聖書にはローマ帝国が作った宗教の教えは1つも記されていない | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

福音書以降を読んでも分かる通り、その中には変えられた神の

教えや、日曜礼拝や、クリスマス、イースター祭りのことなど

1つも書かれていません。その理由は、異邦人の間で浸透した

教えや教理は聖書ではなく、ローマ帝国が作った宗教であり、

これは、聖書が閉じられた後の4世紀の人間由来の思想だからです。聖書にない教えを、神が言ってもいないことを、

どうして信じてやっているの?しかも、神の教えを、神が禁じているのに、どうして捨てて良いなどと信じているの?と

考えたら良いのです。嘘を本当と信じているなどと、考えないのが普通でしょう。

 

聖書ではない教えを、クリスチャンの間ではされてしまっているのは、歴史の中で起きた「エデンの園の再現事件」サタンの

ささやきを、クリスチャン=人間が代弁し続けているからです。

人間が、神の言葉を塗り替える死に匹敵する大罪をし続けているという危険を、知る権利があります。

聖書を、神の言葉を、正しく教えられていないから、聖書に書いてないことを信じているのです。

蛇の巧みさ、ずる賢さは、神の言葉が呪いであり、神の教えから距離を置かせて、遠ざけさせているのです。神がその呪いから

開放するためにも、イエシュアが来られた!という大嘘を堂々と教師の口から語らせて、それをクリスチャンに言わせている事です。神に敵対する事、神の教えは終了して恵、聖霊時代が到来?

そんなこと、聖書のどこに書いてありますか?

人間の漫画のストーリーみたいです。フィクション。

ファンタジーストーリー、聖書にない教えを信じている。

しかも、神=言葉=聖霊=イエシュアと書いてある意味を

教師が全く理解しないまま、神の言葉に敵対することこそが

恵の時代の正義!などという、大嘘、大冒涜を言い続けているのです。神の言葉に対する無知そのものです。

本物ではない偽物=人間の教えに騙されている代償です。盲目。

神の前にいずれ全部却下、退かれる偽物の教えを、今堂々と

し続けて、信じている続けているのです。

人間が神の言葉を塗り替えたもの、それが西洋宗教が出来た

本当の由来です。コンスタンチヌス皇帝が、ローマ帝国を自分の思う通りに統治するために作った「偽物宗教」それが

西洋宗教、ユニバーサル教、その思想を土台とした同じ宗教

キリスト教、プロテスタントなのです。

神は神が宣言された通り、神ご自身が神の教えなど変えません!

 

神が神の記念日を自由に人間が変えて、今はいつでも安息日として良いなどと言ってもいません。そんなことを言う神ならば、

それは聖書に書かれたイスラエルの神ではありません!

神は、人がシャバットや神の聖別を汚す行為をどれ程忌み嫌い

厳重に禁じていると言っているのか、クリスチャンには通じていません。

666、大淫婦、獣の刻印、龍そのものがその行為を指している事、聖書を読んでも、全く気がついていないでしょう。

 

神は変化しにない、ご自身の性質と言葉を偽れない神と人に

伝え、神の性質、言葉は変化しないとはっきり宣言しているのです。

安息日は永遠に第七日目であり、新月、過越、仮庵の祭りも

イエシュアが再び来られたら全世界中がイスラエルの神の記念日

を永遠に祝う時代がもうすぐ始まるのです。

 

今は人間が作った「まがい物の教え=人造宗教」がクリスチャンの間で浸透してしまったから、それが聖書であると勘違いされて信奉されていますが、イエシュアが到来したら、日曜礼拝、

クリスマス、イースター、トラーを否定した教えを教える教師も一切いなくなる、なくなるのです。

神の教えの真実だけが、世界を覆う日が来るからです。

なぜなら、エレミヤ31:31、イエシュアが過越の祭りの

最後の晩餐でされた同じ契約の再更新は、中身は変わらない神の同じ契約=シナイ山で与えられた同じ契約の再更新だからです。

偽物の教えを売る商人は、神の家=神殿からいなくなると預言されているからです。神の家の一番親しい場所、祭壇、お茶の間にシャバット、新月、神のトラーを愛して生きる異邦人も招かれると預言されているのです。

イエシュアが再び地上に戻られるまで、過越の晩餐のワイン

購いの杯を、その時に再び飲むからと言われた意味など、

クリスチャンには通じていないのです。

聖餐式というカトリックが、過越でイエシュアがされていた

晩餐の儀式をすり替えたものなども、されなくなるからです。

 

過越の晩餐でされていた儀式は、当時のパリサイ派の流儀で

行われていた過越の晩餐の祝いなのです。

イエシュアがされていることは、勝手に編み出してやっているものではなく、過越の晩餐の祝い、代々行われていた祭りの祝い方で祝っているのです。

1コリント5章、11章でパウロが教えているのは、聖餐式ではなく、この過越の祭りのセダルという名のついた晩餐の醍醐味

過越の祭りの祝い方を、コリントのユダヤ人中心の群れに

書いているものなのです。

 

第一に、聖餐式というのは、ローマ・カトリックが、過越の晩餐の儀式を別物に作り変え、過越ではない人間が作った礼拝日

日曜に変更してやっている別物!種無しパンでもなければ、

イエシュアの仰せである過越の祭りも祝わないで、別の日に別物を通してやっているものという、正しい位置、事実に戻して考えれば、人間が変え続けている神の教え、儀式が何か見えてきます。

クリスチャンは、メシアを信じてさえいれば、あとは何でも良いと考えています。別の日に別のこと、何をやろうと、別の教えをしようと、あまり関係ない!人にメシアを伝えられさえすれば

後は何でも良いと考えるのは、それは神の教えを、正しく理解していないからです。神は逆を教えています。

神の言葉に軽々しく塗り替える違反をする行為、断固として

拒絶、厳重警戒、注意をしています。 神の言葉にたいする

遺伝子組み換えと同じことを異邦人がしているのです。

 

マルコ14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、

「取れ、これはわたしのからだである」。

14:23 また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、

一同はその杯から飲んだ。

14:24 イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。

14:25 あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを

飲むことをしない」。

 

ルカ2:1 さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。

 
使徒20:6 わたしたちは、除酵祭が終ったのちに、ピリピから
出帆し、五日かかってトロアスに到着して、彼らと落ち合い、
そこに七日間滞在した。
 
<過越とパン種祭りは、相互的に同義語、同じ意味で使われる
言葉です。
過越の祭りが始まる前から、パン種除去をし、そして過越の
祭りの初日から7日間が、除酵祭と訳されているマッツア=
種無しパンを食べる祭りだからです。
過越を祝うと言う意味は、レビ記23章の神の記念日、聖別された日を、シャバットを中心に全て祝っている証拠でもあるのです。クリスチャンの間では、使徒20章がシャバットが日曜礼拝に変えられた証拠の箇所などととんでもない空想話をしていますが、聖書に書いてある意味さえ理解しないなら、何が書かれているのか理解できないままになるのは当然です。>
 

ルカ22:14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。

22:15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。

22:16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。

<イエシュアが地上に戻られ、神の国、天と地が1つになった

時に、再びイエシュアはエルサレムでこの過越を祝うという

預言です。>

22:17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、

互に分けて飲め。

22:18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。

22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、

あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約で

ある。

 
神の教えを、西洋宗教は様々に変形させています。変化させると同時に、聖書にない教えをたくさん編み出し続けています。
LGBT容認、同性婚祝福もその1つです。似て非なる別物の教え
十一献金の呪縛の教えもその1つですが本当に人を縛ります。
その前に2つ問題があると思います。
1つは、牧師や教師、キリスト教という宗教団体を運営する人が
キリスト教という宗教が人造であることを知らないことです。
神由来の昇天以降の新しい教え、キリスト教であると勘違いしていることです。
そして、神は人間が作った宗教団体に参加する、加わることなど
教えていません。
では神は何を教えているのでしょうか?
神の教えた通りを、神が伝えた通りに生きること。
その実際を、イエシュアが地上でされて、人に教えられたのです。イエシュアはトラーを教え、トラーをどう生きるのか教えたのに、クリスチャンは、イエシュアが生きたから、クリスチャンはもう神の教えを生きなくて良いなどという蛇の嘘を吹聴しています。
無知なのです。神の言葉に対する正しい教育、教えがされず
人間が編み出した思想を、聖書と勘違いし続けている!
それが世界に伝わり、2000年近くもコンスタンチヌス皇帝が
言い出した偽物を伝え続けているのです。偽物!混ぜ物!
生ぬるいから吐き出そう!と書いてあるそのものずばりです。
 
人は、神が伝えた通りを生きるように教えられているだけです。
シャバット、第七日目に家庭で、家族や友人、親戚と集まり
シャバットを聖別して祝う。これは晩餐で盛大に祝います。
このシャバットや、新月、祭りのために、人が祝い、神の前で
神がどんなに良いお方か、歓び、楽しむことを通して知るために特別にお金を取り分けておくこと、そして特別な御馳走や普段
めない良いお酒を買い祝うことを、神が教えているのです。
 
神がどんなに良いお方なのか、神の前で神の聖別された日に
祝宴をして歓び楽しんで!これが神の仰せであり、十一献金は
人間が作った宗教団体に捧げるものではない、そんなこと聖書には1つも書いてありません!
学校でも、スポーツでも、塾でも又は異教の神々の宗教だろうと、何かの団体をその発起人が運営したければ、その資金が必要だということであり、それらを運営するのは、神の教えではありません。やりたい人が勝手に企業し、運営すれば良い話です。
そして、どの団体でも、もし誰かを雇い、労働させるならば、
報酬を払うのは当然です。
逆もあります。あるキリスト教の牧師が、その群れに集う信者を
自分の所有物のように考えて、無料労働させているというのをしょっちゅう耳にする、何度も聞きます。
つまり、信徒を無料の労働力として、無料で働かせることをするのです。
それは、牧師の家の芝刈りやら、買い物やら、雑用、普通の労働から、又は新しい人を連れてくる伝道活動をすること、色々あると思いますが、この思考回路もずれています。
互いに助け合うのは良いことですが、ある時間を日々、個人を
拘束して、その人を無料で働かせる、これよく聞きます。
こんなことしては、人が人に対してしてはならないし、させてもなりません。
海外の日本人の教会で、ノルマが課せられて新しい人を連れてくるというを聞いたことがあります。子供が日曜日にサッカーの
試合があるのに、子供を試合に送り、自分は教会活動に戻る
この矛盾に耐えられず、そのグループから抜けた人の悲しい証言を聞きました。しかも、海外派遣された伝道者は、企業の売り上げと同じで、成果、結果が出ないと成績に響くから、信徒に
伝道活動させるのです。
後は、セルグループと言って結局、群れの中で牧師の悪口をいう人を牧師が偵察せて逐一報告させるというのも聞きましたが、
病的。要するにスパイです。
狭い社会、日本人社会、海外生活の落とし穴です。
逃げ場がない。まあこういう逸脱した人ばかりではありません
殆どの人が主を愛していると思っているのです。
でもローマ皇帝=人間が編み出した宗教の教え自体が、
イスラエルの神=イエシュアに属さないものなのです。
神の教えを理解しない人は、これが神に仕えることなどと
勘違いしているだけです。これ、本当に見分けがつきません。
信じた直後から、イエス様を伝えましょうから始まるからです。
自分がどう生きたら良いのか、知らないのに、宗教活動をさせる
それが普通でしょう。
宗教活動するならば、普通に社会に出て職場で働いた方がよっぽど自分と他者のためです。
何をしていても、神の教えに根付いて、イエシュアが生きたように生きていれば良い。宗教活動なんて人間の編み出した活動などやる必要ない。生きること、キリスト。
人が喜んで生きて、そして神の教えに根付いて生きて、
シャバット、祭りを楽しんで祝っていたら、必ず向こうから聞いてきます。「何を信じているの?」と。これ本当です。
興味津々で、イエシュアを信じない友人たちが、シャバットで
色々見聞きしたことを他の人に伝えているのです。
何より、聖書を正しく教えられなくてはならないのです。
口先でペラペラペラペラ、人を捕まえては、その相手と
親しい関係もないまま、一方的押し付けで軽々しくメシアを語る方が、よっぽど軽い、軽薄な思慮に欠けた非常識な行為とみなされます。自分勝手な行動は、相手に嫌がられます。