福音書以降を読んでも分かる通り、その中には変えられた神の
教えや、日曜礼拝や、クリスマス、イースター祭りのことなど
1つも書かれていません。その理由は、異邦人の間で浸透した
教えや教理は聖書ではなく、ローマ帝国が作った宗教であり、
これは、聖書が閉じられた後の4世紀の人間由来の思想だからです。聖書にない教えを、神が言ってもいないことを、
どうして信じてやっているの?しかも、神の教えを、神が禁じているのに、どうして捨てて良いなどと信じているの?と
考えたら良いのです。嘘を本当と信じているなどと、考えないのが普通でしょう。
聖書ではない教えを、クリスチャンの間ではされてしまっているのは、歴史の中で起きた「エデンの園の再現事件」サタンの
ささやきを、クリスチャン=人間が代弁し続けているからです。
人間が、神の言葉を塗り替える死に匹敵する大罪をし続けているという危険を、知る権利があります。
聖書を、神の言葉を、正しく教えられていないから、聖書に書いてないことを信じているのです。
蛇の巧みさ、ずる賢さは、神の言葉が呪いであり、神の教えから距離を置かせて、遠ざけさせているのです。神がその呪いから
開放するためにも、イエシュアが来られた!という大嘘を堂々と教師の口から語らせて、それをクリスチャンに言わせている事です。神に敵対する事、神の教えは終了して恵、聖霊時代が到来?
そんなこと、聖書のどこに書いてありますか?
人間の漫画のストーリーみたいです。フィクション。
ファンタジーストーリー、聖書にない教えを信じている。
しかも、神=言葉=聖霊=イエシュアと書いてある意味を
教師が全く理解しないまま、神の言葉に敵対することこそが
恵の時代の正義!などという、大嘘、大冒涜を言い続けているのです。神の言葉に対する無知そのものです。
本物ではない偽物=人間の教えに騙されている代償です。盲目。
神の前にいずれ全部却下、退かれる偽物の教えを、今堂々と
し続けて、信じている続けているのです。
人間が神の言葉を塗り替えたもの、それが西洋宗教が出来た
本当の由来です。コンスタンチヌス皇帝が、ローマ帝国を自分の思う通りに統治するために作った「偽物宗教」それが
西洋宗教、ユニバーサル教、その思想を土台とした同じ宗教
キリスト教、プロテスタントなのです。
神は神が宣言された通り、神ご自身が神の教えなど変えません!
神が神の記念日を自由に人間が変えて、今はいつでも安息日として良いなどと言ってもいません。そんなことを言う神ならば、
それは聖書に書かれたイスラエルの神ではありません!
神は、人がシャバットや神の聖別を汚す行為をどれ程忌み嫌い
厳重に禁じていると言っているのか、クリスチャンには通じていません。
666、大淫婦、獣の刻印、龍そのものがその行為を指している事、聖書を読んでも、全く気がついていないでしょう。
神は変化しにない、ご自身の性質と言葉を偽れない神と人に
伝え、神の性質、言葉は変化しないとはっきり宣言しているのです。
安息日は永遠に第七日目であり、新月、過越、仮庵の祭りも
イエシュアが再び来られたら全世界中がイスラエルの神の記念日
を永遠に祝う時代がもうすぐ始まるのです。
今は人間が作った「まがい物の教え=人造宗教」がクリスチャンの間で浸透してしまったから、それが聖書であると勘違いされて信奉されていますが、イエシュアが到来したら、日曜礼拝、
クリスマス、イースター、トラーを否定した教えを教える教師も一切いなくなる、なくなるのです。
神の教えの真実だけが、世界を覆う日が来るからです。
なぜなら、エレミヤ31:31、イエシュアが過越の祭りの
最後の晩餐でされた同じ契約の再更新は、中身は変わらない神の同じ契約=シナイ山で与えられた同じ契約の再更新だからです。
偽物の教えを売る商人は、神の家=神殿からいなくなると預言されているからです。神の家の一番親しい場所、祭壇、お茶の間にシャバット、新月、神のトラーを愛して生きる異邦人も招かれると預言されているのです。
イエシュアが再び地上に戻られるまで、過越の晩餐のワイン
購いの杯を、その時に再び飲むからと言われた意味など、
クリスチャンには通じていないのです。
聖餐式というカトリックが、過越でイエシュアがされていた
晩餐の儀式をすり替えたものなども、されなくなるからです。
過越の晩餐でされていた儀式は、当時のパリサイ派の流儀で
行われていた過越の晩餐の祝いなのです。
イエシュアがされていることは、勝手に編み出してやっているものではなく、過越の晩餐の祝い、代々行われていた祭りの祝い方で祝っているのです。
1コリント5章、11章でパウロが教えているのは、聖餐式ではなく、この過越の祭りのセダルという名のついた晩餐の醍醐味
過越の祭りの祝い方を、コリントのユダヤ人中心の群れに
書いているものなのです。
第一に、聖餐式というのは、ローマ・カトリックが、過越の晩餐の儀式を別物に作り変え、過越ではない人間が作った礼拝日
日曜に変更してやっている別物!種無しパンでもなければ、
イエシュアの仰せである過越の祭りも祝わないで、別の日に別物を通してやっているものという、正しい位置、事実に戻して考えれば、人間が変え続けている神の教え、儀式が何か見えてきます。
クリスチャンは、メシアを信じてさえいれば、あとは何でも良いと考えています。別の日に別のこと、何をやろうと、別の教えをしようと、あまり関係ない!人にメシアを伝えられさえすれば
後は何でも良いと考えるのは、それは神の教えを、正しく理解していないからです。神は逆を教えています。
神の言葉に軽々しく塗り替える違反をする行為、断固として
拒絶、厳重警戒、注意をしています。 神の言葉にたいする
遺伝子組み換えと同じことを異邦人がしているのです。
マルコ14:22 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、
「取れ、これはわたしのからだである」。
14:23 また杯を取り、感謝して彼らに与えられると、
一同はその杯から飲んだ。
14:24 イエスはまた言われた、「これは、多くの人のために流すわたしの契約の血である。
14:25 あなたがたによく言っておく。神の国で新しく飲むその日までは、わたしは決して二度と、ぶどうの実から造ったものを
飲むことをしない」。
ルカ2:1 さて、過越といわれている除酵祭が近づいた。
ルカ22:14 時間になったので、イエスは食卓につかれ、使徒たちも共に席についた。
22:15 イエスは彼らに言われた、「わたしは苦しみを受ける前に、あなたがたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。
22:16 あなたがたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、わたしは二度と、この過越の食事をすることはない」。
<イエシュアが地上に戻られ、神の国、天と地が1つになった
時に、再びイエシュアはエルサレムでこの過越を祝うという
預言です。>
22:17 そして杯を取り、感謝して言われた、「これを取って、
互に分けて飲め。
22:18 あなたがたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、わたしはぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない」。
22:19 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子たちに与えて言われた、「これは、あなたがたのために与えるわたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。
22:20 食事ののち、杯も同じ様にして言われた、「この杯は、
あなたがたのために流すわたしの血で立てられる新しい契約で
ある。