同じ契約が歴史の中で何度も再更新し続けられている 申命記 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

一昨日のトラー箇所は、約束の地に入る前の神の教えの再確認をしている申命記です。

一年サイクルのトラー朗読では、1年でトラー=モーセの五書を

満遍なく読みます。

シャバットごとに、トラーの箇所が区切られており、それに関連する預言書、諸書なども同時に読みます。

 

イエシュアが地上におられた時、シャバットで、メシア、ご自分の事が記された箇所、イザヤ書を読まれたことが記されています。

 ルカ4:16 それからお育ちになったナザレに行き、安息日いつものように会堂にはいり、聖書を朗読しようとして立たれた。

 

<聖書に書いてあることを、曲げないで読んでみることが必要です。聖書と聖書に書かれている全ては、トラー、預言書、諸書のみです!イエシュア昇天以降も、聖書に登場する聖書とは、トラー、預言書、諸書のみです!なぜなら、福音書以降は使徒の書簡であり、預言者が書いたものではない、トラー、預言書、諸書

を塗り替える別の教えや、シナイ山の契約書とは異なる、

別の契約書でもない。

そして、それらは1世紀の間、まだ記されている途中であり、

特定の人に当てられた手紙は特定の人が読み、一般には読まれない、知られないものでした。

福音書以降が、聖書として認定されたのは、4-5世紀です。

使徒の手紙は特定の群れに当てられた手紙であり、その群れに

起きていた諸問題にパウロが、トラーの教えを土台に、トラーの知恵を用いて回答している手紙なのです。

パウロの手紙は、別の聖書ではありません!!!手紙です。

トラー=神の教えを人間が塗り替える様なこと、神の言葉を否定することなど、破棄することなど、パウロは1つも書いていません。

使徒21:21ー24にそのことが証明されているでしょう。

パウロは全て、トラーに基づく解説をしているだけです!

パウロが、神の教え、トラーを塗り替えた教えをしていると

クリスチャンは疑いもなく、その様な偽情報を信じていますが、

率直に言って、パウロの書簡を正しく読んでいないからです。

その原因は、聖書に記された神の教え=トラーを正しく学んでいないから、西洋宗教という人間が作った思想で、神の言葉の方を

人間が勝手に様々に曲げた思想を、聖書だと勘違いしていることが大問題の根であることを知らないとならないのです。

 

福音書以降は、神の教えとは違う、別物、新しい教えなど1つも書かれていません。

福音書以降の使徒の書簡は、聖書の最初の部分に記されたものとは性質が違うからです。

性質とは、聖書=霊感により記された書ですが、最初の部分

トラー、預言書、諸書、神の教えをを塗り替える新しい別の教えや、新しい契約書ではないと言う意味です。

福音書〜黙示録に書かれている安息日は、最初の箇所、

トラー、預言書、諸書と同じ、第七日目。それ以外の日は

神の記念日、シャバットとして記されていません。

 

ルカ4:17 すると預言者イザヤの書が手渡されたので、

その書を開いて、こう書いてある所を出された、

 

この様な箇所を、スラッと異邦人が読んでも、書かれていることの全貌、内容を正しくは伝わりません。

ここだけ読むと、たまたまシャバットに、プラっ〜と、イエシュアが会堂に来て立ち寄り、イエシュアの思いつきで入り、ご自分のことが預言されている箇所を偶然開いて読んだと考えるでしょう。

しかも、クリスチャンはシャバットと書いてあるのに、それが

日曜礼拝だと、ローマ帝国が作った記念日を想像して聖書に書いてないことにすり替えて読んでしまっているのです。

ユダヤ人の世界を知る人なら、この箇所はどう言う背景なのか

書いてある通りに理解できます。

 

1)シャバットで会堂に行き、トラー朗読を聞く。

会堂に行くのが、神の仰せだからではなく、そこに行けばトラー朗読が聞けるから行く慣しがあったのです。

今でもユダヤ人の正統派の人々や他の人も、それぞれの会堂で

トラー朗読をし、シャバットを共に祝うことをしています。

一般の家には、普通個人でトラーの巻を所有していない。

これは、巻物は高価で個人が所有できるものではないからです。

コミュニテイの中で、巻物を所有しているから、近所の会堂に

行ってそれが朗読されるのを聞く。

暗記したまま、その箇所を空で言える長老がいれば、

それを家庭で聞くこともできる。

エルサレムに住んでいる人ならば、神殿に行ける。

でも神の家、神殿はエルサレムにしか作ってはならないから、

地方にはない別の神殿はありません。

でも、地方に住んでいる人でも、同じ様に神のトラー、預言書などを読めて聞けて、そして、他の人たちと、エルサレムの神殿と同じ様に、祈りと交わりの場所が欲しいと考え、それで賢人たちが地方にも会堂を作ったのです。自分の街囲みの中に作ったのです。町内会の集まりができる場所の様なものです。

そして会堂では、トラー、預言書などの巻物が保存されているので、シャバットごとに、そのシャバットの計画された割り当てられた箇所のトラーの箇所、そしてトラーの箇所に関連する

預言書、諸書を読むのです。

一年に渡り、又は三年に渡り、トラー朗読の箇所は、今も決まっています。シャバットで、新月、祭りの時、世界中で同じ箇所が読まれ、学ばれるのです。

そして、トラー、預言書の箇所を読む当番も、あらかじめ決まっているのです。クリスチャンの世界にもあるでしょう。

担当、当番がいる。

だから、偶然イエシュアが生まれ故郷のナザレで、町囲みの中にある会堂にふらっと立ち寄り、勝手に預言書、イザヤ書の箇所を選んで、取り出して読んだのではないことは、ユダヤ人の世界を知る人なら読むだけで説明なくても理解できるのです。

偶然に勝手に、このシャバットの日に、イザヤ61章をイエシュアが読んだのではない。

計画された通り、しかも朗読当番にイエシュアが担当されていた時、偶然ではなくご自分のことが預言された箇所を読んだと言うのがこのルカ4章なのです。そして、それが神の計画でもあったのです。

 

ルカ4:18 「主の御霊がわたしに宿っている。貧しい人々に福音を宣べ伝えさせるために、わたしを聖別してくださったからである。主はわたしをつかわして、囚人が解放され、盲人の目が開かれることを告げ知らせ、打ちひしがれている者に自由を得させ、

4:19 主のめぐみの年を告げ知らせるのである」。

4:20 イエスは聖書を巻いて係りの者に返し、席に着かれると、会堂にいるみんなの者の目がイエスに注がれた。

4:21 そこでイエスは、「この聖句は、あなたがたが耳にしたこの日に成就した」と説きはじめられた。

 

イエシュアが朗読した箇所はイザヤ書、61章です。

 

イザヤ 61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ縛られている者に解放を告げ、

61:2 主の恵みの年とわれわれの神の報復の日とを告げさせ、

また、すべての悲しむ者を慰め

 

福音書以降は、全て、トラー、預言書を指して語っているものであり、神の教え以外の別物の思想など、聖書記者は誰一人として

語ってなどいません。

イエシュアはご自分を「メシア」と言う言葉では語らなくても

他の様々な言葉で、ご自分がメシアであることを伝えられたことが記録されています。これも、その一つです。

 

聖書=神の言葉、教えは、ローマ帝国教が語る様に、分断されたり、変化されるものではありません。

神の性質通り、エハッド。複数でも完全に1体であり、永遠不変

福音書以降に記されている記録は、トラー、預言書、諸書の

短い短い最後の註解、解説の役割であり、最初の部分を塗り替える、又差し引き、付け足しする教えなど、最後の25%の註解

箇所である福音書〜黙示録には記されていません。

空想、人の思想〜神の言葉が変化すると言う間違った教えの

思想を通して、永遠不変である神の言葉=聖書を読み込みしてしまっているのです。

約束の地に入る前に、神の契約=神の子らが生きる生き方に関しての契約が更新されました。それが、申命記です。

その中には、荒野で生活していた時にはなかった教えが、記されています。

荒野では、移動生活であり定住ではなかったので、農作物を育てる様なことはありませんでした。

だから、7年毎のシュミタ年に、畑を休ませると言う教えは

荒野の移動生活ではありませんでしたが、約束の地に入った後は

これをすると言う教えが神から伝えられました。

この7年目のシュミタ年は、回復、修復、復元、元に戻ると言う

ことを教えているものであり、7年を7回繰り返すヨベルの年も

同じです。これは未来に元どおりの神の創造された世界がこの地

に戻ることを教えているものでもあるのです。

そして、仮庵の祭り、未来預言的祭りでも、それが教えられているのです。

イエシュアが戻られたら、全てが元の所有者の手に戻り、全てが元のデザイン通りの状態姿、生き方に戻る!

 

申命記自体が、契約書であり、神の子らが地上で神が選ばれた

場所、イスラエルという国で、神の伝える通りのイエシュアの

似姿の生き方をする内容の詳細が書かれている契約書です。

 

4章は、特に神の教えの教理、基礎的な認識、理解などを

教えている重要な箇所です。

 

1)4:1神の仰せ、教えに付け足してはならない 差し引いてはならないとあります。

これは、イエシュアも同様に父の教えを人々に警告し、何度も

このことに関して、厳重警告していますが、クリスチャンの間で教えられていることは、ローマ帝国皇帝創作の神の仰せを真っ向から違反する教え、神の教えを人間が破棄した教えが土台とした宗教の教えです。

この警告は、クリスチャンの中では、十字架で神の教え=トラー律法が釘付けされ葬られ、破棄されたなどという、聖書に書いてもない偽物の教えに変えられているので、神の伝える警告が全く通じていません。

その根拠としているのは、結局パウロの手紙に記された内容を

正しく理解もできないまま、勝手な間違った読み込みをしているせいなのです。パウロは、100%トラーに忠実に生きている

教えている!自分で言っているでしょう。

ローマ教の教えに照らし合わせると、全部辻褄が合わなくなります。

偽の教えを根拠とすることを、今もやり続け、律法=神の教えは廃れた〜今は恵の下にいる!という、パウロが言っている意味を全く理解しない人々に間違った聖書解説だけを教えられて、とんでもない発言と行動をし続けているのに気がついていません。

 

2)4:5−8 この箇所は、イスラエルが近隣国の人達に対する

重要な証人であること、証人とは、神のトラーを実践し生きて

証する役割を与えられていることが記されています。

イスラエルは、全世界に対してのお手本、皆が注目する民族とされたのです。だから、世界がイスラエルを毛嫌いする理由は、

彼らが何かするからではなく、彼らが神の選びの民という存在である、存在自体がうざい、いやなのです。

サタンがイスラエルの神と、イスラエルという神の仰せを生きることをする存在、神を証明してしまう存在だからなのです。

サタンは、イスラエルを抹消したい。イスラエルが生存している

イコール、イスラエルの神が真実であり現実であることを、

証明してしまうことだからです。

イエシュアはユダ族のメシアであり、トラーを天の解釈、

神が意図する通りに教え、生きた人であり、神なのです。

そのメシアが、もしこのトラー=婚姻契約を破る様に人に教え

生きたら、その時点でトラー、預言書に記されたメシアではない

証明になってしまう事実に注目してください。

聖書=神の言葉に基づき、正しく考えてください。

 

3)4:9−31 偶像礼拝から自分を守ること

4)出エジプトとシナイ山での歴史的体験を通しても、神の教えを生きることに忠実であること。

 

申命記4:1 イスラエルよ、いま、わたしがあなたがたに教える

定めと、おきてとを聞いて、これを行いなさい。そうすれば、

あなたがたは生きることができ、あなたがたの先祖の神、主が

賜わる地にはいって、それを自分のものとすることができよう。

4:2 わたしがあなたがたに命じる言葉に付け加えてはならない。また減らしてはならない。わたしが命じるあなたがたの神、

主の命令を守ることのできるためである。

 

守るという言葉が、神により伝えられていますが、

この言葉は、単に神の仰せを守るだけでなく、神が言われた

仰せ=言葉自体を曲げない、変えないでそのまま保存、ガード、守ることをするという意味なのです。

詰まり、ギリシャ、ローマ帝国が行った罪、神の言葉、教えに

付け足し、差し引きする様なことをしない!してはならない!

ということを、神が何度も厳重警告しているのです。

ローマ帝国が神に敵対することをしたこと、666、

それが黙示録にずっと書かれています。

いくつかの重要な真理が示されています。

続く