2テモテ2:15 デイスペンセーション神学が利用して解説している箇所 | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

2テモテ2:15ですが、神の言葉を人間が仕分けて良いと神が言っていると、勘違いした解釈がアメリカで、不適切な英語翻訳によって、施されています。

 

2テモテ 2:15 あなたは真理の言葉を正しく教え、恥じるところの

ない錬達した働き人になって、神に自分をささげるように努めはげみなさい。

 

日本語ですと、ギリシャ語の意味に近く翻訳されていますから、

英語訳での訳され方、ニュアンスが見えない訳になっています。

英語では、赤字の箇所を、rightly dividing the Word of truth.

と訳されています。

正しく、真理の言葉を、正しくし分ける、切り込むという英語訳です。

このギリシャ語の言葉は、ὀρθοτομοῦντα (オウソトマウンタ)という

聖書では、この箇所でたった1度だけ使われているギリシャ語です。

詰まり、正しく切り込むという意味の言葉ですが正しいか、

正しくない解釈をしているか否か、つまり神が伝えている言葉通りの

意味を正しく捉えるという意味なのです。

 

この節の日本語の翻訳は、ギリシャ語の意味に近く反映している翻訳です。

これは、イエシュアがマタイ5:17で言われた、神の言葉を

「破棄」するためではなく、「成就」するためにきたという同じ意味を、パウロが言っているのです。

つまり、成就とは、トラーを正しく解釈し、解説し、生きること。

破棄とは、トラーを神の意図通りに理解しないで、トラーとは違う事を教え、考え、生きること、それを、当時のラビ達の間では、「破棄、成就」という慣用句があったのです。ラビ的慣用句です。

トラーの実践、解釈に関することについて、語る時に使われた慣用句、成就、破棄という言葉なのです。

この2つの言葉でトラーに関する正しい理解をしているか、ズレた

理解をしているという事を語っていたのです。

2テモテ2:15を、デイスペンセーション神学〜ダービー教の

人造教理を信じる人が、このように解説しています。下矢印

 

「聖書を学ぶ者は、神の言葉を正しく理解するために、非常に注意

深く神の言葉を切り分けなければなりません。この例として、人体の解剖を考えてみましょう。同じように、私たちが神の言葉を学ぶときも、真理の言葉を注意深く切り分け、解剖しなければなりません。

 真理の神が、私たちが神の尊い言葉を注意深く、正しく解剖できる

ようにしてくださいますように。」

 

この見解、解釈の結果、多くのディスペンセーション主義者は、

神の言葉は、ユダヤ人に対しての教えと、教会〜異邦人の教えの

2種類別物の神の教えが存在すると主張しています。

実際には神の言葉は二つに分けられる性質の教えではありません。

イスラエルと異邦人へ、同一の教え!と神が言っているでしょう。

しかも、神が提示した契約は1つしか存在しないのです。

存在しない契約〜神の教えなど、どこにも本当はないのに、あるある

と言い続けているのです。それが人間が作った宗教の教え、ローマ帝国が作った人間の教えなのです。

 

神の家族、カハール、エクレシア=呼び出された人の群れ=残りの民は1つの群れ、エデンから同じ1つしかないからです。その群れに

歴史の中でずっと継続して、神の民〜人々が加えられ続けている、

これからも同じく1つの群れに加えられる。2つ別というのは、神の性質、人の性質、エハッド、一体とは真逆の性質、思想を語っているのです。

同じ1つの木〜イエシュアを中心とする神の大家族に異邦人も接木される、自然の木〜枯れて離れた枝も元に戻る。

同じイスラエルの神の羊の囲いに、別の囲い=異邦人=羊も加えられると、イエシュアが説明している意味を、正しく理解しないとならないのです。

別、2つ、時代ごとに変化する、そのような思想は、聖書とは真逆

異邦人哲学思想であり、聖書ではありません。

 

全て、神の教えは人種ごと、そして時代ごとに別物〜二つに分けられるものであるということを解説するために、この節を利用して解説しているのです。

パウロは、神の教え=トラーに反する教えとは違うことなど、

1つも人に教えなどしない、解説などしていません!

 

少し、脱線しますが、聖書の全て、ヨシュア〜マラキ、そして、

その聖書の最初の箇所の短い解説である福音書以降は、100%全て

モーセの五書に記された神の教え=トラーを解説している書なのです。どの箇所も、トラーを破棄するとか、トラーに敵対する矛盾した教えは、記されていません!でも、クリスチャンの間では書いてないことを、あるあると教えられ、書いてもない、人間の教え=神の言葉が廃れた!という偽情報〜嘘を信じているのです。

 

トラーに記されていない教え、例えば、空中軽挙のような、人が

発想した教え〜イエシュア信者だけが、天に引き上げられ地上から

ある日突然消えて、患難を逃れ、イエシュアは秘密裏に再臨される

事が先ず行われる?2回再臨がある?このような、教え、預言は、

トラーには書かれていません。現実逃避希望思想。

エノクとエリシャが天に消えたから、全てのクリスチャンは患難が

起きる前に取り上げられて消えるというのは、聖書とは逸脱した思想です。しかも患難は、ずっと繰り返し起きているのです。

反キリストも、繰り返し出現しては、衰退しているでしょう。

帝国として。

イエシュアの言葉でも分かる通り、この世の患難の中で地の塩、

世の光に留まり、そして神の守りがあるからと、励ましを与えているではないですか。

これも、もう1つの問題なのですが、黙示録の読み方も、間違った

解説がされているのです。患難は歴史の中で、繰り返し、繰り返し、起きるている、起きるサイクルなのです。

しかも、こんな現実逃避思想は、20世紀迄、だ〜〜〜れも語りませんでした。ダービーの教えを、皆が拡散し、聖書に書かれている意味とは違う事、偽物の教え〜現実逃避の偽の教えを拡散させたのです。

 

トラーに書かれていない教えは、それ以降のヨシュア〜黙示録には

書かれていないのです。

例えば、ダニエル書にあるように、日に3度祈ったとか、それは

それらの場所に住んでいる、当時の人たちの習慣であり、神の教えとは違う、文化が書かれているのです。

ローマ14章にもある、「どの日が大事」という議論は、当時断食を習慣としていた人達が、月曜日と木曜日、又は水曜日と金曜日の方が良いという、人間の教えがあったから、トラー=神の教えではない

断食をする事、それをどの日にするかは、その人の意見で決めれば

良いとパウロが言っているでしょう。

 

神の教えと、その当時、その文化の中の人たちがやっていた事、

人間の伝統の教えは、神の教え〜全ての人に対して与えらえた神の

教えとは違う、人間の教えは神の教えではないという、正しい区別を

しなくてはならないのです。

特に、口伝律法〜当時のユダヤ人のトラーに関する解釈は、神の教えとズレたものがあり、それらは神の教えではないとイエシュアも言ったでしょう。手洗いの儀式や、改宗儀式など。

 

マルコ7:3 もともと、パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人の言伝えをかたく守って、念入りに手を洗ってからでないと、食事をしない。

書いてある通り、昔の人の言い伝え=口頭トラー=口伝律法の事です。これらが、今はタルムード、ミシュナという書になり、記されてその書は閉じられて付け足しされない状態になっていますが、当時は口伝、言い伝えで、そうせよ!と神の教えとは違う事をしていたのです。こう書かれています。

 

マルコ7:4 また市場から帰ったときには、身を清めてからでないと、食事をせず、なおそのほかにも、杯、鉢、銅器を洗うことなど、

昔から受けついでかたく守っている事が、たくさんあった。

7:5 そこで、パリサイ人とトラー学者たちとは、イエスに尋ねた、

「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言伝えに従って歩まないで、不浄な手でパンを食べるのですか」。

 
そして、イエシュアは、その人間の言い伝えではない事に固執し、
神の教えの本質を生きない人たちへ、こう言われたのです。

 

マルコ7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。

7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。

7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝えを守るために、よくも神のいましめを捨てたものだ。

 

これクリスチャンも、そのまま今もやっているでしょう。神の教えが

廃れた〜と昔の人の言い伝えを復唱し、実践し、ローマ帝国が作った宗教の教え=モーセの五書を捨てよ!という人間の教えに固執し、

マルコ7を読んで、食規定をイエシュアが破棄されたなどという、

とんでもない誤解、神に対する冒涜なのに、それが神の教えだと口伝律法を信じて、神の言葉を捨てているのです。イエシュアは人に、

神が禁じた清掃動物〜神が忌み嫌われるおぞましいもの〜人間の食べ物ではない聖別を破る、神の祭壇にも捧げられない動物、人の体を破壊する事を取り入れるのは罪である事を、しろなどと言いません!

それを食した人を通して、環境にウイルスを撒き散らし続けて、疫病を生み出し続ける。他者を環境を物理的にも破壊する。

そのようなものを、今は食せるようになったなどと、イエシュア〜父の教え通りを伝える神が、罪を犯し、更に聖別を汚す事をしろ!などと言うわけがありません。

異邦人〜異教神文化、生活習慣、食生活に馴染んだ人には、神の教えはピンと来ないのです。神の教えを知らない、馴染みがない、どうしてそのような事を言われるのか、理解していないからです。

というか、神が禁じる事を破り、敢えてそのようなことをする人々は、絶たれる!と未来預言が書いてあるのに、神の教え、罪の基準を捨てる人々には、神が伝えるその意味が全く通じないままになっているのです。エデンの園と同じ。神がこれはあなたの食べ物ではないから、食べない!と教えているのに、それを破ってやる。おかしいと

気が付かないとなりません。

 

イザヤ 66:17 「みずからを聖別し、みずからを清めて園に行き、

その中にあるものに従い、豚の肉、憎むべき物およびねずみを食う者はみな共に絶えうせる」と主は言われる。

だから、今は西洋宗教の教えの実践をしているのであり、聖書に書かれていないこと、神が伝えていることとは違うことをやっていると、気がついた方が良いです。

エゼキエル 22:26 その祭司たちはわがトラーを犯し、聖なる物を汚した。彼らは聖なる物と汚れた物とを区別せず、清くない物と清い物との違いを教えず、わが安息日を無視し、こうしてわたしは彼らの間に汚されている。

そっくりそのまま、この通りが今行われてしまっているでしょう。

 

ローマ帝国が作った宗教の教えは、モーセの五書捨てよ!シャバット

新月、祭りを捨て、その日に労働せよ!神の記念日を汚せ!という、勅令、宗教会議で決議した、神の言葉を塗り替えようという勢力の教えに従っている。

だから、聖書に書かれたことを、聖書が伝える通りに生きていないのです。

預言者も、イエシュアも、使徒もパウロも全員、トラーに記されていない教えを、自分の発想で1つも述べていません。聖書には

モーセの五書と違う教え、捨て去った教え、変化する教えがあると

信じている場合、それは、聖書を正しく理解していなバロメーターになります。

イエシュアが言われたでしょう。父の教え以外に何も語らないと。

父の教え=トラーとは違う教えなど語らない!とずっと言われている意味を正しく理解しないとなりません。

 

クリスチャンは、福音書以降が、新しい教え、モーセの五書とは

別の教え、又はモーセの五書を破棄した教えが書かれている、

新しい契約〜新約聖書と勘違いしているのです。

聖書のどの箇所も、トラーに反する教え、トラーを捨てる教え、

トラーとは別の教えは書かれていない!という永遠の事実に目、

頭脳が先ず覚醒しないと、神の言葉を正しく理解できないままになります。神の教えは、トラー=モーセの五書以外にない!という事が分からない場合には、永遠に人間の作った教えに騙され続けます。

そして、人間が作った聖書とは何も関係のない、似て非なる教えが

神の言葉だと、騙されてしまいます。

 

又は、トラー=神の教えを塗り替える、捨てる、破棄するような教えも聖書には1つも記されていません。