未来イエシュアが再臨された時、神の一番近い場所〜神の家、神殿
祈りの家の中に招かれる人はどんな人なのか、はっきりと伝えられています。
預言書で、黙示録で、その事が伝えられています。
ヨハナンは、黙示録で、預言書に記されたいくつもの章を元に短い
言葉で書いているのです。
イザヤ 56:4 主はこう言われる、「わが安息日を守り、わが喜ぶことを選んで、わが契約(モーセの五書=トラーに記された神の教えの
生き方)を堅く守る宦官には、
56:5 わが家のうちで、わが垣のうちで、むすこにも娘にもまさる記念のしるしと名を与え、絶えることのない、とこしえの名を与える。
56:6 また主に連なり、主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなり、すべて安息日を守って、これを汚さず、わが契約を堅く守る異邦人は――
56:7 わたしはこれをわが聖なる山にこさせ、わが祈の家のうちで楽しませる、彼らの燔祭と犠牲とは、わが祭壇の上に受けいれられる。
わが家はすべての民の祈の家ととなえられるからである」。
56:8 イスラエルの追いやられた者を集められる主なる神はこう言われる、「わたしはさらに人を集めて、すでに集められた者に加えよう」と。
天国地獄煉獄=人間の思想で考えるから見えないのです。
神との親しい関係にある人の特徴は、神のトラー=教えを愛して生きて、神のシャバット、記念日をガードして生きる人!とはっきり記されています。
人間が編み出した宗教は、最初から存在してはならないもの、
それらは偽物、混ぜ物の教えであり、神の純粋な言葉、教えをさえぎる、妨害して、人に神の教えを正しく伝えることを邪魔するつまづきの岩そのものだからです。
イエシュアが来られて、神が神の教えを十字架につけて葬った?
そんな嘘の教えの出どころは、はっきり言って神に敵対するものの声そのものなのです。
神は神の教えを、抹消しない、変えない、葬らない、破棄しないから
神の言われた言葉、神の言葉は永遠に固く立つ、廃らない!それが
真実だからです。
神の言葉を否定する嘘の教えに気が付く、目覚める。
神の教えを捨て、神の記念日を捨て、聖別を汚す生き方をする人〜
土足では、異教の神の教えまみれの生き方のままでは、神の家の茶の間には上がれないことが、聖書の至る所に警告として記されています。
神の教えを無視する人、神の言われる事を否定する人、それは神を
愛してなどいない事を、行動で示しているからです。
口先、哲学、思想の世界ではないのです。
神を愛していると思っても、実は人間の教えを愛して、神の教えを捨てる生き方をして、それが愛と勘違いしているのです。
神の定義する愛とは、神の提示した、婚姻契約=神の大家族、聖なる民の生き方をガードして生きる事を、聖書では「愛」と定義しているのに、それとは真逆の教え=神の教えを捨てる事、義、愛などと
聖書=神の教えではない、人間創作の思想を信じて生きている。
人は、本当に信じている事を、実際に生きる事で証明するでしょう。
信じている事と、逆のことをする、それは、思考錯乱、精神異常状態でしかないのです。
それらの人〜神の教えを捨てて生きる人を、イエシュアも不法を働くもの!あなたを知らない!関係ない!と言われたのです。
遠い遠い場所、神から隔たりのある場所に追いやられる事が、
はっきり記されています。
人間の考えでは、神の言われた事は理解できません。
だから、頭脳=思索を、新しくされた人は変えて!と教えられているでしょう。肉の目から見続けていたら、神が伝える事は見えないからです。
だから、神は山=高いところ、神と同じ目線の場所に、アヴラハムも
モーセも連れ出し、神が見る通りで全てを見て!と教えているのです。
イエシュアを信じた人も全く同じです。聖書に書いてある事は全て
それらの人物の通った出来事を通して、同じ神の教え、真理を教えられているからです。
どうして、神の教えを塗り替える事が悪いの?という考えの人
いや、それが、神に前に罪であるとも理解しない人。
そういう人が、神の教えが終わったとか、今の時代はLGBTは良いのだ!今はいつでも安息日=主の日、聖日と聖書の教えを塗り替えた
思想を唱えて実践しているのです。神が言われたこととは違うことを
言い続け、実践し続けて勝手に言って、やり続け、実はその思考、
行動は、実際に神に敵対しているのだとも考えもつかないのです。
なぜ?神の教え=言葉は廃れた!という嘘を信じているからです。
神が世界の中で、イスラエルのした教えや行為で汚されている
だから、神の栄光、名誉のために、それら偽物の教えが違うこと
イスラエルの神が伝えたことではないことを、証明される!と
宣言されているではないですか。
どうして、シャバットを捨ててはダメなの?神がどれほど神の創造
された記念日に対して、それを破る、汚す事を重大警告しているのか
見えない理由は、人は神の考えている事が理解できない状態、
神が言われる事の意味が重要と理解できないからです。
神の伝える事とは違う事を生きる、神が伝えている事を退けて生きない、それはいずれ破壊につながる、関係の隔たりが生まれる、本来の生き方からズレて、本来の祝福が味わえない状態になるからです。
神が言われた事が、しかり!アーメンと言いたくない人は、
全部神の言われる事に反抗する、違反しているのです。
実は、それは、神を神と認めていない行為なのです。
神ではなく、自分が神の上に立つ、神の言葉、教えを自分が判別し
仕分ける、そのような冒涜を教えられてきたのです。
それくらい何?と思うでしょう。どうして、知識の木から食べては
ダメなんて言うの?たかが、食べることで、死ぬの?それくらい、
良いじゃない。ケチくさい神!?いや人間は毒を食べたら死にます。
すぐに死ななくても、神が言われた通り、死ぬことになってしまったでしょう。どうして、神が言われた通りを信じないで、神の言葉を
否定する人間の教えを信じられるのか、その方が不思議なのです。
創造主の言う事を、信じないで、神に創造された人間の宗教の教えを信じる事のおかしさ、ズレ。洗脳なのです。全て。
偽物の教えが浸透し、神の言葉の進化論を信じてしまっている、聖書ではない教え、聖書に書いてない事を書いてあると信じているのです。
そして、神のシャバト祭りを無視する事がどうして、それ程までに
重たい罪なの?と、神の教えを理解しない場合には、そう思う。
それは、それを信じる人が、神が言われる事を人が理解しないからです。
神が重要だ!という事が、重要と理解しない、分からない!それが、分からないのは、神の言葉を信じて、神の教えの方を実践しないで、人間の教えを実践し続けて来たから、神の教えのその意味が体験的にも理解できていないから分からないという、簡単な事実なのです。
神の言葉を人間が無視するという行為そのものが、最初からずれている、罪なのです。エデンの園の事件を思い出して。
神が言われたことに反することをし、神がしてということをしない
それが罪なのです。本来のデザインとは違う事をする全て!ズレ=的外れなのです。神の言葉を退ける行為は、神に対する罪を犯す!
ということを、理解しないとならないのです。
それは、死に匹敵する罪なのです。神の言葉を捨てるように教える
ことは、人を破壊に導くことだからです。
それを聖書では「罪」というのに、それさえも理解していないでしょう。神の教え=トラーに反する行為、罪!それが神が人に伝える罪の定義なのに、クリスチャンの教えは、罪の定義を破棄した!という大変危険な思想を刷り込まれて、それが自由!などと勘違いしているのです。
人間の宗教は神の言葉、教えを時代にあった教えに作り変えて良い!などという冒涜を言い続けて、それを実践しているのです。
恐ろしい罪であるのに、それに気がついていない。
自分に危険、破壊を招いているのに、気がつけない。
プロテスタントも、神の教えと神の時を変えた!
それはローマ教が変えた宗教の教えを継続しているからです。
ローマ教、キリスト教の教えは、人間が作った伝統の教え、儀式、
記念日を実践していて、イエシュアが教えて生きた、神の教えを実践していません。
だから、聖書に書いてないことをやり、聖書に書いてあるイエシュアや預言者、使徒や1世紀の人々が実践したトラーの生き方や、
神の創造された記念日を、今クリスチャンがやらない本当の理由は
ローマ帝国により神の教えと記念日を捨てさせられた宗教を
強制的にやらされて来たからなのです。
神は神の教えや記念日など1度も変えない、永遠に変えない。
神は嘘つきではないからです。神が永遠!と一度でも宣言されたら
それは永遠に永遠。その事実をクリスチャンが正しく理解しないまま
人間が変えた曲げた人造宗教の教えに固執して、伝統で継承しているから、それが神が伝える最新式の教えだなどと信じているのです。
未来は、それらの偽物〜人造の教えは全部消えると預言されています。神は神に属さない偽物を、全部処分、一掃されるからです。
神は長い間、忍耐し多くの人が目覚めるのを待っているからです。
ダニエル書に記された反キリストがする事が、何かを正しく学べば
良いのです。それは歴史の中で繰り返しされ続けているのです。
神の教えと、神の創造された記念日を変える!
それをやっているのに、その罪に何も気が付かず、反キリスト=
キリストを信じない人!程度に考えているのです。
キリストを信じる人は、キリストの言われた教え=トラーを否定する
事が、おかしな行動、反キリストの思想、神の言葉に合わない別物=人間の教えを実践していると、気がついていないのです。
人間が神に対して、神の如く神の教えに対して違反を主張していること、それが正義だと教えられている宗教の教えは、聖書とは何も
関係のない教えだからです。
人間〜ローマ帝国皇帝により作られた宗教ということを、クリスチャンは知らないまま、今迄見聞きしている教えが、最新式、昇天以降の
新しい教え、新しい契約と全く疑わずに信じていると思います。
人間の作り物の教えはやがて消えます。
パウロの大先生〜ラバン ガマリエルが言った通り、
彼は、後にイエシュア=メシアと発見した事は疑いの余地はありません。神の言葉を真実に探究する人は、聖霊=言葉が真実をその人に
必ず教えるからです。
使徒5:34 ところが、国民全体に尊敬されていたトラー学者ガマリエルというパリサイ人が、議会で立って、使徒たちをしばらくのあいだ外に出すように要求してから、
クリスチャンの世界では、パリサイ派=偽善者などと、本当にズレた先入観を持たされています。国全体に尊敬されている偽善者などいません!パリサイ派が主流だったのです。その中でも一部の人が
ズレていて、それをイエシュアが指摘しているだけです。
1世紀当時、サドカイ派は、腐敗していました。ローマ帝国と
結託し、神殿をめぐり金儲けをしていたのです。
ヘロデ王もユダヤ族ではない、ローマ帝国の犬であった王。
サドカイ派が神殿を司るレビ族であり、大祭司の家系 カヤパ一族も腐っていました。
今の政治と同じ、人を搾取し、自分達だけが潤うようなことをしていたのです。だから、祭司が人から搾取した資金でプール付きの豪邸に住み、神殿を強盗の巣〜高い両替代を外部から来た人に押し付け、
そして、神殿で捧げるコルバンの動物を高い値段で売って商売し、
搾取していたことが書かれているでしょう。イエシュアがそれに
怒って、神の家=神殿を強盗の巣にしていると警告したのです。
イエシュアがされていた様々なこと、たとえ話で、トラーを分りやすく語ること、これは、パリサイ派の流儀であり、パウロが手紙で諸外国にいたユダヤ人の群れへの質疑応答の当時のパリサイ派の教えの
やり方だったのです。
過越の祭りの晩餐も、イエシュアがされた4つの杯と種無しパンの
儀式も、カトリックが聖餐式という別物に変えてしまいましたが、
それらは過越の祭りの晩餐でする、当時のパリサイ派の過越の祭りの祝い方だったのです。
それが今も継承され、パリサイ派のイエシュア信者たちにより、
その儀式の中でイエシュアの最初の到来と、再臨を教える儀式まで
作られ、盛り込まれ、今も過越の祭りでイエシュアを知らないユダヤ人も、その儀式、ゲームを、その意味を知らないままやって、
祝っているのです。
メシアを知るユダヤ人や異邦人イエシュア信者も、それを祝う人は
それが何かを知っているのです。
偽善者〜パリサイ派、神のトラー=教えを生きる人=偽善者という
クリスチャンの間にまかり通っている歪んだ聖書解説はやめないとなりません。正しく聖書を理解しない人が、聖書に書いている意味を
正しく理解しないまま、ズレた教えを勝手な解説をしているからです。
続く