でした、以前何何の失敗をしました〜そればかりを
全面に強調しても、それはズレてしまいます。
ある人達に対してのアプローチのためにやっているのでしょうけれど、本来の自己像をしっかり自分の頭脳にインプットする必要があります。
人は、自分の中にある自己像に沿ってしか、生きられないからです。
これ以外とされていることです。水をさす、釘をさすみたいな、
負目、罪悪感を自分自身に、人にも与え、イエシュアと共にイエシュアの性質通りを歩むスタートをさせなくする思想です。
これこそが、宗教、偶像礼拝そのものです。だから、神に自分から
アプローチして良い人になろう!という努力の思考回路。
そうではなく、イエシュアの性質通りにされたから、その事実を生きることを知って、生きる。これ違いが分かりますか?