偶像礼拝とは人間が編み出した宗教そのもの | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヨハナンは、トラーを理解して、神の教えを指して、黙示録を書いています。

聖書は全てヘブライ思索、ヘブライ語で書かれたものであり、

西洋人の編み出した考え、宗教思想は書かれていないものです。

 

ヘブライ語で記されたトラーを熟知するユダヤ人には、西洋人の語る聖書解説が異物、別物、ヘブライ思索〜聖書ではない解説に聞こえるものがたくさんあると言います。

例えて言えば日本の歌舞伎が、フラダンスになり丸で別物の舞踊に

見えるのと同じです。

 

黙示録22:7 見よ、わたしは、すぐに来る。

この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。

 

「預言の書」とは、ヨハナンが書いた書ではありません。

聖書の全ては、トラーを指して語っていることを忘れないでください。聖書は全て預言者が書いたものです。

福音書以降の聖書の最後の25%の後書きの箇所は、預言者ではなく使徒達が記したものであり、使徒達は、預言者達が記した聖書=トラーの教えを塗り替える内容や、預言書、諸書にないことは書いていません。

全て、トラーを土台に、トラーの解説の預言書、諸書を引用して解説しているのが、福音書以降の使徒の書簡なのです。

預言〜預言者が書いた聖書、トラー、預言書、諸書です。聖書の著者は自分の意見など語りません。神の教えを語っているだけです。

聖書に聖書と書いてあれば、それは100%モーセの五書=神の教えを土台とし、そしてトラーの解説の諸書、預言書のみを指して聖書には、「聖書は〜」と記されているのです。

 

黙示録22:8 これらのことを見聞きした者は、このヨハネである。

わたしが見聞きした時、それらのことを示してくれた御使の足もとにひれ伏して拝そうとすると、

22:9 彼は言った、「そのようなことをしてはいけない。わたしは、

あなたや、あなたの兄弟である預言者たちや、この書の言葉を守る者たちと、同じ僕仲間である。ただ神だけを拝しなさい」。

 

人間が、神の名=タイトル、聖なる父、メシアなどと呼ばれてはならないのです。

神に造られた人間にすぎないのに、神と同等の権威、力がある、

自分の考えで神の言葉を塗り替えて良いのだなどと考えている時点で、それは偽物!偽預言者!偽教師!と認識しないとなりません。

 

ペテロがローマ帝国が作った人間創作の宗教の教祖様などと、

全く勘違い、嘘の考えを堂々と述べていますが、ペテロは、ローマ教の教祖などではありません!イエシュアは、ペテロがした宣言〜

この岩=ペトラ=大きな岩=イエシュア、そのイエシュアの上に

イエシュアはカハール、エクレシア=神の大家族の呼び出された人の群れを建て上げ続ける!と言われたのです。

教会=こんな言葉は、聖書にはない造語です。本当にひどい、本当の意味を表さない人を惑わす翻訳です。神の大家族=カハール=エクレイシアはエデンの園から1つしかなく、その継続なのです。

同じ1つのイスラエルの神の大家族にイスラエルも、異邦人も共に

加え続けられる!とずっと書いてあるでしょう。

チャーチ、教会というその翻訳がされていますが、それは不具合な

悪い翻訳なので、必ず元の意味=同じ1つのカハール=エクレシア=群れである意味に頭の中で正しい意味に変換してください。

ローマ帝国皇帝創作教〜これは、神のトラーを否定、破棄、捨てて

人間の教えを付け足した、コンスタンチヌスが4世紀に作った宗教です。

それなのに、クリスチャンの世界では、神が神の教えを否定し、

昇天以降新しい教えが出現=ローマユニバーサル教が聖書に書いてあると、疑いもなく信じているでしょう。

そんなこと、聖書には、1つも書いてません。日曜礼拝もクリスマスもイースターも書いていない。それはローマ帝国教の作り物だから

です。そして、神が神の教えを破棄、終了した!というまやかし嘘も聖書には1つも書かれてなどいません!

 

ペテロはユダヤ人であり、パウロ同様生涯100%、モーセの五書に

忠実に生きて、最後はローマ帝国に処刑されたのです。

モーセの五書を教え、実践し、生きる人は全て処刑されたことを

知った方が良いです。これが、おぞましいローマ帝国=反キリスト

神のトラーと、神の記念日を塗り替える ダニエル7:25

そして、ダニエル11章にある、ギリシャ帝国がしたことと

同じことを、ローマ帝国がしたからです。

神のトラー=神の教え、モーセの五書を勝手に人間が作り変え、

削除、付け足し、破棄されたと主張し、神のモアデイム、

シャバット、新月、祭りを別物=異教神、女神の祭りをパクリ作り

替えたことを、はっきり認識した方が良いです。

本物ではなく、人間創作のコピー、偽物を、知らないまま神の教えだと、人間によりやらされ続けているだけです。

聖書に記されたイスラエルの神、神の言葉を、正しく理解しない人達が、神の教えを塗り替え続けて、勝手な主張や教えを編み出し続けているだけなのです。最後はそれらは全部消える、一掃されて、偽物の

教えの方が全て破棄されるのです。神の言葉は破棄されません!永遠に。ヨハナンでさえ、この様に人を崇拝するなかれ!と神の教え=

トラーに記されたことを人に伝えているのです。

 

黙示録22:10 またわたしに言った、「この書の預言の言葉を封じてはならない。時が近づいているからである。

22:11 不義な者はさらに不義を行い、汚れた者はさらに汚れたことを行い、義なる者はさらに義を行い、聖なる者はさらに聖なることを

行うままにさせよ」。

 

これ11節に記されたことは、今や顕著です。神の教えを破棄せよ!と言ったローマ皇帝の思想に連なってきた人々、それらの人は神の

教えを捨てることが、昇天以降の義、恵みの生き方と勘違いし、

神ご自身である、神の言葉を捨てよ!と、人にも罪への道〜罪の定義とは神のトラーに背く生き方をすること、神の教えを捨てよ!

人に罪を犯して良い!と誤りを教え続けているのです。

罪〜的外れ〜神の意図とは違うことをして良いよ!今は恵の聖霊時代などと、意味不明なことを言う、ローマ帝国皇帝が主張した教えに

異邦人は乗っかり、今に至っているのに、それが聖書=神の教えだと

思い込んでいるでしょう。それは、人間が作った宗教の教えです。

神の教え捨てた生き方〜人造宗教の教えを生きているのです。

 

神の教えに反する罪が犯せる恵?自由?聖霊の時代???

神の教えを捨てることこそ、恵を捨てた生き方です。

そして、神の教えを捨てることを、聖書では、「無法」と呼ばれ

それは、神に対する大罪なのです。罪を犯している行為です。

聖書に記されている罪の定義とは、神のトラー=モーセの五書に記された神の教えに違反する行為を、罪というのに、クリスチャンはそれを全く理解していないのは、人間の教えで、人間が勝手に罪の定義である神の教えを捨てているからです。

イエシュアはその様に、神の教え=トラーを捨てて、人にもその様に教えて勝手な思想を生きている人達へ、「わたしはあなたを知らない!」「天の国で最も小さい意味なしの存在である!」と警告しているでしょう。

神の教え=神の家の家訓を捨てて、無法を勝手に生きる人を、

婚姻契約=トラーに記された生き方〜親しい間柄の関係などではない!とはっきり厳しく警告しているでしょう。

それが、ユダ族の獅子であるイエシュアの性質の一面であり、「今は私が罪ゆるしたから、教えを終了させたから、なんでもいいよ〜」

などと言う、クリスチャンが唱える聖書とは異なる偽メシア像などではないのです。

神の教えを捨てる、破棄すると考えている時点で、既に神の思索から全くずれて考えているということ、それが宗教の思想なのです。

 

永遠の中、この世界の礎が創造される以前から屠られた子羊の代価

そして同様に、この世界の礎が創造される以前から選ばれた人達の

ために、神は人が誕生する以前、それら全て用意し完了し、有効状態で備えてから、この世界が造られ出現し、稼働したのです。

自分が正義と思っていることで、実は神を冒涜し、神の顔に泥を塗り

神の聖別を汚し、神の宮である自分自身を汚しているとも、ゆめにもつゆにも考えもつかないのは、神の教えが終了という嘘を信じているから、神の言葉が耳に頭脳に思索に届かないままなのです。

 

不義〜神の教え=トラーに反した教えを行い、汚れたこと〜神の聖別を汚す生き方をし続ける人は、それをずっと続けよ!黙示録22:11

でも、神の仰せを愛し、神を愛する人は神のトラーを生きて、

神の聖別をガードし、神の呼び出しているアポイントメントの日に

神と特別な会見を体験するとあるのです。

 

そしてLGBTを推奨している、プロテスタントの牧師、教師達は、

神の言葉の方を疑え!時代ごとに神の教えは変化するのだ!

これはカトリックも、時代ごとに教えが変わると言っている、悪霊の教えを復唱しているのです。

LGBTを擁護せよ!それが愛だ!?サタンの教えを教える偽教師の

偽の教えを信じてついて行っては危ないです。

神が伝える愛とは、婚姻契約をガードして生きる全て、それが愛

契約の愛=アハヴァの定義なのに、神の教えを捨てる人には、

神の愛を、人間の考えてで再定義し直しているのです。

どうして、神のデザインと反する生き方をするのはだめなのか。

それはどんな点に於いても同じ。衣食住が人の生きる基本です。

それを汚し、そしてシャバットや祭りを汚し、そしてLGBTやその他諸々、神の教えとは違うことをすれば、それは必ず最後は破壊に繋がるからです。人を誤りに導く。

神のデザインされた人の生き方に反する生き方〜傷、破壊、崩壊、

歪み、ずれをもたらすから、神はそれは神の創造された神の性質通り=イエシュアの性質通りの生き方ではないから、それをしない!

神の性質通りを生きる!と教えている、単純なことなのに、それを

理解しないまま、世界は今この様な状態なのです。

地の塩、世の光〜イエシュアの性質通りの影を地上で映し出す人が

神の教えとは真逆な思想を語り、それを生きて、別物を地上に反映させているのです。影が光とは異なる勝手な動きをし続けている。

でも、それは終わり!という時が来るのです。必ず来ます。

神が時間を設定されているからです。

 

聖書とは異なる教え=神の教えを否定する思想を土台とした、人間が作った宗教=ローマ教、西洋宗教を信じて教える人達は、教師と呼ばれながら、実は人に神の教え=聖書ではない偽物の教え〜人間の考えを教え、人を罪に陥れる道に導いているとも、気がついていません。

神の教えを捨てる罪を教える、悪霊の教えを施しているのに、それが今の時代の教えだ!と、聖書とは全く関係のない教えをし続けています。偽物の教えは、聖書=本物をその通りに知れば、簡単に見分けられる識別できます。騙されない。パウロもずっと偽の教え、偽教師

偽預言者、人間の哲学思想、人間の言い伝え、人間の戒めの律法を

強要する教えに警告していたでしょう。それなのです。

イエシュア、主の名を利用して、偽物の教えをしている、その教えに

注意しないとなりません。神の教えを正しく知る人は騙されません。

有名伝道師、牧師、教師、その様な肩書きや人気は、神の前には

真実の前には、何も意味ありません。教師と呼ばれる人達こそが、

偽物の教えを施してしまっているのです。

大事なのは、神の言葉が正しく教えられ、語られているのかそれだけなのです。

デイスペンセーション神学で聖書を解説する!人間の教えを通して

神の教え=聖書を解説する事は、聖書ではありません!

人間の思想を通して、神の教えを曲げた、宗教の解説でしかありません。置換神学も、西洋宗教=ローマ帝国が神のトラーを捨てて作った教えも、聖書ではありません!全て神の教えに敵対する教えを混ぜた

異物の教え、宗教なのです。

ヨハナンが語っているのは、一言の中にその裏には、トラーや

預言書の何章分もの内容、意味が語られているのです。

それにも気が付かないと思います。

ラメズという話し方です。最初のイントロで、全曲が思い出せるのと

同じことを、ヨハナンは書いている。トラー、預言書、諸書を知る人なら、その一言でどの箇所の何章分の話をしていると、理解できるからです。

 

続く

 

ローマ帝国教、人間の作った宗教は神の教えを捨てて、ローマ帝国

皇帝、教皇達が作った教えを実践しています。

光が映し出すのは、イエシュアの性質=トラーを生きる神の聖なる民なのに、その人達が、神の教えを捨てて、人間の作った宗教を生きて

別物を地上に映し出し、環境に流出しているのです。

それでは、イエシュアの性質はそのまま現れ出ません。

違う教え、神の記念日ではない、日曜礼拝、イースタ=異教の女神の名の祭り、クリスマス=異教の神々の祭りにキリストの誕生日を後付けした不真実なもの。そして、神の教えを捨てて、それぞれが考えることを生きて良い?神の禁じた清掃動物=きよくない動物を食する

悪食、神が最も忌み嫌うと言われる行為〜聖別の意味を理解しない

異教徒の生き方と全く同じ。

それこそが、宗教であり、神の教えなどではない生き方なのです。

ずれた生き方〜別の影〜本体の実態ではないものを、映し出す生き方。