本体(神の教え)から切り離された影(宗教の教え)が勝手に動いている | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

シャバット=安息日はキリストを通して与えられる終末的安息、

未来、皆がエデンの園にあった本来の生き方、神の中に100%

安息、憩う生き方を指し示しています。(ヘブル4:8-11)

ここで1つ重要な点に注目します。


17節は、聖日=神の聖会、呼び出し日、モアデイムは「影であった」という過去形では書いていません。
聖日〜モアデイム=ミクラコデシュが「影である」(現在形)で

記しているのです。
つまり、聖日=モアデイム、神が創造された聖なる集会の日、

アポイントメントの日は今もなお、キリストの御業、本体、実体を

指し示す現役の影として働いているのです。

 

これは未来、イエシュアが再臨された後も、永遠に祝われる「わたしの記念日、シャバット、祭り」と神が宣言している事が証拠です。

イスラエルに敵対した全世界の国々までも、神の祭りでエルサレムに登るようになる。祭りを祝うという意味は、レビ記23章に記された

神のモアデイムの全てを祝う!という意味なのです。

それなのに、どうしてクリスチャンは今の時代、地上で神の教えを生きない、神の記念日を祝わないのを全く不思議に思わないのでしょうか?それは、聖書を読んでいても、人ごと、他人事、自分には関係のない教えだ!と、偽情報を刷り込まれて、それが神の教えだと

聖書に書いてもないことを言う、神の教え、記念日を捨てることは

罪ではないと教えら続けているからです。人の意見で自由!

ローマ14を完全に読み違えているからです。

誰に聖書を教えられたのか?とテモテがパウロに言われましたが、

テモテは、ユダヤ人である人々、親に生粋のトラー=神の教えを

教えられ、それを生きたのです。

異邦人は、イエシュアが教えて生きた聖書に書かれた神の教えではなく、ローマ帝国皇帝達が、神の教えは生きるな!という勅令を元に

造られた偽物混ぜ物人造宗教の教えをやらされている。

だから、神の教えが廃れたと言い続け、神の記念日を祝わず、

その代わりにローマが作った別物の教えと、別物の記念日、聖書に書いてもないものを、祝っていても、聖書を読んでもその事にも気が付かない、おおいがかけられているのです。

 

神のモアデイムは全て預言的祭りであり、イエシュアの業を網羅しています。

1)イエシュアの初臨で成就したこと(過越)

2)神に贖い出された人が婚姻契約=神の家の家訓、神との関係にある証明、保証、約束を与えられた(シャヴオート)

3)再臨で成就されること(ヨムテルア、大贖罪日、仮庵の、秋の祭り)永遠にイエシュアが統治される世界がやがてくる事を表しているものです。

仮庵=イエシュアそのものであり、私たち自身も仮の宿、その中に

既にイエシュアが住まい、この地上での旅路を約束の地に入るまで

通過する事を教えているのです。

 

両方を指し示す影です。

「影」と「本体」の関係とは何でしょうか?

「影」は「本体(キリスト)」なしでは意味を持ちません。
影は常にそれが生じる実体を指し示します。

あなたが存在するから、あなたの影が光で映し出される、

それと全く同じ事です。

 

ヘブル10章はトラー全体について次のように述べます。

「トラーは、後に来る良いものの影であって、その実体そのものではない…」(ヘブル10:1)

つまり、キリストから切り離されたトラーの実行は、空虚で目的を失うということです。本体=影=同一であるという事実からだけ

読んでくだい。
ヘブル書を読む前提がずれているのです。

神の契約、最初の契約が廃止されたという箇所を読んで、律法が

廃れた!と勘違いしているでしょう!

契約などという言葉は、ギリシャ語の中にはありません!

 

ずさんで、いい加減な聖書の学び〜人間が編み出した思想の宗教教理を土台とし、神の言葉、教えの方を否定する、なし崩しにしている。

神の言葉は古い、廃れた、無用、関係ないという偽物の教えの思想を土台とする、ズレた聖書の学びなのです。

聖書を学んでいるのではなく、オリジナル聖書を教えられないまま、翻訳聖書を使い、人間の思想=神の言葉は廃れた!という思想を通して聖書を読む事しか、教えられていないから、偽物と本物が見分けられないままになっているのだけなのです

でも、誰でも正しく教えられたら、本物=聖書に書いてある意味通りを教えられたら、偽物の教えは容易く見分けられる、見抜ける、

識別できるようになります。

偽物を教えられる場合、本物と偽物の区別がつきません。

何が本物か教えられていないからです。基準を捨てる人には、

事実が見えないのです。

偽物の教えからでは、本物の教えは見分けられない。人間が作った

宗教教理、思想からでは、神の言葉、聖書の事実は見えない!

本物を知れば、偽物は容易く見分けられるのです。

偽札と本物札でも分かるでしょう。

 

それは聖書ではなくて、ローマ帝国が作った宗教の教え、神学教理を、ヘブライ聖書の代わり、ヘブライ語聖書を教えられないまま、

翻訳聖書を人間の思想で読みとくだけの学びしかない、貧弱な教育なのです。英語を習う人は、ネーテイブ、英語を母国語とする教師に

学ぶでしょう。異邦人の間では、パウロのような教師と、ユダヤ人と二世紀以降決裂した結果、正しい教師を持たないまま、翻訳聖書を

人間の思想=ローマ教の思想で読み解く、ローマ教の慣わし、教え

実践、記念日を祝うことしか、されてこなかった事実があるのです。

 

だから、聖書を教える教師が、イエシュアが教えられた教えや、

モアデイムを知らないという決定的揺るがない証拠があるのです。

それは、聖書ではなく、ローマ帝国が作った宗教の実践しか知らないという証拠だからです。

神は、異邦人は神の教えを捨てて、ローマ帝国が神の教えを塗り替えた宗教を生きよ!などと一度も教えていないどころか、それらを禁じています。

ある部分の聖書解説は事実でも、神の教えの解説が最初からずれているものだからです。それらの教えの方を破棄し、オリジナル聖書に

何が書かれているのか?という正しい学びをしない限り、偽もの聖書解説はずっと横行し続けますが、それらは聖書に照らし合わせると

完全に辻褄が合わないものなのです。

この箇所には、「契約」などという言葉は、ギリシャ語原典にはありません。

翻訳者が、原典にない言葉を、勝手に挿入する違反を、ここでも

やっているのです。こういう翻訳者は、全て人間の思想が土台にある

聖書とは異なる、その信条を反映する翻訳をやってしまっているからです。

ヘブル8:13 神は、「新しい」と言われたことによって、初めの契約を古いとされたのである。年を経て古びたものは、やがて消えていく。

これ読んで、神の契約=律法=トラーは廃れたという早合点、誤解を

しているのです。

申命記と同じく、約束の地に入る前に同じ契約が再更新されましたが、その時に約束の地に入った後生じる事に関しての教えは付け加えられています。でも、神の教えは、変わらないのです。

約束の地の入る、イコール、定住するのです。その事に関しての

プラスの教えが付け加えられただけです。

では、このヘブル書の箇所で語っているのは何ですか?

未来何が違うのですか?

ヘブルで書かれているのは、神の契約=トラーが変更になるなど

微塵にも記されていません!!!

そんな事を書く冒涜的罪を人に伝える人は、聖書記者の中に一人も

いないこと、その大前提をまず知って下さい。神の教えを否定、

捨てる人は、聖書を記す人として、神が選びません!!!

憶測、空想、人間の教えで聖書を読み解いてはなりません。

ヘブル書で記されているのは、神の教え=トラーのことではなく

祭司システムの事である事は、文脈を読み、全体を読めばはっきりと分かるでしょう。

 

ユダ族のメシアであり、王の王であるお方、イエシュアが、

神の国であるイスラエル、エルサレムの神の家、神殿、神の家を統治される時代が来たら、地上の神の家で、天の大祭司を表す代役で

あったレビ族のアロンの家系の男子である大祭司はお役目は終わるのです。なぜなら、本物の大祭司が来られるからです。

この大祭司は、天の大祭司です。

地上の大祭司はレビ族のアロンの家系の男子のみがなれるのです。

天の大祭司は、メルキゼデクの位に属する大祭司とある通り、

イエシュアはレビ族の血筋ではなく、ユダ族のメシアであり、

ユダ族から出る王の王であり、主の主であり、同時にメルキゼデクの位に属する大祭司だからです。

この点が変わる、神の家=神殿での役割の状態が変わるだけなのです。

クリスチャンは、神の教えを律法と言う誤訳で呼ぶ事を教えられ、

神の教えに対して、古い悪い廃れたという、深い敵対心を持たされているのです。

気が付かないと思いますが、律法=悪い、廃れた、一時的、終わり!

今は無用、恵の時代、聖霊時代には関係ないともれなく教え込まれているのです。この思想が、神の教えに敵対する考えを植え付けているのです。これらは、聖書とは何も関係のないローマ皇帝の勅令なのに。

神の言葉が十字架につけられて終了したという、偽情報を徹底的に

刷り込まれ、罪、聖別を汚す行為を平気で今はして良いと言う

聖書ではない教えを教え込まれているのです。

そして、イエシュアに属する人は、御霊に仕えるのであり、文字には

仕えないのだ!と、これまた聖書に書いてある意味を勘違い、誤解した解説をしているのです。

イエシュアを愛する人は、神のトラーを生きる!とイエシュアが言われた事と、真っ向から矛盾するのに、気がついていません。

文字〜文字だけ読んでも文字は文字です。人間の書いた書も文字です。文字そのものが、人に命をもたらすのではないのです。

文字を読んで、それを実践して生きなければ、命はその人の中にありません!聞くだけの人になるな!と警告されているでしょう。

文字で記された神の言葉、それは聖霊です。影です。

神ご自身の実態が文字で書かれて人に伝えているのです。

文字に仕えないとは、人間の教えに仕えないことです。

ローマ帝国が作った人間の宗教=文字に仕えている事に、

先ず気がついた方が良いのです。

どこまで行っても、ユダヤ人であるイエシュアを信じながら、

反ユダヤ思想、反トラー思想を徹底的にすりこまれ続けて、

神の教えに対する敵対心、神の言葉に対する間違った思想、概念を

徹底的に刷り込まれ、その教えに洗脳、汚染されている事に気が付けないまま、古い教えを捨てる事が恵、正義!!!などと、とんでも

ない蛇の嘘を信じて、神の前に罪であることを主張、発言、実行していても、全くその罪に気がつけない状態であるのです。

聖書には、クリスチャンの言うように、神の教えは古い、廃れた、

悪い、異邦人には関係ない教え!などと考え、発言、行動する人は

一人もいない事実を、聖書からぜひさぐり出してください。

 

パウロもコロサイ人に同じことを教えています。

 

1)問題は「聖日を守ること」そのものではなく、

2)聖日をどのような焦点と動機で守るかです。

コロサイの偽教師たちは、

1)祭りを断食と禁欲の場に変え、

2)天使崇拝や「霊的ビジョン」追求のための儀式として扱い、

3)キリストとの結びつきを失っていたのです(2:18-19)。

 

O’Brien はこう述べています。

「コロサイでは、聖日が“元素の霊力”に従って守られていた。
パウロが批判しているのは聖日そのものではなく、
それを“元素、別の霊、悪霊”に結びつけて守るという誤った動機である。」(p.139)

伝統によって影を変形させると、実体(キリスト)が見えなくなる

偽教師たちは、

1)神の定めた祭りを

2)人間の規則(ドグマ)で上書きし、

3)影を変質させてしまったのです。

 

このことは、イエスがパリサイ人を叱責した時と同じ構造です。

ローマ帝国も同じ事をしました。

「あなたがたは、自分たちの伝統のために神の言葉を無にしている。」(マタイ15:6)

影=神の教え=言葉に人が勝手に手を加えると、言葉=神ご自身=

聖霊が指し示す**本体(キリスト)**が見えなくなります。

この罪、警告されている罪を、西洋宗教がそっくりそのままやっているのです!!

コロサイ2:17は、安息日や祭りを廃止する教えではありません。
むしろパウロは次のことを教えています。

  1. 聖日は今もなおキリストを指し示す影として働いている。

  2. だからこそ、影だけに気を取られてはいけない。

  3. そして、人間の規則ではなく、キリストに焦点を合わせて聖日を守りなさい。

     

    つまりパウロがこの箇所で書いているのは、神の聖日を捨てよと教えているではなく、聖日=神が創造されたシャバット、

    新月、祭り=レビ記23章に記された神が人を呼び出している聖別された日を、イエシュアに焦点を置いて正しく守れという教えなのです。

     

    神の教えを捨てよ!というのは、神ではなく、サタンです。

     

    神の教えを、人間の哲学思想で歪める、それがローマ帝国が四世紀以降からずっとやり続けた罪です。

人造宗教は最初から存在してはならない。神の言葉に人間が手を

加え、付け足し、差し引き、歪め、薄め、別物に変えてはならない

からです。それでは、イエシュアがその通りに地上に現われ出ない。

その代わりに、イエシュア=本体=実態から切り離された、人造宗教の影が、あちらこちら世界中で勝手に動く現象が20世紀近くにわたり、異邦人の世界で起きているのです。