春の祭り 子羊イエシュア 秋の祭り ユダの獅子 全世界の王の王として再び来られる | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

出エジプト記のこの初期の出来事において、私たちはコルバンの子羊としてのメシアの姿をその中に発見します。

 

創世記の中にも、同じように、影=目に見えないイエシュアが

記されています。

アヴラハムがイサクを捧げた箇所、イエシュアのされたことの

影=本体の実態と同じです。同じことを教えているのです。

ヨセフの通った人生を通しても、同じイエシュアの救出策が

教えられているのです。同じです。

 

なぜ、イエシュアがユダ族なのか?ユダと言う人がどういうことをしたのか、彼ら12兄弟の一人一人の人生を見ても、イエシュアにより購いだされて、変貌する、イエシュアの似姿にされていることを教えているのです。

 

ユダは、使徒15章の神殿娼婦と交わった異邦人と同じことを

してしまったでしょう。

息子の嫁、タマルを神殿娼婦と思い、買ったとあります。

なんでそんなことするの?てことですよね。

神殿娼婦と交わるとは、異教徒がする多産の儀式です。

でも、そんなことをしたユダは、最後どうなりましたか?

自分の命を差し出して、ベニヤミンの代わりに人質になる!

と、成長した、変貌を遂げたユダの姿がそこにあるのです。

神は失敗した人を、変貌させられる、イエシュアの似姿に変えられる、それがずっと教えられているのです。

ダビデ王もそうでしょう。

それは、トラーを深く学ぶ人、イエシュアがメシアであることが

見えている人には、益々深く見て行くのです。

 

イスラエルの人々と同じように、私たちも死からの救いを必要としています。人は、誰でも、もれなく皆同じです。

全ての人が、神から切り離されて、エデン=喜び=神の内側から外側に飛び出して、隔たりの中に閉じ込められているからです。

 

イスラエルの人々と同じように、神は、どんな人も、エジプト人も同様に、神の言われたことを信じ、受け取り、実行する人に

対して、神が永遠の中で提供した同じ子羊の購いの血を通して

私たちを守ってくださるのです。

そしてそれは、若く健康で、傷(罪)のない1歳の子羊、

初子は、イェシュアの血の購いの代価を通して可能なのです。

この子羊の血を自分の頭脳、腹の中の戸口に塗るとき、永遠の

死の天使が私たちの上を通り過ぎました。
子羊のイメージ、教えは、聖書全体を通してメシアを表すために繰り返し用いられています。イザヤ書53は、イエシュアが生まれる何百年も前に書かれたにもかかわらず、タナックの中で最も

明確なメシア預言の一つなのです。

そこにはこう記されています。

イザヤ 53:7彼は虐げられ、苦しめられたが、口を開かなかった。屠殺場へ連れて行かれる子羊のように、毛を刈る者の前に

沈黙する羊のように、彼は口を開かなかった。

ユダヤ人の耳には、この聖句は鐘を鳴らすように響きます。

それは、私たちを救う子羊についてよく知っているからこそ、

認識の衝撃を呼び起こすのです。

私たちはその子羊を覚え、その意義を尊び、毎年春の過越の祭でその子羊を通して救われたことを神に感謝するのです。

 

まるでイザヤがわざわざ明白に伝えようとしているかのようです。「愛するイスラエルよ、神はかつて子羊を通してあなたたちを救われた。そして今度も、犠牲の子羊、メシアであるイエシュアを通して救われるのだ!」

 

影とは、本体であるイエシュアを表すものです。

本体=天にある見えないもの、影=地上で見えるもの。

本体と影は同一、一体です。見えるか、見えないかの違いです。

目に見えないイエシュアを影=子羊の血の購いを通して、同じ実態を、ずっと教えている!と言う事実を把握して下さい。

 

だから、イエシュアが約束のメシアであることに繋げられる

ユダヤ人には、神の教えが全部ぴったり1つに繋がり、深く深く

神の教えが見えてくるのです。

春の過越の祭りの一連を通して、イエシュアの業が表されています。

1)過越 子羊の血の購いの代価

2)7日間の種無しパンの祭り 子羊により罪が削ぎ落とされた

3)初穂の祭り 復活の命、初穂=イエシュアに連なった人

を表している。

4)その人達は、初穂に連なり成長する7週間の穂を数える週

7回のシャバットを祝い、シャヴオート=婚姻契約を受け取る祭りを祝う。花嫁とされた人が、神の家の家訓を受け取り生きる。

 

そして、夏から、秋までの季節、これが人生の旅路、新しい人を生きる人生の日々を表しているものです。麦の穂が成長する

時期です。そして、収穫の時、秋を迎えるのです。

秋は1年の全ての収穫物が集められる時期なのです。

この世の終わりの最後の収穫を表しているのです。

歴史の事実、神が造られたこの世界のサイクルの事実を、

神のモアデイムを通して教えているのです。

その全て、神の教え、トラーを生きて、神のモアデイムを生きて

命のサイクル、光の中を歩む!と、神は教えているのです。

 

秋の祭りは、ヨムテルア、角笛を吹く日から始まりました。

目覚ましコール!神のトラーに戻り生きよ!これが預言者の

預言書に記されているテーマなのです。

預言者は、神の教え=トラー=婚姻契約の生き方に戻れ!という

ことを人に教え、導く、それがナヴィ 預言者の役割なのです。

神の教えに正しく導く人、預言者、ナヴィ。

ナビゲーターは、このヘブライ語のナヴィ預言者の語源から

来ているのです。

預言者は、神の教えとは違う教えに人を導いてはならない!

そんな預言者は偽預言者であり、神の教えを正しく教えない

預言者、教師は偽物です。

今日の日没から始まるモエッド、ヨム・キプール  裁き主としての神。裁きと聞くと、怖い、怒りと考えるでしょう。

でも、神の裁きは何をもたらしますか?人に解放と義をもたらすものです。

偽物、弾圧から、解放してくださる。そして神は義の御座から

全ての裁きの判定をしてくださるのです。

正しい最高裁判官!腐った不正を働く、悪の味方をする裁判官ではないのです。この腐った狂った世界から、神の義、トラーで

統治される、神の意図通り麗しい世界、人々が皆神の性質を生きる日がやがてくるのです。

少数派が、世界の数パーセントが人々を搾取し、支配し、破壊し

おぞましいことが行われている、それが全部消える!

イエシュアが、エルサレムから、神の御座、義の足台から全てを

統治される輝かしい未来が約束されているのです。


エジプトにおける疫病の恐怖と死の後、ファラオはついにユダヤ人を捕囚から解放しました。神はモーセを通して彼らをエジプトから荒野へと導きました。ここで、神はもう一つの崇高で

神聖な日、ヨム・キプール、贖罪の日を準備されたのです。

イスラエルの民が荒野で暮らしていたとき、神はモーセに一連の指示を与えました。これは、より完全な未来の現実を指し示すもう一つの影でした。モーセは三つの区画を持つ幕屋=ミシュカン=移動式神殿を建てるように命じました。

まず外庭、次に内庭です。モーセの兄弟アロンの血統に属する

祭司だけがここに入ることができました。

しかし、この内庭のさらに奥には、第三の区画、至聖所がありました。ここには神の栄光であるシェキーナが安置されていました。契約の箱はここに大切に置かれていました。

神の臨在は、この契約の箱の中にあったのです。

そして年にたった一度、大祭司だけが、この神秘的な場所に入ることができました。ここで彼はイスラエルの罪を償うために、

犠牲の血を捧げました。神は具体的な指示を与えました。

罪を償うために血の犠牲を要求したのです。

大祭司は、イエシュアの影の役割をしているのです。

イエシュアがされた業を、大祭司を通して教えているのです。

たった一人しか至聖所に入れない。詰まり、イエシュアを通して以外、誰も父の元に戻れない!でも、子羊の血の購い、大祭司

イエシュアを通して、神の至聖所、神と顔と顔を合わせる場所に

引き戻されたことを教えているのです。

レビ記17章11節にはこう記されています。「生き物の命は血の中にある。わたしは、あなたがたの命のために、贖いをするために、それを祭壇の上であなたがたに与えた。血は、命のゆえに贖いをするからである。」

これはヘブル人への手紙9:22にも再び述べられています。

 

 こうして、ほとんどすべての物が、トラーに従い、血によって
きよめられたのである。血を流すことなしには、罪のゆるしはあり得ない。
 
雛型=影、地上の神殿で行われた一連の儀式は、天にあるイエシュアそのもの、子羊の血の購いの代価を、目に見えることを通して、地上で教えているものです。
未来、イエシュアが到来されたら、何が変わるのか?
神の教えが変わるのではなく、レビ族のアロンの家系の男子で
代表された大祭司は、目に見えなかった本物の大祭司=イエシュアになる!イエシュアが世界を統治する。
代役、代替えは要らなくなる。
ヘブル書を、神の教え、トラーが廃れた!とクリスチャンは
完全に読み違えていますが、祭司システムに変更があるだけで、神の教えに1つも変更はありません。
しかも、未来神の神殿の中で再び、コルバンが捧げられるようになるのです。神殿の神の祭壇で捧げられるコルバンは、最初から
罪の許しのためではないからです。
目に見えない世界、天の神の家、イエシュアご自身を、目に見える地上の家で、目に見えるコルバンを通して教えているからです。
ヨムキプルで行われる一連の儀式は、イエシュアの業を網羅しています。

最後のヨム・キプール、 ユダの獅子としてのメシア
過越の祭とヨム・キプールには、メシアの全く異なる二つの姿が

見られます。

まず、過越の祭では、自らの命をコルバンとして捧げるために来られる子羊、苦悩を負った僕として来られた。

次に、ヨム・キプールでは、栄光と力を持って再臨し、すべての肉なるものの義なる裁き主、メシアとして来られる。

王の王、主の主、全世界の主権者、所有者として到来される。


一見すると、過越の祭における犠牲の子羊と、ヨム・キプールで

血の犠牲を要求する裁き主という、この二つの預言的なブック

エンドに見られる、神のイメージを調和させることは難しいかもしれません。

実際、古代のある賢人たちの中には、これらを調和させることができなかった人もいたため、子羊とライオンという二人のメシアが存在するはずだと教えた人がいました。
メシアには、色々な性質、側面、名=実態があるのです。

だから、神は、ご自身を様々な名で紹介されているでしょう。

預言者イザヤは、53章でメシアを犠牲の子羊と描写しましたが、別の箇所ではもっと強い言葉でメシアを描写しています。

彼は口の杖で地を打ち、唇の息で悪人を殺す。イザヤ 11:4
イザヤはここで、メシアが再臨される時の姿を垣間見せていました。イエシュアが世に再臨し、人々に最後の審判を下し、平和と繁栄の黄金時代をもたらすことを語っているのです。

メシアの再臨におけるこの最後の審判こそが、ヨム・キプールの究極の成就ではないでしょうか。

聖書には、その日、イエシュアが「力と大いなる栄光をもって」ユダ族の獅子として来られ、「ご自分の民を集め」、地上に

父の王国を樹立すると記されています。この興奮に満ちた日の

感動的な記述については、マタイ24章を読んで下さい。


私たちは今、終わりの日に生きているのです。イエシュアが到来した時点で、既にそれは終わりの時代の到来だからです。


ゼカリヤ 12:10-11その時、わたしはダビデの家とエルサレムの住民に恵みと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼らが刺し通したわたしを見つめる。彼らはひとり子を失ったように彼のために嘆き、長子を失ったように彼のために激しく嘆く。その日、エルサレムには大いなる悲しみがある…
ゼカリヤ書はここで、イスラエルの人々がメシア、イェシュアへの信仰へと転向したことを描いています。神の民がついに

「主の御名によって来られる方に祝福あれ!」と告白する時、

それは最後の審判、最後のヨム・キプール(贖罪の日)の到来を告げ、この地上における神の美しい御国の始まりとなる時が到来するのでしょう。
この偉大な計画に携われることは、なんと光栄なことでしょう。毎年過越の祭で、子羊イエシュアがされた業を祝い、毎年秋に

ヨム・キプールの最終的な成就、イエシュアの到来を待ち望むことは、なんと光栄なことでしょう。

そして、このヨムキプルの5日後に、仮庵の祭りの7日間

イエシュアの中に住う、今も住う、未来も住まい続けることを

表す秋の祭り、一年の最後の祭りが始まるのです。

再臨と、未来イエシュアが統治される世界を表す預言的祭り。