今日は、創造主が創造された週一度のシャバット、第7日目に神が
止まられた日であり、神がこの日に神の子ら全員を呼び出している
アポイントメントの日です。
電車の乗る時時刻表を見る。カレンダーを見て、今日は何の日か、
いつが特別な会議がある日か、確認するでしょう。
神は、神が創造された聖別されたアポイントメントの日を、人にクリアーに伝えています。その暦の詳細が、レビ記23章に記されているのに、クリスチャンはそれらを全部捨てるように、信じた最初から
教師や牧師にそう教えられています。
いや、聖書に何が書かれているのかも、知らない状態。素通り。
これおかしな状態だと気づくべきです。なぜなら、イエシュアが教えた特別な会合の日を、イエシュアが招いている日を、クリスチャンが知らないからです。
イエシュアが処刑される前の日、過越の晩餐で語られた遺言の意味を
全く理解していないのです。
イエシュアがされたことは、同じシナイ山で与えられた婚姻契約を
頭脳に割礼がされた弟子達の前で、再更新しているそれが書かれているのです。そして、毎年過越の祭りを祝うたびに!と言っている、
過越の祭りを皆で祝うたびに、イエシュアがされた業を思い出してと。それらが、最初から教えられている同じ福音だからです。
贖い出された人たち、出エジプトで表された過越、
これをクリスチャンは聖書を読んでも、理解していないのです。
私は以前その箇所を読んでも、「聖餐式」のことが書かれているとしか思わず、過越の祭りの意味も、過越の祭りは神の民がずっと永遠に祝い続けることも、その中でイエシュアの業、永遠の中に屠られた
子羊、そして新しくされている事実、復活の命を得る事実、新しく
された人が成長していくこと、全てが教えられているのに、神の記念日を捨てる人には全く意味が通じないまま、単に字面を読み、古い律法主義、今は異邦人には関係ない教え、古い時代の祭り程度にしか理解していないのです。本当に宗教=人間の作り出した宗教、教え、教理は、神の教えの実態を覆い隠す障害物、妨害そのものであると分かります。
ちなみに、聖書には聖餐式というものは書かれていません。
カトリックが、過越の晩餐でやる儀式を、聖餐式というものに、
やる日付も変えて、過越の祭りも祝わないで、種なしパンなのに、
種ありパンでやる。
しかも、この種ありパンと葡萄酒を飲むと、イエシュアの実際の血と体に変化するという大嘘仮説を編み出し「パンと葡萄酒がキリストの肉と血になる」と公式に決めたのは、第4ラテラン公会議(1215年、教皇インノケンティウス3世)です。
人間の会議で聖書にはない教えを、聖書と勝手に決めて言い続けているだけです。例のあれが生物兵器なのに、安全!という大嘘を
吹聴しているのと同じです。
クリスチャンが神の教えが廃れたと信じているのも、神の記念日は
いつでも良い、又は変わったと信じているのも、その他諸々聖書にない教えを信じているのも、みんな人間、ローマ帝国に属する西洋教父、司教、教皇たちが勝手に考えた聖書とは無関係な教えをふんだんに盛り込まれ、それを神の教えだと刷り込まれていることに
気がつくべきです。聖書を読めば分かります。嘘と本当。
聖書に書かれていることと、書かれていないこと。
作り話、パクリが得意のローマ帝国のなせる技です。
大衆に自分が考えた思想を、押し付ける。これダービーも同じです。
聖書にない教え、神の教えではない、人間の空想話、発想、ひらめきを、聖書だと教えるのは、やめないとなりません!
創造の全てを6日の間で完了して、全てが完全に完成し
欠けるもの、付け足すもの何もない状態になって止まられた。
創造の全てを見て、トウブメオード、甚だ良いと訳されていますが
最大限の歓喜、完全版、神の意図どおり!という感嘆で語られました。
そして、週の7日のこの日だけを、神は聖別し、祝福した日です。
他の日は、普段の日、名前もない、1、2、3〜と数字で呼ばれる日で、普通、普段、何もとりわけがない日です。
第7日目だけを、特別な意味を持って取り分け、神が聖別されたのです。聖別とは、神の意図どおり、意味どおりに分たれているという
意味です。それをなし崩しにしたのが、ローマ帝国が作った宗教なのです。
これを、人間が無視して、否定しても、神の前に神が創造された
週一度のシャバットは永遠に否定されない、無効にならないのです。
シャバットは、神が神の民、神の子ら、誰でもイエシュアを通して
神の元に取り戻された人全て、永遠の中から神が選び出した人に対して与えた「印」であると書いてあります。
印とは、目で見て分かるものです。
神との関係に入っている証拠、印、婚姻指輪です。
生きて、実践して世界へ現れ出る印なのです。イエシュアの影。
地上で天の見えないイエシュアの実態を表す影です。
神が与えた婚姻指輪を無惨にも捨て、人間が作ったコピー品の偽物の
指輪をする。西洋宗教は、イエシュア、イスラエルの神の本物の神の言葉、教えを自分たちの考えで作り変えたものに変え続けて来たのです。
神の前に何も意味のないもの。神は今は人が作り変えたもので、神を礼拝して良い!などと、そんな嘘、聖別を汚す行為を人に1度たりとも教えなどいません!
別物を通して神に近づく行為を禁じているのです!それは、イスラエルの神に属さない、イスラエルの神の実態を表さない別物だからです。
神は、それら神に違反する行為をして礼拝している、それで良いと
考えている人に、只々忍耐して待ち続けているだけであることを、
自覚する必要があります。
イスラエルの違反も全く同じなのです。神の教えを破り、自分たちの編み出した考えを生きる生き方です。神が与えた婚姻契約の生き方に
反して、異教の神々の慣わし、教え、シンボル、儀式、記念日に交わり、それらまがいもの、偽物、作り物、別物を通してイスラエルの神を礼拝し続けたのに、1000年近くも神は無言、何もアクションを
起こしませんでした。忍耐の神だからです。
そして、アッシリアに、バビロンに攻め入れられて、イスラエルは
約束の地から吐き出されてしまったのです。
異邦人は、神の教え、トラー、婚姻契約、モーセの五書に記された
教えとは関係がありません!と教えられ続けていますが、それらの
教えは聖書の教えなどではありません!聖書を正しく知らない西洋人
ローマ帝国、西洋教父、司教、教皇たちの教えです。
イエシュアが教えられたのは、トラーであり、イエシュアが生きよ!
と教えられたのは、父の教え、トラー、モーセの五書に記された
神の教えなのに、その事実を全く理解しない、ローマ帝国が作った
宗教の思想を、異邦人は教えられてしまいました。
この事実に今、世界中で多くのクリスチャンが気がついているのです。聖書に照らし合わせれば、聖書に書いてない教えが、聖書ではないと分かるからです。そして、こういうことが起こるのです。
「なぜ、聖書とは違う、人間の作った宗教の教えが、異邦人の世界に
2000年近くもこれ程までに浸透し、本物の神の教えが伝わらないまま、おおい隠されてしまったのか?そんなことをされること、
神の教えを塗り替えた偽物宗教が浸透することを、どうして神は許したのか?」
なぜ?ということは、誰も分かりませんし、神も答えを下さいません。想像でしか、憶測でした分からない。でも、神はどんなことも
神の計画通り、神の意図通りに使うことができる!人間の失敗も神はトヴ=神の意図通りに変えることができる!!ということだけは、確実です。だから、偽物の教えがこんなにまで多くの人に伝わり、
2000年近く異邦人の世界では、パウロやイエシュアが教えられた生粋の神の教え、契約に根付いた生き方、神が創造されたモアデイムアポイントメントの日が捨て去られて来たけれど、今それがオセロのコマがひっくり返るように、徐々に本物の神の教えに戻るという
大軌道修正が、世界中で始まっているのです。
神の教えは、エデンの園から同じです。そして、神は歴史のどの時点でも神ご自身は教えを変えない、神の性質は変わらない。
そして、人間が神の言葉や記念日を塗り替えて良いなどとも教えていません!
そういうことをする勢力を反キリストと呼び、神はずっと警告しているでしょう。
ダニエル7:25 彼は、いと高き者に敵して言葉を出し、かついと高き者の聖徒を悩ます。彼はまた時とトラーとを変えようと望む。
聖徒はひと時と、ふた時と、半時の間、彼の手にわたされる。
エデンの園の最初から、そそのかすもの、蛇がいる。
そして神の教えに敵対する勢力は、最初からあるのです。
神の教え、伝えることに違反し、そして自分たちの考えで塔を建てて良い、世界を1つに統一し支配しよう!
それをずっとやっているのです。
神の教え、トラーと、神の記念日、シャバットや祭りを変える!
これが反キリストがやる特徴であり、アッシリア、バビロン、
ペルシャ、ギリシャ、ローマ帝国、それ以降も、今に至る迄、
神の教えを歪めて、薄めて曲げて潰す人間の思想が世界に浸透し、
神の教えを覆い隠すことがずっとされて来ました。
でも、神は人に神が伝える真実を踏み潰され続け、聖別を汚される
行為をずっとは許さない!と言われたのです。
イエシュアを信じる人が、イエシュアご自身である言葉=トラーを
否定し、破棄、廃れた!と言い続け、聖別を汚す生き方をし、
神の創造されたイエシュアが教え、祝った記念日を祝わない。
クリスチャンは心配しなくても、契約に戻ってなどいない、
律法=神の教え、トラーも知らないし、実際に生きてもいない。
代わりに違う教えを生きている、実践している!
神が教えたこととは、違うことを生きている。
ローマ帝国皇帝たちが作り出した、人間由来の宗教、神の教えに人間の教えを混ぜ、神の教えを否定した宗教をやっているということに、聖書を正しく学ぶ人は、目が開かれます。
イエシュアが来られて、初めて救い、贖い、赦し、聖霊が住まうことが開始されたとクリスチャンはもれなく信じていると思います。
それが使徒2章のシャヴオートの祭りの出来事と教えられているでしょう。イエシュアが教えられた父の教え=トラー=モーセの五書に記されたこととは違う、新しい別の教えなど聖書には書かれていません!
だから、今まで知らない、見聞きしない、新しい教えに移って、古い律法を捨てることが正義などと思っているのですが、マタイ以降に
記された教えは、クリスチャンが言うところの古い律法の抜粋なのです。
どの時代も、神の教えとズレた考え、アプローチ、自分の努力で神に近づくことをして、神の言われることを上から受け取り生きるという
本質が分からないことをする、それが律法主義なのです。
特に一世紀当時のユダヤ人は、血筋だけユダヤ人だったらその事実だけで、神に受け取られていると考えていた人がいたのです。
今も同じですが。
だから、神の教えに反した生き方、ずれていても気にも留めない人が
いることを、イエシュアが指摘しているのです。
又は当時の人が編み出した、トラーの解釈や生き方、神の教えの本質と外れた生き方をしていても、それで安全と思う。
神の前に正しいことをしている。
自分の心の中身がどうであれ、表向きだけやっていればそれでOk。
クリスチャンも同じ意識になるでしょう。
これらは聖書ではありませんが、こう考えてる人がいる。
日曜に教会に行っているから良い。日曜礼拝しているから神に受け取られている。10%献金しているから、基準を満たしている。
人に伝道しているし、1日15分祈っているから大丈夫。
これらを持って神を愛していると。
これら、全く同じ思考回路です。しかも、日曜礼拝や10%献金は
イエシュア、神の仰せなどではありません。
宗教の教えは、神の教えを覆い隠しています。
出エジプト20:3 あなたはわたしのほかに、なにものをも神としてはならない。
十戒と訳される、ヘブライ語では、「10の言葉」聖書の題目、柱
タイトルが記されています。この10のタイトル、言葉を、モーセの五書全体で、神の教えの解説をしているのです。
この柱を、勝手に捨てたり挿げ替えたりする場合、黙示録の最後にある、預言者の書いた書、トラー=神の教えに付け足し、差し引き、
手を付け加えるものは呪われる!とあるのです。
自分で自分に災難を招くと言う意味です。
冒頭に、他の神を神としてはならないと訳されていますが、
これは、神の顔=実態の上に別の神を置くな!と言う言葉、意味です。
西洋宗教は、その神の警告に対して真っ向から違反し、四世紀に神の実態を覆い隠す、神の教えが廃れた!と勝手に言い続けて来たローマ帝国の勅令を土台に、神の教えとは違う思想を何世紀に渡り、21回以上の異邦人だけの宗教会議で聖書とは違う教えをふんだんに編み出し続けて、今もそれをし続けているのです。
だから、聖書に書いてもない思想や記念日を実践しているのです。
それらは、完全にイスラエルの神とは無関係の人間の宗教の思想、
教理なのです。
聖書は最初の最初から、同じ教え、同じ救い、贖い、赦し、イエシュア通してのみ、全ての人は神の元に戻ることが出来る事を教えています。
アダムとハヴァもそうですが、神の前に、神が見る通りのズレを
一緒に見て、自分の犯したズレ、罪を告白して、彼らを赦し、
神が屠った動物の皮の衣、義の衣を神ご自身が着せたと書いてあります。
子羊イエシュアの贖いの血の代価は、この世界の礎が造られる以前
から完了済み!と聖書には書いてあるのです。
そして、一人一人、神に選ばれた聖徒たちも、この世界の礎が造られる前に、神の中に既に選ばれていた!とある通り、理解不能はことが
書かれていますが、それが事実なのです。全て永遠の中から考える!
歴史線上の時系列上に物事を見るから、ずれてしまうのです。
ヘブライ思想で記された神の教えは、永遠から語っているのです。
円、どの地点からも同じ。サイクル。線上ではありません。