神の教えを捨ててコンスタンチヌス製造の宗教を信奉する弊害 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ローマ3:13 キリストは、わたしたちのために呪いとなって、

わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。

「木にかけられた者は皆呪われている」と書いてあるからです。

 

この箇所、神の教え=トラーが呪いで、律法の呪いから贖い出してくださったなどと完全に勘違いしているでしょう。

それでは、クリスチャンが信じている、神の言葉=聖書は同様に呪いになります!神の言葉は1つしかないからです。

律法という言葉は、完全なる誤訳です。聖書には、神の教えや言葉に対して、律法という不適切な言葉で語られていません!

 

本当の言葉は、トラーであり、神の教え、インストラクションという意味であり、それらがモーセの五書、婚姻契約なのです。

神の言葉が廃れたというならば、それは神の言葉全てが廃れる!ということです。なぜなら、神の教えは、クリスチャンが空想するように

分解できません!あなたの体の臓器を、自由自在に入れ歯やコンタクトレンズみたいに取り外せますか?

できません!それと同じ事を、神の言葉に対して、意味不明なことを

神の言葉を正しく理解しない人が言い続けているのです。

 

ここに記されているのは、トラーに記されている、ズレた生き方を

する、ズレた生き方、肉の生き方、死んだ生き方から、イエシュアが解放して下さったと言っているのです。

解放されたのは、肉=死んだ以前の修理不可の自分であり、消滅したのは、神のトラー=教えではありません!

呪いとは、2つ意味があります。1つは、自分で自分の行動により、神から遠ざかり、よって災難を自ら招き入れる、思索、行動のことです。もう一つは、イエシュアも言われた通り、天の国で一番小さいもの=軽いもの=意味のないものになる!詰まり、塩対応、かやの

外、親しい間柄ではない関係になる!という意味が、ヘブライ語の

呪いと言う意味でもあるのです。

 

もう一つは、以前書いた箇所です。

コロサイ2:14 神は、わたしたちを責めて不利におとしいれる証書を、その規定もろともぬり消し、これを取り除いて、十字架につけてしまわれた。

責めて不利におとしいれる証書とは、聖書に1度しか出てこない言葉であり、この言葉は、言ってみれば罪状です。

神の教えではなく、罪とは神の教え=トラーに違反することが罪ですから、違反した私たちの全ての罪の罪状はイエシュアと共に木にかけられたと書いてあるのです。

それを、神の言葉が十字架にかけられ、終了したという解説をしていますが、聖書を正しく理解しない人が、人間が作った宗教の思想を

信じて、聖書とは違う無理な解釈を施し、人に誤った教えに導いているとペテロが警告した通りのことが、ずっと行われて来てしまったのです。

神が言われた通りにやってみれば良いのです。

それが命のパンであり御霊の実がなる祝福された生き方だからです。

どうして神の言われることに対して、人間が古い律法、古い悪い、

廃れた、恵のない生き方だ!などと、物申すのでしょう?

横柄、神に対する不遜な態度、人が神に成り代わっている、

神に対して文句つけているのです。

意味不明な教え=コンスタンチヌスの、ユダヤ化されるな!という

スローガンを元に、神に対して知らないまま反抗し続けるのです。

神の言葉、教えを否定する、イコール、イエシュアご自身、聖霊を

否定することであると、はっきり聖書から気がつかないとならないのです。意味不明な、間違った聖書解説が長い年月浸透しているからです。

ユダヤ人で、又は異邦人でも、イエシュアが教えた通りの神の

教え=トラーを理解する人たちは、イエシュアを信じても、

ローマ教、カトリック、キリスト教のような教えや、

神の創造されたモアデイムを捨て神の聖別を汚し、聖別された生き方を捨て、西洋宗教の教え、律法は廃れた!律法に戻るな!今は人間

主体、いつでも安息日などという考えと、実践はしないのです。

どこかおかしいでしょう。古い教えに固執する人は、律法主義で、

聖霊により生きる?信じたら、神の教えられている事は、生きない、行いはしない?

救われる為に、義とされる目的のために、神の教えをするのではないと正しい言い方に変えてください。

神の教えは、人に努力させて、神の義や救いを得る目的のために与えられたのではないからです。

犬が犬だから、犬らしく生きる。鳥は鳥に造られたから空を飛ぶ。

鳥は頑張って飛んでいないでしょう。神に造られた性質通りを

生きる。それが本当の生き方だからです。

それを、神が教えているのに、神に造られた性質に反して生きよ!

意味不明な事を教えられているのです。

神に義とされた人が、ノアのように神の義を生きる!簡単に分かるでしょう。神の民は、神の性質通りを生きる!どうしてそんな簡単な事実を、複雑な教えに変形して、それが神の教えだと信じるのか。

 

古代の人もエデンの園を出た後、イエシュアの贖いの事実を信仰に

より受け取った人は、皆聖霊を受けていたのです。

だから、神と対話していたのです。

ノアも、神の前に全きもの=タミンとされていたという事実は、

救いを受けて、聖霊を内側に受けていたからです。

エデンの園から全く同じなのです。

神が変化せず同じで、神に創造された神の似姿の性質の人間は変化、進化しないからです。

エデンの園で、神の言葉を今のように曲げ、変え、食べてはならない!と言われたものを食べて、神との隔たりの場所に閉じ込められた。その時にやったことは同じでしょう。

 

彼らはどうしましたか?神が質問したでしょう。どうしてこのようになったの?と。彼らにやったことを、その通りに考えさせることを

神が誘導したのです。

神の前に、神の目が見た通りのズレ、罪を同じように見て告白し

そして許され、神が屠った動物の毛皮を神ご自身が彼らに着せた

同じでしょう。今と!一人一人が神の前に許されて、神のもとに

戻った事と、同じ事、救いは1つしかないからです。

イエシュアを通して以外、誰も父のもとに戻れない!とイエシュアが

言われた通りだからです。

単純に罪を告白し、許され、神が義とされたことを受け取っただけ。

全く同じなのです。何も違いはないのです。

なぜなら、イエシュアを通してだけ、全ての人は父の元に戻れる!

と言われた通りだからです。

イエシュア、子羊は、この世の礎が造られる前から屠られている!

完了している!と書いてあるでしょう!

そして、私達もこの世の礎が造られる以前から、既に神に選び出されていた!と理解不可能であるけれど、事実が神により伝えられているではないですか!永遠から考える。歴史線上に、2000年前に

初めて救いが可能になった、稼働した!などという人間の思想を

捨てて、神が言われる通り、永遠の中に完結した状態からスタート

したと、それがシャバットで表されているでしょう。

6日の間で、全ての業が完了!何も欠ける状態がない!完璧!

その状態から、全て生きること。

変化する、別の福音や、別の救いの方法、別の神の教えなどと

考えている時点で、聖書に書かれた事実から意識が遠く別の教えの中に閉じ込められてしまうのです。

モーセの五書を捨てた新しい教えを生きる時代?

なのに、恵を捨てて古い教えに戻るのか??又は、愛が大事なのと

分かったようで意味不明のことを解説します。

それは、西洋宗教の教えであり、神の教えではないのです。

愛とは、モーセの五書に記された神の民となった人の生き方全てを

が愛の生き方なのに、それを捨てたら愛の定義、教え、生き方の

基準も全部なくなるのです。

クリスチャンはこう考えているでしょう。ユダヤ人は古い教え=

ユダヤ教を生きているから、今も廃れた律法を生きて、古い時代の

記念日を祝うのだ!と。

そして、新しい契約を受け取ったクリスチャンは、聖霊により生きて

古い律法から解放され、古い律法の記念日を全部捨てるのだ!

そして、新しい記念日、日曜礼拝、クリスマス、イースター

カトリックは万聖節、レント、四旬節を祝うのだなどと考えているのです。

これ、クリアーに100%聖書ではない、コンスタンチヌスが

作った教えや記念日を、神の教え=聖書と勘違いしていることによる誤解です。

それは勅令により執行された宗教実践が、今に至るまで、継承され

実践され恒久化し、人造宗教が出て来た経緯も何も教えられていないから、神の教えなどと思っているのです。

聖書に基づき考えたら、完全に聖書とは異なる変な思想を信じて、

実践しているのです。

なぜなら、神は1つである神、1つである家族、1つの家、

1つの家訓=契約を生きて、同じ記念日を全世界が祝うようになると

教えているのに、どうして分裂した2つの家族が、しかも聖書に

書かれていない、人間が作った別物の記念日、日曜礼拝、

クリスマス、イースターを祝い、一方ユダヤ人は神が創造された

オリジナル、神が神の子ら全員、イスラエルも異邦人も両方呼び出している本物の記念日を祝うのか?

それが、神が言われたことなのでしょうか?違います!

今や、異邦人でも、神の伝える永遠普遍の真実を発見した人々は

偽物、まがいものを祝うのを完全にやめ、イエシュアが祝われた

シャバット、新月、祭りの全てを祝うことに戻っているのです。

終わりの時代が来たらでしょう。以前、1990年代や2000年

以前は、こんなことは、聞いたこともありませんでした。

そうするとコンスタンチヌスの教え=人間が勝手に作った教えを信じる場合には、神が伝える一体、一致ということをしないことを選択しているのです。

おかしいでしょう。1つ家族なのに、神の教えではなく、それぞれ

人間の考え、基準で、バラバラなことをやる。

分裂家族、機能不全家族そのものを語っているのです。

聖書が語る、神の性質、エハッド、1つ以上で全く一つ、一体と

書かれていることとは、真逆の思想です。

神が本当に、人間が神の言葉を時代ごとに勝手に解釈し、変えて

違う日を、それぞれの考える通りに、自由に選んで祝えば良いなどと

言ったら別ですが、神はそんなことを言われるどころか、神の創造

された記念日を、人が汚すこと、聖別を汚す行為、世界の中で

「わたしが汚されている!」と厳重警告しているでしょう。

 

異邦人は契約を受け取る代表ではありませんが、イエシュアを通してイスラエルの神に戻った人は漏れなく全て、神の家に加えられ、

同じ神の家の家訓、契約に根付いた生き方をするように教えられ

同じ記念日を祝うと教えられているのに、聖書に書いてある意味が

全く通じないのです。

マタイ〜黙示録には、ローマ教、キリスト教の教えや、日曜礼拝、

クリスマス、イースター祭りの事など、1つも書かれていません!!!

そんなこと〜神の教え、記念日を捨てて、人間が作った別物の記念日を祝うなどということを考える人は、聖書には書かれていません!

そのようなことをしたイスラエルを、姦淫の罪を犯した!と

厳重警告して、捕囚の民となったでしょう。

実際に神の記念日を捨てる第冒涜をして別物を祝う人はいない。

それをする人は、異教徒以外にないからです。

そうすると、聖書とは違う、聖書に書いてもないことをどうして

神の教えだと疑いもせずに信じてやっているのか?と、自分で考えて真相を探れば良いのです。

正しい情報が、与えられていないから、真実に基づき考えていないのです。今は中世とは違うのです。聖書がある。調べられるのです。

自分で調べて、真相を追求できます。

人間が神の言葉と記念日を変えることを、神は厳重警告しているからです。

それが反キリストの正体であると聖書には、はっきり記されており、

イエシュアを信じる人を通して偽物の教えをサタンが語らせ、

イエシュアの実態を曲げる、実態=イエシュアとは違う別の影を地上で映し出す、別の教え、別物の記念日をやらされていることに、

気がつけば良いのです。

それらが何か、神の前に何を意味するのか、知らないからやっているだけなのです。

偶像礼拝とは、そのように人間の編み出した思想で、別物を作り

それらを通してイスラエルの神を礼拝する事と書いてあるのです。

契約の民の代表ではなくても、同じイスラエルの神に加えられたら

契約を破る生き方はしないのです。

異邦人は、好き勝手に人間が編み出したもので、イスラエルの神に

近づいて良いよ!などと神は言いません!

同じ1つの教え、同じ契約の生き方しか、神の民、それは頭脳に割礼がないままの状態、人間の教えに洗脳された状態だから、偽物と本物=神の教え、記念日の区別がつかないのです。

 

長年教えられてしまったから、それが聖書と思う。

みんながやっているから、それが本物と思う。

十字架が屋根についてないのは、異端の教会だよと、信じた時に

そう周りの人に教えられましたが、確かにエホバやモルモンなど

建物の上には十字架がないからそう言ったのでしょう。

でもユダヤ人のイエシュア信者は十字架など家にも飾りません。

それはローマ教のシンボルであり、ユダヤ人にとっては悍ましい

シンボルだからです。神の仰せでもないからです。

聖書を読めば分かるはずです。昇天以降も、使徒達、1世紀の人々、ユダヤ人異邦人も全てモーセの五書を生きて、シャバット、新月、

祭りを祝ったのです。コンスタンチヌス教なども、存在しない。

使徒行伝は、神の教えが変わる過渡期の記録であるなどと、

ウイートン大学で教えた新約聖書学者である、M.テニー氏が書物に

書いていますが、それは不正確な情報なのです。

神の教えが変わるという嘘を信じる人に教えられたら、偽情報を

刷り込まれて、聖書ではない教えを聖書と信じ込むのです。

しかも、神学校の教授がそう言う?肩書きなど全く関係ありません。

科学者、学者が、進化論を唱えるのと全く同じことです。

聖書に書かれてもない不真実な解説を、聖書を正しく学ばない学者がしているだけだからです。彼らが語るのは、人が作った宗教と

人が作った思想神学、置換神学や、デイスペンセーション神学だからです。オリジナル聖書ではない。

異邦人信者は、ローマ帝国の勅令により、神の教えを捨てさせらた

事件を、絶対に知らないとなりません。

だから、ユダヤ人は神の前に大罪、死に匹敵する聖別を汚す行為

神の教えを捨て、割礼をやめ、シャバット、新月、祭りを汚し、

その代わりに不屈の太陽神の日皇帝の日を拝むことなどできない。

異教徒と同じように聖別を汚す生き方、レビ記11−27章に記された神が教える神の民、聖別された神の家に住まう人の生き方に反することなどできないから、ユダヤ人は、異邦人と決別したのです。

その結果、異邦人は、聖書を正しく教える教師=ユダヤ人を失ったのです。

その代わりに、偽物の教えを教える、ラテン語で人が分からないように、翻訳聖書だけを読み、西洋宗教という混ぜ物の思想宗教の解説を教えられてしまったのです。

そして、聖書と異なる、司教たちの思想、考えをふんだんに、

一般人に刷り込み続けて来たのです。