旧約聖書〜古い教えという意識が刷り込まれる人造タイトル。
新訳聖書〜今迄聞かれなかった新しい教えが書いてある?
これも異邦人教父達により付けられたタイトルであり、神が与えた
聖書のタイトルではありません。
聖書〜神の言葉、教えには、古い、新しいという別物はありません。
こんな風に考えていませんか?
1)古い教え、モーセの五書、その箇所はイスラエルがどれほど神の教えに生きることができないかを教えるためのもの、罪をみせしめるためのもの、人を縛り付けていた神の古い律法であり、キリストが
来られる迄の仮の教えが書かれている。
聖書:神の教えに古い、新しいと時代ごとに変化する別の種類の教えは
ありません。その思想は、ローマ帝国皇帝がモーセの五書を禁じ
ユダヤ的要素一切排除するという勅令に基づいて、人々がそれに
従って後に、4世紀ローマ帝国宗教〜土着宗教〜太陽神の要素をふんだんに混ぜた神が禁じた混ぜ物の宗教の教理を元に宗教が作られたのです。聖書とは関係のない混ぜ物の教えが盛りだくさん。
その思想を元に、デイスペンセーション神学〜時代ごとに変化する
神、怒りの神、恵みの神、変化する神の言葉、怒りの時代、今は恵の
時代、聖霊時代など、人間の思想の空想ファンタジー神学が20世紀に編み出されたものを、クリスチャンは聖書だと勘違いしているのです。その思想は、パウロのようにトラーを学び知らない、アイルランド人ダービーにより編み出された人造思想です。ダービー教の教理。
神の教えは、トラー、モーセの五書に記された教え以外にありません。神は神の教えの一点一画、どれ一つとして変えていません。
イエシュアが、使徒がパウロが世界へ伝えた教えは、トラーです。
別の福音、別の神の教え〜神の言葉を終了させた新しい人間が作った宗教など、使徒達、パウロも教えていません!
2)モーセの五書には、キリストの贖い、救い、許し、新しくされる
事実、聖霊、救い主が記されていない。
イエシュアが地上に来られる以前は、特別に選ばれた人だけが
聖霊を受けて、他の人は、動物の生贄を捧げて仮に許されていただけ。
聖書:モーセの五書、預言書、諸書のあらゆる所で、イエシュア〜
メシアが教えられているのです。神が創造された記念日はイエシュア〜福音を網羅するものです。神の家の中の一連の儀式、神の家の
構造そのもの、その中にあるメノーラ、垂れ幕、祭壇、その他もろもろ全てを通して、イエシュア〜神と神の子らの生き方を教えているのです。イエシュアの贖い、救いの実態、神への近づき方、神への礼拝全てモーセの五書の中で完全版として記されているからです。
動物のコルバンは、人の罪の許しのためにされているのではない!
レビ記を読む前提が最初からずれている、聖書を読む前提が最初からずれていることに気がついてください。
3)古い聖書の箇所〜モーセの五書、預言書、諸書に記されている人たち、聖書記者〜預言者達は、メシアを知っている人はいなかった。
又は、子羊の血の贖いの代価の意味を、知らなかった。
誰も、イエシュアを通して父の元に戻った人はいなかった。
古代の人は、内側に住む聖霊により生きていなかった。
動物の生贄で一時的に罪許されただけの、仮釈放状態。
もしくは、それらの人は皆地獄に落ちて、救いはない。
聖書:最初から永遠の中に完結、完了している子羊の贖いの代価は
用意されて、どの時代のどの人種にも与えられたのです。
神に助けを求める人に、神は必ず答えてアプローチしてくださるからです。
人は自分の力、努力で神に近づいたのではないのです。神が神が選び出した人々、永遠の中に選び取られた人に、神の方から近づいて下さるのです。
福音は口頭でどの国の人にも伝達されている痕跡があります。
漢字を見ても分かるでしょう。義という字は、自分〜我の上に羊が
乗っているのでしょう。イエシュア〜子羊の贖いの代価で買い取られ
イエシュアが自分を覆って義としてくださっている。
神の方法で、どの時代の、どの人種にもご自身を表して、贖い、救いだし続けてくださっているのです。
世界の果てにいる人にも、神はご自身を表している事実があるのです。神は時、空間に制限されるお方ではないからです。
4)メシアが地上に生まれた後、初めて人は、メシアの贖い、救いを知り、新しい時代の新しい教えを、モーセの五書に記された教えとは別物の新しい教えが出て、古い箇所は廃れた。昇天以降の時代は
口で告白するだけで直接神から許しを得て、いけにえを捧げる必要がなくなった。
聖霊を初めて使徒2章以降に人は受けることができる時代になった。
聖書:動物の血は、罪の許しのために捧げられているのではありません!イエシュアが昇天された以降も、使徒、パウロ、その他ユダヤ人
みな神殿で動物のコルバンを捧げていたのです。
コルバンがどういう意味であるのか、正しく学ぶ必要があります。
イエシュアの贖いの意味を全て教えているのです。
福音そのものを神の家の中で最初から教えているからです。
神の教えに古い、新しい別物はない!ということを、聖書から正しく学び直す必要があります。
デイスペンセーション神学は、ダービーという人間がローマ帝国の
思想、モーセの五書終わりありきという思想を土台とした自分の考えを述べているもので、聖書とは真逆の思想です。
このような神学から聖書を解説するから、聖書とは違う曲がった別物の教えが出現し続けているのです。
メシアは聖書の最初から知るされています。メシアをタナック〜
モーセ、預言書、諸書から理解して知っていた同じ贖い、救い、
聖霊、命を内側に受けた人たち〜残りの民達が、タナックに記された
メシアをずっと待望して待っていたのです。残りの民〜聖徒たちは
どの時代にも存在しているのです。
5)聖書〜契約は、ユダヤ人だけに与えられたものだから、異邦人は
神の教えを生きなくて良い。部分的に、自分の考えで仕分け、意見、自主選択で生きれば
良い。
聖書:神の教え、トラー、契約は、イエシュアを通して、イスラエルの神、父の元に戻った人、神の大家族の一員とされた人全てに、
イスラエル〜大家族の長男が代表として受け取った同じ契約に
異邦人も加えられると神が伝えています。
神の教えは、神の提案ではなく、命令!命じられていること!なのです。人が神の仰せを無視しているだけ。
これを勘違いしているのです。あなたは命を選びなさいとは、
神が伝える通りの生き方をして!という神からの直接の仰せなのです。人が好き勝手に、あれこれ神の教えを仕分ける、イコール、
人間が神になり代わり、神の座に座っていることに気がついてください。
そして、神との関係にある証拠、土台はこの婚姻契約=モーセの五書
以外にありません!異邦人に与えられる別の契約はありません。モーセの五書=シナイ山で
与えられた契約書以外に、他に何もありません。
事実、イエシュアが到来して以降、異邦人がシナイ山とは別の山で、別の契約を、神から直接受け取ったことが昇天以降の使徒の書簡に
のどこかに書かれていますか?
そんなものが、あるわけないでしょう。なぜなら、聖書はもう閉じられているからです。創世記〜マラキが聖書の完全版であり、それ以降、最初の部分〜モーセの五書に記された父の教えを塗り替える教えを、別の預言者達が記した書など、この世に存在しないからです。
空想ファンタジーの世界。無いものを、あるあると言い続けている
この不思議に気がついてください。
そして、神ご自身がご自身の言葉のどの1つでも、取り消す、破棄することなどありません!
そうしたら、イエシュアがご自身を抹消し、破壊するという意味になることをはっきり知ってください。
言葉=神とヨハネも書いているでしょう。クリスチャンの中には
神が言葉、同一であるという理解がないのです。
イエシュア=トラーである!と書いてあるのです。神の言葉を否定する行為は、すなわち、イエシュアご自身を否定している冒涜行為、
態度であることにはっきりと聖書から気がついてください。
あなたも、自分の言った言葉を他人が否定して、言ってもないことを
言った言ったと言われ続けたら、その行為をどう受け止めますか?
冒涜、侮辱、屈辱でしょう。しかも、神が神の言葉は永遠に変わらないと言っているのに、神に造られたに過ぎない人間が、神の性質と言葉が時代ごとに変わった変わったと嘘を
言い続けいているのです。
トラーに記された通りの生き方を、イエシュアがされたのです。
そしてクリスチャンはイエシュアがトラーを生きたから、もうそれ以降他の人はトラーを生きる必要がなくなりましたと言いますが、このような教えこそが、異端の教えであることを、聖書からはっきり理解してください。この宣言こそがローマ皇帝、教皇の勅令であり、教理なのです。
言っていることが、支離滅裂。だから、神の教えに反する罪を犯して生きていても、無感覚、何も感じない、気がつけないのです。何が神の伝えている罪なのか
神の言葉を捨てる人は、神が伝える罪の定義を正しく理解していません。
クリスチャンの中で異端異端と言われているカルト。
メシアとは別の人間の教祖様や、聖書とは別の経典があって、それを信じている、それがカルトとクリスチャンは言いますよね。
キリスト、イエシュアを否定する教え、聖書とは違う教えがカルトの教えと言いますが、神の言葉のどの箇所でも否定する教えこそが、
神の教えとは別物、異物、異端的な教えなのです。
人間の教えが混じった偽物。不純物。
異端とは、神の教え、本質からズレた物を異端の教えと聖書では
言っているのです。
聖書とは違う教えは、異端〜神の教えからズレた教えだからです。
聖書の教えに、異端、別物の教えを混ぜている。
イエシュア=トラーを否定する思想、その思想こそが異端〜聖書とは異なる異端の思想、教えなのです。混ぜ物、異教神まみれの不純な教えなのです。神はそれを警告しています。
混ぜ物、熱い=本物、冷たい=異教の神々の教え、生ぬるい〜
神の教えに異教の神々、別の教えを混ぜたもの=吐き出そう!と
言われたのです。
黙示録3:15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくも
なく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、
あなたを口から吐き出そう。
6)昇天以降は、古い教え〜律法〜モーセの五書を、神が破棄されたので、クリスチャンは神の教えを生きる必要がなくなった。
聖書:
マタイ5:17 わたしがトラーや預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。
5:18 よく言っておく。天地が滅び行くまでは、トラーの一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。
5:19 それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう
ルカ16:17 しかし、トラーの一画が落ちるよりは、天地の滅びる方が、もっとたやすい。
16:29 アブラハムは言った、『彼らにはモーセと預言者とがある。
それに聞くがよかろう』。
16:30 金持が言った、『いえいえ、父アブラハムよ、もし死人の中からだれかが兄弟たちのところへ行ってくれましたら、彼らは悔い改めるでしょう』。
16:31 アブラハムは言った、『もし彼らがモーセと預言者とに耳を傾けないなら、死人の中からよみがえってくる者があっても、彼らはその勧めを聞き入れはしないであろう』」。
<これは正に、ローマ帝国の教えそのものに対する警告そのものです。モーセの五書を捨てよ!という勅令を元に4世紀に作られた人造混ぜ物宗教は、神の教えを捨てよ、無視せよと教えていますが、イエシュアはたとえ話を通して、神の言葉=トラーをどう扱うか教えているのです。
神の教え=トラーを無視する、聞かない、破棄する人には、何を
言っても通じない、無駄!無法を働く者、背信と書いてあるでしょう。イエシュアが言われた言葉は、神の言葉が無効とローマ皇帝の
教えを信じる人には、神の言葉は通じなくなっているのです。
神の言葉を信じる、聖書は誤りのない神の言葉と言いながら
同時に神の言葉をクリスチャンが否定するこの矛盾が一体どこから
来ているのか?人間の教えで、神の言葉を否定する宗教の思想を
信じているから、そのような矛盾が矛盾とも識別できなくなっているのです。
ルカ21:33 天地は滅びるであろう。しかしわたしの言葉は決して滅びることがない。
イザヤ40:8 草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉は
とこしえに変ることはない」。
カトリック、プロテスタントの間で教えられている教えは、純粋な神の言葉ではなく、人間が編み出した思想、伝統の教え、先祖の言い伝えに固執し、神の言葉の方を捨てているものなのです。もちろん、
聖書に記されたある部分の真実を信じてもいますが、神の言葉が廃れたという根幹、土台自体がズレている〜砂〜人間の教えを信奉しているのです。
マルコ7:7 人間のいましめを教として教え、無意味にわたしを拝んでいる』。
7:8 あなたがたは、神のいましめをさしおいて、人間の言伝えを固執している」。
7:9 また、言われた、「あなたがたは、自分たちの言伝え=人間の作った教えを守るために、よくも神のいましめ=神の教え=トラーを
捨てたものだ。
<イエシュアがおられた時代のユダヤ人は、トラーとは別の彼らの
言い伝え〜口伝律法、口頭トラーを神の教えより尊重し、神の教えの
方を捨てた生き方をしていました。今の時代の異邦人は、神の教え=トラーそのものを捨てて、ローマ帝国皇帝、教皇が作った聖書を否定する
人造宗教の教理、教えの方を尊重しています。モーセの五書は廃れた!と、神の言葉に対して、人間が冒涜的行為で勝手に破棄終了、
無用として、神の教えを破る罪を推奨し、神の記念日〜レビ記23章のモアデイムの方を全て捨て、汚し、ローマ帝国が作った伝統の
教え、人間の作った記念日〜日曜礼拝、クリスマス、イースターの方を尊重して実践しているのです。
イエシュアの警告など、耳には響かないのです。>