ローマ帝国が神の言葉と神の記念日を変えた | "永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

"永遠の中から” 私たちは どこから 来たのだろう?

何の始まりもない 永遠の時から
主ご自身のみが 存在していた
懐かしい 故郷 エデン

全く一つ、エハッドであるイスラエルの神
イエシュアの永遠の完了の業で、救われて
新しい人として生きる ヘブライ語原典聖書
からの発見記録

ヨハネ4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととを

もって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

 

神を愛する人は、神が伝えるトラー=教え、いましめを愛するのに

クリスチャンの世界では、律法に戻るのか〜律法を捨てよ!

恵のない生き方だ〜と、神の教え、言葉ではない、ローマ帝国皇帝の勅令を主張しているのに、それに全く気がついていないのです。

 

神の教えに戻るのか〜!? 律法とは、神の言葉を指すにふさわしくない不適切な翻訳です。正しい意味に言い直せば違和感湧きませんか?

人は、神の口から出る1つ1つの言葉=トラーにより生きると

書いてあり、イエシュアも申命記の言葉を引用しているのに、

クリスチャンは正しく理解していないのです。

 

プロテスタントは、聖書にだけ戻る!と言いながら、結局聖書に完全に戻らないままで、ローマ帝国が作った教え〜モーセの五書終わり!

ユダヤ的なこと一切排除、神の教えと、神の記念日を生きることを

禁じる〜終了!という、聖書とは真逆、神の教えに真っ向から敵対する教えを言い続けている大矛盾に気がついていないのです。

 

イエシュアは、100%モーセの五書=父の教え=トラー=婚姻契約の生き方を人に教え、それ以外の教えなどしませんでした!

まして、父の教え=トラーを捨てよ!などというサタンの教えは

イエシュアも使徒も、パウロも教えていません。

それを教えるのが、偽教師、偽預言者、悪霊の教え!と聖書で警告されているでしょう。

 

ローマ教皇はこう言いました。

「教皇は、神の時〜モアデイムを変える力がある。

神の教えを廃止し、キリストの全ての教えさえも仕分けて

廃止する力がある」カトリック議事録 1923年 9月1日

 

恐ろしい発言です。現人神になった人間教皇、プロテスタントも

同じように発言しているのです。神の言葉を塗り替える発言!

詰まり、ローマ教皇は神と同等であり、全民族誰も、教皇の宣言

決断、考えに逆らえない!としているのです。

プロテスタントも、同じように神の言葉を曲げた教えを、継承しているのです。神のトラー、モーセの五書は廃れた!という教えは、

ローマ帝国皇帝の勅令、教皇の教理から来ているものであり

神の言葉、教えなどではない!という事を、聖書を教える人さえ

正しく認識しないまま、人間の思想を語っているのです。

 

ユニバーサル教は、公に人間が神の言葉と、神の記念日を塗る変える力があると宣言したのです。人間が言っているだけで、神の前に何の権限も持たない発言ですが、これって、神の座に人間が座る行為です。だから、聖なる父と、イスラエルの神にしか与えられるはずではないタイトルで教皇が呼ばれているのも納得できます。

現人神ごっこをしているのでしょう。

 

「日曜日は、権威の象徴、印である。カトリック教会は、聖書より

上の権威を持つ。そして、シャバットを(日曜)に変更した事実は

その証拠となるのである。」

カトリック議事録 1923年 9月1日

 

この記録、宣言からも、カトリックが、第七日目のシャバットを

日曜日に変更した事実が分かるでしょう。

事実に目を開いて、人が作った教えではなく、神の言葉の方を信じてください。

神ではない、現人神となった教皇が、神の言葉と神の記念日を変える、ダニエル7:25にある通りのことをしたのです。

そして、し続けているでしょう。プロテスタントも。

日曜日が、新しい安息日である。礼拝日である。主の日である。

この勅令は、あらゆる国の司法、法律、勅令になったのです。

 

ぜひ、考えて下さい。歴史の中で、荒らすいむべきものが、神の言葉教えと、記念日を変えてしまったこと、今も変え続けていること。

神の警告は永遠に同じであること、神の教えを捨てる人には通じないのです。

クリスチャンは、イエシュアが昇天以降、神の教えを変え、記念日は

自由にいつでも良いなどといって、結局カトリックが決めた日曜日が

安息日だと信じて疑わないでいます。

でも、すり替えられた赤ちゃんは自分の子、自分の遺伝子を持たない我が子ではない、自分に属さない性質であるのと同じなのです。

別物。

神の教えを別物にされているのに妥協し、そして国がそれを法律にし

そして、その結果は、神に義ではなく、弾圧になっていくのです。

国と宗教が一体化すると、それ以降は人の意識は自由ではなく

法律により縛られて行くのです。

その中でも、人間の教えに迎合しない残りの民を神が保存されているのです。

神は神の栄光のために、神の教えと記念日を汚されることを許してなどいないからです。

 

ヨハネ4:23 しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。そうだ、今きている。父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

4:24 神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

 

礼拝という言葉は、クリスチャンの想像する日曜礼拝式でされる

歌や踊りやその他諸々の儀式のことではありません。

神が伝えた通り、神に近づく。神が伝えた通り、神が指定した会見の日に、神が指定した意図通りで神と出会う。

そして、神が伝えた通り〜トラーに記されている通りのイエシュアの

性質=本来の人間の生き方、神の教えを生きる人、それをまことの

礼拝者と呼んでいることを知って下さい。

 

神は人間が勝手に神の教えを作り変え、神のデザイン〜男女の生き方を変え、そして神がこの世界を創造された証拠、そして神との関係にある印として与えたシャバットや記念日、祭りを捨てて、別物を

祝うことなど、許可していないどころか、禁じているのです。

神の創造された記念日を、神の子らが捨てることを禁じている!

それに気がつかないとならないのです。

 

黙示録13:12 そして、先の獣の持つすべての権力をその前で働かせた。また、地と地に住む人々に、致命的な傷がいやされた先の獣を拝ませた。