前回のトラーの箇所、民数記30章で学ぶ主要な教訓は、
神は誓約を拘束力のあるものとみなし、誓約を立てる者は誠実に誓約を果たす意図を持って誓約することを期待しておられるということです。
ここで考えないとならないことがあります。人間の言葉でさえ、軽々しく発し、誓いなどしてはならないとは神の警告です。
それらの宣言、請願、誓いは、法的拘束を伴うと言うことが
神により教えられています。
そして、人の言葉さえ簡単に解かれないという意味は、神は神が発した言葉、教え、約束、宣言は、カトリックやキリスト教が言うように、変更しないと言う事実を神ご自身がずっと神の言葉の中で人に伝えている事実があるのです。
人間の教えは所詮混ぜ物、不真実のまがい物が混ざった教えで
あり、神が伝える真実を覆い隠し、そして神との距離を作り、
本来の関係の中に留まれない邪魔をする教えをしているのです。
エデンの園の中の外側に飛び出し閉じ込めること、それが人の
教えでされてしまっているのです。最初から同じことです。
神と近しい、親しい関係に人を留まらせない、それが人間の教え
その裏にあるのは、サタンの策略です。
その警告が聖書に書いてあるのに、それを理解していない人がいるだけなのです。偽物、人間の教えの方こそ、一掃、破棄、削除されないとならないものなのです。
捨て去られるべきは、人間の教えであり、そして変わらなくては
ならないのは、神の言われる事を正しく理解しない、別の目から
見ているその思考回路の方、生き方の方であり、神の言葉は変化する必要など1つもないのです。
なぜなら、神の言葉は完全であり、無欠であり、変化などしないと神が言われているからです。神が言われたらそうだと認めないのが、ローマ教、人間の編み出した教え、教理です。
神の言葉を、イエシュアを信じる人が否定しながら、半分嘘、
半分本当の人間の宗教を信じているその騙しに気が付かないとならないのです。
誓約は、誓約を果たすために当初考えていた以上のことが求められる場合、単に無視したり軽視したりできるものではありません。
誓約に関するこの見方は、30:1ヘブライ語では、30章2節で
最初に示されています。
「人が主に誓約を立てたり、義務を負う誓いを立てたりするときは、その言葉を破ってはならない。口から出るすべてのことを行うべきである。」
私たちが直面する最初の疑問は、定義に関するものです。
誓約(ネダー)、誓い(シェヴア)、義務(イサア)とは何か、
そしてそれらは互いに異なるものなのか、それともモーセは
本質的に同じ行為の同義語を用いているのか?
賢者たちはこれらの用語を明確に区別していますが、ただし、
重複する部分もあります。
そして、彼らの見解は、トラーで使用されているこれらの用語の調査から、正当化されものです。
「誓約」(ネダル)は一般的に、何かまたは誰かを聖所に捧げることを意味します。
これは、ヤコブの誓約、創世記28:20–22、神のために「聖所」を造ると約束、イスラエル、民数記21:2、カナン人に勝利するには戦利品をヘレムとして主に捧げる必要がある、
エフタ、士師記11:30–31、娘を主に捧げる、
ハンナ、サムエル記上1:11、息子を主に仕えるために捧げる、
そしてアブサロム、サムエル記下15:8、ヘブロンの聖所で犠牲を捧げるによって実証されています。
これらの例では、誓約には条件が付随しています。
「もし主よ、あなたがXをお許しになるなら、私はYを聖所に
捧げます。」このように、この聖句と同様に、誓約は特定の条件を伴います。
ナジル人(ナジル人)も同様の誓約です。なぜなら、それは
「主への奉献」であり、ナジル人の誓約の主要な側面を成すからです。
パウロが神殿で請願を果たした使徒21章の意味も、トラーに
記されている神の教えを理解する人には、正しく理解できます。
使徒21:20 一同はこれを聞いて神をほめたたえ、そして彼に言った、「兄弟よ、ご承知のように、ユダヤ人の中で信者になった者が、数万にものぼっているが、みんなトラーに熱心な人たちで
ある。
21:21 ところが、彼らが伝え聞いているところによれば、あなたは異邦人の中にいるユダヤ人一同に対して、子供に割礼を施すな、またユダヤの慣例にしたがうなと言って、モーセにそむくことを教えている、ということである。
パウロが、ユダヤ人の間で、トラーに違反した教えをしているのではないか、割礼を禁じたり
21:22 どうしたらよいか。あなたがここにきていることは、彼らもきっと聞き込むに違いない。
21:23 ついては、今わたしたちが言うとおりのことをしなさい。わたしたちの中に、誓願を立てている者が四人いる。
21:24 この人たちを連れて行って、彼らと共にきよめを行い、
また彼らの頭をそる費用を引き受けてやりなさい。そうすれば、あなたについて、うわさされていることは、根も葉もないことで、あなたはトラーを守って、正しい生活をしていることが、
みんなにわかるであろう。
聖書に記されている1世紀のイエシュア信者たちは、殆どユダヤ人であり、そして、その人たちは、イエシュアが教えた通り、
契約の民として生きるべく神の教え=トラーに熱心、忠実に生きた人達です。
そして、その人たちの間でパウロが、トラーに反した教えをしているらしいと言う噂が出ているから、神殿でその噂をパウロが
完全払拭するために、神殿で請願を立てて、その噂が嘘である事を立証、証明してと言う提案をされ、その通りにしたのです。
パウロが立てた請願は、ナジル人の請願であり、その意味は、
パウロは自分が誓った請願を、取り消せない!パウロは生涯
トラーに忠実に生きている、人にもトラーを教え、トラー=
神の教えを否定した教えなどしていない!と証明しているのです。
この箇所も、クリスチャンの間では正しく解説されていません。
パウロがカメレオンのように神の教えを人種によりコロコロ
手を変え品を変え教えているなどと言う嘘、偽証の教えをしているでしょう。パウロこそが、トラーを捨て、破棄し、シャバットをいつでも良いといい、きよくない清掃動物を食しても良い
祈ればなんでもきよくなるなどと、聖書に書いてもない解説を
しているのです。
そんなことをする人は、罪を犯すことを人に教える偽教師であり
聖書が伝える罪、聖別、神を汚す行為が何かを、神の言葉=聖書から全く理解していない異教徒上がりの人以外にいないのです。
聖書に登場する聖書記者、福音書以降の記者は全て使徒であり
預言者でありません!
その意味は、預言者が神の言葉を記したのです。
モーセが神の教えの完全版を記す預言者として立てらたのです。
それ以降の聖書ヨシュアからマラキは、全てモーセの五書を
解説する内容を預言者が記したものなのです。
その預言者モーセの書いたトラー、預言書、諸書を短く解説している人が、使徒達なのです。
預言者が聖霊により書いた神の言葉を、使徒が塗り替えるような
ことは一切していない、しません。もしそんなことを使徒達
聖書記者がするなら、それは聖書ではない偽預言者、偽教師の
偽物の教えであることを、聖書の神の言葉の定義から理解してください。
偽物の教え=人間の教えの嘘から目覚めないとならないのです。
嘘、腐敗は内側に潜んでいるからです。外側ではない。
人間が作った宗教の教えそのもの、それが神の教えを壊す、破壊する腐敗の本当の原因だからです。
「誓約」(シェヴア)もまた(具体的に、あるいは本質的に)
主の御名を想い出ささせるもので、一般的には主張誓約と約束誓約の二種類があります。
主張誓約は、例えば財産を横領したという嫌疑を晴らすために
立てられます。(出エジプト記 22:7; レビ記 5:20–25)。
この二つのうちより一般的なのは約束誓約で、誓約者に義務を
課します。(ダビデがソロモンを自分の後継者として王位に就けると誓ったように、列王記上 1:13, 17, 30)。
約束の誓いは、条件付きという含みがない点で誓約とは異なります。前述のように、誓約と誓いは適用範囲が重なることがあります。例えば、ダビデの場合(詩篇 132:2 以下)がそうです。
ダビデは主に誓い、ヤコブの全能者に誓いました。
「わたしは必ず家に入らず、寝床にも就かず、目に眠りを与えず、まぶたにまどろみを与えない。主のために場所を見つけ、
ヤコブの全能者のために住まいを見つけるまでは。」
ここでダビデは、契約の箱(誓約)のための安息の地を用意するまで、休息(誓約)を拒否しています。「義務」または「奉納」(イッサール)も同様に、聖所での使用のために何かを分離することですが、誓約や誓約とは異なり、未来のことでも条件付きでもなく、発せられた瞬間に効力を発します。
これは、エリコ征服における戦利品の奉納(ヨシュア記 6:17–19)に示されています。エリコの町は「禁令の下にある」と宣言されたため、戦利品が奪われる前から、完全に主の所有物でした。
したがって、アカンが町から自分の天幕に物資を持ち帰ったとき、彼は主から盗んでいたのです。
なぜなら、町全体はすでに「奉納」され、「禁令の下に置かれ」(ヘレム)ていたからです。
同様に、熟した最初の果実と加工された果実(民数記18:12–13)、十分の一税(レビ記27:30–33)、そして最も神聖な捧げ物(レビ記6:18; 7:1–2)は、「義務」または「奉納」の範疇に入ります。
したがって、賢人たちは「口頭での奉納は[聖所への]移送に等しい」と定めました。これは、最初の果実、又は十分の一税が
分けられ、口頭での義務が述べられた後は、収穫物の残りを正当に使用できることを意味していました。
前回のシャバットのトラー箇所のテキストは、誓約、誓い、義務といった言葉で人が話すこと、つまり自分の口から出たことをすべて行わなければならないことを明確にしています。
求められることをすべて果たす。自分の口から出たことをすべて行わなければならない。」動詞חלל,ハラル(qal 語幹には見られない)の使用は、「約束を破ること」が冒涜の一種であることを
示唆しています。
なぜなら、これらの場合、誓約、誓い、義務は特に神を証人として扱われているからです。
もちろんイエシュアが教えられているように、マタイ5:33以下)、私たちの言葉はすべて全能者の御前で発せられたものとみなされるべきであり、ですから、私たちは自分が行うと言った
ことを注意深く行わなければなりません。
しかし、このパラシャが特に強調しているのは、ベイト・ディン(裁判官の合議体)の前での法的義務です。
誓約、誓い、あるいは義務は拘束力のある契約であり、明確な
法的影響を伴います。
賢人たちは、誓約、誓約、そして義務が日常生活においてもたらす困難を認識しており、誓約を取り消すための精巧な制度を編み出しました。
しかし、彼らは誓約の厳粛さをよく理解しており、その拘束力を認識していたため、できる限り誓約を思いとどまらせようとしました。
賢人たちは、4種類の誓約の無効化を認めていました。
1) 煽動による誓約(何らかの強制の下でなされた誓約)、
2) 誇張による誓約、3) 誤ってなされた誓約、
そして4) 強制されて破られた誓約です。
しかし、誓約の無効化を認める実用的な仕組みを考案するにあたり、賢人たちは薄氷を踏んでいることを認識していました。
「誓約の赦免は宙に浮いている。なぜなら、それはトーラーの中に何にも依拠できないからである」。
彼らは単に、誓約が真剣に受け止められる一方で、社会の中で裁くことが不可能な事例を呈するような社会を維持する方法を見つけようとしていたのです。賢人たちが個人的な誓いを立てることを推奨しなかったのはこのためです。
神の教え=トラーに記されている事でも分かる通り、人の言葉も
神と人の前に宣言したことを取り消してはならない、言葉とは
誓いとはそのような性質であり、法的に破られないものなのです。
ましてや、神が神の言葉を歴史の途中で変えるなどと非聖書的な思想が本当だなどと考えている場合は、言葉の意味、請願の意味、誓約、保証、約束、契約の意味を、神が説明する通りを聖書で理解していない証拠でもあるのです。
もし、神が記した言葉の意味を、神が伝える通りを理解するならば、そのような発想こそ、異端の教えであることを、簡単に
識別、認識、区別できます。
それが出来ないのは、聖書ではなく、人間の混ざり物の教え
偽物だけを見続け、聞かされ続けているからです。
偽札、偽物ばかりを見る人は、本物と偽物の違いを見分けられないのです。
嘘を根拠に真実は識別できません。真実を知れば、偽物が見分けられると言う永遠の事実に目覚めれば良いのです。
聖書を読む場合、現代の自分達の文化、人間が作った西洋宗教の思想で読んでいても、聖書に何が何を意味して書いてあるのかを理解しないなら、それらの解説は聖書とは異なる異物になります。だから、西洋宗教の教えなど、聖書には存在しない。
偽の教えではない、元、オリジナルの神の言葉に戻り、何が聖書に書かれているか?何が書かれていないのか、これはもちろん
人間の編み出した教えであり、そんなものは聖書には記されてなどいないと言う正しい把握が先ず必要なのです。
それには、聖書に書かれている通りを、正しく解説される必要がある。だから、教師は人間が作った宗教の教え、神学教理を
学ぶのではなく、オリジナル聖書に書かれている事を、書いてある意味通りに先ず正しく学ぶと言う義務、責任があり、その実施学習に欠けていてたら、正しい教師、正しいとは、トヴ=神が
伝える通りを、その通りに解説などできないままになるのです。
だから、人に聖書ではない教えを聖書だと信じ込み、平気で教え続けてしまっているのです。再考察がないままなのです。
その代わりに、人間が作った神の言葉を曲げる解説し続けてしまうのです。