今週のパラシャは、イスラエル人がシナイ山で1年間過ごした後の最初の行動について述べています。
民数記全体は、契約の共同体について学ぶ上で良い書物です。
今週のパラシャ(トラー朗読箇所)では、契約の共同体を指すいくつかの名称に焦点を当てて学びます。それぞれの名称を見ていくことで、神がその民〜神の選ばれた聖なる民、神の子らに望んでおられることについて多くを学ぶことができます。モーセが神の民を呼ぶ際に用いた描写的な言葉は少なくとも5つあります。このパラシャで明らかにされているそれぞれの言葉を見ていきましょう。
この箇所は、その最初の箇所に出てくるこの箇所を説明する言葉を
このパラシャのタイトルにしています。
ビハ アロテカとは、「あなたがともし火をともす時は」という
8:2節の言葉を取ったタイトルが付けられています。
I. イスラエルの子ら ― ベネイ・イスラエル(B’NEI YISRAEL)(8:6)בְניֵ־ישִׂרְאָלֵ֛
これはイスラエル人を指す最も一般的な呼称であり、特にこのパラシャ(トラーの朗読箇所)では約27回用いられています。ご存知のように、ベネイ(b’nei)ב)ני)という言葉は「~の息子たち」又は単に「~の子供たち」を意味します。
創世記32章32節は「この語句が聖書で初めて用いられた箇所であり、ここではヤコブの息子たちではなく、民全体を指しています。」
「ベン」ב ן というヘブライ語の言葉は非常に広い意味で用いられています。直系の男性の子孫を指す場合もあれば、遠縁の男性の子孫を指す場合もあります。また、師弟関係を表すために用いられる場合も
あります。この箇所は、トーラーのほとんどの箇所と同様に、本文が家族について語っているという考えを強調しているようです。
歴史の中でこの民に何が起ころうとも、トーラーは彼らイスラエルが家族であることを忘れさせません。
そして、その中に共に居た異邦人も同じイスラエルとして、考えられ
数えられ、同じ12部族に加えられて40年の荒野の旅をしたことを
絶対に忘れないで、読み続けてください。
その意味は、異邦人でも、同じイスラエルの神の声=教え=言葉を
聞いて、神が言われたことを受け取り、信じて、同じ契約の民として
同じ神の教え=イエシュアの性質通りに根付いて生きる人は、同じ
イスラエルの神の大家族の一員であることが、最初から最後まで
ずっと伝えられているのです。
それを、塗り替える教えが、人間が考えた宗教の教え、人の思想、
教理で神の民を2つ別物に分断させる、デイスペンセーション神学
思想です。それは、聖書=神の言葉、教えではないことを、ここで
はっきり理解してください。
エジプトでの430年では、私たち神の大家族は一つの大きな、
苦しむ家族でした。
さて、このパラシャでは、私たちがシナイ山に1年間滞在し、その間に神がこの大きな、苦しむ家族を一つの国家へと形作ったことが分かります。
神は私たちに「イスラエルの神の国の国家憲法」、つまりトーラーの契約を与えることによって、1つの家族、国家とされました。
家族もまた国家なのです。家族は、国家の一番小さい単位、形です。
家族は時に非常に困難な場合があります。このイスラエルと少数の
異邦人で形成される大家族もまさにそうでした。
それが民数記11章の要点です。彼らは食事について主に不満を漏らしていました。ここで、モーセが自分を彼らの父親と見なしていたことが垣間見えます。
11章12節で彼はこう言いました。「このすべての民を宿したのは、
わたしだったのでしょうか。わたしが彼らを産み落としたので、
あなたはわたしに、『乳母が乳飲み子を抱くように、彼らをあなたの胸に抱いて、あなたが彼らの先祖に誓われた地へ行きなさい』と
仰せになったのでしょうか。」
家族のもう一つの特徴は嫉妬です。これは民数記12章2節で起こっているように思われます。ここでモーセの兄弟姉妹がモーセの妻についてモーセに話しかけ、嫉妬しました。彼らは言いました。
「主は本当にモーセを通してだけ語られたのですか。
私たちを通しても語られたのではないでしょうか。」
次の二つのパラシヨト(パラシャの複数形)では、家族のもう一つの特徴、つまり家族間の確執について見ていきます。
しかし、イスラエルの家族には重要な特徴があります。
これは、エペソ人への手紙の中でパウロが異邦人について述べている驚くべき言葉につながります。エペソ人への手紙2章で、パウロは
イエシュアを通して、イスラエル人ではない人々も家族の一員になれると述べています。
イエシュアにおいて、異邦人は(オイケイオス)οἰκεῖος、「家」の
一員となります。これは家族を表す言葉です。ユダヤ人になることによってこれが実現するわけではありません。家族の長であるイエシュアを信頼することによって、すべての人がアブラハムの子となることができるのです。
ここで、もう一つ絶対に忘れてはならない事実があります。
パウロも、他の使徒も、そしてヨシュア記〜マラキを記した預言者も
全て、自分の勝手な考えや思想や思いつきを書いているのではない!
いうことです。
彼ら、聖書著者は、全て100%モーセの五書=トラー=婚姻契約=父の教え=イエシュア=聖霊が書かれた内容を
解説している!ということです。これが見えない場合には、ローマ帝国が作った宗教思想のように、人間の勝手な解釈を聖書に施し、
人間が神の言葉を勝手に仕分け、変えて聖書ではない別物の教え
置換神学やデイスペンセーション神学のように、非聖書的思想を
編み出し続けてしまいます。
聖書の著者は、神の教え=トラーに記されたことを土台に解説しているだけです。
このように、神の民は何よりもまず一つの大きな家族です。
これを、2つの家族などと分裂される、聖書とは全く関係のない教えをしているのがデイスペンセーション神学思想です。それは人間の教えであり、聖書ではないことを、多くの教師は聖書から全く認識も
していない問題があるのです。
問題は、人間が作った宗教の教え、神学、教理が、神の言葉、教え
聖書に書かれている通りを理解させることを、完全妨害している事なのです。
家族が互いにどのように接するべきかについて、健全な教えを与えてくださった神に感謝します。家族は互いに思いやり、互いに献身し、互いに犠牲を払います。家族は完璧ではありませんが、私たちは互いに赦し合い、互いの幸福を求めます。
家族は共通の歴史と共通の使命を共有しています。
少なくとも、これらすべてが家族の在り方です。
トーラー=神の教えは私たちにこれらすべてを行う方法を教え、
聖書の残りの部分はそれらの教えを拡張しているだけです。
もし私たちがトラー=神の教えを知り、理解しなければ、神の家族と
なる方法についての多くの重要な教えを見逃してしまいます。
II.会衆 ― ハ エダ、8:20 ה ע הד、10:2
このパラシャでは、契約の共同体を指すのに2つ目の言葉が使われています。
少なくとも8:20と10:2に見られます。
これは以前にも見たことのある言葉、「エダ ע)הד」です。
これは「会衆」と訳されることが最も多いです。
興味深いことに、七十人訳聖書はギリシャ語の「スナゴーゲ」(συναγωγὴ)を用いています。
したがって、ここで(そしてトラーの他の箇所でも)古代イスラエルは会堂であったことがわかります。
しかし、古代イスラエルが今日の典型的な会堂のように典礼や儀式を行っていたと考えるのは間違いです。
いずれにせよ、それは会堂でした。
本文でヘブライ語の「エダ」という言葉が使われているとき、
私たちは何を理解すべきでしょうか?
前に見たように、「エダ」という言葉は「証言」又は「証人」を
意味する「エド」という言葉と関連があります。
ですから、神がご自分の家族を「エダ」と呼ぶとき、神は私たちが
証しをする共同体、すべての人に証しをする家族であるという事実を伝えているのです。
これは申命記4章5~9節でより詳しく見ていきます。おそらくこれが、8章1~4節で、イスラエルがシナイ山を離れ、約束の地への旅を続ける場面で燭台について論じられている理由の一つかもしれません。
燭台(メノーラー)は非常に象徴的な意味を持っていましたが、
トーラーは金のメノーラーが何を象徴しているのかを具体的には述べていません。
ですから、私たちはそれを解釈する際に独断的にならないように注意する必要があります。とは言え、そこにはいくつかの象徴を見ることができるかもしれません。
例えば、それは花が咲いた木の形をしていました。これはおそらく
命の木を思い起こさせるでしょう。
その光は確かに神の光を象徴していました。
金はあらゆる天然金属の中で最も純粋であり、純粋さを象徴しています。
したがって、金のメノーラーは神の完全な臨在と生命を象徴し、
神の聖所と、モーセを通して神の民を照らしていると言えるのではないでしょうか。
トーラーの他の箇所では、メノーラーは常に灯されなければならないと述べられています(出エジプト記 30:7-8)、
「それは、私があなたたちに授けた光を、世界の諸国民への模範と
して永続させるためである」。
さらに、メノーラーには7つのランプがあったため、「7」という数字の重要性がさらに強調されました。
メノーラーの象徴性のもう一つの例は、8:2で、7つのランプが
「燭台の前面を照らす」ようにメノーラーを配置しなければならないと述べられていることです。
ゴードン・ウェナムは次のように述べています。
イスラエルの十二部族を象徴するパンが積み上げられました。
(レビ記 24:5–9)。光と火は、命を与える神の臨在と祝福を表しています(例:出エジプト記 13:21–22)。
したがって、アロンはランプの光が常にパンを照らすように配置しなければなりませんでした。
この配置は、神の民が常に神の臨在の中で生き、祭司たちによって
もたらされる祝福を享受するという神の意図を視覚的に表していま
した。
これらすべてをまとめると、神はイスラエルを、メノーラーの永遠の光であるネル・タミドと、メノーラーによって照らされた12個のパン(イスラエルの12部族を象徴)によって象徴される、世界にとっての光と食糧の源となることを意図していたことがわかります。
神が、イスラエルが荒野の旅を始める際に、神の家族に彼らの目的を思い出させることは重要でした。
そのため、イエシュアはメノーラーについての議論を、イエシュアの
トラー解説の冒頭に置き、解説しています。
したがって、メノーラーがイスラエルの国の象徴であることは偶然ではありません。
召し出された者たち ― ハ カハル 民数記10:7 הַקּהָלָ֑
パラシャがイスラエル人について語る際に用いる3つ目の語は、
カハル、又はケヒラ(לקהקלהה)という馴染み深い言葉です。
カハルとエダとは、しばしば密接に関連して用いられます。
エダはしばしば「会衆」と訳されるのに対し、カハルは通常「集会」と訳されます。
七十人訳聖書ではカハルを「会堂」と訳すこともあれば、エクレシア(εκκλεσια)と訳すこともあります。
カハルとエクレシアはどちらも「召し出された者たち」を意味します。
使徒聖書ではエクレシアが「教会」と訳されていることについては、以前にも述べました。
又、これはひどい翻訳であり、しかも、元の言葉を全く反映していない異邦人による造語翻訳です。
単に「召し出された者たち」とすべきだとも指摘しました。
つまり、古代イスラエルは会堂と教会の両方でしたが、現代的な意味での「召し出された者たち」ではありませんでした。
10章7節で、陣営の移動の合図としてラッパが使われたことについて述べている箇所で、イスラエルは「カハル」と呼ばれていることに
注目してください。
ラッパ〜ショーファーについては後ほど説明しますが、
今は、ラッパはイスラエルに移動を呼びかけるために使われました。
したがって、イスラエルを「召し出された者たち」と呼ぶのが適切です。
続く