事実、真実と、実際、個人個人が認識していることとは、異なることがたくさんあります。
聖書に記されている事、神の言葉で語られる神の人に対する教えは、最初から最後まで同じことが記されています。
これは、異邦人クリスチャンの間では、認識されていない事実です。
異口同音に、昇天以降は古い律法は廃れたと主張し、そう信じていることが証拠です。
しかも、イエシュアが語られた教えは、クリスチャンが言う
まさに「古い廃れた呪いの厳しい律法」だけです。
神の教えに付け足し、差し引き、変形させ別物の教えをなど、
イエシュアも、弟子も、パウロも誰一人していませんし、
そのようなことは、福音書以降に1つも記されてさえいません。
異邦人には、異物の教え、馴染みない教え、イコール、厳しい
律法であると、ローマ帝国皇帝が主張したことを、クリスチャンは復唱し続けているのです。
神は神の教えに対して、どう言われたのか丸無視して、ローマ皇帝の主張をクリスチャンが主張し続けています。
トラーに記された言葉、クリスチャンも復唱しながら、何の内容からその言葉が記されているのか、気がついていないと思います。
申命記30:6 そしてあなたの神、主はあなたの心とあなたの子孫の心に割礼を施し、あなたをして、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主を愛させ、こうしてあなたに命を得させられるであろう。
<神を愛する、イコール、神の命じた教えを生きること!と
創世記から、黙示録まで同じことが記されているのに、神の教えは廃れた!と言う聖書ではない教えを、教えられ続けて、
神を愛する、イコール、神の教えを捨てること、イコールそれが
昇天以降の時代の恵の生き方!などと言う、意味不明な解説を
聖書=神の言葉だと勘違いしているのです。>
30:7 あなたの神、主はまた、あなたを迫害する敵と、あなたを憎む者とに、このもろもろののろいをこうむらせられるであろう。
30:8 しかし、あなたは再び主の声に聞き従い、わたしが、
きょう、あなたに命じるすべての戒めを守るであろう。
30:10 これはあなたが、あなたの神、主の声に聞きしたがい、このトラーの書にしるされた戒めと定めとを守り、心をつくし、精神をつくしてあなたの神、主に帰するからである。
神の教えは厳しく人が生きられないものだから、イエシュアが
十字架で釘付けにして破棄した!と言う、聖書に書いていない
空想の思想とは異なる、神ご自身が神の教えに対して人に話しています。
なぜなら、神が人を創造され、人は神の性質=DNA で綴られて
いるから、神の DNA=言葉=イエシュアの生きた通りを生きるのが、人の本来の自然な生き方であるからと書かれています。
そんなことどこに書かれている?と思うでしょう。
最初から書かれています。神の性質通り、それは神の言葉で
造られた、そして、それが人の性質であること。
そして、ここにある、「近い」と言う言葉は、腹の中の近さ
その人自身の性質であること、私達の性質=DNA=神の言葉
だからです。
30:11 わたしが、きょう、あなたに命じるこの戒めは、むずかしいものではなく、また遠いものでもない。
30:12 これは天にあるのではないから、『だれがわれわれのために天に上り、それをわれわれのところへ持ってきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:13 またこれは海のかなたにあるのではないから、『だれがわれわれのために海を渡って行き、それをわれわれのところへ携えてきて、われわれに聞かせ、行わせるであろうか』と言うに及ばない。
30:14 この言葉はあなたに、はなはだ近くあってあなたの口にあり、またあなたの心=頭脳にあるから、あなたはこれを行うことができる。
クリスチャンの間で語られる西洋宗教の主張とは真逆のことを
神が神ご自身の伝えるトラー=教えに関して神が言われているのに、人が神の言葉をひるがえし、代わりに人間の教を主張し続けているのです。
30:15 見よ、わたしは、きょう、命とさいわい、および死と災をあなたの前に置いた。
30:16 すなわちわたしは、きょう、あなたにあなたの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めと定めと、おきてとを守ることを命じる。それに従うならば、あなたは生きながらえ、その数は多くなるであろう。またあなたの神、主はあなたが行って取る地であなたを祝福されるであろう。
<神は命=神の命じた通りの生き方を選ぶことを、人の前に置いて、それを選択するように教えています。
死=神の教えとは違うことを生きる、神との隔たり、距離を作り
本来の生き方を知らないまま終わってしまうことが記されています。>
聖書とは違うように考える原因は、信じた最初から、聖書に書かれた通りの神の言葉、教えではなく、人間、ローマ帝国、皇帝達が主張した、トラーを破棄せよ!と言う勅令を土台に、ローマにより作られた人造宗教の教え、教理を代々教えられ続けているからです。
だから、西洋宗教の教え、実践、伝統、記念日、儀式が
聖書に書かれているものとは違う、聖書に書かれたものを
作り替えた別物をやっているのです。
不思議に思った方が良いのです。神は神が教えた、命じたこととは違う教えや、神の記念日を汚し、忘れ、捨て、人間の作った
別物を祝うことが良い!それが今の時代の生き方!などと
教えてません。それらの行為を、断然拒絶、禁じています。
神はそれを認証、許可していないどころか、神の教えを一点一画も人間が手を付け、作り替えることを厳重警告しています。
でも、神の教えを捨てる人は、神の警告も、罪の定義も、聖別の
定義も塗り替えていますから、何を神に教えられ、警告されているのか、全く通じなくなっている状態なのです。
聖書に記された神が伝える永遠の真実とは異なることを、
イエシュアを信じる人の口から、世界へ偽情報が伝えられ続けて
しまっているのです。
でも、異邦人の世界に伝えられた教えは、純粋な聖書、神の言葉
教えは正しく伝わらず、ローマ帝国が塗り替えた人間が作った
宗教の教えが伝えられてしまいました。
2000年前に突然、新しい教え、救い主により購い、許し、
救い、祝福、聖霊が内側に住うことが始まったという、聖書とは違うことを考えているから、聖書に書かれている事実が見えなくなってしまっているのです。
聖書が分断されているもの、最初の75%と最後の25%とは
違う教えが記されていると思い込んでいるのは、聖書特に
最初の部分を正しく学んでいない、書いていある通りに把握し
理解していないことが、そのような誤解をしている本当の原因なのです。
それは、異邦人の世界では聖書ではなく、人間の思想、ローマ帝国が作った人間の宗教を教えられて、預言者、イエシュアや
使徒、パウロ達のように、ヘブライ聖書を学ばないという道のりを辿ったからです。
聖書の前後違う教えが書いてあるという仮説思想を土台として聖書を読んでみれば、矛盾だらけになります。
神が宣言していることと、人が主張していることが、真っ向から
敵対し合い、相反するからです。
永遠に変わらない!廃らない!と神が言うのに、クリスチャンが歴史の途中で変わる!廃る!と真逆を言い続ける、この矛盾に
気がつけないのです。
人間の書を読んでいて、又は契約を結んだ後、その中には変更なしとあるのに、途中で変更されたとされたら、クレーム、異議申し立てしませんか?
どうして、その事実が普通に全く通じないのか!それは、人間の教えで真実が覆い隠されているから、歴史の中で666、ローマ帝国が神の教えを塗り替えて別の宗教を作ったからと言うことを
調べれば分かるのに、調べないから分からない。
いや、異邦人がこぞって聖書ではない教えを、ローマ帝国から
2世紀以降、教え続けられて継承しているから、こんな簡単な
聖書に証拠として神の言葉で記されている永遠の事実、神の性質と神の言葉は変わらない!と聖書に書いてあることが通じない
理解できないまま、酷く矛盾だらけな解説をしているのです。
クリスチャンの世界で強調されているゴールは、救い主に出会うとか、天国行きのチケットを獲得すると言う点だと思います。
天国地獄など、異邦人文化で考えているものと、聖書に書かれているものでは、異なるものです。
メシアに出会う、それは始まりですが、大事なのその後なのです。道=イエシュアと本当に関係を育む道に立たないとならない。
メシアに出会う、神のもとに戻ることは、エデンの園の最初から同じ、どの人種もどの時代も同じです。
糸の切れた凧のように彷徨っていたのを、創造主にしっかり繋がれることだからです。
しかし大事なのは、本来の性質を取り戻された人は、イエシュア=神の性質通りを生きることを再所有し生きることです。
そうしなければ、結局、破壊されてしまうからです。
本来の生き方を知らないまま、何も変わらないままになるからです。御霊の実とは、神の教えに根付いて生きない限り実らない
ものだからです。
モーセがどうして、神が伝える通りを、その通りに反映することを忠実にしなければならなかったのか。神がモーセに伝える
事実通りを反映させる、伝えて生きると言う大きな役割を
代表者として与えられました。
ミシュカンを地上に作るように、モーセは神から託されました。
ミシュカン、神の臨在がある場所、天に実在する神の家=神殿
そっくりその通りのレプリカを地上に作りなさいと言われました。
目に見えない神、神の家、神の家に住う人がどう生きて
どのように神に近づくのか、イエシュアの救い、購い、そして
人がどのように修復するのか、カウンセリングの全てを神の家の
中で、五感を通して、イエシュアご自身を教えるために、作ったのです。
本体と影は、見えるか見えないかの違いだけで、同じ性質なのです。クリスチャンの世界では、影=劣る、消えると教えられていますが、ヘブライ聖書、ヘブライ人の理解は全く違うものです。
本体が消えたら、影も消えます。でも本体があれば、影はそっくりそのままの行動を映し出すのは、自分の影でも分かることです。
それを、本体=目に見えない天の現実、影=地上で人々がイエシュアの性質通りを生きて反映することを教えているのです。
神の言われる通り、そっくりそのままという意味は、神が伝えることとは違うことをすれば、それは神の実態を正確に地上に映し出して表す生き方をしていませんということなのです。
影が本体から離れて勝手に行動する、発言、主張する、
それを人間が作った宗教がやり続けているのです。
イエシュアの性質、栄光をそっくりそのまま反映せず、別物を
地上に映し出し、他者へ聖書に記されていないローマ化けした
偽物メシアを伝えてしまっているのです。
偽物のメシア=時代ごとに性質が変わる、時代ごと、人種ごとに教え、契約、約束、保証を変える神!?
そんな神は、聖書には書かれている神などではありません。
それぞれが勝手に言って、勝手にやっている、無法=神の教え
無しを生きる人、神の婚姻契約に記された生き方を無視して、
それぞれ勝手な教えを編み出して、偽物の影を反映させる人は、「わたしとは関係ない」、それらはイエシュアの実態、本体、
本物ではない!とイエシュアも言っているでしょう。
だから、神の言っている言葉の意味に気がついた人は、偽物から
離れて、本物に戻るのです。分からないから、偽物=人間の作り物の宗教の教え、伝統、儀式、記念日をガードし生きて
偽物の影を反映させている。
完全に別物ならば、それは見分けやすいし、分かりやすい。
でも混ぜ物、まがい物、コピー品だから、本物らしく見えても
中身、実態、実質、本質が違うから、縛られてしまうのです。
別の影を地上で反映させ、イエシュアを正確に反映できないものをやっているのです。
生温いと言われとヨハナンが言ったのが、それです。
偶像礼拝、高き所の礼拝、姦淫の罪、バビロン、龍、獣の刻印と様々な言葉で同じ意味が語られているのが、それです。
モーセが人の前で、神の言葉を退けることをしました。
それを宗教の教えがやっているのです。神の前に絶対に やってはならない、No No なのです。
クリスチャンの世界に伝えられた教えは、聖書ではない
ローマ帝国皇帝が神の言葉、トラーを否定した教えが混ざっているコピーの教えです。
昇天以降は、人間が主体となり、人間の判断で、神の教えを変えたり、神の記念日を別の日に変えて違うものにして良い!
などと神が言うわけありません。言っていません!そんな神は、それこそ聖書に書かれていない偽物、嘘つき、偽り物の神です。人間の判断でなんでも良いと神が言うなどと考えるのは、
トラーを知らない、トラーに記されたイスラエルの神を知らない異邦人だからです。
続く