大贖罪日 ヨムキプルがやってくる 主の道を備えよ | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

エゼキエル36:22 それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。

主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。

36:23 わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。

わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主な神は言われる。

36:24 わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。

 

神は神の言われたことではない、神の教えではないことを、

人が言いたい放題、やられたい放題を、人にずっと制限なく

やらせ続けません!

イスラエルでさえ、異教の神々に混じった混ぜ物、高き所の礼拝を1000年近くやり、イスラエルの神の顔に泥を塗り、

イスラエルの神の性質とは違うことを、生きて世界に

偽物の影を映し出したでしょう。

でも、ずっと無言に見えた!何の介入も、裁きもなかった!

それは、神が定めた忍耐の限界、ある時迄なのです。

でも、神は確実に、その嘘を一掃されるのです。

神の時が来たら、それをされます。

なぜなら、人間が作った宗教、コンスタンチヌスが作った

偽物混ぜ物偽造宗教は、イスラエルの神に属さない、まがいのもの、偽造偽物だからです!

未来は、全ての人が、トラーを知り、生きる。イエシュアが

世界の王の王、主の主として、エルサレムから義の御座に座して

統治される日が来るのです。

 

エゼキエル37:25 

彼らはわがしもべヤコブに、わたしが与えた地に住む。

これはあなたがたの先祖の住んだ所である。そこに彼らと、

その子らと、その子孫とが永遠に住み、わがしもべダビデが、

永遠に彼らの君となる。

 37:26 わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らの永遠の

契約となる。わたしは彼らを祝福し、彼らをふやし、わが聖所を永遠に彼らの中に置く。

 37:27 わがすみかは彼らと共にあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわが民となる。

37:28 そしてわが聖所が永遠に、彼らのうちにあるようになるとき、諸国民は主なるわたしが、イスラエルを聖別する者であることを悟る」。

 

イスラエルと書いてあるので、異邦人の自分には関係ない!という読み込みをする場合、それこそがズレた思想で、聖書を歪めて読んでいるのです。神は一人、イスラエルの神。神が選ばれた

民はイスラエル。それは、地上の全ての民族、父アヴラハムを

通して、全ての人に神の家の家訓を教え、そして祝福するため!と書いてあるででしょう。マタイ以降は、全て、トラー、預言書、諸書のみをさして語っていることを、忘れないで読んでください。

しかも、神が提供している婚姻契約、神との関係にある保証、

証拠、土台としているものは、シナイ山で与えた、イスラエルと

ユダの家に再更新され続けている同じ1つの契約しか存在しません!その同じ契約に、異邦人=接木される野生の木、別の羊の囲いの羊が、イスラエルの神の家に全て招き入れられ、同じイスラエルの神の家の花婿の家の家訓を全ての人が生きる!とずっと

聖書に書いてあるでしょう。それを正しく読み取れないのは、

正しくトラー、預言書、諸書を教えられていないから!

正しい聖書の教育が、異邦人の間に欠如していることが、聖書が語る永遠不変の真実が見えない本当の原因なのです。

 
イエシュアを通して、イスラエルの父なる神の元に引き寄せられた人は、もれなく全てイスラエルの神の大家族の一員となったのです。その人たちは、イスラエルの神の家の家訓を生きる!と
神が教えているのです。
 
ガラテヤ3:7 だから、信仰による者こそアブラハムの子である
ことを、知るべきである。
3:8 聖書は、神が異邦人を信仰によって義とされることを、
あらかじめ知って、アブラハムに、「あなたによって、すべての
国民は祝福されるであろう」との良い知らせを、予告したので
ある。

3:9 このように、信仰による者は、信仰の人アブラハムと共に、祝福を受けるのである。

ヨハネ 8:39 彼らはイエスに答えて言った、「わたしたちの父はアブラハムである」。イエスは彼らに言われた、「もしアブラハムの子であるなら、アブラハムのわざをするがよい。
 
アヴラハムのわざ=神の教え=トラーを生きることです。

ガラテヤ 3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスにある信仰によって、神の子なのである。

3:27 キリストに合うバプテスマを受けたあなたがたは、

皆キリストを着たのである。

3:28 もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

3:29 もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのである。

 

アイルランド人、弁護士ダービーの編み出したデイスペンセーション神学、その大元の思想は、ローマ帝国皇帝コンスタンチヌスが作った宗教ですが、イスラエルと、異邦人を分断させています。

聖書を正しく学ばない場合、神の創造の性質は見えないのです。

ユダヤ人でヘブライ聖書を教えると言っている人が、こんな思想を述べています。

キリストが異邦人の花婿、父なる神がユダヤ人の花婿。

異邦人は天で永遠に治め、ユダヤ人は地上を永遠に治めると

言っていますが、それは聖書ではない、空想話です。

この思想は、デイスペンセーション神学を通して、空想話を

作っているのです。このようなユダヤ人にヘブライ聖書を、

デイスペンセーション神学を通して、間違った教えを学ぶ人がいるのです。

聖書ではない!偽物の教えをする人は、巷にはたくさんいるので、このように分断思想、ダービー教デイスペンセーション神学を通して、人類を2つに分断する思想は、聖書とは何も関係のない空想話であることを、覚えておいた方が良いです。

聖書に照らし合わせたら、ずっと主にあって1つ!と書いてあるでしょう。神の名も1つと、未来は認識される。

名とは、実態です。分裂の神ではない!変身、変化する神、

違う教えを時代ごとに宣う神ではない!という意味です。

聖書と真逆な思想、ローマ教、人間の混ぜ物の宗教の教え。

聖書が警告する、偽教師、偽預言者、偽物の教えそのもの。

エハッド性。一体。1つとして繋がっているのです。

神の性質通りに、人は造られているからです。

神がエハッド=一つ以上で全く一つの神である通り、人も全ての人と繋がる一体性で造られています。

だから、アダムとハヴァの罪が、全人類に及んでいるのでしょう。繋がっているからです。

そうではなければ、遠い古代のエデンの園で犯した人の罪が、

自分にまで影響などしません!でも影響しているのが事実。

なぜなら、神が伝える通り1つ、1体=エハッドとヘブライ語で記されているからです。全ての人は、アダムから出てきたからです。28節にもあるでしょう。1つと。

これはヘブライ語でエハッドです。

その聖書、神の創造の性質に平気で反する思想を主張する、

人間、ダービーは、正しい聖書教師などではありません。

彼は弁護士であり、ヘブライ聖書を、パウロのように学ぶ、

そんな教育もされていません。

その人の教えの受け売りをしたのが、弁護士免許を2年目に剥奪された、スコッフィールドであり、たった一人の人が、翻訳聖書を、ダービーの思想を宣伝するために、聖書のページに神の教えに反する思想を書き込んで、聖書として出版してしまったのです。

その教えに、傾倒し、こぞって20世紀のアメリカの牧師、

教師がその思想を買い、それが神学校で教えられてしまったのです。

その悪影響をずっと受けているのです。それは聖書ではない

人間の思想。そしてその大元が、西洋宗教、ローマ皇帝教です。

だから、それらは神の純粋な教え、言葉などではない。

だから、異邦人は最初から、イエシュアが教えた神の教え、トラーを知らないし、教えられてもいない、生きてもいない!ということを知った方が良いです。ある部分を知っているだけです。

その証拠に、異邦人で、パウロのようなトラー学者に、トラーを信じた最初から学び、イエシュアが教えた教え、祝ったモアデイムを祝ってきたなどという異邦人は、一人もいないでしょう。

 

イザヤ52:6 それゆえ、わが民はわが名を知るにいたる。

その日には彼らはこの言葉を語る者がわたしであることを知る。わたしはここにおる」。

52:7 よきおとずれを伝え、平和を告げ、よきおとずれを伝え、

救を告げ、シオンにむかって「あなたの神は王となられた」

と言う者の足は山の上にあって、なんと麗しいことだろう。

52:8 聞けよ、あなたの見張びとは声をあげて、共に喜び歌っている。彼らは目と目と相合わせて、主がシオンに帰られるのを見るからだ。

52:9 エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。

主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ。

52:10 主はその聖なるかいなを、もろもろの国びとの前にあらわされた。地のすべての果は、われわれの神の救を見る。

 52:11 去れよ、去れよ、そこを出て、汚れた物にさわるな。その中を出よ、主の器をになう者よ、おのれを清く保て。

<イザヤも、エゼキエルが警告した、神のトラー、レビ記11、23に記された教えを違反して生きること、汚れた生き方!と言っているのです。汚れた生き方から離れよ!>

56:2 安息日を守って、これを汚さず、その手をおさえて、

悪しき事をせず、このように行う人、これを堅く守る人の子はさいわいである」。

56:3 主に連なっている異邦人は言ってはならない、「主は必ずわたしをその民から分かたれる」と。宦官もまた言ってはならない、「見よ、わたしは枯れ木だ」と。

56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約を堅く守る宦官には、

56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。

<神のモアデイム、その中心がシャバット、それを神が喜ぶとおりを選ぶ人!コンスタンチヌスの教えではなく、創造主が意図した通りを愛して生きる人を、神は愛する!と言っているのです。自分の気持ちや感情が大事なのではない。大事なのは、神が大事であるということを、その通りに受け取り信じて、実際に生きること、それが本当の礼拝、生きること、キリストなのです。>

 

56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――

56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。

<未来、その人は神の家の一番親しい場所に招き入れられる!

と神は招いてくださっています。>

 

ヨハネ4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

<礼拝者とは、神のトラーを、神が意図した通りを生きる人のことです。そうでしょう。神の教えを捨てて、コンスタンチヌス

よその神々の教えが混じったものに同化、迎合して生きる人は

姦淫の罪、よその旦那の要素を混ぜて、イスラエルの神

本当の主人には近づけない!と何度も何度も、神がその混ぜ物の教え、姦淫の罪に対して厳重警告しているのです。>

 
イザヤ58章は、これから来る、大贖罪日、秋の祭りのことを
話しているのです。
神のモアデイムと、トラー=神の教えを捨てる異邦人には、
聖書に書いてある意味が、書いてある通りには見えません。

イザヤ58:1 「大いに呼ばわって声を惜しむな。あなたの声を

ラッパのようにあげ、わが民にそのとがを告げ、ヤコブの家にその罪を告げ示せ。

58:2 彼らは日々わたしを尋ね求め、義を行い、神のおきてを捨てない国民のように、わが道を知ることを喜ぶ。彼らは正しいさばきをわたしに求め、神に近づくことを喜ぶ。

58:12 あなたの子らは久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び、『市街を繕って住むべき所となす者』と呼ぶようになる。58:13 もし安息日にあなたの足をとどめ、わが聖日にあなたの楽しみをなさず、安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、おのが道を行わず、おのが楽しみを
求めず、むなしい言葉を語らないならば、 
58:14 その時あなたは主によって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。これは主の口から語られたものである。
 
異邦人の間で教えられているのは、確実に神の純粋な教え=
トラーではなく、西洋人、異教徒上がりのローマ帝国皇帝が
作った人造宗教の教えです。
神の教えを学ばず、神の教えを生きず、神のモアデイムも知らないまま、祝わないで、代わりに西洋人が作った宗教を教えられ
聖書を利用して、所々神の教えを取り出して、そして異教の神々女神の要素が混じる教え、シンボル、儀式、記念日を代わりに
やらされてしまっていても、それが昇天以降の神の新しい教え!
と信じて疑わない。なぜなら、本物を信じた最初から教えられていないからです。
イザヤ66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを
食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

こんなことしながら、イスラエルの神の前に出られない、神の

家のお茶の間には上がれないのです。

 

神が言われた通り、エデンの園をガードし耕す、その言葉こそ

礼拝と訳されている、アヴォダと言う言葉なのです。

神が言われた通りを、シュモウ、ガードする。

ガードするとは、神が言われた通り、変えない!そして、言われた通りを生きる。これが、生きることはキリスト=トラーを

生きる。トラー=イエシュアそのものだからです。

その理解がないのは、聖書の最初の部分、神の教えの完全版を

異邦人は正しく教えられいないからです。

だから、神の教えを生きていない。神の記念日も祝わない。

神のモアデイムを捨てる行為も、同様に聖別を汚す行為!と

神が警告しているのに、その意味も全く通じない。

代替えしているからOkと思う。その代替えこそ、神が忌み嫌う

隣の旦那の偽物を通して、イスラエルの神をイスラエルが礼拝したことと全く同じ、高き所の礼拝そのものなのです。